メッセージリーディング
このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。(リーダー:浅野信)
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
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ARIメッセージリーディングNo.322 予言の力 2025.10.16
質問: 予言はできるのでしょうか。できるとしたら、それにはどんな意義と目的があるのでしょうか。
ONEの観点からご教示ください。
ソース: 「将来や未来のことが、果たして予言できるのかどうか」。そのことを知る上で、まず必要なことがあります。「そもそも、未来のことは定まっているのかどうか」ということです。
将来のことがほとんど決まっていて、変えられないことを「宿命」と言います。将来のことが、ある程度は定まっているけれども、全ては定まっていないし、定まっている部分もある程度変えられる。これが「運命」です。3番目として、将来のことは何一つ定まってはいない。この3つの考え方や見解が、この世の中にはあります。
果たしてこの3つのうちどれが、本当なのでしょうか。結論から言うと、2番目の「運命」が正しいのです。
将来のことは、ある程度は定まっているけれども、何もかもことごとく定まっているのではないし、ある程度定まっている部分にしても、変えられる部分もある。
どうしても変えられない部分に関しては、その理由と内容を知って受け止め、その事をより良く肯定的に捉えて、適切に応じながら生きていくこと。このことを知らせ、心がけも伝える。そのことが大切です。
そのために古来、預言者が神さまから遣わされてきています。この場合の預言者は本物のほうであり、単なる未来予測の、予めのほうの予言ではなく、神のお言葉を預かるほうの預言です。神さまのお言葉を伝えるメッセンジャーが、預かるほうの預言者です。
そこには未来予測も含まれてはいますが、神のご意志を伝え、「なぜそうなりやすいのか」「そのことをどう捉え、受け止めるのか」「どのようにそのことと付き合いながら生きていくとよいのか」。その関わり方や応じ方まで伝える。これが真の預言者の務めです。
人間には自由意思が与えられています。それゆえ、将来のことはある程度変えられるし、変えたほうがよいのです。
そもそも、ある程度運命が決まっているのも、元はと言えば、本人がこれまでの思いと行いによって作り出してきた、それ相応の結果です。
運命がある程度あるのを理解するには、まず、現実の動きや状況の法則を知る必要があります。現実の動きや状況は、偶然でも非合理でもなく、当人のこれまでの思いと行いに対する、それ相応の結果です。
うれしいことでもつらいことでも、偶然でも人のせいでもなく、自ら招いているものです。誰の、どんな事に関しても。
その時点の本人の内実を表す、現実の動きと状況と体験になります。心が現実を作ります。外界は内実の表れです。
同時に一方、現実の動きや状況は、いちばんの元では神のご意志の表れです。現実をいちばんの元で動かしておられるのは、天の創造主なのです。
そうであるからこそ、たとえどういう場合でも、まずはこのことを理解して、事態を認めて受け止めること。そして落ち着いて、現実にきちんと対応していくことです。
その際、現実に応じる力が必要なので、神さまによくお祈りしてお任せし、神さまのお導きとお力添えを頂きながら、現実に取り組んでいくとよいのです。
このように、神さまとの関わりで現状に取り組んでいくと、取り組んでいく対応能力とお力を授けていただけるのと、自分の癖が出ずに、神さまのお導きによって行えるので、正しく適切に、現状に対応していけます。
こうして、現状にきちんと応じていくことで、カルマも目的も役割も着実に遂げられていきます。それによって現実の問題が解決し、願いごとや目標は、ふさわしいあり方と内容で叶えられていきます。こうして生まれてきた目的が遂げられ、社会の一助となれます。
現実はどういうものであっても、直接には自分が作り出したカルマ的な結果であり、いちばんの元では神のご意志の表れです。そのことを知って、どういう場合でも、まずはその現実を認めて、受け止めるのです。
現実の動きは、直接には自分が招いてきた、それ相応のものです。いちばんの元では、神のご意志の表れです。
「生まれてきて、どういう人生を送ることになるのか」は、偶然ではなく、まずは当人の思いと行いに対する、それ相応のものとなります。人生は、当人の内実と人間性を表すものとなる。
2点目として、神さまからお役を授かり、その人生目的とお役が遂げられるような、それ相応の人生となります。
3点目として、自由意思の使い方が影響していきます。現実のいちばんの元であられる、天の創造主との関わりで取り組んでいくと、その自由意思が正しく遺憾なく発揮され、運命が陶冶(とうや)され、理想的な新しい運命を創造していくことができます。
運命の一部は塗り替えられるし、どうしても変えられないことや変えないほうがよいことに関しては、「なぜそうであるのか」を理解して受け止め、そういうことと上手く折り合いながら生きていく心がけを作ることです。
こういうことが、預言者の伝えるべきことです。単なる未来予測では、浅くて不十分なのです。指導と教育が大切です。当たるか否かは二の次です。
なぜこうなっているのか。直接には、当人が作り出したものであること。いちばんの元では、神のご意志の表れであること。それで、こうなってきていること。
そのことを理解して、まずは現状を認めて受け止めること。そして、留意するべきことに留意し、体験から学ぶべきレッスンを学んで、自らを調整・改善すること。そして、現状に適切に応じていくこと。こういうことが求められています。
未来の予言や予測ということで、「当たった」とか「当たらない」とか、「その予言は正しかったか」とか「間違っていた」とか、そういうことは本質には関わらない、些末なことなのです。
もっと重要なことは、神のご意志の表れとして、伝えるべきことを伝え、適切に指導し、本人に大事なことに気づかせて教育し、本人は体験から教訓を学んで、成長改善し、現状に責任と役目を感じながら、きちんと応じていくことです。そのように、正しく導くことが大切です。
未来はある程度は定まっているので、ある程度は予測できます。しかし、完全には定まってはいないので、完全には読み取ることは不可能です。
たとえどんなに優れた能力者であっても、そもそも全てが定まっているのではないので、完全に予測することは不可能です。また、その必要もないことです。神が伏せておられることもあります。
たとえ定まっている部分にしても、変えられる部分があるし、予測して当てるよりも、より良く変えるほうが大事です。
あるいは、変えられない部分は、「なぜ変えられないのか」「どうしてそうなってきているのか」「自己責任なのか、神のご意志なのか」。そういったことも知って、受け止めて、適切に現状に応じていかねばなりません、本人が。
そういうことに関与していくことが預言者であり、それは神のみ業の一部を成している、重要なことです。真の預言者は、神の働きの一部を担わされています。
言葉には、言霊が宿っていて、神のご意志を表します。そのため、真の預言者は、祈りと信仰の人です。単なる未来予測を超え、「こうなる」と、肯定的に述べることによって、未来を塗り替え、新たに創造することに関与していけます。肯定的に述べることで、本人や物事の良い面や可能性を引き出すことができる。
それは「単なる未来予測」というよりも、未来を塗り替えたり新たに創造したりする、「神のみ業」です。神には創造力があられるのです。
キリスト教のほうで、「アーメン」と最後にお唱えするのは、「こうなりますように」という確約と願いです。未来を設定することです。献身的なみ業です。
そうすると、「誓い」に近い働きがあって、その言霊により、実際にそのようになっていくのです。信仰の力です。
「予測する」というより、「創造」です。未来を創っていくのです。これこそ、神のお働きです。
「こうなる」というよりも、「こうなるとよい」。だから、そのことを言葉で表現する。そうすると、そうなることに関与していける。確約により、未来を神のお心のほうに設定する。
それゆえ、否定的で怖がらせるような予言をしたり、ましてや、それによってお金を得ようとしたり、自分のほうに人を引っ張っていこうとする人間的な意図があったりすると、三流です。
でも、そういう予言者や宗教者が多いのです。霊能者も。ある意味で本人を不安や恐怖に陥れ、悲しみや弱さや不安を利用し、自分のほうに引き寄せお金を得ようとする、世俗的な口実にさえ使います。
一方、本物の預言者は、未来の「こうなる」ということを、知らせる必要がある時は知らせますが、それによって「なぜそうなったのか」を知らせ、心がけを作らせ、対処法や本人の留意点に気づかせること。そして、神への信仰の中、神との関わりで、「どう応じていくか。そして、どのような新たな運命を創造していくとよいのか」まで知らせ、正しく導きます。
預言者が「こうなる」と言うと、そうでないようになるところを、新たに「こうなる」と言うことで、こうなっていくように持っていける。そのようなお言葉の力があるのです。
それは「予測」というよりも、「祈りの言葉」です。「こうなりますように」と、言葉で表現することで、そうなることに導き、そうなることの実現を助けるのです。理想の方向で。
その意味で、本物の預言者は、肯定的なことで希望をもたらすことを多く述べるのが特徴です。もともと肯定的な方向で現実は動いているのです。神さまの下で。
確かに、否定的なことが起きることが予定されている場合はあります。その時は、必要最小限そのことを伝えますが、その場合も怖がらせたり、それによって自分のほうに人を引き寄せたり、それでお金を取ろうとすることはしません。
「なぜそうなるか」本人に反省を促し、体験から教訓を学んで成長し、心構えを作らせる方向に導きます。そして、「どう応じるか」を伝えます。何よりも、お言葉の力によって、現実を肯定的に創造していきます。「こうなりますように」と。
もう一つ大事なことがあります。それは、現実はいちばんの元では、神のご意志の表れであり、現実をいちばんの元で創っているのは、創造主です。
この世も神が生きて働く場です。それゆえ、たとえ問題があったり、苦しみや悲しみや不安がある場合でも、究極的な信仰の観点からすると、必要なプロセスであり、そうなる理由があり、目的がある。
ですからどういう場合でも、直接には人間の至らなさが作った問題であっても、そこには希望と意味があり、神が生きて働く機会です。その意味で、どういうことに関しても、現実の事柄に対して、肯定的で希望をもたらすことを言うのが、正しいのです。現実はいちばんの元では、神のご意志の表れなので、肯定的に述べるのが、本当なのです。
これが信仰の眼差しです。本物の信仰の観点から見ると、どういう現状の事柄でも、肯定的に捉えられ、希望をもたらせるのです。
その上で、先ほど述べられたように、肯定的に現実のことを述べることで、否定的なものが含まれていても、それを浄化し、解消させ、肯定的な方向へ実際に転じることができます。「こうなる」と述べることで。究極的には、どういうことでも理由と必要性があり、真の意味で良いことなのです。
神さまの下、因果の法則に基づいて、現実は忠実に動いています。真の意味で良くなる方向で、全てが起きてきます。およそ実現することほど、確かなことはありません。これが現実に対する説明であり、本当の信仰の視点です。
どんなに忌まわしく悲しい現実の動きや出来事であっても、霊的には苦しんでいる未成仏霊であっても、究極的には救われているし、必要なプロセスを今辿りつつあるのです。
こういう深い認識は、イエス・キリストや親鸞に顕著に見られます。これが本物の信仰であり、究極的な捉え方です。神の救いのみ業です。これがONEの観点です。
半端な信仰者は、否定的なことを述べ、予言が当たることを優先します。自分に意識を向けさせ、頼らせます。否定的に述べると、現実が否定的に動いていくことに加担してしまうのです。それは、神のお働きではありません。
否定的な予測に振り回されないように。そういうことは、あまり取り合わないほうがよいのです。「当たる」とか「当たらない」とかというところで見るよりも、本物の信仰と誓い、神のご意志と神のなさり方である法則を学んで理解しましょう。
事実をそのまま知るということも、もちろん必要でためになるのですが、それは必要最小限でよいのです。ましてや実際以上に、否定的に述べて驚かせたり、不安がらせたり、それで自分のほうに引き込もうとしたりするのは、少なくとも神のお働きではありません。
甘くて優しいことだけを言うことがよいというものでは、もちろんありません。時には事実を知って、厳かに現状を受け止めることも必要です。
ただそれ以上に、「なぜそうなったのか」「どうしたらよいのか」「何を学び、どこに留意したらよいのか」を知ること。そして、希望を与え、神のご意志の方向で成長し、現状に応じながら、現状と付き合いつつ、育て導かれていくことが大事です。
例えば、キリストの前世の1つである古代エジプトのヨセフは、国の宰相としてファラオを補佐し、本物の指導者として、また預言者として、働きをなしました。
本当の預言は、必要な厳しいプロセスを辿りつつも、留意点と希望を与え、神のお心の方向で人々に寄り添って、育て導く肯定的働きがあります。
「ヨハネの黙示録」も、希望と励ましを与える、神のお働きです。そのために『聖書』に組み入れられ、しかもその最後に置かれました。
ヨハネ・リーディングは、現代における典型的な神のお働きです。しかも、天の創造主のお働きです。そのため、未来を予測する時でも、否定的なことをただ言って怖がらせたり、自分の側に引っ張り込んだりするということはせず、否定的なものがあったら、それを知らせつつも、それ以上に究極の観点では、現実にたとえ課題があろうとも、その元にある神の愛が働いていて、すでに全ての人が救われ、全ての御霊も納得、成仏し、救い取られていること。
そして肯定的に真実を述べることで、そのことを肯定的に設定し、実現させてしまう。そういう力強い、神のお働きになっています。これこそ、神のみ業です。真の預言者の働きです。人は、この信仰と確信によって、癒され、救われていくのです。
リーディングばかりでなく、本物の人は、そういう温かく善意に満ちた、他の人に希望と指針をもたらす、言霊も宿っている人です。そういう人がいると、周りを本当に正しく指導し、支え、育て導けます。
ONEを学ぶ人たちは、自分がそういう部類の人間になるよう、励んでいきましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉
ARIメッセージリーディングNo.321 宗教の未来 2025.9.17
質問:伝統宗教ばかりでなく、新宗教も、信徒数が減少傾向にあります。今後の宗教はどうなっていくのでしょうか。また、どうなっていくとよいのでしょうか。ONEの観点からご教示ください。
ソース:日本国内に限って見るならば、伝統宗教の典型としては、「古神道」と呼ばれるようになった日本古来の宗教と霊性が、まずあります。その中で「出雲系の神道」、それから皇室と深い関連の出てくる、「伊勢系の神道」があります。奈良時代に至って『古事記』と『日本書紀』が編纂され、日本の霊性が形作られ、方向づけられました。
そこに飛鳥時代、仏教が伝来しました。仏教も、皇室と蘇我氏などの有力豪族によって着目され、導入されました。
推古天皇が、蘇我馬子と聖徳太子の協力を得て、三宝興隆の詔を発令しました。それ以来、最初のうちは主に皇室の権力と方針の下、仏教が取り入れられ、普及し、盛んになっていきました。
特に、奈良時代は平城京を中心に、聖武天皇が東大寺を中心に日本各地に国分寺と国分尼寺を創建させ、天平時代が到来しました。
「南都六宗」と呼ばれるようになった奈良の6つの系統の仏教も、興されました。
平安時代初期には、最澄と空海が「天台密教」と「真言密教」を唐の国からもたらし、形成確立させました。修験道、山岳仏教も始まり、自然に根差す日本の神道とも融合してきました。
鎌倉時代になると、一般庶民のための平易な仏教が求められ、そのニーズに応えるべく、何人かの祖師が現れました。「鎌倉新仏教」と呼ばれます。主に比叡山から生み出されました。
その少し前から、「末法思想」が流行りだし、空也、源信などが、教えを広めて巡りました。それから法然、栄西が現れました。栄西の後には、道元が現れました。
法然の門下からは、特に親鸞が現れ、戦国時代にその子孫の蓮如が登場し、本願寺を中心とした親鸞の仏教が広く普及しました。
一方、一遍の「踊り念仏」も行われました。日蓮は法華経を第一として、純粋一途に「南無妙法蓮華経」を普及させていきました。
この鎌倉新仏教までで、日本の宗教の主な形が作られました。これらを「伝統宗教」と呼びます。
江戸時代末期の頃から、「新興宗教」あるいは「新宗教」と呼ばれる、宗教運動が始まりました。
一方キリスト教も、鎖国が解かれたことで、教育関連を主に日本に普及し、取り入れられるようになりました。
日本の新興宗教としては、天理教、金光教、黒住教などから始まり、大本教、世界救世教、生長の家、GLAなど、明治から大正・昭和にかけて、その時代状況に求められる新興宗教が次々に興されていきました。
特に、日連系の新興宗教は広まりました。霊友会、立正佼成会、特に創価学会です。
そういう新興宗教の動きの一方、時代状況に応じて、宗教から自由なあり方で、精神運動や霊性を追求する動きも、昭和末期から始まりました。
精神世界、ニューエイジ、後に「スピリチュアル」と呼ばれるようになった、自由な個人主体の目覚めと、生き方を求める運動です。「ニューウェイブ」などとも呼ばれました。自己啓発セミナーとも関連するようになりました。
霊性を認め、求めるものですが、宗教の弊害や拘束に疑問を抱いて、一人ひとりの目覚めと解放と自立を促す運動が、時代の必然性として勃興したのです。いわば反宗教の、アンチ・テーゼです。これは「良い、悪い」はともかくとして、時代の必然でした。
伝統的なキリスト教などでは、これらを危険視し、排除する傾向が見られます。神智学、人智学などには、特に否定的です。
しかし日本国内では、キリスト教は1%にも満たない状況で、ずっと来ています。日本の精神土壌に、キリスト教は合わないことを、表しています。伝統的なキリスト教が批判するほど、実際には悪いものではありません。
ARIのONEの運動は、こういった反宗教としてのアンチ・テーゼを経て濾過され、ジン・テーゼを目指す統合の道です。これからの時代に求められる、本来の霊性を健全な形で表し、完成形態を実現させること。それがARIの役割と立場です。その意味では本来の宗教であり、宗教の未来型の理想形態です。
ただ、テーゼとしての伝統宗教や新宗教とは異なり、アンチ・テーゼとしての精神世界を経て、ジン・テーゼとして表れている統合型の発展的動きです。
真実自体は普遍的で、万古不易です。しかし、人々の進化に応じて、宗教も進化することが求められています。それが、時代状況や社会状況とも関連しながら、進んでいきます。
そのため、真理自体は普遍的であるにしても、時代状況に合ったものでなければ役立ちません。
人々の求めに応じながら、なおかつ迎合妥協せず、本当のものを出して、人々と社会を正しく指導していくということで、理想の基準を愛と真実に基づいて、積極的に出していかねばなりません。
日本では、世俗的な現世利益の宗教が多いのが特徴です。神社仏閣や聖地、パワースポット巡りなどが、好まれています。
そのことを全く否定してもいけませんが、日本の場合、楽しみとしての祭りや儀礼となっていて、見た目や外観が重んぜられています。形式、作法、法具なども好まれています。
外国の宗教では、ユダヤ教、特にイスラム教が純粋一途です。そのため芸術が入り込む隙を与えません。楽しみの祭りではなく、厳かで禁欲的です。真面目といえば真面目なのですが、偏狭で頑なになる危険性も一方にはあります。
独善的で排他的になると、カルト的になります。それが政治などと関わると、尚一層、社会と遊離し、さらには反社会的にさえなります。オウムはその極みでした。
そういったところを回避しつつ、本当の愛と真実に基づいて、しかも時代状況も読み取りながら、より良く応じて、人々の救済と指導に当たっていかねばなりません。
人々が進化していくなら、宗教も進化していかねばなりません。時代状況に合い、より完成度の高い、愛と真実に基づくものを、時代に合わせ、その時代の人々を教導するように対応していってこそ役立ち、本物となり得ます。
どの分野にも、ピンからキリまであるように、宗教や精神世界にも、ピンからキリまであります。玉石混交なのです。ですから別にいろいろあっても、不思議でもおかしくもないのです。
人間が行う以上、宗教や精神世界も玉石混交になるのです。そのことを見据えつつ、より良い方向と内容で、各自、注意して行っていかねばなりません。
宗教は一人ひとりのためのものです。それが、宗教団体が権威を持ちすぎて、宗教団体や組織やその建物や場所が、目的になり、信徒や会員がそのための手段となったり、恐れや憎しみで動機づけられたりすると、さらにそこに金銭や欲得まで関わると、道から外れ始め、悲惨な結末が待ち受けています。
宗教組織や建物や儀礼は、目的ではなく手段であり、方便です。本当の目的であり主体は、人間一人ひとりにあります。会員や信徒一人ひとりのために、宗教の組織や建物が方便としてある。これが健全なあり方です。布教するにしても、各自の自発性に委ねられてこそ、本当です。
それが、教団の都合や金銭の目的のために、駆り立てられるように布教が促されたら、本末転倒です。組織型の大教団ほど、こうなってしまいがちです。
布教やご奉仕は、基本的に良いことなのですが、それは、一人ひとりが気づいて自発的に行うべきことであり、教団の組織や建物や利益のため、権力に圧せられて駆り立てられるようになったら、道から外れます。
儀礼や祭りにしても、方便なのです。本来、根源の神さまは形や物を超えています。形や物や組織や建物もあってよいのですが、あくまで一人ひとりが主体であり、大切です。形式、作法、法具などよりも、本当の信頼、真心、誠意が大切です。
建物や組織や仏像や神像などは方便、という位置づけです。本来神さまや仏さまは、物や形ではありません。本当の愛と命です。
それゆえ未来型の宗教は、本来の所に立ち返り、本当の愛と知恵を大切にして実践する行い方と生き方であるべきです。
天の創造主と天界を基軸に据え、一人ひとりがそこと直結して目覚め、本来の自分を取り戻し、良くなっていく道。そして社会に寄与し、社会とも自然とも調和する。そこからぶれてはいけません。
もし組織や建物や像などが、その一人ひとりのためという中心軸から逸らすものだとしたら、問題です。組織のための会員になってはいけません。
一方、宗教組織や像や建物などが、方便として健全に機能し助けとなるなら、よいのです。幹部や組織や建物は、会員一人ひとりのための手段です。
イスラム教のように潔癖すぎる必要もありません。芸術なども、そのような本来の道筋で行われるなら、助けになります。
教育も同様です。宗教は世俗を超えて、世俗を指導し、正しく導くものです。
それが、政治や世俗的なものと癒着したら、すでに堕落です。宗教は清らかで、本当の愛と真実に基づくものでなければいけません。
他を否定したり、他と戦ったり、勝つことや征服すること、版図を拡大することなどが目的になっては、すでに道から外れています。聖戦はありません。キリストもブッダも非戦を貫きました。
普及し拡張するのは目的ではなく、良いことと本当のことを行ったことで、自然に付いてくる結果のほうです。
布教や利益が目的になって、学ぶ一人ひとりが、そのために手段として使われるようになっては、すでに道から外れています。
本当に一人ひとりのための組織や建物でなければいけません。布教は、自発的に本人が喜びと感謝と感激から行うべきものです。それならOKであり、良いことです。
本当のもので、助けになるものならば、必ず結果はそれ相応に付いてきます。
神さまはおられ、霊性は本当で、大切です。それが時代状況に合った形と内容で、それぞれの特色と役割を自覚し、発揮していくならば、神さまにも嘉(よみ)され、人々にも求められ、喜ばれることでしょう。
宗教の団体や組織や建物が、あってもよいのです。しかし、一人ひとりが主人公であり、組織や建物や教団や幹部は、奉仕者であり、手段にすぎません。
そのことを自覚し、そのように奉仕的に一人ひとりのために働きをなすならば、宗教の組織も有用であり、これからの時代にも存続していきます。
これからの時代は、たとえ宗教があっても、オープンで自由で健全になるのがよいのです。時代に合わせ、また、場所に合わせて、適切に応じること。
しかし「合わせる」と言っても、迎合や同調になりすぎて、世俗的になりすぎてもいけません。宗教は社会や人々に模範を示していくべきです。
楽しみがあってもよいのですが、健全で愛と真実に基づく楽しみであるべきです。清らかで、本当の愛のあること。
現代においては国の壁、宗教の壁、利害の壁などが、妨げになってしまっています。何教何宗ということよりも、本当の愛と真実が大事です。
愛の生き方と愛の実践こそが、最も尊く本当のものです。
根源の神さまと一人ひとりが直結させていただいて、愛と真実からぶれず、その中で自分の個性が遺憾なく発揮されることで、喜びの人生を送って輝き、周りに良いものをもたらしていくようになる。その方向で一人ひとりに関わり、その方向で助けと導きになること。それが本物の宗教であり、霊性運動です。
天界に、全ての良きものと真実があります。そこからぶれることなく、形や組織から自由に、一人ひとりが目覚めて主体的に生きる方向で、支援し、導いていく。
そういうことなら、宗教であろうと、スピリチュアルであろうと本物であり、人々から求められます。そして、本当の助けになっていけます。神さまや仏さまからも嘉(よみ)されます。
宗教であるか、スピリチュアルであるか、その形態は、さほど重要なことではないのです。各自が自分のご縁や役割に気づいて、どういう形や立場であれ、本当の愛と真実に沿って、その中で自分の特性を活かして、行っていけば良いのです。その方向で助けになるものが本物です。
以上のことに気づいて、それぞれ自分の置かれた状況と立場と役割とご縁と人生目的を自覚し、より良い形と内容と方向で、より良い動機に導かれ、取り組んでいきましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉
ARIメッセージリーディングNo.320 夢と預言 2025.8.15
質問:夢の働きと可能性について、ONEの観点からご教示ください。
ソース:近年になっての学問や科学の中においては、フロイトがまず登場しました。フロイトはユダヤ人でした。精神分析と年齢を退行させる催眠療法を導入し、幼少期のすでに本人も忘れていたトラウマの原因に到達した時、本人が深い意識の中でトラウマの根因に辿り着くことで、否定的な不安や悲しみや恐れのエネルギーが解消します。
その時カタルシスが起き、本人の意識もトラウマの原因を了解納得し、事態を受け止め、心身症などの症状から解放されます。フロイトは後に、「自由連想法」を採用するようになりました。
フロイトの影響下に、ユングが登場しました。ユングは、その家系からして神秘的なことや霊的なことにも理解があり、ご縁もあって、本人も多少霊感が働く人でした。
フロイトの考えた理論を一歩進め、「集合的無意識」や「共時性」、すなわち「シンクロニシティ」についての概念を考案しました。神話などにも関心を持ち、シンボルについても調べました。人の見る夢に注目し、夢分析にも取り組みました。
こうしてユングはシュタイナーと並んで、霊的精神的な領域の、現代の基盤を構築しました。ユングの深層心理学の理論体系は、後の精神世界の基盤ともなりました。
一方、アメリカにはエドガー・ケイシーが現れました。自らの声の出ない症状を、催眠療法をかけてもらったことで、自分で深い意識状態においてその原因を語り、自ら深い意識状態で喉のところの気を十分に通すことに集中して治し、催眠から目覚めた時には、声が出るようになっていました。
それを機に、ケイシーは自らの病ばかりでなく、ほかの人の病についてもリーディングの中で調べ、治るための処方箋(せん)を伝えるようになりました。そのような医療リーディングがある程度行われ、それが準備となって、時期が来た時、病気を治す実際的なリーディングばかりでなく、同じ方法を使って哲学的宗教的なこと、また実際的な現実の問題の解決などにも、リーディングが有用であることを示していくことになりました。
それでもケイシーの場合は、病気の原因と治療法を伝えることが、主たる目的であり続けました。それだけのニーズも世間にはありました。
このように他者から受身的にかけられる催眠による治療を基盤として、自己催眠からそれを超えた深い瞑想と悟りへと可能性が開かれ、リーディングの道が設けられたのです。
第二のエドガー・ケイシーとも呼ばれたポール・ソロモンも同様に、催眠にかけてもらうことからリーディングの道が開かれました。
ラマシングのリーディングを行った、アレン・マイナーも同様でした。
アロン・アブラハムセンも、疲れて仕事から帰ってきた時、待ち構えていた妻に催眠をかけられ、しぶしぶそれに応じたところ、アロンもリーディングが行えるようになりました。
ポール・ソロモンが数多くの弟子の中で注目した日本人の浅野信も、ポール・ソロモンの指導と、自分独自の日本式の千日ご祈願の末、態勢が整い、東西を融合するリーディングが、日本で始まりました。それは、ケイシー以来のリーディングの本流の流れに属しているものです。
このように催眠療法から始まったリーディングは、ユングを越え、深層意識の扉を開き、人間の可能性や治療や教育の可能性を大きく切り拓くことになりました。それは深い瞑想や夢とも関連するものです。
深層意識を人間は持っています。深層意識は、潜在意識と超意識から構成されています。超意識は、魂の心の働きです。「キリスト意識」「ハイアー・セルフ」「真の自我」などとも言うことができます。「ヨハネの黙示録」も、その超意識を軸としたドラマです。
夢に関しては、すでに『聖書』の中で、自ら夢を見たり、ほかの人の夢を解釈してあげたりする夢見の達人が、何人か現れていました。特に、族長ヤコブとその子ヨセフ、バビロン捕囚期のダニエル、イスラエル統一王国時代のソロモン王などです。アブラハム、サムエルも同様です。
新約時代の使徒ヨハネも夢意識状態と関連する深い瞑想状態で、黙示録のビジョンを受け止め、書き留めました。
日本では、平安時代の空海、鎌倉時代の親鸞や明恵、またそれ以降の時代には白隠などが仏教の中に現れ、夢見の状態でお告げを受けたり、霊体験を授かったりして、そのことを示唆や導きとして、使命を全うすることができました。
ドイツ神秘主義の中ではタウラーが、朝起きた時の目覚めの状態で示唆を受けたり夢の有効性について示唆していました。タウラーの仲間のゾイゼも霊体験を数多く授かり、その記録を残しました。スケッチでも残しました。
それは日本の白隠や明恵も一部行ったことでした。チベットのミラレパも夢が活路となりました。
この現代においては、ヨハネ・ペヌエルが画文集として、多くの夢体験の記録を残しつつあります。
エドガー・ケイシーやポール・ソロモンも、「夢には意味と価値があり、有用であるので、夜見る夢に目を止め取り組むことから、多くのものが得られること」を、すでに指摘していました。そのことに最も取り組んでいるのが、現代の日本のヨハネ・ペヌエルです。
夢には、いくつもの側面が含まれていて、多義的です。日常の気になることや印象に残ったことが眠りの中で象徴的に再現されるということももちろんあるのですが、ただ単に自分が願ったり心配したりしたことが夢の意識状態で想起され、象徴的に表れ出るという、心の主観的な面だけではありません。実際の霊体験の面もあるのです。
夢は潜在意識の働きが多いのですが、それは雑夢です。一方、超意識で見る夢もあり、それは正夢や霊夢となります。陽炎のような、ただ潜在意識が投影してエネルギーを解消するだけの夢は、実体がないのでぼんやりしているし、朝起きた時も覚えていないか、一部覚えていても急速に消えていきます。
一方、超意識が介在した夢、特に実際の霊体験だった夢は、主観的な幻影ではないのでクリアですし、朝起きても覚えていて、その後まで記憶に留まります。それは単なる幻影ではなく、霊的次元での実体験だからです。
基本的に覚えている必要性のある夢は、朝覚えていて目が醒めます。一方、ただクリーニングのための心の働きの場合の夢は、覚えていないし、覚えている必要性もありません。夜の間にクリーニングをしたり、バランスを回復させたりする、心の動きだからです。
「夢に取り組む」というと、夢分析や夢解釈がこれまでは多かったのですが、ヨハネ・ペヌエルは、「夢解釈以上に夢を実体験すること、それが夢の主目的であり、命であること」を積極的に打ち出しつつあります。また、夢を通して深い瞑想や神体験へと、積極的に道を拓きつつあります。ちょうど「ヨハネの黙示録」が、そのような体験だったのです。
「夢見る人」として、『聖書』に名を残すヨセフとダニエルは、そのような前例としてありました。『聖書』の中では、夢見る人は賢者であり、霊的人物なのです。そのような系統の中に新約時代には、使徒ヨハネが現れ、黙示録体験を頂いて、それを書き残したのです。預言者の中でも夢見の系列に属します。エゼキエルやゼカリヤにも、そのような面がありました。
「夢の中には、いくつかの働きの面がある」と、先ほど述べられました。実際に霊界に夢の中で赴いて、霊界で見聞し体験することや、神さまや指導霊と出会ってお言葉を授かって示唆を頂くこと。また、医療リーディングのように自分の肉体や心の状態を体感し、その状態を知らされたり、時には夢の中である程度治癒がなされたりすることも、含まれています。
前世を思い出す夢や、将来を示唆される予知夢の面もあります。さらには、ユングの言う「集合的無意識」のように、意識が広がって宇宙体験をしたり、ほかの人の記憶を感じ取ったり、ほかの人への示唆を受け取ったりもします。
自分の周りの状況から、さらに日本や世界の状況をキャッチしたり、その将来の示唆を受けたり、という面もあります。黙示録のヨハネや、ノストラダムス、エドガー・ケイシーは、そのような働きの面も担っていました。
自分が整い、良い方向づけがなされていて、生活も心も安定し、清まってくると、自分が「神の受け皿」となってきます。それにより奥深い意識が開かれ、夢が一段と意味をなし、神のお心や働きを投影する機会となります。夜の夢がそのような場に整って、活用されてくるのです。
「夢は深い瞑想状態」とも言えます。ヨハネが黙示録体験を授かったのも、そのような意識状態においてでした。
そうなると、ただの主観的な夢ではなくなり、深い瞑想やビジョンになります。内面的な面を宿す預言者は、そのような存在でした。ダニエルや黙示録のヨハネは、その典型でした。
近代以降では、エドガー・ケイシー、ポール・ソロモン、ヨハネ・ペヌエルらが、そのような意識状態のありようでした。
先ほど述べられたように、日本では空海や親鸞が意味のある夢を見て、夢の中でお告げを授かっていました。その記録が残されています。
親鸞は特に「夢見の人」でした。それだけ内省が行き届き、自分が深まっていたことを表しています。
親鸞は主に、ご縁のある聖徳太子の存在から夢の中で示唆を授かり、それが突破口となって使命が切り拓かれ、神仏に育て導かれていった典型的な僧侶でした。
先ほど述べられたように、預言者の中でも、そのように霊的な内省の深い預言者が、預言者の中に一部含まれています。
そのような預言者は、深いトランス状態や夢意識状態で預言を授かります。それは夢のお告げ、いわゆる「夢告」とほぼ同列です。空海や親鸞には、そのような能力や役目や働きがありました。
夢の働きとその可能性として、「癒しの面」、また「自己認識の面」とともに、「神仏や指導霊のみ言葉を預かる」という預言者の働きの面があるのです。そのような特異的な預言者の系譜が、今に至るも続いています。現代の日本のヨハネ・ペヌエルは、その典型的な人物です。
実は誰でも、人間である以上そのような面を自分の中に潜在的に宿しているのです。ヨハネ・ペヌエルの場合は、その典型ではあるのですが、人間なら誰でも、その潜在的な可能性を秘めています。そのことに気づいて夢見に取り組むことで、潜在意識から超意識までが清められ、整い、さらに献身的に生きることで、「神の反射板」「媒体」となってきます。
そうなると、その時点のその人の状態や必要性に応じて、夢の中でのお告げのような、預言の働きが始まります。
最初のうちは、夢の中に超意識が介在してきて、意味のあることを夢の登場人物から知らされたり、自己認識としてあることに気づかされたり、ということから始まります。
そのうち夢の中の登場人物からの意味のある示唆が、さらに深まってくると、夢の登場人物の告げてくる存在が指導霊になったり、神霊すなわち神の霊、さらには根源の神さまにさえなってきます。
夢の中で超意識が働き出すと霊体験が始まり、その一つの表れとして空中浮揚や飛翔することが起き始めます。それが極まってくると、他力によって自分の体と意識が高く高く高く引き上げられ、天にまで到達し、神のみ座の面前に自分が立つことさえ、起きてきます。
神のみ座に引き上げられた者、それが最も光栄なことであり、霊的に起き得る最高の賜物です。
自分が整い、地上で有用な働きをするようになることで、輪廻転生を重ねていくうちに、そのようなことも起き得ます。
そこまで起きる存在は稀ですが、エドガー・ケイシーやヨハネ・ペヌエルは、そのようなレベルにまで到達した、稀な存在です。
それにあやかってONEを学ぶ人たちも、こういうことこそありがたく、光栄の極みであることを知って、エッセンスコースやULCコースに取り組むことで、今世のうちにそのようなありように、少しでも自分が近づくことができます。
そうなれば今世が終わった時に、普通の霊界を越えて天界にまで引き上げられ、救われていきます。そういう存在は周りにとってもありがたく、周りを潤し、支え、周りの人たちに良き感化を及ぼして、生きていくことになります。
エドガー・ケイシーやヨハネ・ペヌエルは、そのような典型的存在です。
聖徳太子や空海や親鸞も、生前それに近いありようでした。そういう存在がいると、周りが助かるのです。その恩恵を受けられるからです。
ONEを学ぶ一人ひとりが、それに近い存在に自らなること。それによって、周りに恩恵を及ぼせるようになるのです。そういう人が「黙示録」で言われる、象徴的数の「144000人」に到達すれば、世界平和が実現するのです。そのためのONEの学びであり、エッセンスやULCコースです。それらは「命の秘伝」のコースです。本当の意味で立派な人になること。それがONEを学ぶ目的です。
まず、自分が良い状態になり、救われます。自分本来の良さが出てきて、周りに良き感化を及ぼすようになります。そういう人の家庭状況や職場状況や人間関係は、大変素晴らしいものとなります。
ちょうど夢見のヨセフが、そのようなありようでした。そのため、ヨセフがポティファルの家にお仕えすると、ポティファルの家が天国のようになりました。
続いて、牢獄にヨセフが入れられると、何と、牢獄までもが天国のようになりました。
さらに、そのような試練を経てファラオの面前に立ち、ファラオの夢解きをきっかけに、エジプトの宰相の位に就くと、エジプトの国全体が、さながら天国のようになったのです。そのヨセフは後に、イエス・キリストとなって現れた存在です。
ダニエルは黙示録のヨハネとなって現れ、現代には、ヨハネ・ペヌエルとなって現れている存在です。
このように、夢にはいくつもの働きと可能性があり、その中には「夢でお告げを頂く」という預言の働きがあります。
そのような夢意識状態においては、深い瞑想状態にあります。ヨハネが黙示録のビジョンを受け取ったのも、そのような意識状態においてでした。それは癒しや、深い気づきをももたらします。深い意識の中で、知恵が働き、気づきが得られる。仏教でも、戒→定(じよう)→慧(え)という三学への取り組みの道行きを提示しています。
昔から、夢には意味と効用があることが知られ、取り組まれてきています。現代においては物的な世相であるため、そのようなことが看過されがちです。
それでも人々は心の奥で、そのようなものを求めています。それはアニメやマンガ、歌などの神秘的な面に表現され、人々はわずかにそれらに触れることで、癒され、満たされ、自分が保たれて、生きています。パワースポット巡り、祭り、儀礼、占い、ダンス、ゲーム、映画なども同様です。
そういう人たちが、究極の教えのONEに出会れば、真に癒され、救われ、目覚めていくことでしょう。そのような時期を「今か、今か」と待っています。
あるいは、ONEに出会っている人たち一人ひとりからこのことに気づき、各自自分の夢を通して、深層意識に取り組んでいきましょう。自分の奥深い意識との対話と交流により、全体意識であるONEが自分の中に復元し、回復実現することでしょう。自分の中での統合と調和です。生命状態の一体化と完成です。「ヨハネの黙示録」の主題です。そのようなONEをも各自目指しましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉
ARIメッセージリーディングNo.319 中道と八正道 2025.7.9
質問:中道と八正道について、ONEの観点からご教示ください。
ソース:中道とは、真ん中の道です。八正道とは、一人の人間として人生を生きていく上で、八つの方面に関して正しく適切な道を踏み行うこと、です。
ピタゴラスも、中国の孔子も、同様のことに気づき、説き勧めていました。なぜならそれが真理であり、本当の人間の歩むべき道と、従うべき規範だからです。孔子は「中道」という代わりに、「中庸」と表現しました。
中道と八正道は、ブッダの教えの基本である四聖諦(ししようたい)の中の、「道」について述べられた内容です。
四聖諦とは、四つの神聖な真理のことです。苦・集(じゆう)・滅・道、この四つの神聖な真理のことです。
一番目の「苦」とは、「人生は苦しみに満ちている」という真理です。四つの主たる苦しみの「生・老・病・死」。それにプラスされた副次的な苦しみである求不得苦(ぐふとつく)、愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、五蘊盛苦(ごうんじようく)、この四つを合わせて、「四苦八苦」と表現されています。
二番目の真理は、「集(じゆう)」です。
まず一番目として、「人生は苦しみに満ちている」。二番目として、「なぜなら苦しみの元を自分が集めているからである。特に、無明と渇愛、そこから生ずるカルマ。それらを自分が集めているので、人生は苦しいものとなっている」ということです。
三番目の真理は、「滅」です。その解決のためには、苦しみの原因となっている無明や渇愛を、仏教の教えを学ぶことで悟ること。それによって無明と渇愛が消滅し、無明と渇愛から作ってしまったカルマも解消されていくこと。
四番目の真理は、「道」です。そのためには、「道を歩むこと」。それによって無明や渇愛がなくなり、そこから生じたカルマも解消していく。その道は、「仏道、つまり仏教の実践をすればいい」ということ。その内容が中道と八正道です。
中道とは、「真ん中の道」です。やり過ぎず、やらな過ぎず、適度に行うこと。また、左の極端にも走らず、右の極端にも走らないことです。過ぎたるは、なお及ばざるが如し。このように、たとえ必要で良いことでも、行き過ぎると支障を来す。
一般的に見ても、偏見とか固定観念とか先入観、そういった偏った物の見方とか行い方は好ましくなく、上手くいかないことが知られています。
ブッダは弓の弦や弦楽器の弦は、きつく締めすぎても緩めても、用をなすことができない喩えで、説明しています。ちょうど良いくらいに弦を張ることで、弓でも弦楽器の弦でも、目的を果たすことができます。
例えば食事でも、たとえどんなに良い物だからといって、摂り過ぎては害となります。かと言って少なすぎても、不十分です。「ちょうどこのぐらいが良い」という程度があるものです。
薬を取る場合も同様です。また、体操などやストレッチをする場合でも、ちょうど良いくらいが上手くいきます。
たとえ自分に合う効果的な体操やストレッチでも、やり過ぎると支障を来します。一方少な過ぎても、不十分です。
また、細かく見れば、あるポーズを体操やストレッチでとる場合でも、それをやり過ぎてしまうと、かえって体を損ねます。ちょうど良い形であることと、ちょうど良い度合いで行うこと。この2つがポイントです。
このように中道の「中」の意味は、まず程度としてやり過ぎずやらな過ぎず、「ちょうど良い分量を行うのが良い」という意味です。
また、方向性としても左にも右にも傾かず、ちょうど良い方向や内容にするということが、中道の意味です。
その中道の中身をさらに見ていくと、「人生を生きていく上での主立った八つの項目や方面に関して、正しく行う」ということです。それが八正道です。その「正しさ」というのは、「適切さ」ということであり、全く適っていてぴったりなので上手くいく、ということです。何でもぴったりであってこそ、上手くいきます。適切さが八正道の「正しさ」の意味です。
表現を変えて言うならば、ONEという天にある真の基準が、正しさの意味です。
天の摂理であるONEに合わせること。物の見方にしても考え方にしても、話し方や話す内容にしても、です。
また、食事の仕方とか、勉強の仕方とか、働き方とか、対人関係。生き方や物事への対応の仕方、努力の仕方。そのように、取りあえずわかりやすく、八つの事柄や方面に関して、それぞれが天の摂理である「ダルマ」「宇宙の理法」に合致していてこそ、上手くいきます。それは、「カルマを解消する道」です。
イエス・キリストもご自分のことを、「私は真理であり、光であり、命であり、道である」と、ご自分のことを周りの人に示しておられました。
イエス様ご自身が、「一人ひとりが天のふるさとに還っていく道になり得る」ということです。
仏教の場合なら、八正道を踏み行うことで、カルマが解消し、現実の問題も解決し、必要で良い願いは、ふさわしい形で叶えられていきます。
八正道を踏み行うことで、困ることがなくなり、心が平安になって、生まれてきた目的を神さまのお心に沿って全うでき、神さまの御許に還り着けます。あるいは帰るべき霊界に帰っていけるようになります。
なぜ、カルマが生じて困った事態を招いて、苦しみや悲しみや病気などに直面しているのか。それは中道や八正道ではなかったから、です。
もし中道や八正道で考えたり行ったりしていたら、困ったり、苦しんだり悲しんだりという結果は、招きませんでした。
そこで、これからは中道と八正道を全てにおいて心がけ、実践することで、困ることがなくなり、苦しみや悲しみも癒えていきます。
中道と八正道によって、これまでのカルマが解消するとともに、現状の問題も解決し、これから新しいカルマともならずに済みます。全てのことに関して、天の摂理であるONEに自分を合わせることで、問題が解決し、苦しみや悲しみがなくなり、カルマが解消します。
そして、中道と八正道で考えたり行ったりすることで、新しいカルマとならずに済みます。
自分がするべきことを十分にしてから天寿を全うし、自然死に近い形で他界することができます。
生老病死の中に、病も含まれています。病気になるのも偶然ではなく、天の摂理に適っていなかったからです。つまり、中道と八正道でなかったから、病気になったのです。
これから中道と八正道を心がければ、病気にならずに済みます。また、すでに病気や不具合な人は、中道と八正道で治っていきます。
考え方にしても話し言葉にしても、生活の仕方にしても、全てを天の規範であるONEに合わせていくことで、偏りが是正され、歪みがなくなって、バランスを回復し、調和状態が得られます。その結果、心身の健康を取り戻すことができます。
目の前のことの捉え方とか応じ方も、中道と八正道にすることで、真実を正しく捉え、ぴったりに対応するので上手くいくし、必要で良い願いごとはふさわしいあり方で叶えられていきます。
病気をはじめ、あらゆる苦しみや問題は偶然ではなく、中道と八正道ではなかったことの結果です。これから中道と八正道にすることで、苦しみや問題を招かずに済みます。これまでの苦しみや問題も、中道や八正道で解決し、片づきます。必要で良い願いごとはふさわしいあり方で、叶えられていきます。
このように、中道と八正道を心がけると、良いこと尽くしです。その中道と八正道を、「仏道」と言います。
それぞれの具体的な場面や事柄に対して、「このことの場合、どういうことが中道や八正道なのか」を見抜くこと。それが知恵です。そしてそれを実践することが、慈悲です。
中道や八正道を、それぞれの事柄や場面において見抜く知恵を授けて頂くのも、気づいた中道や八正道を現実で応用し、実践するためにも、天との関わりとご助力が必要です。自分には知恵も愛も対応力も限りがあるし、偏って主観もあるし、カルマもあるので、「中道や八正道が、これに関してはどういうものなのか」、人間はなかなか見抜けません。わかっても、行えません。
そこでまず、普段から摂理に適った考え方と生活を心がけること。そのために仏教の戒律やモーセ以来の律法があるのです。健全で健康的な、考え方や価値観や生き方です。もう1つは、天への礼拝とお委ねです。
この2点を押さえること。それにより知恵が授かり、あるいは知恵が働くようになって、それぞれの事柄や場面においての中道や八正道がわかります。
そして、正しい健全な生活を送っていて、天への礼拝とお委ねもしていれば、神さまのお力添えとお導きを頂いて、わかった中道や八正道を実践する推進力も授かります。
知恵を授かって、中道や八正道がわかるだけでは不十分です。わかったことを実践し続けなければ、現実は変わりません。理屈だけでは現実は動かないし、問題は片づかないし、願いも叶いません。
真実がわかるということと、わかったことを実行すること。この2点があって初めて、現実は動きます。あるいは、現実が変わります。
わかるためにも、わかったことを実行に移すためにも、神さまのお力添えとお導きが必要です。そのために、健全な生活を送っていること。わかりやすく言うと、罪を犯さないこと。進んで良いことを行い、悪を慎むこと。
そうであるからこそ、モーセ以来の律法でも、そしてイエス様の教えでも、それから仏教でも、戒律や律法を勧めたのです。
普段の思い方や言葉や行いが、摂理に適っていること。罪を犯さず、自分が清らかであること、心も体も。そういう人にして初めて、知恵が正しく働きます。神さまも応援できます。
結局、戒律や律法を守るというのは、思いやりの生き方なのです。「人や自分の生命を害さない」ということですから。
このように、摂理に適った思い方や生き方をしていることが1点目。
2点目として、信仰と祈りです。天への礼拝とお委ねです。
この2点が揃ってこそ知恵が正しく働いて、それぞれのことに対しての中道や八正道がわかる。そしてわかったことを実行に移す推進力や生命力も、賜る。天への礼拝とお委ねによって。こうして、実のある人生を生きていくことができます。
真理はいつどこにおいても、そう変わりません。基本は同じです。時代状況や地域の影響は多少あるものの、大筋としては変わりません。
そのため、ブッダが発見し説き勧めた真理と、現在の日本で説き勧められているONEの教えや方法とは、基本的に同一なのです。それが真理であり、本当で有効だからです。
そういうことで、生きていく中でのそれぞれの場面や事柄に関して、般若の知恵を天から授けて頂き、それぞれの事柄や場面の中道や八正道に気づいて、それを実践して、応用して生きていくのです。
それによってカルマが解消し、苦悩から脱却し、苦しみや悲しみが和らいで、恵まれた、そして満ち足りた、喜ばしい人生を送ることができます。
ブッダが中道と八正道に気づいて、それを説き勧めるようになった背景には、まず、小さい国ながらも国の王子として、贅(ぜい)沢に何不自由なく暮らしていたことがあります。恵まれて贅沢で、享楽的な面もある王子としての生活をまず味わいました。
そのことに空しさを覚え、出家しました。そして今度は、苦行と荒行に打ち込みました。このように、まず人生の初期から前半にかけて、恵まれて贅沢な生活を送り、それに疑問を感じて出家してからは、今度は断食行をはじめ、苦行に身を投じました。その両極端を体験し、見切った上で、菩提樹の下に座って瞑想し、「左の極端も右の極端も好ましくない。適切でちょうど良いくらいの健全な中道と八正道で人間は幸せになれるのだ」と、気づくことができたのです。
このように、自分の人生経験の反省に立って、中道と八正道が出てきたのです。観念的なものではありません。
何でもちょうど良いくらい、ぴったりに行ってこそ、上手くいくものです。新しいカルマにもならず、古いカルマは解けていきます。心も平安で、心も体も健康で生き生きして自分らしくいられます。
以上のことを念頭に置いて、これからONEの学びを深め、実践していきましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉
ARIメッセージリーディングNo.318 死語の世界 2025.6.12
質問: 死後の世界について、ONEの観点からご教示ください。
ソース: 人は誰でも神から生まれ、神の御許に還る途上にあります。それが人間の運命です。
その間、あの世とこの世とを交互に行き来しながら、神さまに育て導かれ、霊的成長を遂げつつあります。このような輪廻転生の一部として、あの世もあります。
それゆえ、人という生命存在の歩みである輪廻転生は、この世のそれぞれの人生の間の、あの世をなくしては成り立ちません。その意味で、前世・今世・来世という、この世でのそれぞれの人生ばかりでなく、あの世での過ごし方やあり方も、輪廻転生では考慮に入れなければなりません。
人が輪廻転生することは、奇異な生命現象ではありません。むしろ自然です。自然界を見てわかる通り、自然は循環しています。一年の中では毎年、春・夏・秋・冬を経ていきます。
人間の1日の生活、24時間においても、7時間ほど床に就いて眠り、それ以外の時間帯は起きて活動していて、夜の眠りと昼間の活動期を、交互にくり返して生かされています。
夜の眠りの時間帯は「輪廻転生のあの世」、昼間の起きて活動している時間帯のあり方は「この世での人生」に対応しているのです。
そのことからして、人はあの世とこの世とを交互に行き来して、輪廻転生していることが、自然であることがわかります。
キリストの死から復活を遂げたことも、輪廻転生と別ではなく、むしろ輪廻転生の極みであり、その完成形態でした。
キリストに模範的に表れたように、一人ひとりも輪廻転生を重ねながら、死の状態から復活を遂げることを、親であられる神から願われているのです。
キリスト以外の場合、「完全な復活」とは言えなくても、死の状態を通り抜けることで、再生し、転生受肉します。
一生の間にも死のような浄化を経て、新生を遂げる「イニシエーション」が与えられていきます。
その新生が、「第二の誕生」、すなわち「霊的な誕生」です。赤ちゃんとして生まれてくる時は「肉体の誕生」であるのに対し、大人になってからの第二の誕生は「精神的霊的な誕生」です。
キリストが言われたように、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできません。
清められ、新しい意識と新しい肉体になる新生のテーマが、「ヨハネの黙示録」で扱われていることです。新しい意識と新しい肉体になったことを、「新天新地の実現」として、「黙示録」では表現されています。それによって一新され、神の国である天界に、入っていくことができるのです。
あの世とこの世とを交互に行き来して、霊的成長を遂げていく。それぞれの人生の間には、夜の眠りのように、あの世である霊界に帰って休んだり、生前のことを振り返ったり、次の人生に備えたりする。そのような生命の推移を経ていきます。
霊界は、「天界と地獄」として古来知られています。しかし、天界と地獄だけがあるのではなく、霊界、あの世においては、「普通の霊界」があります。しかも、普通の霊界が多くを占めています。大多数の人は、普通程度である。そして、善悪も同じくらいの割合なので、普通程度の霊界に行くし、普通程度の霊界から人間として生まれてきます。
霊界は、死後の世界であるとともに、生前の世界にもなっています。そして、死後の世界でお仕舞いではなく、多くの魂たちは来世へと進んでいきます。ただ極一部の魂は、もはやこの世に出てくる必要性がなくなり、来世がありません。後は、天界で過ごすことになります。
地獄や天界から人間として転生受肉してくる人もいますが、多くの場合、普通程度の霊界から人間となって出てきます。
霊界は大きくは、「地獄」「普通程度の霊界」「天界」、この三区分から構成されています。さらに、それぞれが小さく三区分され、「上・中・下」からなっています。こうして合計9層を成しているのが、霊界です。
下の下、下の中、下の上、これが地獄。
中の下、中の中、中の上、これが普通程度の霊界。
上の下、上の中、上の上、これが天界。
この9層から構成されています。
さらにそれぞれのレベルに、その種類別で、多くの霊界があります。
「地獄」は、悪を犯した者たちの住んでいる領域です。
「天界」は、善を思い、善を行うことが習慣となっている霊たちのいる領域です。
「普通程度の霊界」は、善悪の割合が同じぐらいの者たちのいる世界です。
天界は利他愛と善意に満ちており、地獄はエゴと悪意に満ちています。そのため地獄は暗くて怖くて汚くて、分裂してバラバラで、争いの状況です。
一方天界は明るくて、清らかで生き生きしていて、一体性と調和があり、安らぎや温かさに満ちあふれています。ONEの世界です。
霊界はこのように、9つの成長段階を表しているのです。仏教で説いてきている「六道輪廻」も、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」。この6層の成長段階を行き来しながら、そのレベルの間は、輪廻転生をし続けることを説いているものです。
誰でも、その時点の自分に見合う、意識のレベルに身を置いて生きています。この世でもそうなっています。「類は友を呼ぶ」の法則により、この世に生まれてきても、ほぼ同レベル、そして同種類の人たちと共に関わっています。良くも悪くも。
家庭はもとより、職場や友だちや仲間など、ほぼ同種類、同レベルの者たちが、どこでも、良くも悪くも同調し、関わって、この世で生活しています。
あの世は、それがもっと覿(てき)面に表れている世界です。同レベル、同種類の者たちが、同じ霊界に住んでいるのです。あの世は心の世界です。
仏教で説く「六道輪廻」のレベルのうちは、輪廻転生を続けます。それが菩薩や天使のレベルまで成長を遂げることで、もはや人間として生まれてくる必要性がなくなります。
もっとも一部の存在たちは、地球に人として出てくる必要性がなくなっても、他の者たちのため、慈悲心と役目を持って、この世に出てきます。そういった存在を仏教では、「菩薩」と名づけています。
霊界は、成長段階を表し、9レベルで9層を成しています。それゆえ、例えば「天界に入る」ということは、「天界に向けて成長する」ということなのです。
誰でも、その時点のその人にふさわしい霊界へと入っていくことになります。それが当人にお似合いだし、自分に合う所でないと、長くはいられません。
たとえご本人が望んで、自分のレベル以上の霊界に入ったとしても、合わせられず、落ち着かず、本人にはふさわしくないので、自分でもいられなくなって、自分の実質に見合う霊界へと向かっていくのです。
高くて清らかで明るい上層の霊界は、本人にお似合いではなく、柄に合わないからです。
この世ではある程度自分を取り繕えますが、あの世では素地が出て、その実質に見合う、本人にふさわしい霊界へと入っていきます。そこなら本人にお似合いで、自分の素地のまま、長く留まれます。
こうして結局は本人の持つ、その時点の実質を表す霊界に身を置くことになります。「外界は内実の表れ」です。その時点の、本人の内実を表す、現実の状況と動きと体験になります。
この世においても、ある程度はそのようになっていますが、あの世は覿面にそうなっています。
なぜならあの世は、心の世界、想念の世界だからです。ごまかしは利きません。嘘や騙(だま)しは通用しません。良くも悪くも、自分の実質に合う霊界に身を置くことになります。
この世のいろいろなものは全部、剥(は)がれ落ちていきます。こうして本人の実質が明らかになって、どの霊界に入るか、が決まります。
息を引き取った直後はまだ生前の名残があって、いろいろなものをまだ自分で身につけています。この世的なものを。しかし次第にそれが、剥がれていくのです。
こうして冥界において、この世で身につけたいろいろな体裁を取り繕う部分や、この世に属する俗世的な事柄なども剥がれていき、本当に実質そのものだけが残され、それが明らかになります。
その時点で、本人の本当の程度や内容が明らかになり、本人もそれを自覚し、受け入れるのです。その時点でどの霊界に入るかが決まり、正式な霊界へと入っていくことになるのです。
このようにこの世の後、すぐ霊界に入れるのではなく、この世を振り返り、この世に属するものが剥がれ落ちていく。そして本人もそれを自覚し、受け入れる。霊界でどのように過ごすかもいろいろ説明され、身につけさせられるのです。このようにして備えができて初めて、本人に合う霊界へと移行していくのです。
中には、この世に未練や愛着や恐れや悲しみや憎しみを持って、生前のことに心が留まり続けている霊もいます。そういった霊は、地縛霊や未成仏霊や水子霊として冥界に留まり続け、正式の霊界に入っていけていません。そういう霊が、未成仏霊として、この世でも時々目撃されるのです。いわゆる幽霊です。
大半の霊たちは、多少生前のことを引きずっていても、少しずつ整理され、あの世のほうに意識が向かって、正式な、入るべき霊界へと入っていきます。そして、しばらく霊界で過ごし、学んだりお役目を果たしたり、休養を取ったりして、そして時期が来ると、来世に向けて備えさせられます。
人は縁によって生まれてきて、縁によってこの世でも、いろいろなことを行うようになっています。
そのため、次に生まれてくる時期や場所も、縁のある魂たちと合わせて、神さまの下、指導霊たちによって教えられ訓練され、時期が来ると、しかるべき国や地域に転生していきます。時期や場所も、縁によって合わせるわけです。
あの世に留まる期間の長さはまちまちです。古い時代には、霊界に留まっている期間が長かったのに対し、次第に霊界での滞在期間は短くなりつつあります。
それを反映するかのように、この世の側も変化が大きくなってきています。あるいは、変化のペースが速まってきています。
同時に一方、この世の変化が速まっていることの影響で、生まれ変わりのピッチも早まり、あの世での滞在期間が短くなってきている、とも言えます。その分、早く転生受肉し、あの世で留まる時間が短く、その結果、この世の側の人口も世界的には増え続けています。早く容易に肉体を造って、転生受肉できるようにもなってきています。
また、この世の文明が物質的に進歩してきたことで、この世の受け入れ態勢ができてきたこともあって、世界人口は増えてきている、ということもあります。
人は霊的成長を神から求められ、人生経験を通して成長を促され、神さまに育て導かれて輪廻転生しています。そのため、霊界も成長段階を表す9層を成しています。
それゆえ、「人は天界に入る」というよりも、「天界に向けて成長する」と言ったほうが正しいのです。自分の状態が良くなった分、より高い霊界に入ります。そのことを「救われた」と言います。
もし、天界に迎え入れていただきたいなら、この世にいるうちに成長を心がけることです。自分の成長段階を表す霊界に、入っていくことになるからです。
自分の実質が良い状態になり、清まり、育成され、整ってくること。その成果を現す度合いに応じた霊界に、入っていくことになります。善を勧んで行い、悪を慎むこと。
その意味で、この世は修業なのです。訓練です。それが人生経験です。試練や苦難や病気なども、その手続きです。
本人が滅びないため、天国に入れるため、病気や試練や苦難が与えられ、それによって清められ、灰汁出しをさせられるのです。
「本当の修業」というのは人生修行であり、もし宗教的修行に意味があるとしたならば、その方向で自分でも意図的に自分を清めたり、育成したり、他のために自分を役立てて、奉仕的に生きることです。
そうすれば、そういう修行やご奉仕なら、意味と効果があります。しかしもし、ただ自分を虐待したり、パフォーマンス的な苦行や荒行をしているとすれば、あるいは形式だけのものならば、ほとんど意味をなさず、効果がありません。
神さまは、本人が滅びないよう、できたら天国に入れるよう、この世にいるうちに本人を清めるため、病気にさせたり、苦難や試練を通らせるのです。それによって灰汁出しがなされ、カルマが遂げられ、本人が改善され、洗い清められ、鍛えられ、育成されます。
これが死から新生へと向かう、霊的な手続きです。これが本当の儀式であり、イニシエーションです。
神は、愛する者をこらしめます。神に愛され、見込まれている人ほど、そして本人も「自分を良くしていきたい。そして、他者のためになりたい」と願っている人に、そのようなことが起きるのです。本人が滅びないように。
それによって清められ、改善、調整され、鍛えられ、備えがなる。そうなれば、天界に入っていくことができるのです。
それが先ほども述べられたように、「人は新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」という意味です。
もし、この世に生きているうちに清まらず、天界にふさわしくないようなあり方や生活をしていたとしたなら、天界に入るのにふさわしくなく、本人には天界は合わないので、どんなに本人が天界に入ることを願っても、入れません。
天界には天界にふさわしく、天界のありように合うような者だけが、迎え入れられるからです。神をごまかすことはできません。
「死んでお仕舞い」ではありません。「定年を迎えたら、後は好き勝手に生きろ」。そのようなことが最近日本では、流行っています。それは好ましくありません。
生命は永遠であり、最後は有終の美を飾れるように、定年退職を迎えた後も、気を緩めず、むしろ自分を清めたり、他者のために自分を用立てたり人を思いやったり、人を許してあげたりするべきです。ブッダが言われたように、最後まで怠らず、精進すること。
自分が思い、行ったことだけが、身についています。日頃よろしくないことを思い、よろしくないことをしていると、それが身についています。そういう者は、天界には入れません。
天界に入ることを、「救われた」と言います。「自分がそれにふさわしい思いや、生き方をしているかどうか」。そのことを、各自自分を振り返って、見ていくことです。
そして、今からでも遅くはありませんから、自分をより良いほうに向けて、思いも言葉も行いも正し、清め、良いものにしていくことです。人を許し、人には優しく寛大であること。
善も悪も、全ては正当に報われていきます。そのまま消えてなくなることはありません。ごまかしは利きません。摂理が働いています。
普段の思いと行いが、身についています。それを表す霊界に、死後入っていくことになります。極めて正当的で、公正です。何ものも無駄に終わることはありません。やればやっただけのことがあります。
自分が許されたければ、人を許してあげることです。人にしたことが、自分に返ってきます。自分の状態も、周りの状況も、自分が招いているものです。前世から今に至るまでの、自分の思いと行いと態度によって作り上げてきた、それ相応のものです。
そしてこの法則は、これからも作用します。生命は永遠ですので、これからもこの因果の法則は作用し続けます。
このことを知って、まずは現状を認めて、受け入れること。そして現状の中で、これからの思いと態度と行いをより良いものとし、人を思いやり、人に良くしてあげる。そして、本当の意味で自分を大切にする。
それを限りなく積み重ねていくことで、どんな努力も苦労も報われていきます。人にしたことが神にしたことであり、自分に返ってくることです。これが「ONEの法則」です。
しかし、あまりに細かく、神経質にならないことです。小さな悪を犯すことを恐れるよりも、自分を活かし、より多く良いことを思い、良いことを積極的に行うほうに、向けていくのです。自分を見直し、整え、現状で活かして、周りに良い影響をどんどん及ぼしていくのです。
多くの場合、今世生まれてくる前にいた霊界に帰っていきます。この世で今世どのように過ごしたかに応じて、生まれてくる前と、他界した後に行く霊界が変わってきます。
人と競り合うことではなく、いつも自分に向き合っています。人のために尽くせば、自分が浮かばれます。人より上に行こうとすると、かえって自分が沈むことになります。
この世の競争の論理は、通用しません。本当の愛と命の法則に基づいているのが、霊界です。安心してください。全ては正当に報われます。
全ての元であられる神さまに自分を委ね、本当の自分の良さが表れ出てきて、自分としての成長と完成を見ることができるように、自分に配慮してあげてください。その時は、他の人のことも配慮してあげましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉
