メッセージリーディング
このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。(リーディング実施者:浅野信)
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
タイトルをタップまたはクリックすると、内容をお読みいただけます。
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。
リーディング No.17340
質問:ビジネスと霊的世界、スピリチュアルの関連性について、ご教示ください。
ソース: ヨハネ・リーディングをはじめとするARIの役割は、天界を地上に反映させることで、地上に新秩序をもたらすことにあります。
天界の特徴は、ONEです。それが地上に反映された時、万物の新しい理法をもたらしたことになります。それによって、地上にも天界のありようが実現し、世界に新秩序がもたらされます。
これは、ヨハネの黙示録に出てくる「新しいエルサレムが、天から静かに降下してきて地上に降り立つこと」、また「新天新地の実現」に相当することです。その意味で、ARIの役割は「ヨハネの黙示録の成就」にあります。
黙示録は、『聖書』の最後の巻です。それで、「ヨハネの黙示録が成就する」とは、「旧約・新約合わせた、『聖書』が成就すること」にもなります。
旧体制から新体制へと移行します。好ましくないあり方から、本来の理想的なあり方へと移行します。それがあらゆる分野において起きてきます。
「万物の新しい理法」と言われるように、全ての事柄、あらゆるジャンルにおいて、ONEではない好ましくないあり方から、ONEである本来の理想的なあり方へと、移行することが起きてきます。
そのことを推進していく指南役が、ヨハネとARIです。
ヨハネは、黙示録を、今の時代において実現させるために転生してこなければなりませんでした。
それで例えば、ビジネスの分野においても、ONEではないあり方からONEという本来の理想的なあり方、すなわち天界のビジネス的な面が地上にもたらされる推進役をヨハネは務めます。
ビジネスにONEを応用した場合、どうなるのか。
まず、その内容が明らかにならねばなりません。明らかになれば、それが参考と指針となり、それにできるだけ近づけるよう、現状から出発して、ONEのビジネスモデルに各自が仕事の中で、少しずつでも近づくように、努力していけば良いのです。
天の創造主とその顕れである天界に敬意を表し、そこに自分を捧げつつ、ONEのビジネスモデルを助けとして、自分の現状で、できるだけ仕事がONEのビジネスモデルに合致するように、各自がこれから務め励むのです。
ONEとの食い違いができるだけなくなるよう、各自、置かれた状況と立場で、仕事に励んでいくのです。このONEのビジネスモデルが基準となります。
では、どういう内容がONEのビジネスモデルなのでしょう。
まず、人に勝とうとするよりも、人を助けようとすることです。これはもちろん、内部の人間に対してだけでなく、外部の人たちに対しても、です。関係のない人たちやライバル会社などに対しても、です。
もちろん内部に対してはなおのこと、互いに理解し、認め、受け入れ合い、協調し、連係プレーで、一丸となって取り組むのです。それが天国的あり方です。本来の、ONEのありようです。
それぞれが自分を自覚し、自分の持ち味を置かれた所で活かしながら、互いに認め合い、助け合って、連係プレーで公正にバランス良く、一丸となって取り組むのです。
これまでの歴史上では、天界のあり方を地上に反映させようと挑んだ人物が、何人か登場しました。
アクナテン、イエス・キリスト、聖徳太子、聖武天皇などは、その典型的人物です。
ブッダももちろん教えの面で、それを実行し、地上的にも「サンガ」という仏教教団を、モデルとして造り上げました。そして共和制的な社会のあり方が、望ましいという方向性も、示唆しました。
聖徳太子の「十七条憲法」では、天界のありようがどういうものかを、明らかにしています。
ONEのあり方は、ただの個人主義でも、ただの全体主義でもありません。個人のために全体があり、全体のために個人がある。
このように、個と全体とが相互の関連で、どちらが犠牲になることもなく、双方が上手くかみ合い、個が全体のためになり、全体が個々のためになる。個々をまってはじめて、全体が実現する。全体が活かされることで個々のためになり得る。このような相互の関係になっています。民主主義と社会主義が一体化したあり方です。
政治的な社会体制はもちろんのこと、ビジネスや仕事、経営などにおいても、それぞれが活かされ、全体に寄与するようになります。
ここで全体というのは、会社全体という以上に、社会全体です。それも自分の国のためばかりでなく、他の国々も含めた地球全体という「全体」のことです。
さらに、人間のためだけでなく自然の命も考慮され、尊ばれるあり方です。
会社中心というよりも、社会中心です。会社を通して社会に寄与し、社会の一助となっていくのです。
その社会がどの程度の規模や範囲かで、その会社の実力や器が決まります。とりあえず地域社会に寄与する、ということでも良いのです。
しかし精神的・霊的には、地球全体を覆うほどの愛をもって、地球全体を考慮して「地球全体の一助となる」ということを、仕事で目指すのです。天の創造主に、全ての仕事が地上で奉仕します。
戦いや競争や儲けや会社発展ということよりも、協調し、助け合って、補い合い、社会全体が成り立つように行います。
その時自分ができることで、自分のためにも人々のためにもなることを行えば良いのです。儲けや発展は目的というより結果です。
「あぁ、これなら今の自分にもできそうだ」と。能力的にも、状況や立場的にも、今の自分にふさわしく自分にできることで、やりがいがあり、人々の助けにもなり得ることがよいのです。
一般には、利潤追求が目的になっています。売上げの規模を上げることが、会社の目標になりがちです。
しかし天国型においては、個々人が活かされることで、会社を通して社会のためになることが、目的です。それにより、役立った分だけ収益が上がり、それによって会社も存続を許され、必要な限り発展し、社員の人たちもその家族も生きていける、保障される、という関係です。
金儲けのために働くのではありません。自分の価値を証明するために働くのでもありません。収益は目的というよりも、社会貢献したことに対する正当な結果として、自然に授かるものです。
自分を磨き、自分を発揮することで、会社を通して社会のお役に立つ。それによって喜ばれ、その結果、それ相応の収益が上がる。それによって会社も、社員の人たちも生活が保障され、やっていける。これが本来のあり方――すなわち、天国型のONEの働き方とビジネスです。
自分を犠牲にして無理して働くということも、天国型とは言えません。ちょうど勉強が、本来楽しく、ためになることであるように、働くことも本来楽しいもので、ためになることです。自分のためにも、周りのためにも。
本来の勉強や教育が競争ではないように、本来の仕事も競争や勝負ではありません。このように教育の分野においても、現状は競争の場にしてしまっていますが、本来の教育は競争とは無関係です。格付けや序列なども、本来のあり方ではありません。
教育と同様に、仕事やビジネスも競争ではなく、仕事に格付けするのも、本来のあり方ではありません。職種やポジションに上下、優劣、貴賤はありません。
その時の自分を精一杯発揮することで、会社を通して社会にどれだけ役立つかだけを考えればよいのです。
他と競り合ったり、勝つということを考える必要はありません。まして、自分の所が生き残るために、あるいは優(まさ)る(勝(まさ)る)ために、他の会社を意図的に陥れるようなことがあってはなりません。
また、会社の内部においても、自分が業績を上げて有利になるよう、内部において画策し、他の社員を陥れるようなことをしてはなりません。
しかし、得てして現状では、仕事の場が内部においても対外的にも、そのような面が付いてまわっているようです。
そういったものが少しずつ整理され、態勢が整ってきて、天国型の本来の職場と働き方になることを目指し続けるのです。
そうすればストレスも減じ、安心し、喜びの中、自分を十分に発揮して、会社を通して社会の役に立てます。働くことが喜びで、やりがいになります。
そうなってくれば、人は健康になり、病気というより老衰という形で自然死を遂げ、十分にするべきことをして、天寿を全うして、帰るべき天界へと帰っていけます。明るく健全で、健康的な、無理のない生き方や働き方になります。
国境というものも、今はそれらが絶対化してしまっていて、本当ではありません。現代の社会の、いちばんのネックは国境です。国家主義が強すぎるのが、今の時代の弊害です。「現在の人類のレベルは、その程度だ」ということなのです。
外界は内界の表れです。その時点のその人たちの内実を表すような、現状の雰囲気と動きと出来事と体験になります。
現在の人類のレベルは、コロナが蔓(まん)延したり、ロシアによるウクライナ侵攻からいろいろな歪(ひず)みをもたらしたり、ということに端的に表れています。
国家主義が強まっていて、互いに牽制し合い、拮抗し合っている。そういった否定的なありようは、とても天国的とは言えません。「現代の人類はその程度だ」ということなのです。
必ずその時点の自分の内実を表すような、現実の状況と動きと出来事と体験になっています。雰囲気や人間関係も、働き方も。たまたまそうはなりません。
そこで、現実の全ての元であられる天の創造主と天界に敬意を表し、自分の全てを任せ切るということからスタートします。そして日頃も、天を敬い、天に従う心がけで、天意に沿うように、できるだけ仕事においても考え、意思決定し、現状に対処していくことです。
ONEのビジネスモデルを理想のイメージとして、できるだけ現状の中で、その天国型の完全な理想型(けい)に、自分の所の仕事や職場を、少しずつでも近づけるように心がけて、日々取り組むのです。
その中で、一人ひとりが成長し、浄化され、育成され、少しずつその完全な理想型(けい)に近づいていきます。
ちょうどイエス・キリストが、完成した人間のあり方を具現化したことで、多くの人たちの完成した理想の人間のあり方の目標になっているように。また、東洋ではブッダがそうなっているように。
一人ひとりが「ONEのビジネスモデル」という、天国型の働き方や職場を元にして、自分の職場や仕事を、少しずつでもそのモデルに近づくように、日々励むことです。
それがたとえすぐに上手くいかなくても、疑わず、迷わず、諦めないこと。一方、ちょっとでも上手くいった時は素直に喜び、感謝し、評価すること。そして、そのちょっとを励みに、次につなげていくことです。このような取り組みが、貴重なのです。何でも、日頃の小さなことの積み重ねでできていきます。
現状に失望しないこと。現状を拒否しないこと。現状には理由と意味と目的があります。完成に至る途中の、必要なプロセスです。
それゆえまず、現状を理解し、認め、受け入れること。そして現状の中で、少しずつでも天国型のビジネスモデルに、自分の職場や仕事が1ミリずつでも近づくように、日々励むのです。互いに理解し、思いやり、協調して。
その取り組みの中で一人ひとりが浄化され、育成されます。それによってその分、あなたの仕事を通しての、社会への助けが及ぶようになります。そしてその分、お金も回り、入ってくるようになります。それによって自分や家族も保障され、生きていけるようにしていただけます。
人々の役に立った分、それがお金に換算され入ってくること。これが正当的で健全なお金の動きです。そういうお金は、喜びをもたらしてくれます。
もともとお金は目的ではなく、役に立った分自分たちが生きていけるように、授かるものです。お金だけが一人歩きしてはいけません。
どれだけお金が入るかではなく、どれだけ自分を活かして役に立つか、が大事です。
自分をその方向で見直し、整え、まずは現状の仕事からきちんと一つひとつ真心で、ベストを尽くすのです。
その時点で、これ以上自分にはできないというくらい、最上の出来映えになるよう、行うのです。そうするとその分、人々の助けになります。そして、その役立った分だけお金が入るようにすることです。日々慎ましく、素朴に暮らしましょう。
天界の秩序と、その物質界の表れである自然の摂理に従い、明るく健康的に、生活してください。
天国型の人は贅(ぜい)沢(たく)しません。何でも大切にし、感謝し、活用します。
そのような風通しのよい、健全で無理のない、贅沢や華美を求めない純朴なあり方が、天国型です。
物を大事にせず、感謝が足りず、威張り、贅沢を好む人は、すでに道から外れて堕落しています。そういう人は、低い霊界に行くしかありません。生きているうちの品格が、あまりよろしくないものです。それでは残念なあり方です。
慎ましくかわいらしく、素朴に生きるのです。目に見えないものにこそ価値があるのです。物的な物やお金は、必要最小限でよいのです。
しかし、わざわざみすぼらしくなる必要はありません。必要な物や良い物は、持っていて活用し、健全に楽しみましょう。
自然と調和する中で、あまりエネルギーを使わず、無理なく健康的に喜ばしく、生きてください。そういう天国型の方向での仕事なら、なお望ましいことです。
でもまずは、今自分が置かれた状況で、今の自分を活かして、今の自分ができることで、社会のお役に立てばよいのです。必ずその時点のその人にふさわしい仕事や職場になっています。
同じ人でも長く生きている間には、仕事が変わっていくのはそのためです。その人自身が変わりつつあるから、それに見合う職場や働き方や給料の額になるのです。
自分を改めて見直し、仕事の観点で自分を認識し、調整し、癒やし、整えてください。人格も技術も磨き、その時点のベストを尽くすのです。
いつでもその時点のベストを尽くすことが、ポイントです。そうすれば仕事が充実し、お金は自(おの)ずと付いてきます。それが健全で本来のあり方です。少しずつ少しずつ天国型に向かっていくように、励んでください。
ビジネスにおいても、このように霊的世界やスピリチュアルは深く関連しています。天界に根差した地上の仕事ならば、天界にしっかり根づいているので、順調に育成され、花を咲かせ、実を実らせ、次の種を宿します。
一方、天界に根差していない人間たちが作っている仕事は、根無し草のようなものですので、不安定ですし、天界からの栄養も摂れず、長続きしません。苦しみや不安、悲しみやトラブルを招きやすいです。
天界に根差したものとして天意に沿うように、地上で仕事を営んでいくよう心がけてください。
まず、働く自分自身が日々、天に自分を捧げ、天との接ぎ木を行わせていただくのです。
このようにまず、働く自分自身が天に接続させていただくこと。そうすれば自分の発想も、思いも、行動も、天に由来するものとなります。
「天における如く、この地上においてもありますように」。その思いと共に、まずは現状から出発してください。
今置かれた状況で、自分にできることを精一杯、より良い方向できちんと行わせていただくことです。それによって社会の一助となるように。
誰においても、その時にふさわしい職業になっています。これまでの人生の歩みにおいても、その時の自分に必要で相応しい仕事になっていました。これからもそうなることでしょう。
何でも自分次第なのです。そのことに気づいて自分を見直し、より良い自分を作り、その時与えられた状況で、その時のことをより良くきちんと精一杯行うことで、人々に喜びと助けと安らぎをもたらしましょう。
それによって成長を遂げ、喜ばれ、次はもっと良い仕事や成果が、与えられることでしょう。こうして仕事を通しても神さまに育て導かれていくことが、働くことの使命です。
『バガヴァッド・ギーター』には、「超作」が説かれています。「その時の仕事を、天から授かった仕事と捉え、義務に忠実に、自分だけの結果を求めず、全体のためになるよう、その時のことに徹すること」が超作です。
一人ひとりがそのように、その時の仕事に忠実で純粋に徹すれば、社会も支えられ、一人ひとりをまってはじめて社会も営まれ、社会自体も良くなっていくことでしょう。天国の社会に。
まずは、こういうことを学んでいるあなた方から、現状でこのことを心がけ、ちょっとを大切に積み重ねていきましょう。そうなりますように。
(ありがとうございました)
リーディング No.17318
質問:今年は親鸞聖人の生誕850年に当たります。それに伴い、その関連の催し物、刊行物が一般において盛んになる見込みです。ARIにおいても、親鸞とのご縁により、4月の復活祭は京都で開催される運びとなりました。それに合わせて、京都での親鸞展も見学させていただきます。
メッセージをお授けください。
ソース: 今年2023年は、どういう年回りかというと、親鸞生誕850年の年です。
続く来年には、立教開宗800年の年を迎えます。
仏教の中の浄土真宗としては、このように2つの記念すべき時期になっています。仏教の中の浄土真宗にとっては、とても重要で意義深い年になることでしょう。
日本の仏教の宗教宗派の中では、親鸞の浄土真宗が最大規模です。影響力もその分、大きなものがあります。
一時は、親鸞の本願寺王国が、日本全体を支配し、統治する可能性もありました。
歴史上知られている、織田信長との対決です。結局、織田信長の側が勝利し、浄土真宗は東本願寺と西本願寺に分離され、力を弱められました。
大阪城のある土地は、本願寺が退きました。それでも豊臣秀吉と徳川家康によって、京都の一等地が東本願寺と西本願寺に、それぞれ与えられました。
それ以来、京都の駅前の表舞台に、親鸞の東本願寺と西本願寺が一定の割合占めています。
このような日本の中での浄土真宗の歴史は、キリスト教のペトロから始まるカトリック教会の歴史と相似通ったところがあります。
ペトロから始まるカトリック教会は、ローマ帝国と対峙(じ)し、最終的にローマ帝国の国教となりました。しかし、東方正教会と西のローマカトリック教会に分離しました。それによって力が二分し、弱められました。そのまま今日に至っています。ローマ帝国自体も東西に分かれました。
現代においては、基本的に政教分離の形をとっています。そのため、現世的な政治の体制と宗教の側が対立し、対決することはありません。
古代においては、一体化していた場合が多かったため、両者の対立や折り合いで難しいことが、世界においても、日本国内でもあったのです。
現代においても、例えば日本では、自民党ばかりでなく公明党も一つになって、与党を長い間続けていることがあります。
公明党は、創価学会という日蓮正宗の系統と一応別とはされていますが、実際には深く関連し、一つです。
このように政教分離とは言え、今でも宗教の力は現世の面にも強く及んでいます。
自民党が過半数を占めている場合でも、公明党の力を頼っているのです。その両者で与党を構成しています。
最近問題になった旧統一教会の場合も、自民党を始め、他の政党にも深く食い込んで現世の面でも影響を及ぼしていました。
このように、現代の政教分離の時代においてもなお、世間的な権力の体制に対して、特定の宗教の影響は大きいのです。
親鸞自身は、政治的なことには関心はなく、純粋に人間の心と生き方だけを扱いました。
しかし、民衆に広まり民衆の力によって、問題のある地域の、政治の権力と対立したことがありました。それが高じて、戦国時代の一大勢力の織田信長や豊臣秀吉と拮抗するほどの、民衆の精神的力となっていたのです。
親鸞の系統の浄土真宗が、キリスト教のカトリック教会の歴史と似通っているのは、偶然とは言えません。
なぜなら親鸞自身、ユダヤ・キリスト教の系統を引く実体だからです。しかし、ただユダヤ・キリスト教だけの系統の実体ということでもありません。
ちょうどキリストの実体が、世界中に転生してONEの種を蒔(ま)かれたように、親鸞の実体も、ユダヤ・キリスト教の系統を軸としつつも、仏教、ゾロアスター教など、世界の主要な宗教の元となってきた実体です。ギリシャの哲学者の時もありました。
親鸞は、日本の仏教の中に、キリスト教の精神を入れ込みました。しかも、キリスト教の精神の本質である神髄を、仏教の中に植え込んだのです。
親鸞の浄土真宗がキリスト教的であることは、知られています。しかしそれは形だけではないし、偶然でもなかったのです。
親鸞自身、輪廻転生の中で、ユダヤ・キリスト教に深く関わってきているからです。しかも同時に、仏教の本流に属する実体でもあります。仏教の中で派生的な流れ、ということでもありません。
一般に見られているほど、キリスト教と仏教とは無関連ではなく、対立した関係でもありません。姉妹宗教とさえ言えます。
その意味で、親鸞の浄土真宗を通してすでに、日本にはキリスト教の精神が入り込み、しかも普及していたのです。
形式的なキリスト教としては、日本での伝道は成果を上げないままです。日本の宗教人口の1%にさえ、キリスト教の人口は達していないからです。
しかしそれは表向きのことであり、実は親鸞の浄土真宗を通して、日本にはキリスト教の精神が入り込み、普及していたのです。仏教を通して日本に合う形と内容で、それがなされました。
親鸞の浄土真宗は、キリスト教化した仏教です。そのような形でうまく、日本の中にキリスト精神が入り込み、浸透しました。しかもそれが、日本の仏教の宗派の中で最大規模になっているのです。阿弥陀仏はキリストの実体です。
「仏教がキリスト教化した」とも言えるし、「キリスト教が仏教化した」とも言えます。それが日本にキリスト精神が入り込むのにふさわしく、最も神仏のお心に適うあり方だったからです。これが、インターフェイス(interfaith)なキリスト教の普及です。
現在のARIも、まさしくそのようなアプローチになっています。これからの時代に必要でふさわしいあり方で、キリストのONEの精神が、ARIを通して作られ、普及しつつあります。
しかもこれからは、日本国内ばかりでなく、日本で基盤ができたら、日本から世界にONEが伝えられ、250年ぐらいすれば、世界全体がONEの世界になり、キリスト化するのです。真の意味において。ONEの理念と理想が、世界で実現する時が来ます。
ちょうど親鸞が、礎(いしずえ)を思想的に築き上げてから、親鸞の八代目の子孫の蓮如に至って初めて、日本に普及し浸透したように、現代においてまず、「思想と教え」の面でヨハネがその礎を築き上げます。
そしてこれから、100年、200年、250年かけて日本に、そして世界にも、ARIのこの「ONEの教えと思想」が普及します。それによって、地上に浄土が実現するのです。
今年は、親鸞の生誕850年に当たります。来年は、立教開宗800年に当たります。ちょうど節目に当たる年です。
昨年は、NHKの大河ドラマは鎌倉時代創建期の、鎌倉幕府が題材として取り上げられていました。
親鸞は関東に20年間滞在し、鎌倉幕府から近からず遠からずの位置に庵を結びました。鎌倉幕府を明らかに意識してのことでした。
ある程度鎌倉幕府とも関わりつつ、距離を置いて、独立性を保っていたのです。請われれば協力していました。
親鸞自身のするべきことが残されているのと、鎌倉幕府の体制が変わってきたのと、日蓮宗が関東で台頭してきたのとで、親鸞は62歳の頃、ふるさとの京の都へと帰っていきました。
昨年は、大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放映されたことで、鎌倉時代初期の、特に「鎌倉幕府に関わる源氏の鎮魂の儀礼」がなされたのです。「そのような時にまで至れた」ということを、その放映の実現は表していました。こうして鎌倉時代初期の、武家政権である鎌倉幕府のカルマが解消しました。
鎌倉幕府は、それほど長くは続きませんでしたが、「日本の、庶民による現実的な社会体制の始まりとなった」ということに気づくべきです。現代の東京を中心とする社会体制の始まりが、鎌倉幕府にあったのです。
その意味で、現代の東京を中心とする日本の社会体制の礎石が、鎌倉幕府、取り分け源氏三代の尽力にありました。その意味で現代からしても、無関係とは言えません。現代の、東京を中心とする社会体制の礎が、鎌倉の源氏体制だからです。
そのため、源氏三代の鎌倉幕府最初期のカルマが解けさえすれば、現代の日本の、東京を中心とする社会体制も健全になり、良化します。それが昨年なされたことです。 こうして年が明け、2023年を迎えることができました。それにより今年は、同じ鎌倉時代初期に、精神的面で中心的役割を担った親鸞の生誕850年と立教開宗800年の年を、無事迎えられたのです。
そのことを、親鸞とも鎌倉幕府とも深い関連のあるARIが、4月のキリスト教の復活祭の日に、京都にて復活祭を執り行うのです。
先ほど述べられたとおり、親鸞の仏教は、キリスト精神を元としています。仏教化したキリスト教です。
その意味で、復活祭を京都で親鸞生誕850年の年に、続く立教開宗800年の年の前に執り行わせていただくことは、道理に適っています。併せて、親鸞と深い直接ご縁のある、ARIの主立った方たちが、京都の国立博物館で開催される「親鸞展」を見学させていただくことは、ARIにとってばかりでなく、今後の日本、広くは世界に対して、重要不可欠なイニシエーションとなります。
親鸞は、浄土系の仏教の僧侶でしたが、仏教の神髄の流れを引いています。同時に一方、ユダヤ・キリスト教の中心的な位置をも担っている実体です。
それゆえにこそ、ケイシー・リーディングを通して、「ヨハネ・ペヌエルの登場」の予告がなされたのです。
「人類が一つになれる普遍的な原理を打ち立てること」――それが親鸞の今世の役割です。
まだARIは、物的には小さい規模ではあるけれども、世界が一つになれる、世界のための普遍的な原理を樹立する、重要な役目を担っている所です。
親鸞の思想や教えに、また生き様に、すでにそれが見出せます。それがなされたのが、関東に鎌倉幕府が造られた時期と一致しているのです。しかも親鸞も多少、鎌倉幕府と交流がありました。
それは偶然ではありません。それが現代の東京を中心とする社会体制にまで及んでいるのです。それで今でもARIは、東京都内に置かれているのです。親鸞は滞在する地域の国分寺を拠点としていました。
浄土真宗の本拠地は京都ですが、このような経緯を見ると、ARIが東京にあることの理由が頷けます。
しかしまずは、親鸞の生まれ故郷であり、終焉の地でもあり、現在の本拠地でもある京都にて、キリスト教の復活祭と親鸞展の見学を、ご縁のある方たちがヨハネの実体と共に巡らせていただくことが肝要です。これで一つの大きなイニシエーションを、通過することができます。
「現(げん)生(しよう)正(しよう)定(じよう)聚(じゆ)」「平(へい)生(ぜい)業(ごう)成(じよう)」。親鸞の述べたキーワードです。「今を大切に生きること」を表しています。
「自(じ)然(ねん)法(ほう)爾(に)」――あるべき状態にならせていただく。お計らいにより、自(おの)ずとあるべき状態になる。これが「自然法爾」です。
「なるべき自分になり、自分がおるべき所で、自分がするべきことを、自分らしく行うことで、社会の助けと喜びとなること」――これが重要です。このことを親鸞は掴んでいました。それが浄土真宗の本質です。
親鸞は仏教の中に、キリスト教の神髄である信仰を入れ込みました。他力の信仰です。これによって仏教の中にキリスト教の神髄が入りました。それが浄土真宗の実質です。素直で純朴な幼子のありようも。
もともと、仏教とキリスト教は別ではないのです。親鸞が、両者の本質のところを掴んで、統合しました。これが鎌倉時代初期に、親鸞が行ったことです。
親鸞は日本の仏教において、家庭仏教の始まりとなりました。往相回向と還相回向も重要です。神仏のお力で浄土に往生し、この世に還ってきて人々の救済の業(わざ)を行うパワフルな生き方です。
ARIはこれからの時代に向けて、世界が一つになる思想的な基盤を、樹立します。すでにそれは「ONEの教え」として、この40年説かれています。その総仕上げに向かう節目となるのが、今年です。
そのため、親鸞の記念年に親鸞の本拠地である京都の地で、親鸞展を巡らせていただきながら、復活祭を執り行わせていただきます。「親鸞たちがこれからの時代に向けて復活できるように」です。
それによってこれからのヨハネの「ONEの教え」が完成し、成就する方向が定まり、保障されることでしょう。それをご縁のある、共通使命を担う方々と共に体験し、通過させていただきましょう。
親鸞は、聖徳太子とご縁が深い人物でした。聖徳太子の記念の年、1400年遠忌も、2年ほど前に通過させていただいたのです。
こうして親鸞の時期を、今年節目として迎えます。共に歩み、共通使命を協調の中、遂げましょう。そうなりますように。
(ありがとうございました)
リーディング No.17295
質問:2023年の立春を迎えるに当たり、本年の日本と世界に関して、胎蔵界的、金剛界的両観点から予測し、展望してください。併(あわ)せて、留意点、対処法もお示しください。
ソース: 昨年、2022年は、年頭リーディングで示されたとおり、激動の大変な一年となりました。コロナは収束せず、むしろ広がりを見せました。
2月下旬には、ロシアがウクライナに侵
攻し、考えられないほどの破壊行為を重ね、むごいことを続けています。
これが昨年一年いっぱい続き、年が明けた2023年に入っても、止むことがありません。その影響もあって、エネルギー資源をはじめ、物価が高騰し、食料品も影響を受け、人々の消費生活にも影を落としています。
昨年を象徴する事件としては、安倍元首相が銃殺されたことです。西大寺の前で起きたことで、奈良時代のカルマが顕れ出て
成就した、霊的な面も多分にあった出来事でした。これを機に統一教会の問題が露呈し、改善に向けて国を挙げて取り組み始めることになりました。
気候の変動もあり、大雪や酷暑の連続が人々を苦しめました。水の被害も多かった年でした。
今年2023年は、昨年とは打って変わり、平穏無事な一年となることでしょう。もちろん細かく見れば課題は続き、悲しいことやつらいことも、それなりにあることはあります。
それにしても全般的に見ると、だいぶ落ち着いて整い、心穏やかに、それぞれが過ごせる年となることでしょう。ニュースも良い内容が届けられそうです。気候の変動も、ある範囲の中で収まる一年となりそうです。
ウクライナ情勢は、すぐには収束しないにしても、何とか世界の国々が折り合って対応しながら、治めていきそうです。昨年ほどの激しさや過酷さではなくなってくることでしょう。
コロナも続くには続くにしても、コロナの正体を見抜いてコロナとの付きあい方を人類は覚え、コロナと折り合って、それぞれが働いたり楽しんだりするようになることでしょう。
旅行なども国としても勧められ、人々もこれまで我慢していた分、人々の移動や旅行が増えそうです。いろいろな観光地やレジャー施設も盛んになり、人々はお金を使って楽しみ、心を癒し、心も回復していきそうです。
昨年に較べると、だいぶ人々も立ち直り、働き方や楽しみ方を覚え、コロナと共存しながら、どのように働き、どのように楽しむかを身につけ、実践する年となることでしょう。
昨年後半から今年初頭にかけて、物価が高騰し、人々の消費生活が逼(ひつ)迫(ぱく)するようになりました。
今年はそれを受けて、政府や日銀が介入し、調整を図ろうとすることでしょう。各企業なども、給料をアップすることに取り組み、努力することでしょう。人々もお金の使い方などで学び、工夫し、それなりにやりくりしていくことでしょう。
経済的な問題は完全に解決はしないにしても、人々は癒しのため、旅行や食事を始めとするレジャーが活発化する年になりそうです。
これまで我慢してきた分、堰を切ったように人々は動き出し、心を癒し、満たすためにも、いろいろ行動を開始することでしょう。その意味ではお金が回る年になります。
完全には物価高騰の問題は解決しないにしても、それなりに調整しながら人々も工夫し、企業も努力して、これまで我慢したり苦しんだりしてきた分、今年は日本でも世界的に見ても、人々は癒しと和みを求めて、少なくとも表面的には、穏やかで活発な、楽しむような一年になりそうです。
コロナにしても、ウクライナ情勢にしても、完全には解決しないまでも、最低限は見通しが立って整い、落ち着く。それで人々の心も安らぐ。落ち着いて穏やかに過ごせるような一年になりそうです。
このように、今年一年は大まかに見て、平穏無事な一年となることでしょう。順風満帆(ぱん)です。
細かいところでは、気がかりや課題や問題があるにはあっても、昨年から較べるとずいぶん整い、落ち着き、安らぐ。そして人々も余暇を楽しみ、気持ちを和らげようと、いろいろな企画や行動に出ることでしょう。温和な、落ち着いて過ごせる年です。
岸田政権では、欧米と歩調を合わせ、防衛費を増額して、日本の軍事力を増強する方向に歩み出しています。これが具体化し、着手されることでしょう。
本当は、そういうことは必要ないのですが、時流であり、人類の歩みのプロセスとして、日本もまた、そのようなプロセスを通ることにはなりそうです。
防衛費を増額し、軍事力を強化する――これはONEの観点から見ると逆戻りであり、ONEから一時、日本は遠のくことにはなります。それでも、半ば必然であり、必要なプロセスとは言えそうです。
ONEの理想が地上で実現し、世界が一つになり、世界平和が訪れるには、まだまだ時間がかかり、その前にやらねばならないこと、体験し学ぶべきこと、果たすべきことが数多く待ち受けています。必要なプロセスが待ち受けているからです。
そういうプロセスを経ることで学んだり、経験を通して教訓を汲み取り、カルマを果たし、そのプロセスを経て消化しながら次へと向かっていく。人類の育成の過程です。
それで、ONEが世界中で求められ、理解され、実行され、実現するには、まだ230年ぐらいはかかる、ということなのです。
今から40年後から50年後くらいには、核戦争の危機があるかもしれません。それは40年後、50年後とは限りません。早ければもう少し手前の時期にも、その危険性はあります。
その意味で人類は、ONEの世界が訪れる遠い先の前に、まず、今のような国家主義が強まって、国家エゴ同士がぶつかり合い、自分の国のことしか思えないような状況が訪れます。それが高じたところで核戦争の危険があるのです。それが数十年後です。
今現在でも、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに対し、あるいはほかの国に対しても、核のボタンを押す危険性を孕んでいます。それで多くの人たちが、今すぐにでも、核兵器が使われることを危惧しています。
確かにその可能性は、全くないとは言えません。現時点においても、すでに核兵器が使われる可能性は0(ゼロ)ではなく、20%くらいは感じられます。ただ実際は、その可能性は低いのです。
仮に将来、核兵器が使われることがあったとしても、核戦争で人類が滅びるということは、起きそうにもないことです。
楽観的すぎる人たちは、現状の厳しさを知りません。一方、悲観的・否定的すぎる人たちは、神の愛とご意志を知りません。
神さまのことがわかり、現状の厳しさもわかって初めて、正しい予測ができ、人々のことも指導できるのです。それがONEのスタンスです。
人類は、まずは国家主義で進んでいき、核が使われる懸念を孕みながら、これから数年、数十年は進んでいきそうです。
そういう中で本当に人類は教訓を学んで、経験を通して成長を遂げます。そこから本当にONEの正しさや必要性に目覚め、ONEが受け入れられ、ONEが実施されるようになっていくのです。
人口増加に基づく食糧不足は、深刻になります。長期的な展望のことです。今年のことではありません。
すでに昨年の11月頃、世界人口は80億人に達しました。1960年の頃は、世界人口は30億人程度でした。まさしく人口爆発です。しばらく世界人口は増え続けることでしょう。
干ばつやゲリラ豪雨などの異常気象のアンバランスが続く中、農作物などが採れにくくなっています。そこに持ってきて人口が増え続けていきます。また、ロシアによるウクライナ侵攻などの影響もあって、穀物がうまく分配されなくなってきたりもしています。
こういうことが続いていくことで、食糧不足から戦争の危機が訪れるのです。異常気象と人口増加が、今後の深刻な人類の課題です。そこで自国を守るため、恐れから核兵器が使われる危険性が出てくるのです。
一方、近未来に焦点を当てて見てみると、「西暦2037年に、ONEの基盤が地上に出来上がる」ということです。2037年と言えば、14年後です。今の世代です。この2037年がとりあえず、目標になります。
「ONEの礎を地上に形成し、確立できる」。それが2037年です。「ONEの楔(くさび)を地上に打ち込むことができる」。それが2037年です。
それから230年ぐらいかけて、徐々に徐々にそれが継承され、少しずつ世の中を啓蒙していくということになります。
日本の出生数が減ってきています。1947年~50年にかけての、第一次ベビーブームでは、年間270万人ほどの出生数がありました。それが今では、年間77万3千人ほどにまで落ち込んできているのです。日本の少子化です。
日本は弱体化してきています。「日本の魂が復活すること」が求められているのです。
ONEの教えは、世界を一つにできる普遍的な原理です。日本のためだけのものではありません。ONEというのは、英語の「一つ」の意味ですが、内容としては極めて日本的です。ブッダや聖徳太子が唱えた「和」に通ずる、東洋的な精神がONEです。欧米の受け売りではありません。
そのことを知ってONEを正しく理解し、日本古来の魂に宿る良さに日本人が気づき、ONEに目覚めることが大事です。それによって日本を明るく元気にすることができます。
日本人がコンプレックスを拭い、本当の自分に目覚め、天の創造主とつながらせていただくこと。それによって本来の自分を取り戻し、自分を発揮できて、世界に貢献できるようになることが必要です。こうして精神的に元気になってくると、少子化ということも解決します。
岸田首相は、自分の中で取って置きの秘策があるように言い始めています。それはそれとして意味はありますが、本当に根源から目覚め、回復することが、少子化の真の解決策です。それがONEの中にはあります。
日本は日本として、まず、奥深いところからの目覚めと立て直しが必要です。それがONEの啓蒙運動です。他と戦うようなあり方ではなく、区別や差別や対立二元論を超えて、それらを癒して、本当に和合し一つとなれるような、互いの違いを理解し、受け入れながら、柔らかな連帯ができるようなあり方です。
まずは、ONEを学んでいるあなた方からです。
「まず、自分を取り戻すこと」。本来の自分の良さに気づき、そこに自分を立ち戻らせることからです。そして「周りの人たちにも、ONEという普遍的な真実を知らせ、ONEの学びと活動を、模範的に行っていくこと」です。
安倍元首相の銃殺から、ある新宗教が問題になりました。こういう時だからこそ、ONEを学ぶ所が、霊的な方面のお手本を示さないといけません。本来はこうあるべきである、と。
その自覚と気概心を持って、前に進んでいきましょう。各自自分の所で、自分にできることを、自分らしくしていくのです。それを周りとの協調で行うことで、相乗効果が得られ、周りにもONEの平和が及んでいくようにしてください。
今年は表面的には穏やかで、人々は癒しのため、楽しみに向かっていきます。そういう中にあって、本当のところを見抜いて、必要なことを着実に行っていくのです。
楽しみ方一つとってみても、正しく天の摂理に沿って楽しむのです。余計に恐れることなく、全ては神のもとで起きることを知って、どういうことでも正しく捉え、適切に応じていってください。
コロナにしても浄化作用です。全て理由と必要性があって、良くなるためのプロセスで起きることばかりです。
これからもさらにONEを学び、ONEの方向で何でも捉え、対処していきましょう。ONEは天国的なあり方だからです。
天にある如く、この地上においても平安がありますように。
(ありがとうございました)
リーディング No.17280
質問: 2022年に起きたさまざまな出来事と、その霊的意味、必要な学び、天の意図をお伝えください。ここで、2022年の日本と世界の総括をお願い致します。
ソース:2022年の年頭リーディングにおいて、「今年は大変な年になるであろう」と伝えられました。果たしてその通り、2022年は大変な年になりました。
1月の関東南部を中心とした大雪、トン
ガ王国での火山の噴火に始まり、日本では夏には、東京を中心に連続猛暑の日が続きました。台風にも見舞われました。世界的にも、温暖化の傾向と異常気象は続いています。これらの大半は天災というより、人災です。
社会の大きな事件としては、7月に日本の奈良で安倍元首相が銃殺されたことがありました。
奈良の西大寺において、です。西大寺は聖武天皇が東大寺を建立したことに対して、
その娘の孝謙天皇が西大寺を建立したことから始まっています。
ARIにおいてはすでに3年ほど前に、聖武天皇からその娘の孝謙天皇にかけての奈良時代の、グループ転生が明らかになりました。その前後に、奈良巡礼や国分寺巡礼がなされ、クリスマス会も奈良で開催されました。その翌年には、これらを経て仏教の原点に位置するインドのブッダ周辺のグループ転生も明らかになりました。
こういった一連の仏教系の動きの中で、具体的な前世が明かされたことで、カルマが顕れ出て解消へと向かいました。
これが、ARIというグループから日本の国の動きや皇室の動きにも次第に及び、カルマの洗い出しとして元首相の安倍氏が銃殺されるということで、成就しました。日本と皇室の立て直しのために。
聖武天皇の娘の孝謙天皇は、即位前の名前は「阿倍」と言いました。「アベ」の漢字は異なっていますが、安倍元首相と同じ「アベ」の名前になっています。
安倍元首相自身に、奈良時代の前世が直接あるかどうかはともかくとして、日本の現在の大きな国の動きと、ARIの奈良時代の前世との関連が窺(うかが)えます。西大寺で銃撃されたということで、西大寺を建立した聖武天皇の娘と、名前が一致しているのです。
このように奈良時代のグループ転生がARIにおいて明らかにされたことで、まず、自分たちの周りから順々にカルマが顕れ出て、解消へと向かって周囲に波及していきました。
そして最終的に、これが日本の国の動きとも関連し、最後に元首相が西大寺の前で銃殺されるということで、当時のカルマが成就しました。
大河ドラマは、2022年は鎌倉時代初期の、鎌倉幕府の動きが取り扱われました。鎌倉時代初期の前世は、ARIにとって大きなグループ転生の一つです。
鎌倉時代も仏教が大きく動いた時代で、それが奈良時代とも関連して動きました。
ARIでも奈良クリスマス会に続き、京都クリスマス会が開催され、それから伊勢クリスマス会、今年の出雲クリスマス会へと進んできています。
このように、個人の転生と家族の転生、そしてグループの転生、それらが日本の国の動きとも関連していることが、明らかになりました。
また、安倍元首相が銃殺されたことをきっかけに、統一教会の問題が表面化しました。ずっと以前から問題のあった教団でしたが、それがここに来て再び表面化し、お手入れが加わり、カルマの清算がなされつつあります。
新しい時代を迎えるに当たり、その手前のところで審判が下る。これが物事の順序です。
新しい時代に先立ち、それまでのカルマが顕れ出て清算される。これが大きな規模で起きる時、「最後の審判」と言われます。全く時代が改まって、神の国が実現する手前で起きるのが、「最後の審判」です。
今はまだ、そこまでの大きな時期ではありませんが、一つの節目には当たっています。
日本も令和の時代を迎えて3年ほど経ちました。時代が改まると、その前後にいろいろなことが起きます。令和の元号も奈良時代の万葉集から採られています。
人の輪廻転生においても、この世に生まれてくる時、この世から去っていく時、この誕生と死が輪廻転生の節目です。
あの世からこの世への移行、この世からあの世への移行――こういった生命現象の転換期には、カルマが顕れ出て清算されることが伴います。それで初めて、次のあり方へ移行できます。地上における、集合単位においても、このようなことが起きやすいのです。
2022年がそのような節目と転換期に相当することは、2のゾロ目であるのと、2022年の漢字として「戦」すなわち「戦う」という漢字が選ばれたことにも、象徴的に現れていました。
長期化する新型コロナウイルスとの戦い、ロシアがウクライナに侵攻したこと、またスポーツにおいても北京においてオリンピックとパラリンピックが開催されたこと、サッカーのワールドカップが行われたこと――これらから、2022年は「戦い」という漢字で表されました。
安倍元首相が銃殺されたのにも、正しく戦い的なイメージが出ています。大河ドラマの鎌倉初期にスポットを当てられた「鎌倉殿の13人」も、戦の連続でした。それでもなお、鎌倉幕府が関東に創建された意義は多大でした。
それまでは、西日本に日本の中心が置かれていました。それに対して初めて、関東に拠点が設けられたこと。それが室町時代、戦国時代、江戸時代を経て武家政権の終わりの後、徳川幕府の江戸城と大名屋敷を基盤に、東京の街が造られました。
天皇陛下でさえ、京都の御所から江戸城であった東京の皇居へと、移ってこられたのです。その始まりは鎌倉幕府にありました。
武家政権にしても鎌倉幕府から始まっています。鎌倉幕府がもしなければ、室町幕府や徳川幕府もなかったのです。
徳川幕府がなければ、現在の東京と日本の文明や科学技術や教育もなかった、とさえ言えます。
もし鎌倉幕府が関東に創建されなければ、日本の中心は依然として関西にあったことでしょう。また鎌倉幕府が始まったことで、武家政権とは言え、庶民の文化が興され、それぞれの人が努力し励むことで、日本は鎌倉幕府から始まる武家政権により、一流の国になることができたのです。
もし鎌倉幕府から始まる武家政権が興されていなければ、日本は二流の国になっていたことでしょう。その意味で鎌倉時代の最初の数多くの戦は、問題はあったものの、リスクを伴いながら試行錯誤を経て日本人が目覚め、日本の国を努力して皆で作り上げていく礎石を築いた、と言えます。
その鎌倉幕府に関わった人たちの多くが、あなた方のグループ転生として現代に生まれ変わってきているのです。今度は日本の霊性を土台とした、平和な新しい日本づくりに取り組んでいかねばなりません。そういったことが前世から学べること、前世からのメッセージです。
全ては日頃の積み重ねで出来ています。前世を知って受け入れ、カルマが解けることで、それらが今後の糧(かて)として活かされるのです。
その意味で、「戦」という2022年の漢字の年に、ウクライナ侵攻があり、コロナウイルスとの戦いも続き、大河ドラマは鎌倉時代初期にスポットが当てられた。そのことは象徴的でした。とても偶然とは言えません。時代状況を表しています。
また、そういった戦乱の不安定な世の中であったからこそ、人々は心の安らぎと心の糧(かて)を求め、次々に鎌倉新仏教が興されたのです。庶民の仏教、平易な仏教です。それぞれが単一化された仏教です。念仏に単一化したり、坐禅に単一化したり、法華経の題目に単一化したり、いずれも庶民のための平易で行いやすい仏教が、興されました。
その意味では、戦乱の不安定な世の中であったからこそ、法然を始め親鸞も登場してきたのです。この現代においても、そのようなことが言えます。
それで、このような戦いのご時世であるからこそ、これからの時代に合う本当のスピリチュアルや宗教が求められます。その前に統一教会が清算される必要がありました。
ARIの「ONEの教え」は、最もお手本となる完成され洗練された、全体のための教えであり、根本信仰です。未来の雛型です。
いずれ世界はこのONEに気づき、ONEを取り入れ、ONEになっていくことでしょう。このONEの教えによって世界平和が実現し、神の国が到来します。
「それが、日本から興される意義は多大だ」と言えるでしょう。
「ホワイトブラザーフッド」という天界の地上の基地が、まずアメリカ東海岸のバージニアビーチに設置されました。しかし西洋だけではアンバランスで片手落ちです。
そこで、ケイシーを通して預言がなされました。「ケイシーの後にヨハネ・ペヌエルが出てきて、み業を完成する」と。
そのヨハネ・ペヌエルは、東洋の日本に転生してきました。こうしてあなた方の国、日本に、ホワイトブラザーフッドの基地が設置されたのです。
2022年の大きな出来事としては、2月下旬、ロシアがウクライナに侵攻したことです。これが長期化しています。民主主義対専制主義の相剋が鮮明になっています。
第二次世界大戦以降は、アメリカ合衆国対ソビエト連邦、この2大国の冷戦状態がまずありました。
その後、中近東が世界の火種となり、キリスト教対イスラム、この宗教の対立が鮮明でした。イスラエル人対アラブ人、このような対立の図式とも言えます。今でも、アラブのイスラムの諸国、中近東の国々は、問題を抱えています。アメリカの同時多発テロも、アフガニスタンのタリバンの人たちによる攻撃でした。
アフガニスタン、イラク、イラン、パレスチナ、ヨルダン、こういった国々は今でも問題を抱えています。
しかし、時代は徐々に移り変わっていきます。アメリカが弱ってきています。その一方で中国が台頭してきています。ロシアは自由主義化したものの、前のものを引きずっていて燻(くすぶ)っていました。そのロシアの燻っていたものが表面化してきたのが、ウクライナへの侵攻です。
このように、中近東の問題を抱えていた時代から、今はロシア、中国、それから北朝鮮、こういった専制主義の国がアメリカ合衆国を始めとする民主主義の諸国と拮抗している。こういう図式が浮彫になっています。
日本は民主主義の側の国です。また今は、国家主義がどの国においても強まってきているのが特徴です。
これは表面的に見ると、ARIで説かれているONEに逆行しています。なぜならONEにおいては国際主義であり、国家主義ではないからです。ところが世界の今の動きは、むしろ国家主義が強まりつつあります。
そのような中で日本も、軍事力を強化するという方向に向かい出しました。防衛費を大幅に増額することを、日本の政府は決めたのです。
ウクライナへのロシアの侵攻の影響、また中国の脅威。北朝鮮も気になる動きをしている。そういった中で日本も、自国を守るために防衛費を大幅に増額することを決めました。
これは世界の状況に歩調を合わせるものです。その意味では、時代の動きに合っているものなのですが、これは必ずしも好ましいとは言えません、
それでなくてもコロナ対策で日本は、疲弊してきています。日本だけではありませんが、日本もコロナによって弱体化してきています。少子化によっても弱体化してきています。また物価の高騰もあり、円安の影響も来ています。
こういった中で防衛費を増額するということは、好ましくありません。物質の科学の進歩ばかりを追求し、霊的成長が見られません。ここで日本は日本の特色と、それに基づく固有の役目を自覚し、果たしていかねばなりません。
そもそも物的に防衛を強化したから安全になるとは限らないのです。霊的な法則からすると、霊的なところをまず押さえ、そして心がけと思い方を天的なものにしていく。生活も天的なものにしていく。それが本当の守りになる、実際的なレベルにおいても。
こういった「天の摂理」を人々は知らなすぎます。この普遍原理をONEの教えで出していかねばなりません。
ロシアがウクライナに侵攻したことで、ウクライナは大きな打撃を受けています。これはソビエト連邦が解体し、ロシアとして国が再スタートした。その時の禍根を残していたカルマが、今こういう形で好ましくなく顕れ出ているものです。
ウクライナ情勢の影響は、いろいろと及んできています。小麦やトウモロコシなどの輸出が滞って、市場での国際的な相場も急騰しました。
アメリカ産やカナダ産の不作の影響も手伝って、日本においても小麦粉を利用する麺類やパンなどの値上げが相次ぐようになっています。
また、ロシアが収入源の柱としてきている天然ガス、石油、石炭などのエネルギー資源の輸出を断つ方策を打ち出したことで、エネルギーの需要と供給のバランスが大きく崩れて、それによってもエネルギー資源の価格が高騰しました。
食品は、小麦やトウモロコシばかりでなく、それぞれの食品が値上がりするようになりました。
アメリカは物価の上昇を抑えるため、金利を引き上げました。この影響もあって、ドルに対する日本円の価値が下がり始めています。
円安がどんどん進んで、日本円の価値が下がってきているのです。これも日本の国の弱体化を表しています。特に、経済的な面における日本の弱体化を、円安は表しています。
2022年は、沖縄が日本に復帰して50年を迎えた年でした。まだまだ沖縄には、戦時中からの米軍の施設が残されています。この解決は未(いま)だ見られていません。
中国と日本との関係で、沖縄の尖閣諸島への中国からの圧迫が、以前にも増して増えています。
日本はこのような中で、上手く舵取りをして、平和のお手本を世界に向けて出していかねばなりません。
参議院議員選挙が7月にありました。これは一つの、日本の方向の指標となりました。
日本人には保守的な人たちが多く、自民党の一強の体制のまま来ています。もう少し二極のバランスが取れると、理想的なのですが、自民党一強は日本の体質と日本人の好みを表しています。
2月から3月にかけては、北京においてオリンピックとパラリンピックが開催されました。冬季の大会です。
オリンピックとパラリンピックは、北京において2008年には夏季大会が、2022年には冬季大会が開催されたのです。それだけ中国には、勢いが出ていることを表しています。
しかしそのような中国を束ねるのは、なかなか大変です。習近平氏が専制主義の象徴的な存在として君臨しています。しかし、ゼロコロナ対策を強行に決行した結果、民衆の暴動がありました。
これは新しい中国への兆しとなるかもしれません。すでにリーディングにおいても講話においても、何度か伝えられてきています。「中国において、2回、3回と大きな暴動が起きる。それによって中国は大きく変わり、自由主義化する、また民主主義化する」と。その時期は明らかにされていませんが、このような政府による強圧的なやり方は時代に逆行するし、摂理からしても無理があります。
中国は民衆の暴動を受けて、「ゼロコロナ対策」から「緩和策」へと転換しました。それ自体は世界の流れであり、必要なことではありました。
ところが中国はいろいろまとまっていないことや整備されていないこともあって、今度は急激にコロナが蔓延し始めています。それに対する対策は、未(いま)だ見つかっていない状況で、医療が逼(ひつ)迫(ぱく)しています。
日本においても緩和策が採られ、経済との両立を優先しているため、人々の動きが激増し、それに伴いコロナも第8波ということで、増え始めている現状です。
ここで「ONEの教え」が必要になってきます。
・対症療法ではなく根治療法を。
・医療だけに頼るのではなくて、一人ひとりが自己責任で自分を見直し整える。
・天の摂理と、その物質界の顕れである自然の摂理に従った、健康的で無理のない生活を送る。
・自分を整え、活かすことで世のお役に立つ。
・そういったより良いあり方と生き方を各自が心がける。
・まず心の平安と、本当のお清め。そして天を尊び、天に従うあり方。
こういったことの「本当のお清めと正しい方向づけ」、そして「本当に自分を大切にし、労る」。こういったことが相俟(ま)ってこそ、本当にコロナを克服できるのです。
2023年以降、このようなことが求められてこなければなりません。そのためにARIの天的な本来のONEの捉え方と認識、実践が求められてこなければなりません。
まずは、このことに気づいた一人ひとりからです。そして、周りの方たちにもこういったことに気づかせること。このような啓蒙運動が世を清め、救っていくことでしょう。そのことを認識し、改めて取り組みましょう。
(ありがとうございました)
リーディング No.17236
質問: 科学と霊的世界の関連性について、ONEの観点からご教示ください。
ソース: 太古の時代、科学と宗教は一つでした。ONEの体系だけがありました。そのようなあり方が長く続きました。
それがイタリアを中心とするルネッサンス以降、自然科学が作られました。特にイギリスで蒸気機関車が造られ、鉄道が走るようになってから、顕著になりました。それからは、自然科学と宗教が分離させられ、
対立するようになりました。
自然科学ばかりでなく、人文科学、社会科学なども始まり、学問の時代となりました。それらが人類の運命を主導してきました。
欧米では、宗教と言えばキリスト教でした。そのため、『聖書』を基とするキリスト教は疑問視され、危機に見舞われました。
ケプラー、ジョルダーノ・ブルーノ、ガリレオ、ダーウィン、そのほか大勢の科学者や聖職者が、命の危険に晒(さら)されました。
『聖書』に記されていることが正しいのか、それとも科学で明らかにされつつあることが正しいのか、多くの人たちがわからなくなり、自説を唱えることは命がけになりました。
そのような中、次第に自然科学が発展し、それに伴い『聖書』に記されていることが正しくはなかった、と思われるようになりました。
『聖書』を、未(いま)だにそのまま信じて、神さまを信仰しているのが非科学的で時代遅れだ、と見なされるようになっていきました。
そのような認識は、日本にも押し寄せました。明治維新の時期、それから太平洋戦争に敗戦した時が、特に宗教の危機でした。
しかし実際には、「科学か、宗教か」ではないのです。科学も宗教も、どちらも正しいのです。その両者の関連性を見ていくことが、大事です。
冒頭で、次のように述べられました。「太古の時代には、宗教と科学が一つであった」と。「それがONEのあり方である」と。
太古の昔に科学がなかったのではありません。今の科学とは異なった科学があったのです。
そのような科学は、霊的な世界をも含めていた科学であり、そのため矛盾がなく、宗教と科学が一つであり得たのです。これからの時代、求められるのはそのような統合的なあり方です。
これは、ただの「太古のあり方の復興」ということではありません。これからの時代に合った形での「統合されたONE」が、求められてくるのです。ARIで取り組まれているONEには、そのような側面と役目もあります。
もし太古の昔に科学が全くなく、宗教だけがあったとしたら、エジプトの大ピラミッドもイスラエルのエルサレム神殿も、建造できなかったはずです。
そのほか世界中至る所に、ナスカの地上絵やイギリスのストーンヘンジ、太平洋諸島にはモアイ像など、数え上げればきりがないほど、多くの建造物が見られます。それらは現代の科学技術以前にも、別の科学技術があったことを示しているのです。
現代の科学技術が、科学の全てではありません。むしろ現代の科学技術には限界と問題があり、万能ではありません。そういう科学技術を絶対化して、〝科学教〟という宗教に陥るのは、好ましくありません。
しかし現代人の多くが、本当の神であられる存在を信仰する代わりに、科学を信じている〝科学教〟の信者になってしまっているのです。
人間は何かを信じ、そこに価値を置き、それをより所として生きています。実は、無神論者は誰もいないのです。「本当の神」の代わりに、愛情により所を見出しているとか、科学を元に生きているとか、になっているだけです。
宗教の中でも、自分がより所を見出している霊的存在の違いによって、さまざまな宗教があるのです。
それらの宗教以外にも、人は宗教に所属していなくても、何かに価値を置き、それを指針にして生きているのが人間です。
欲望の虜になっている人は欲望教の信者です。感情に振り回されて生きている人は、感情を神さまの代わりにより所として生きている信者です。
このことに気づいて、霊的な存在をより所として生きること。さらには、それらの霊的存在の中でも、根本におられる宇宙創造神さまをより所として信仰すること。それが「ONEという根本信仰」です。
そうするとほかの霊的存在にしても、唯物的な科学にしても、全部生きてきます。それらを否定したり排除する必要はありません。全てのいちばんの元を押さえれば、全部が真に生きてくるのです。それが「ONEという根本信仰」です。
他と相容れず他と戦っているものは、自分のものが相対的であることを自ら表してしまっているのです。
あらゆる存在と働きの元に立ち返って、そこに立脚することで、他を否定したり排除したり、他と戦ったりせずに済むようになります。むしろ、どんな霊的存在も、また学問や科学も、その元で真に生きてくるようにできるのです。
こうなってくると、宗教と科学は対立しなくなります。実は、現代の唯物的科学の元に宗教の真理があるのです。全く対立していません。宗教と科学は別ではありません。並列というより、縦の因果関係にあります。
太古の昔の宗教と科学が一つであり得たのは、今述べたようなことにある程度気づいて、そのような体系にしていたからです。
一緒くたにするのがONEということではありません。「それぞれの担当を持ちながら相互に理解し合い、連携を図る」ということが良いのです。
政治は、政治の分野の人たちに任せる。
科学は、科学の分野の人たちに任せる。
霊的な世界は、宗教やスピリチュアルの人に任せる。
教育は、教育の分野の人に任せる。
芸術は、芸術の分野の人に任せる。
経済活動は、経営やビジネスの分野の人に任せる。
それでいてONEという根本真理の下、相互に理解し、必要なところでは連携を図って行う。これがONEの曼陀羅世界です。
宗教と政治が一つになるのが、求められているのではありません。やはり分けておいたほうが良いのです。宗教と科学も同様です。
分けて、それぞれが担当するし引き受けるのですが、でもどこかで関連し、大きくは一つの体系にあることを認識して取り組む――それが「ONE」という未来のあり方です。
コロナが蔓(まん)延してから、次のようなことをしばしば耳にするようになっています。 「昔の人たちは疫病が流(は)行(や)ると、〝鬼の仕業だ〟とか〝悪霊の祟(たた)りだ〟とかと見なした。それでご祈(き)祷(とう)したり、悪霊祓(ばら)いをしたり、宗教的なお清めをした。
しかし今は科学の時代であり、科学によってコロナの原因はウイルスによることが判明している。そのため科学的な対応ができて、ワクチンを接種したり、消毒や殺菌をしたり、マスクを着用したりして、ちゃんと対応できている。
何も〝鬼の仕業だ〟とか〝悪霊の祟りだ〟とかと見なして恐れ、ご祈祷したり宗教的なお清めなどをする必要はない。もっと科学的に説明でき、科学的に対処できるようになった」と。
これが現代人の見なし方です。
しかし、このような見なし方は半分正しく、半分間違っています。
現代の科学は、唯物的であるところに特徴があります。それは、科学の元になる方法論が、物的次元や肉体次元しか対象にできないからです。
そのため現代の科学で解明できるのは、物的・表面的レベルのみです。
確かに物的次元においては、コロナの原因はウイルスにあります。そのことに違いはありません。
そこで、ウイルスに対抗するようなワクチンの接種やマスクの着用、手洗いやうがい、あるいは3密の回避、空気の換気などが勧められています。それらは確かに本当のことであり、効果もある程度上がり、必要な対策ではあります。
しかし、もともと現代の科学や、その一部の医療は、物的次元や肉体次元しか見ていません。物的次元の原因のみ解明し、物的・肉体的次元に対してのみ、対処しているのです。そのため、なかなかコロナが収束しないのです。
人間にしても、人間の周囲の世界にしても、物的・肉体的次元ばかりではないのです。心や精神があります。さらに気があります。そして魂や、魂に対応する霊的存在とその働きがあります。そして、それらのいちばんの元には神がおられます。
それらの奥深い次元は、現代の科学では全く扱えておらず、考慮されていません。そのため、科学で解明して対応していることは正しく、ある程度効果もあるのですが、それが全てを尽くしているのではないので、限界があるのです。それで、コロナが収束していないのです。
現代の科学の一部である医療が解明し行っていることは正しく、効果もある程度あるのですが、それが全てだということではないのです。
昔から言われている宗教的・霊的なことや、そこで行われていることにも、一理あるのです。
「鬼や悪霊の仕業なのか、それともウイルスの仕業なのか。どっちなのか」。このように「どっちなのか」ということ自体、本当のことがわかっていない証拠です。
物的次元や肉体次元だけでなく、精神や心、さらに魂や霊、それから霊的存在や神々もあるのですから、それらも見ていかねばなりません。
そういった奥深いところまで見て、奧深いところまで考慮して対応してこそ、真の解決につながります。
「昔の人は全く愚かだった」のではありません。昔ながらの霊的な対応が、現代の科学で完全に否定され、全く無意味になったのではありません。
実は、霊的世界で言われて行われていることも、現代の科学で言われ行われていることも、どっちも正しく、どっちも必要で効果があるのです。
現代の科学だけを信じてそれ以外を認めない人は、あまり賢いとは言えません。日本の科学者は、外国人の科学者と較べると、神さまを信じていない人が多いです。それが賢く、理性的で、カッコいいと思っているのです。
昔の人たちは、疫病などが流行った時に、表面のウイルス的な存在の奧に、精神的原因や霊的原因を見ていたのです。それを象徴的に〝鬼〟として捉えたのです。また、〝悪霊の仕業〟と捉えたのです。
現代の医療では、衛生上のお清めしか言われません。表面的・肉体的な次元のみの消毒と殺菌です。それでは不十分です。もっと奧の浄化も必要なのです。
多くの場合霊的な次元、それから精神的次元で、いろいろ問題や汚れがあり、また疲労があり、それらが真のコロナの原因となっているのです。それが肉体の表面上にも顕れ出てきます。それがウイルスです。
それゆえ、表面だけを殺菌したり消毒しても限界があります。奧からにじみ出てきて、それがウイルスの形をとって物的に現れてきているからです。
あるいは内面が弱っていたり、正しくなかったり、穢(けが)れていたりすると、容易に物的なウイルスを呼び込み、それに感染してしまう結果を招きます。
それゆえ、表面だけきれいにしても内面が改まっていなければ、またウイルスを呼び込んだり、ウイルスを生み出すようになります。
コロナウイルスは象徴的な物的顕れに過ぎません。もっと奧に真の原因や理由や目的があります。そこまで気づいて、奧に対しても対処しなければなりません。
一般に行われている科学の治療法は、対症療法に過ぎません。一方、ONEにおいては、根治療法を勧めているのです。
現実のあらゆる事柄の、いちばんの元におられる天の創造主に目を向けること。そしてよくお祈りして、任せ切ること。そして正しく清らかに生きること。
例えば、次のようにわかりやすく端的にお祈りしてもよいのです。
「どうか神さま、コロナにかからないようにしてください。コロナから守ってください。よろしくお願い申し上げます」
コロナにかかってしまった人の場合は、「コロナから学ぶべきレッスンを学んで成長を遂げますように。どうぞお導きください。コロナから教訓を学んで改善し、成長できますように。コロナにかかった意図が遂げられ、その結果コロナから解放され、治りますように。ご助力ご支援ください」
神さまにお祈りしてお任せすると、それだけで守られ、いちばんの防止策になります。
そして霊的次元でのお清め、それから心の次元のお清めが必要です。
心の次元のお清めというのは、
・心がけを良くすること。
・否定的な好ましくない想念をできるだけ湧き立たせないこと。
・肯定的で良い想念を抱き、積極的な心の良い状態を作り出すこと。そして罪を犯さないこと。
・正しい生き方や考え方や言葉や生き方にすること。
「置かれた所で自分がするべき事やすると良いことを、周りを思いやってより良く行うこと」「自然に感謝し、自然と共存し、慎ましく清く正しく生活すること」「自然にダメージを与えることを極力減らすこと」。こうすると自然が守ってくれます。
人体内の免疫力をチャクラを通して高めるとともに、自然を活性化することで自然を通しても、人間が守られます。自然の側からも免疫力がくるからです。
今は肝心のその自然が、人間を守ってくれなくなりました。そのためコロナが蔓(まん)延しています。自然が守ってくれなくなっているのです。人間が自然にダメージを与えてきた結果です。また、人口が増え続けていることが原因です。
地球自体が密になっています。世界人口が80億人に達したところです。こういう環境ですので、なかなかコロナが収束しないのです。
人類がコロナから学ぶべきレッスンを学び取り、心がけも生き方も改善し、自然との関わり方もより良くすること。
そして神さまを信じて、神さまを尊敬することです。そして、「天の摂理」と「自然の摂理」に合った考え方と生き方をすることです。規則正しい健全な生活を送ること。食事も含めて。自分がするべきことを通して、周りの助けになっていくこと。
一人ひとりがそのように改まって、天国型になっていくことで、コロナを人類は克服できます。そういうことが全く手つかずなので、なかなか収束しないのです。
現代の唯物科学に基づいた捉え方と対応なので、どうしても限界があるのです。そのことに気づくべきです。
「昔は科学がなかった。昔の人は愚かだった。だから、疫病が流行ったら、〝鬼のせいだ〟とか〝悪霊の祟りだ〟とか見なして恐れ、ご祈祷とかおまじないだけで済ませてた。
現代は違う。科学が発達しウイルスが原因だと、ちゃんと解明している。恐れる必要はない。医療の知識と技術と力で対応できる」
これはある程度当たっていますが、完全には当たっておらず、従ってそれによる対策も不十分です。その結果、コロナからなかなか人類は解放されていないのです。
ここで奥深い次元まで見ていき、奥深い次元にまで対応すること。それが根治療法となり、表面上の科学的な対策と併せて、真に人類はコロナから解放されるのです。
今はわかりやすく、現代の課題であるコロナを具体的に題材にして、宗教と科学との関係と、今後のあり方の方向をONEの観点から示唆しました。
こういったことは、今蔓延している、新型コロナウイルスに限られません。ほかのあらゆることにおいて、宗教と科学の関係と、ONEのあり方の大切さが言えます。そのことに気づきましょう。
科学が発達してきたからといって、「宗教がいらなくなる」とか「宗教で説かれてきていることが全部間違っていた」とか、ということにはなっていないのです。
現代の学問や科学の元に神がおられ、霊的な真理がまずあるということです。水は高きから低きに流れるのです。その逆ではありません。
科学の真理や学問の真理の元に、宗教の真理があるのです。両者は並列の関係ではないのです。神さまや霊的真理のほうが、上位にあります。それから物的世界や物的世界に関連する科学や学問があるのです。
現代の唯物的な科学や学問は、物的事象のみの因果関係を説明し、そこにだけ対応しています。
「事象がどうしてそうなっているのか」という理由や奥深い原因までは、現代の学問や科学では解明できていません。
例えば、地震とか地殻の変動があった場合、物的次元のみの原因や理由だけを解明し、そこにだけ対応します。
なぜそういう地殻変動や地震が起きたかという真の理由や意味や目的、奥深い次元での原因などは、全く解明できていないのです。宇宙の始まりについての天文学も同様です。宇宙の始まりに限らず、星々の存在や働きに対しても、です。一事が万事、このようになっています。
現代の科学の歴史は浅く、その方法にも限界があります。一部の真理だけを解明し、それに対する技術を発達させて使っているばかりです。
実際にはもっと奥深い次元があるのです。奥深い次元のものが表に現れ出てきている。それを扱っているだけです。
そのため本当の理由や原因までは、現代の科学や学問では解明できていないのです。
ONEにおいては起点から始め、奥深い原因や理由から捉えていって、それが表面の物的・肉体的次元にどう関わって顕れ出てきているかまでを捉え、対策します。人間に関しても、人間の周りの環境に対しても。
「霊的世界が正しいのか、現代の学問や科学技術が正しいのか」。このように「どちらか」と見ること自体、違っています。両方正しく、両方必要なのです。
どっちが正しいかを見るのでなく、どっちも正しいことに気づき、両者の関連性を解明し、それぞれと上手に付き合って、全体として生かしていくことが、ONEの道です。
こうして、あなた方に一つの学びと指標が与えられました。コロナ以外のこともこういう感じで見ていって、対応することです。
自分がどういう役目を持っていて、こうして生かされているのか。自分の職業、立ち位置を知って、自分のしていることや生活に、「ONE」という「全体の真理」を当てはめ、仕事をし、また生活をしていきましょう。
ここに、ONEの学びの優れた価値と有用性があります。未来の人類のあり方がONEなのです。ONEは、天国的なあり方だからです。これが万物の新しい理法です。これによって、世界に新秩序がもたらされます。
(ありがとうございました)
リーディング No.17209
質問: どのようにしたら、いつまでも若く美しくいられるのでしょうか。活き活きと、心も身体も元気に生きていける秘訣を、ONEの観点からご教示ください。
ソース: それに対して一言で答えるならば、「ONEのあり方と生き方にすること」です。
自分のあり方と生き方がONEに近づくほどに、若く美しく、活き活きと、心も身体も元気で生きていけます。
地獄的あり方から天国的あり方へと、あらゆる点で自分を移行させていくことです。
そのためにも、一日を天への礼拝からスタートします。
「神さま、いつもありがとうございます。これからも全てにおいて、何とぞよろしくお願い申し上げます。全てが神さまのお心の通りになってまいりますように」
このように、天の創造主に素直にお伝えして、天に向けて深く頭を下げます。
天に頭を下げるのは、「敬意を表するため」
「感謝の意を表するため」「お委ねするため」です。
こうして自分の全てを、天の創造主と天界に任せ切って、一日をスタートします。後は神さまを信じて安心し、落ち着いて、置かれた所で周りを思いやり、目の前のことに一つひとつ、順序立って適切に応じていくばかりです。
こうすれば人生がちゃんと回っていき、滞りなく全てカルマも役目も果たされて、天寿を全うし、大往生を遂げて、自分が還るべき霊界へと還っていけます。そのように神さまのお計らいにより出来ています。
日頃も「天を敬い、天に従う」心がけで、置かれた所で現状に満足し、「天の摂理」とその顕れである「自然の摂理」に調和して、生かされて生きていくことです。
肉体は自然の一部です。それゆえ、自然の摂理に従って生活すると、肉体の調子が良いです。
心や頭やそれらの元にある魂は、天の摂理に従って、生かされて生きるようにすることです。
このようにすると、自分の全てが天の創造主と天界に合致してきます。ONEの生命状態になる。その徴として、心も身体も健康で、活き活き元気でいられる、というようになります。
「自然の摂理に従って生きる」というのは、「太陽に合わせて生きる」ということです。自然界の中心は太陽だからです。「早寝早起き」です。
その上で、自分のその時の生活状況や年齢や体質に合わせた生活リズムにする、ということになります。
また、天界の摂理とその物質界の顕れである自然の摂理に従って生きていると、自(おの)ずと、太陽の運行に合った明るく健全な生活の仕方になります。
夏は、午前4時頃にひとりでに目が覚めます。冬は、午前6時から6時半ぐらいに、ひとりでに目が覚めます。夜は、10時前後にひとりでに眠くなり、床に就きたくなって、割とすっと眠りに入っていきます。
不眠症とか、浅い睡眠とかにはなりません。それが自然の摂理に適って生きている徴です。心も体も明るく健全に、健康的に生きるからです。自然の一部として。
適度の日光浴と、ウォーキングを心がけましょう。自分に合ったアドリブ体操を行いましょう。
しかし、体操や運動より、ウォーキングや自然な労働が基本です。そして自然を愛し、自然に親しみ、自然と共存し、自然と調和する生き方を心がけることです。
食事は、昔から「腹八分目が良い」と言われます。そのとおりです。食べ過ぎとか、食べなさすぎは不自然で、好ましくありません。特別な断食の時以外は、腹六分目から七分目くらいの食事の分量が最適です。
気持ちよくおいしく、感謝して、楽しく食事してください。その時の自分に合った食事をしてください。感謝して、楽しみながら味わって、しみじみと食事すると、体にも心にも染みます。
食事や飲み物は、単なる物質ではありません。何を食べるかばかりでなく、食べる際の心がけが大事です。また、基本的に出された物を選り好みせずに、何でも感謝して、おいしくいただくことです。
おいしい物をおいしくいただくのは、当たり前です。それ以上に大切なことは、「どんなものでもおいしくいただく」ということです。それで人間的に成長します。体にも効きます。
精神的に充実し、満たされていれば、また安定していれば、それほど多く食べたいとは思いません。
「若返りの秘法」が、神秘主義には伝えられています。太古の叡智の中に。それはチャクラを活性化することです。なぜならチャクラは、生命力の中枢だからです。クンダリニーも生命力の根源として大事です。
チャクラが活性化すれば、心も身体も活き活きし、元気になります。特に、7つのチャクラの中でも、第6のアジナー・チャクラが若さや健康と深く関連しています。肉体上では松果体、あるいは松果腺です。
そのアジナー・チャクラを活性化すると、若返りのホルモンが多数分泌され、身体も心も蘇生へと向かいます。アジナー・チャクラの開発や活性法は、ULCコースなどで伝授されつつあります。
また、第7のサハスラーラ・チャクラも重要です。肉体上では脳下垂体です。体中の内分泌腺とホルモンを統括しています。丹田のスワディスターナも、元気の元です。
イエス・キリストが死から復活できたのは、神さまのお力を頂いて体内のチャクラが働いたことによります。復活する目的と役割もありました。それで復活を遂げられたのです。「大ピラミッドの秘伝」です。実際、主は16歳の時、エジプトに赴き、大ピラミッドの秘伝を伝授されました。
「天の創造主、天界、イエス・キリスト」につながらせていただくこと。それによって身体も心も活性化し、健康になり、美しくなり、若返ります。あらゆる生命の源は天の創造主、天界と、甦られたイエス・キリストにあるからです。
それゆえ病気を克服し、さらに若返りたいなら、また美しくなりたいなら、イエス・キリストとつながらせていただくことです。
なお、日本人には、日本の霊統に従って、それに準じたご縁と道を、神さまが用意してくださっています。特に、天照大御神様です。日本に顕れ出たイエス・キリストの実体です。
また、仏教系では特に、阿弥陀仏です。「阿弥陀」とは、「光と命」の意味です。実際、阿弥陀仏と関わらせていただいた法然は80歳、親鸞は90歳まで生きました。鎌倉時代初期としては、驚異的な長寿です。
そのほか自分の霊統に合わせた、神々や仏方とつながらせていただくことで、寿命を授かり、病気も治ります。仏教では薬師如来が知られています。
体に摂ると良い物としては、特に、ロイヤルゼリー、プロポリス、蜂蜜、酵素などが若返りに効きます。
美容のためには、タンパク質とミネラルとビタミンを、それぞれバランス良く適量摂ることです。
タンパク質との関連で、アミノ酸も助けになります。ミネラルの中では特に、鉄分が美容のためになります。ビタミンの中では特に、ビタミンCが美容のためになります。
ただしバランスが必要ですので、他のミネラルやビタミンもバランス良く補給してください。
タンパク質は欠かせません。特に、大豆から摂るのが理想的です。動物性タンパクなら、鶏肉、牛肉、ラム肉などがお薦めです。一方、揚げ物などは控え目にしましょう。
大豆そのもので摂るのが基本ですが、豆乳や豆腐から摂っても良いです。特に豆乳の中でも、おからまで含めた丸ごと豆乳がお薦めです。
動物性タンパクを、先ほど肉類としてあげましたが、一番手は魚介類です。季節の魚介類を摂りましょう。特に、鰯(いわし)や鯖(さば)や鮭は、美容や健康に良いです。
お酢も良いです。
オイル類では、オリーブオイルや紅花油、ココナッツオイル、ごま油などがお薦めです。
ナッツ類もそれぞれ良いです。
季節の野菜や根菜類を、十分摂取してください。高麗人参などは、特に効き目があります。野菜を総合的に摂取するため、青汁で補充するのも良いです。
野菜の中では、ニンニクが特に効き目があります。
炭水化物としては、胚芽類を含んだ物が理想的です。特に、酵素玄米と発芽玄米が良いです。
発酵食品も良いです。味噌、納豆、ヨーグルトなどです。
また、ブラックコーヒーやブラックチョコレートなども良いです。
アルコール類は基本的に控えたほうが良いのですが、中では赤ワインが良いです。
全般的に見て、日本は食事で恵まれています。和食は、全般的に見て良いものです。さらに、日本人の体質を考慮するならなおのこと、日本人には和食が合っています。
考え方や生き方は、欧米の影響を受けて数十年で変わりましたが、肉体の体質は先祖以来の遺伝で決まっているのです。この2百年ほどで日本人の内面性は大きく欧米化しましたが、肉体は未(いま)だに、先祖以来の体質からそう変わっていません。その意味でやはり、日本人には和食が体に合っているのです。
フルーツやレーズンなども良いです。
あまりに熱い物や冷たい物は、控えたほうが良いです。夕食と翌日の朝食の間隔を12時間以上、空けてください。
機械的・形式的に食べるのではなく、先ほど述べられたように、おいしく感謝して、楽しくいただくことが大事です。
そして、より良い生活習慣を持って、規則正しく無理のない、心も体も健康的な生活をすることです。呼吸は、ゆったりとした丹田呼吸にすること。
心の状態は重要です。そもそも、病気になるか健康になるかの分かれ目は、1点目に、心の状態の影響が大きいのです。
2点目が、食事の内容です。
3点目が、ライフスタイルや生活習慣です。
そういうことですので、体や心のために心の状態を良くすることが、いちばん重要です。
安堵感、充足感、感謝、喜び、温和、それを表す心身のリラックス、自然体、信頼。そういった天国的で肯定的な心の状態が、いちばん美容と健康のためになるのです。天国的な心のあり方にすることです。
この心の状態がいちばん、体や心に影響を及ぼし、それがそのまま反映してきます。チャクラを介在して。
それから、有意義な生活を送ること。周りに良い影響を積極的に及ぼし、好ましくない影響は極力及ぼさないことです。
悪業を控え、善業を進んでなすこと。周りに「希望、理解、喜び、平安」を与えること。これが有意義な生き方です。
置かれた状況で、できるだけ自分を見直し整え、良い影響を周囲に及ぼす。よろしくない影響は極力及ぼさない。
自分がその時することを通して、周りの助けになり、喜びと平安と希望をもたらすこと。自分の頭脳や心や手足などを使って、周りに良い影響を及ぼし、それによって周りの人たちが安心し、助かり、喜び、元気になれるような感化をどんどん及ぼすのです。
このように自分を有意義に使って、周りの助けになる生き方をすることが大事です。そうしている限り病気にならず、生かされ続けます。
周りにとって有用で、居るとよい存在に自分がなること。それによって生かされ、平安と恵みと健康も与えられます。
病気や不調や苦しみは、天の摂理から外れていることへの警告なのです。
運の良し悪しも、その目安です。神さまのお心に適っていると運が良く、神さまのお心に適っていないと運が低下するのです。
また、自分個人の観点で見るならば、自分がおるべき所でするべきことを、自分らしく良い心がけで行い、周りの助けになっていると運が良く、健康で平安なのです。
一方、自分がおるべき所におらず、自分がその時するべきことをせず、あるいはしていても自分らしくせず、周りに良い感化を及ぼしていないと、運が悪く病気がちになり、心も不安定で焦りがちになるのです。
このように健康状態や運・不運、心の状態などに、神さまが徴をもたらし、教育しておられることに気づいてください。
それゆえ昔から、天の摂理に適っていて、自分がするべきことで良いことをして、周りに良い感化を及ぼしている人は、多くの場合病気知らずで、長生きで、病気でというより、老衰や自然死で息を引き取ります。
十分にするべきことをしてから、還ってけるのです。不安や焦りや後悔や悲しみや恨みがなく、「良かった」「ありがたかった」「本望だ」「悔いはない」。そのように満ち足りて、安心と感謝と喜びで息を引き取り、すっと天界へと運び上げられていくのです。
生前から天国的あり方で生きましょう。美容や健康は、その副産物として天から自(おの)ずと与えられます。
「自分がするべきことをして、周りに良い影響を及ぼしているのかどうか」「天の摂理や自然の摂理に適って生きているのかどうか」――それが心の状態を通してチャクラの状態、運・不運などに、徴として顕れ出ます。このように神さまが徴として与え、何が大事で本当かを教えてくださっているのです。
天の創造主と天界に自分をすり合わせ、合致させましょう。そのためにも一日を、天への礼拝とお捧げからスタートするのです。「自分の本当の気持ちに、素直で正直であること」とも言えます。
そうすれば心から安心し、夜もよく熟睡できます。夜十分熟睡するということが、健康と美容の秘訣です。穏やかに、喜びと共に目が覚めます。
また入浴している時も、機械的・形式的に入るのではなく、しみじみと味わい、感謝と平安で心が満たされて、入浴してください。そうすると効き目があります。自分を労り、肉体に感謝し、自己肯定感を持つこと。
夜眠りに入る時は、天界に向かうかのように、天に自分をお捧げして眠りに入ります。そうすると眠っている間、天界に行っています。
こうして、朝目が覚める時には天界から降りてきて肉体に戻る、というような感じで目が覚めます。
生きているうちからこういう眠り方をしていれば、息を引き取る時も、すっと天界へと向います。
なぜなら、「夜眠る時」というのは、「息を引き取る時」に対応しているからです。「眠っている間」は、「霊界にいる時」に対応しています。「朝起きる時」は、「赤ん坊として生まれてくる時」に対応しています。
人が一日一日、昼間は起きて活動し、夜は眠る。このくり返しがあることが、人は輪廻転生して、この世とあの世を行き来していることを示しているのです。
自然の循環も、春・夏・秋・冬があること、それが人生の若い時から中年期、晩年期に相当することで示されています。人の輪廻転生にも対応しています。
「若返りの秘法」は、ギザの大ピラミッドから始まりました。アトランティスの継承としての「大ピラミッドの秘伝」、そしてそれをエジプトからペルシャ、イスラエルを経て、イエス・キリストが成し遂げました。
それは、秘教的キリスト教の中で継承され、近代には特にサン・ジェルマン伯爵がその秘術を会得し、やって見せました。
その太古の叡智が今でも、神秘主義の中には保持されています。
ONEは、その現代版、さらには未来版です。それを、それぞれ自分の今に照らして、応用・活用しましょう。それは目的というより、天の摂理に適ったあり方の結果として与えられる贈りものです。
ちゃんとするべきことを自分らしく、置かれた所で行って、周りに良い感化を及ぼしていれば、自(おの)ずと健康と美容は授かるものだからです。
その上で補助として、ここに述べられたようなことも参考にし、取り入れてみましょう。
心が美しければ、チャクラを通して肉体も美しいのです。一人ひとりの美しさがあります。美しさは一律ではありません。霊体が美しければ、肉体にもそれがチャクラを介在して反映してきます。
そうすれば、それほど衣装とか装飾品、バッグや靴などにこだわらなくても、また化粧やメイクにこだわらなくても、天使や赤子のようにそのままで映えることでしょう。
これがONEの観点から見た美容です。
(ありがとうございました)
リーディング No.17189
質問:占星術は当たるのでしょうか。占星術とリーディングはどんな関連があるのでしょうか。また、占星術と人の運命はどうつながっているのでしょうか。ご教示ください。
ソース:占星術が「当たる」という人もいれば、「当たらない」という人もいます。賛否両論です。では、どちらが正しいのでしょうか。答えは、両者の真ん中にあります。
人は、極端を好みます。また、わかりやすさを好みます。しかも、自分の立場で主観により物事を判断し、言います。
そのため、いろいろに意見が分かれるのです。どの見解も部分的であり、全体真理であるONEに至っていません。
ブッダは両極端を回避し、「中道」と「八正道」を、全てにおいて説き勧めました。「答えは真ん中にある」とは、そのような意味です。
「両者の間」というのは、「どっちつかず」とか「妥協点」という意味ではありません。
「中道」が、どっちつかずの中途半端なものであるわけがないからです。
人は、極端を好みます。極端のほうがわかりやすいし、付きやすいし、やりやすいことによります。しかし、どちらの極端も実情に反し、そのため行ってもうまくいきません。
そうであるからこそ、ブッダは両極端を見据え、真ん中の「中道」を説き勧めたのです。
物事の判断でも行動でも、「中道」によってこそ実情に合い、うまくいき、カルマも役目も着々と果たされて、現実が成り立ちます。
「中道」とは、「適切さ」のことです。全く適っている――それが中道です。
占星術に関しても、このことがそのまま当てはまります。ブッダの説いた「中道」と「八正道」が「ONE」なのです。
占星術にも一つばかりでなく、数多くあります。それらの中には、精度の高いものから低いものまで、いろいろあります。ピンからキリまで、種々雑多なものが占星術にはあるのです。さらに、それを使う術者によっても、精度が変わってきます。
それゆえ、当たる占星術もあれば、当たっていない占星術もあります。術者による以前に、占星術自体に、精度の差があるのです。
そこで、見極めることが必要になってきます。「どの占星術は精度が高く、どの占星術は精度が低いか」を見分けるのです。
また、そればかりでなく、術者は自分との相性や占星術とのご縁を、見ていくべきです。客観的に見ての精度ばかりでなく、術者は、「自分はどの占星術と相性が良く、ご縁と役目があるか」ということも、考慮に入れる必要があります。
また、占星術を受ける側も、占星術とのご縁や相性、術者とのご縁や相性を、考慮に入れるべきです。受ける人の心がけ、準備の出来具合も影響を与えます。
ただ、いちいち占星術や術者を選り分けるというよりも、常日頃から天の創造主に献身し、創造主のお心に適った考え方や生き方をしてさえいれば、自分の中のアンテナが正しく働いてくれて、結局は、その時の自分に合う術者や占星術と出会えます。
起きることや体験することは全て、自分次第だからです。「その時の自分を表す現実の状況と出来事と体験になる」「その時の自分に見合う現実となる」「外界は内界の表れである」――これが法則だからです。
それゆえ、その時のものを受け入れ、活用すること。それ以前に、自分をいつも見直し、整えて生きることです。
「占星術は全部当たっている」というのは極端です。「占星術は全部でたらめで、根拠がない」というのも、違います。占星術には根拠があり、かなり的確です。
ただ、限界はあります。一つの法則を表してはいても、具体的・個別的な一人ひとりを完全に読み取ることは、ほぼ不可能だからです。
占星術は一つの法則を示しています。後は生身の、具体的な一人ひとりの人間をじかに読み取って、相手の方の心を感じ取って、適切に応じることが必要になってきます。それが術者の腕です。
占星術を使って、正しく占星術を読み取ること。さらに、相手の方を直接捉えて、適切に応じさせていただくこと。この2点が必要です。
占星術には数多くあり、ピンからキリまであります。かなり精度の高いものもあれば、ほとんど根拠のない、迷信的なものまであります。
例えば、以前流行った「動物占い」などは、全く荒唐無稽なものというほどではありませんが、面白半分のものです。「血液型占い」も、ある程度の根拠や的確さはあるものの、大雑把なものです。
一方、「紫微斗数」「奇門遁甲」「四柱推命」「算命学」「淵(えん)海(かい)子(し)平(へい)」「六壬(じん)」「七政」「易」「九星」「数秘術」「西洋のホロスコープ」などは、ある程度以上根拠があり、精度も高いものです。
「インド占星術」や「ペルシャ占星術」は、さらに精度が高いです。
「姓名判断」には、多少の根拠はあります。「人相」や「手相」「骨相」なども、多少は意味があります。
「タロット占い」も、術者がよく自分を備え、相手を純粋に思って使えば、的確なものとなります。後は相手の方をしっかり読み取って、適切に内容をお伝えすることです。
日本のカレンダーで、今でも付けられている「仏滅」などの六曜は、ほとんど意味がありません。
方角は、九星や奇門遁甲に基づくものが多く、ある程度は人への影響がありますが、それに支配されるほどのものではありません。厄年や天中殺は確かにありますが、それに振り回されるほどのものではありません。神さまと信仰と心がけと生き方のほうが、上位にあります。
運命のバイオリズムはあります。それも占星術である程度示されています。しかしそれに支配されるのではなく、それを知って参考にしつつ、うまく流れに乗ればよいのです。
例えば、厄年や天中殺にも意味があります。ただし、恐れたり、何でも避けるというのではなく、その間に十分休んだり、これまでのことを振り返ったり、将来に向けて学び、備えをしたり、計画を立てたり、上手に楽しんだりして過ごしましょう。
人間は生命体です。そのため、自然の循環の春・夏・秋・冬のようにバイオリズムがあって、当然なのです。
冬に相当するスランプが、厄年や天中殺に過ぎません。「冬は困る」「冬はないほうがよい」「冬は何もするな」。それはおかしな道理です。
ちゃんと春・夏・秋・冬でバランスを取って、その時に合わせた過ごし方をすることが、本当です。これが、自然の摂理に合わせて生きることです。
夏は、夏の過ごし方があります。冬は、冬の過ごし方があるのです。自然の摂理の元に天の摂理があります。その天の摂理は、神さまのご意志の表れです。
それゆえ実際的には、自然の摂理に合わせて生きれば、神のお心に適い、うまくいくのです。
占星術は、宇宙や自然の流れや社会や人の動きを、法則に基づいて示してくれていいるものです。
人間も宇宙の法則に基づいて輪廻転生し、神に生かされ、育て導かれています。法則に基づいて人は生まれ、生かされています。その法則を、占星術は示してくれているのです。
そこで、占星術に基づいて人の運命を捉え、人の助けとなるのが占星術です。
星が、人の運命を支配しているのではありません。本人のカルマと現在の心がけと生き方、天から授かっている役目と必要な学び、それらが運命の要因です。
カルマと今世の目的に加え、今の自由意思の使い方が運命を決めています。それらのうち、前世からのカルマや今世の目的を、法則を捉える占星術は、ある程度示しています。
それで、占星術を使って、人の運命をある程度読み取ることができます。あとは、術者の腕が影響します。
一方リーディングは、占星術などのツールを介在させずに、直接相手の人の心や運命を捉えて、お伝えします。特に神さまのご意志をお伝えするメッセージが、リーディングの真骨頂です。
このように占星術は、法則を表しているので、占星術を使って人の運命を読み取るツールとして使われます。
占星術を使って相手の人の運命を読み取ろうとする間接的なアプローチが、占星術です。
一方リーディングは、占星術などの媒体を介在させずに、じかに相手の人の心や運命を捉え、それを伝えます。さらに、人間の上位におられる神さまの、その人に対するご意志を伝えます。
このように占星術とリーディングは、人の運命を読み取り、助言したり忠告したりする点では共通していますが、占星術は人の運命を読み取る上で間接的であり、リーディングのほうは直接、相手の人そのものを捉えます。
占星術と運命は、どう関連しているかというと、人の運命は、本人の中にあります。また、神との関わりで、神のご意志の表れにもなっているのです。
人は法則に基づいて、神によって生かされ、育て導かれています。その法則を、占星術は捉えることができます。
そのため、人の運命を法則を示す占星術が、ある程度表示しています。
先ほど述べられたように、星が人の運命を支配したり、導いたりしているのではありません。神が人を導いたり、動かしたりしておられるのです。
そして直接には、当人の持っているカルマと、今世の目的、そして自由意思の使い方が運命を左右しています。
如何にも星が導き、運命を支配しているように読み取れますが、本人の持っているものを法則から星が表示しているに過ぎません。
星を操作することで、人の運命は変えられません。星はもともと本人が持っているものを、表示しているだけです。
運命を規定している要因は、本人自身の持っている前世からのカルマと、今世生まれてきた目的と役割、そして今、自由意志をどう使うか。それらが運命を決めます。そして、人間の上位におられる神さまが、最終的にはお決めになります。
そこで、星に支配されるのではなく、まず、運命のいちばん元におられる天の創造主に目を向け、お委ねすること。
そして、自由意思がより良く使えるように、神さまに導かれるように、生かされて生きること。
自分を内省し、自分の傾向を知って、自分の長所が発揮され、短所が癒され、調整されるように心がけること。
「ONEの教え」に基づいて、より良い心がけを作って、現状を大切に現状の中で、自分らしく思いやりの心で、やっていくことです。
カルマが解消するように、神さまによくお祈りしてお委ねし、「中道」と「八正道」を心がけて、現状に応じていくことです。
これが本当の「運命の開拓法」です。礼拝とお祈りと、ONEの教えが運命を開拓するのです。占星術が運営を開拓するのではありません。
開運法は、礼拝、祈り、良い心がけ、ONEの教え、人助けです。
ただ、占星術も運命を読み取る目安にはなるので、うまくツールとして使えば、助けにはなります。占星術をあまりに過大視しないことです。
しかし人間は、法則に基づいて生かされているので、法則を示す占星術は、目安になります。ちょうど、船の羅針盤に相当します。それ以上の意味や価値はありません。ある程度にしてください。
イエス・キリストがお生まれになる時、ゾロアスター系の東方の三博士がベツレヘムの星に導かれて、確かに幼子イエスに辿(たど)り着くことができました。そして幼子イエスに、日本の三種の神器のような3つの贈り物を捧げました。
エッセネ派においては、占星術は研究され、参考にされていました。占星術を過小評価しても過大評価しても、行き過ぎなのです。ちょっと参考にする程度で十分です。そのぐらいのスタンスや関わり方にするのが健全で、主体的に生きられます。
占星術で何もかも読み取れる、ということはありません。一種の統計学に近いものです。ただ、足がかり程度にはなります。
運命の実質は、本人の、生身の人間の持つものによるのです。そして自由意思が与えられているので、全てが決まっているわけではないし、変えられる部分があるのです。
変えられない部分でも、「ONEの教え」によって捉え方をより良く工夫することで、重荷ではなくなり、活かすことができます。
「ONEの教え」においても、占星術はある程度認められ、活かされます。しかし上位には天の創造主と天界、そして本人の生きた命と心と自由意思があります。そこに本当の可能性が秘められています。
エドガー・ケイシーも述べていました。「星や運命よりも、本人の意思の力が最も強力である」と。
その意思が、天の創造主や天界とつながることで本当に運を開拓し、新たに創造していく道が開かれます。それがONEの、運命に対するつき合い方と捉え方です。
確かに、人にはそれぞれある程度運命があります。その運命の正体は、星に支配されているというより、星は示しているだけです。運命は、本人が持っている、前世から携えてきたものと、今世、神さまから授かった役割と目的によります。
あとは、その時その時の、本人の自由意思の使い方次第です。その自由意思が天とつながることで、最大限正しく発揮されて、より良い人生を送れます。
もっとわかりやすく大雑把に言うなら、「人の運命を動かしている要因は、星というよりも本人のカルマ」です。
そうであるからこそ、自分のカルマを自覚し、カルマを解消するのです。カルマを解消するのは、星の力というよりも、星の元におられる生きた神さまとの関わりで、カルマは解消していきます。星占いや星に関する供養、儀礼と言うよりも。星祭り、呪文、グッズ、呪術と言うよりも。
星は運命の象徴的な徴、ではあります。それゆえ、どんな星がホロスコープや東洋の占星術で割り出されても、びっくりしたり恐れたりしないことです。一方、どんな良い星があっても、油断したり精進を怠ったりしないことです。上手に適切に、主体的に、占星術や星とつき合っていってください。
ブッダも親鸞も、星占いなどとあまり関わらないように、人々を教導しました。それはもっと大事で、影響力の大きいことを優先するためです。
多くの人たちは、精神的・霊的なことに興味を持っても、本末転倒に陥っています。まして一般の人たちはなおのこと、そうなっています。
そこで、ブッダや親鸞のように、「何が最重要で本当なのかというのを見定めて、本当に重要なものをより所にしなさい」と、説き勧めたのです。
そういうONEのスタンスがしっかりできれば、占星術にも意味や役目がありますので、活用できます。占星術もやはり天からの、人間のためのツールとして授けられたことは確かだからです。
一般のキリスト教では、星占いなどを否定しすぎています。夢や健康法なども。それもまた極端なのです。「中道」ではありません。ONEは中道なのです。それぞれに意味や役目があります。
そのことを知って、最重要なことから抑えていけば、その中で占星術や健康法や夢や転生や色彩や音楽や宝石なども、有用なものとなることでしょう。
(ありがとうございました)
リーディング No.17156
質問:宗教と芸術・芸能は関係していますか。ONEの観点からご教示ください。
ソース:日本の歴史を見ても、世界の歴史を見ても、実際に宗教と芸術・芸能は関係してきています。歴史が証明しているとおりです。
それは、偶然そうなったのではなく、双方が関係するような共通性、意味や目的があってのことです。
宗教家は、芸術や芸能にも目を向け、宗教活動に芸術を取り込んできました。
一方、芸術や芸能方面においても、全ての人とまでは言えずとも、ある割合の人たちは霊的なことや宗教に着目し、関わりながら、自分の芸術や芸能活動を追求していきました。
例えば、宗教家として芸術や芸能に目を向け、宗教の活動にそれらを取り込んだ人物としては、空海、アッシジのフランチェスコ、ハインリヒ・ゾイゼらがいました。
ほかにも数え上げればきりがないくらい
多くの宗教や霊的方面の人たちが、芸術や芸能にも関心を寄せ、宗教の活動に芸術を導入してきました。
古代エジプトのファラオ・アクナテンも国の宗教が変わったことを、芸術の表現を通して知らしめました。さらに、アクナテンの宗教改革は、芸術と文化改革にもなっていました。その意味でアクナテンは、古代エジプトにルネッサンスを興(おこ)した人です。アマルナ芸術です。聖武天皇の大仏造立と天平芸術も知られています。
一方、芸術家の中にも宗教や霊的方面に関心を寄せ、宗教的・霊的なことを取り込みながら芸術活動や芸能活動を追求してきた人が大勢います。
例えば、画家のラファエルロ、詩人のノヴァーリス、また詩人であり画家でもあったウィリアム・ブレイクなどです。
これも数え上げればきりがないくらい無数の芸術家や芸能方面の人たちが、宗教的・霊的なことにも関心を寄せ、自らの芸術活動のためにも、霊的・宗教的なことを糧(かて)としてきました。
では両者は、どのようなところに接点があるのでしょう。
まず、宗教も芸術・芸能も心に着目しています。その点、世間的・一般的な活動の政治、経済、金融、製造業などとは一線を画します。
もちろん、政治や経済や経営なども追求していけば、人間の営みである以上、人間の心が関わってはいます。しかしそこに焦点を当てるということは、ほとんどしていません。表面的・世間的な動きを主として扱っています。
それに対し宗教と芸術・芸能は、まず人間の内面の心に着目します。心の働きを大切にする点で、宗教と芸術・芸能は一致しています。
さらに心の元にある魂にまで立ち戻って、魂の観点から人間と人間の生命の営みを追求します。
特に、「理想を追求する」という方向で、心の思いや心の働きを表現して形にするというところに、宗教と芸術・芸能の共通点があります。
心、さらには魂に基軸を据えつつ、心の働きを表現して、形にして示す。しかも理想を追求する、現状に甘んじない。
理想を追求していく中で、特に「美」ということや「調和」ということを重んじ、尊びます。芸術的な働きを通して、表現するばかりでなく、心や魂が浄化され、育成されていきます。
現時点の心の思いを表現して、形にするばかりではありません。芸術の営みを通して、芸術を行いながら心が育成され、清まる。そのようなダイナミックな働きに、芸術や芸能がなっています。
芸術的な働きに従事することによって、次第に芸術に従事している当人も、その芸術に触れるほうの人たちも、その芸術活動を通して心が清まり、育成され、癒され、成長し、「理想の美」に向かっていけます。
この点で、宗教の働きや活動と一致しています。そして、理想を追求するということで、「天界」とも関連してきます。
天界は美の極みであり、心の完成したあり方の実現した世界です。それゆえ、「心」ということと「理想」や「完成」ということとが、「天界」ということで出てきます。
「天界」と呼ぼうと「天国」と呼ぼうと、「極楽浄土」「高天原」と呼ぼうと、人間を超えた、しかし人間とつながりのある天界を、地上に表現して人々に示すことで、芸術家自身も癒され、清まり、育成されていく。
そして、その表現された芸術作品によって、多くの人たちも啓蒙され、魂が目覚め、心や肉体が清められていく。
音楽でも、ヒーリング・ミュージックがあります。ニューエイジ・ミュージックと一時言われていた分野があります。
そのジャンルに限らず、音楽ではクラッシックをはじめ、幅広く癒しや清めや慰め、また意識の高揚などに、音楽は働きかけます。
一部のヒーリング・ミュージックやニューエイジ・ミュージックに限られません。音楽はどのジャンルでも、幅広く多くの人たちの心、さらに魂、それから肉体にも働きかけます。
どの表現芸術や人間の営みにも言えるように、霊界の階層に対応するレベルや性質や方面があります。霊界は心の階層です。
音楽でも他の芸術や芸能でも、地獄的なものもあります。破壊するような、また損ねるような芸術や芸能活動です。不調和、虚偽、憎悪、恐怖、悲しみ、怨念、醜の表現。
このように、芸術や芸能にもピンからキリまであるのです。それは行う当人によります。そして、それに見合う人が鑑賞します。
より限りなく天界に近い芸術や芸能は、「調和」と「浄化」と「癒し」が、特徴となっています。上のレベルに行くほど調和的で、ONEに近づきます。生命を表現しています。
このように芸術や芸能活動には、レベルがあります。また、種類や方面もあります。霊界と同じです。
それは宗教的・霊的な活動にも、そのまま言えることです。基本的に宗教や霊的なことは、人間をさらに高め、より良くし、本当のその人を取り戻させる、必要で良き働きです。
ただ、人間が行う以上、いろいろなレベルや種類になることは、当然起きてきます。そのため、宗教や霊的活動にも古代から今に至るまで、ピンからキリまでありました。
例えば、最近よく知られている地獄的な宗教や霊的活動としては、オウム真理教や統一教会が挙(あ)げられます。
人間が行う以上、政治や経済、他の活動と同様、行う人のレベルや性質が表れ出るのです。
「宗教なのに霊的活動なのにどうして?」と、いぶかしがる人たちがいます。それはわかりますが、しかし人間が行うのですから、その人のレベルになります。そしてそれに、その時点で見合う人たちが付きます。
「類は友を呼ぶ」の法則によります。一種の「ご縁」です。似たようなものは似たようなものを引き寄せ、関わり合う。その人たち特有のレベルと種類が、そこで明らかになってきます。
広く見ていけば、その時代状況を表すようなものが世に出てきて、話題になります。良いほうも、問題なほうも。
その時点の、その人たちの内実を表す現実の状況と雰囲気、動きと体験となる。これが法則だからです。
このことに気づいて、自分を見つめ、自分を整え清め、自分をより良いほうに向けていくように心がけることです。「ほかがどうの…」と言うことよりも、何でも自分を見つめる機会とすればよいのです。他山の石です。必ず、その時代特有のものが生じてきます。現実の動きは必ず法則に従っているのです。
時代の象徴として、それぞれの分野のことが生じてきて、話題になったり、問題になったりするのです。またそれによって知られ、元におられる神さまが清算されて、「次の時代に備え導く」ということも行われます。そのことを知って、迷わないように、恐れないように。
個人の狭い範囲においても、世間の広い範囲においても、この同じ法則が働いているのです。
この法則の観点から歴史を見ると、歴史を深く学べます。必ずその時代、その地域固有のものが必然的に出てきていました。
今の人類にも、良いところと問題なところと、それぞれあります。
良いところは、喜びごとや恵みや平安として人々に体験され、知られています。一方、悩ましいことや手間取ること、人々の苦しみや悲しみをもたらすようなことは、その時代の人類の、問題な部分の顕れです。
それによって神さまが、カルマを表し出して果たさせ、間違いに気づかせ、見直しと学びと対処と、カルマの清算の機会として、与えてくださっています。
コロナ・ウイルスにしても、ウクライナ情勢にしても、そのような今の時代を表すような象徴的動きです。
「外界は内界の顕れである」。その時点の本人や本人たちの内実を表すような、現実の動きや雰囲気や状況や体験になるのです。
そういう中にあって、宗教や芸術・芸能は、できるだけ現状の人間を踏まえ、少しでも良くなるように、神が手立てして与えてくださった表現手段です。
宗教にしても、いろいろな芸術や芸能活動にしても、人間の心や命、その元にある魂が、現状から少しずつでも清まり、育成され、正され、理想に近づくように表現を与え、形にしながら互いに共有し、確認し合って、芸術や芸能活動を通して、結局は宗教や霊的な活動が推進されてきています。
日本神道なら、神社の祭りや儀礼や建築様式、また神社の周りの構造や表現に、芸術が使われ、内面が表面化し、物質化されて知らされています。それによって人々が良いものを知り、それに触れ、関わり、助け導かれます。
「理想の美」を追求し、地上に実現させるという点で、天界で実際に行われている祭りや儀礼を、地上で神社の建物や祭り・儀礼などを通して、天界を地上に反映し、降ろし、移植してきています。
日本ならその典型が、伊勢神宮です。古代の世界ならイスラエルの神殿や、エジプトの大ピラミッドです。あるいは、バチカンのローマ・カトリック教会です。
できるだけ天界をヴィジュアルに地上にも反映させ、地上の人たちにも天界を知らせ、体験できるようにすること。それが、宗教における芸術的な使命です。
地上にありながら、まだ地上にはいろいろ問題や課題や苦しみがあり、人間もまだいろいろ課題含みではあるけれども、少しでも聖地を設けて、天界のありようを地上にもたらし、多くの人に知って体験していただくということが、神社やお寺や教会などの役割です。その建物や周りの景観、それから宗教儀礼など。
ただ、地上の神社仏閣や聖地や聖域は、いわば月の光です。一方、天界の光は太陽の光です。
太陽は、自らが光を放っています。一方、月自体は光は放っておらず、太陽の光を間接的に反射させ鈍く輝かせているだけです。
それと同様に、地上のどんな聖地や神社仏閣、儀礼でも、月の光です。
一方、天の創造主と天界は、太陽の光に相当します。生命の実在する、実際の輝きを放っている生きた場です。力があります、癒したり清めたりする。
このことに気づいて、地上の聖地や神社仏閣を、ご縁があれば大切にさせていただき、地上にもできるだけ天界を反映させる努力を怠らないこと。
その場合でも、神そのものの光は天界にあることに気づいて、天界とのつながりを保ち、怠らないこと。そして天界の太陽の光をできるだけ忠実に、より多く、地上に反映させる場や働きとすること。
そのように心がければ、地上の神社仏閣や聖地も生きてきます。それらにも意味と役割があります。
また、聖地やパワースポットや神社仏閣を訪れる人たちも、それぞれの聖地やパワースポットに意味があることを知って、大切にさせていただきつつも、真の生きた実在の霊的太陽の光は天界にあることに気づいて、天界をこそ尊び、天の創造主と天界にこそ自らをお任せしましょう。
その上で、地上の神社仏閣や聖地にも、それ相応の意味と役割と力はありますので、それ相応に尊び、関わらせていただくことで、直接、神社仏閣に従事する人も、また、そこを訪れるほうの人たちも助けられます。
心や命を表現して形にし、多くの人に恩恵をもたらすという点で、より良い芸術や芸能活動は、宗教の使命と一致しています。
また、宗教にもいろいろな程度や種類があることを知って、本当の意味で自分を大切にするために、より良い所に自分を置きましょう。
誰でもその時点の自分の中に、いくつかの要素を、同時に持っています。「その時点の自分」といっても、幅があるのです。
そのことに気づいて、できるだけ現時点の自分として最良の方向づけを取って、今の自分として縁づく可能な、より良い所に、自分を縁づかせてください。
そうすると、より良い所とのご縁で自分が引っ張り上げられ、清められ、育成されていきます。
宗教や芸術方面に従事する人たちも、自らの努力を怠ることなく常に精進し、自浄作用を持ちましょう。常に、自分たちの所がより良い所となって、より多くの人たちにより良い影響を及ぼせるように、いつも努力し続けることです。
宗教や霊的な方面も一種の生き物です。それで油断していると、同じ所でも低下してきたり、濁ってきたりします。
そこで、いつでも自らを清め、精進し続けることです。そういう所は活き活きしていて、良いものが宿り、周りにもたらしています。
地上の自然の中の湧き水のように、宗教的・霊的な方面に関わっている人は、そのことをイメージし、常に努力し続けてください。
それによって自分たちも救われていき、自分たちの活動を通して、より多くの方々に恩恵を与えてもいけます。
この世のいろいろな宗教や霊的な活動は、霊界に「必ず」と言ってよいほど、対応するものがそれぞれあります。「霊界のどのレベルのどの種類の所に根拠がある、地上の宗教的霊的な活動か」ということが、それぞれあるのです。顕界は霊界の反映だから。
それに応じた立場、教えの内容、実際の活動とか雰囲気、起きることとかに自(おの)ずとなっています。そして死後も、そこに行って生前の活動を続けます。
「宗教や霊的なことだから全部がいい」とは限りません。魔的なものも多いです。しかし、表面や常識だけで見てわかるとは限りません。
イエス様でさえ、悪魔呼ばわりされていたり、詐欺師に見られていたのです。
現代の人は驚くかもしれませんが、当時、いちばん悪魔的であり、詐欺師であると見られていたのは、イエス様ご自身だったのです。そのぐらい霊的な真偽を見分けるのは、すぐには困難だということ。
ただ一方、イエス様は次のようなことを、ヒントとしておっしゃってくださっています。
「それがどういう性質の所かは、その実によって見分けることができる」と。「悪い木は悪い実を結び、良い木は良い実を結ぶ。悪い木が良い実を結ぶことはなく、良い木が悪い実を結ぶこともない」。これは「歴史が証明する」ということとも言えます。次第に明らかになっていくのです。
人間が行う以上、霊的なことも芸術・芸能も、完璧というわけにはいきません。それでも大筋として、「本物かどうか」「良い所かどうか」は、自(おの)ずと時が経つうちに、明らかになってくるものです。
このようなことは、芸術や芸能活動についても言えます。「外界は内界の顕れ」です。それぞれの芸術家や芸能関係の人たち、またグループや流派などにおいても、時が経つ中で自(おの)ずと、内実がそのとおり明らかになってきます。
別に、見分けることが大事なのではないのですが、見分けることも自分が関わる上で、ある程度は必要なことです。
また、忘れてならないのは自分を見分けること。自分を知って、自分を清めたり、正したり、癒したりしてあげること。
それによって、自分の使命をより良い形で行っていけます。それが自分の救いになると同時に、自分の活動を通して、より良い影響を周りに及ぼしてやっていけます。そうすれば芸術は、冥利に尽きます。
「芸能」というのは、映画、演劇、歌謡、舞踏、落語など、大衆的娯楽のことです。
「芸術」というのは、文芸、美術、音楽などです。
また「古典芸能」としては、歌舞伎や能楽や狂言をはじめとする伝統芸能です。それらは宗教と密接に関わりながら多くの表現を与えてきて、宗教に奥行きや幅を持たせ、宗教の活動を推進してきています。
心の働きに関係し、特に心の働きを表現し、形にすることで、自らも充実し、より多くの人たちにも、その恩恵に浴するようにさせてあげるところが、宗教と芸術・芸能の共通点です。そして心の「理想の美」と対応する「天界」を地上に反映させるということ。
それゆえ、「ヨハネの黙示録」の最後には、「天界の新しいエルサレムが、地上に静かにゆっくりと降下してくる」というヴィジョンが与えられたのです。これは「天界を地上に反映させる」ということを示しています。それが新しいエルサレムでした。
エルサレムの神殿は、「ソロモンの神殿」「ゼルバベルの神殿」「ヘロデ王の神殿」、この3回建て直されました。ヘロデ王の神殿は、ローマ軍によって壊され、そのまま今日に至っています。
そういう中にあってヨハネは、新しいエルサレムが天界から地上に降りてくるヴィジョンを見せられました。
天界を地上に反映させること。それによって地上に天界が実現する。それが新秩序となること。キリストが言われた「神の国の到来」です。
それには、天界の美を表現することが、地上の物的世界では伴ってくることでしょう。それが芸術と芸能の使命です。芸術家が天界と関わることで、最良の芸術と芸能が行われます。
後はそれを、各自の個性を通して発揮することです。それがより良くなされるためにも、自分を磨き、清め、癒しましょう。行うのは人間なのですから。
このようにして、ONEの世界が地上に実現していくことでしょう。あなたもその担い手の一人になってください。
(ありがとうございました)
リーディング No.17132
質問:人間の意識の働きとその特徴について、ONEの観点からご教示ください。
ソース: 人間が身を置いて認識し、日々行動して生きている範囲の世界があります。人間の観点から見た「世界」です。
しかし実際は、人間が思いも寄らないような世界が、同時にあります。広くはマクロの世界、狭いところではミクロの世界があります。霊の世界もあります。
一般には、マクロの世界が注目されていますが、微細な、極小の世界も見落とせません。それぞれの生き物が、自分の観点で周りを見て認識し、生活を送っています。人間には思いも及ばない、別の認識と生活の仕方です。
神はそういったマクロの世界やミクロの世界にも精通し、しっかり関与し、管理し、司ってくださっています。そのお蔭で、人間の世界ばかりでなく、マクロの世界やミクロの世界も支えられ、成り立っています。人間が生活し、認識している世界が全てだ
と捉えてはなりません。
マクロの世界に焦点を当てて見てみると、「宇宙」ということで一般に知られている世界が広がっています。
一口に「宇宙」といっても、人間の認識がとても及ばないような、広大な、無限に近い世界が広がっています。しかも、そのマクロの世界である宇宙は、物の次元に限られません。
現代において一般に認められている「宇宙」とは、物の次元における宇宙です。しかし、宇宙は物の次元に限られません。心の次元の宇宙があります。さらには霊の次元の宇宙があります。人間や地球との関連における霊的な宇宙を、「霊界」と言うことができます。
このように「宇宙」といっても、「物の次元の宇宙」「心の次元の宇宙」「霊の次元の宇宙」があります。
それに対応するように、人間の中にも「肉体」「心」「霊魂」があります。そのそれぞれに、「意識」があります。肉体に属する意識は「顕在意識」、心に属する意識は「潜在意識」、霊魂に属する意識は「超意識」です。
宇宙のほうも生命の世界であるため、物の次元の宇宙には、顕在意識の世界が広がっています。心の次元の宇宙には、潜在意識の宇宙意識が広がっています。霊的宇宙の世界には、超意識の宇宙が広がっています。
それで人間が目覚め、意識が広がっていくと、人間はいわば「宇宙の子」であるため、自分の意識がそれぞれの宇宙意識と交流し、自分の中に広大な宇宙意識が目覚めます。宇宙は生命に満ち溢れた世界であり、意識の宇宙なのです。
「人間が捉えているのは、物の次元の宇宙だけだ」と言いました。しかも、人間が「これこそ宇宙である」と捉えている宇宙は、太陽系を含む一つの宇宙に過ぎません。別の多くの宇宙があるのです。
そこで、人間が認識している宇宙を「This universe(この宇宙)」と表現することが必要になってきます。実際には別の多くの宇宙があり、それは人間には捉えられていません。
人間は「この宇宙」の中の銀河系、そして銀河系の中の太陽系、太陽系の中の地球に限定されて、物的にも意識の次元でもその制約の中で考え、感じ、行動して生きているのみです。
しかし、祈りや瞑想や献身、利他的・奉仕的・慈善的な生き方をしてきた聖者たちにとっては、肉体や自分の住んでいる物的な地域に制約されずに生きていました。
肉体としては自分が生活している地域に限定されてはいても、心や意識や霊は、そのような制約から解放され、本来の広大で自由な「意識の宇宙」と交流し、自分の中でも意識が拡張し、宇宙意識に目覚めていました。それによって意識の宇宙があることに気づき、それを感じ取りながら、太陽系の中の地球に肉体を置いて、生活していたのです。人間は、そのようにまでなれるものがあります。
そのように徹し、高度に進化して目覚めた存在たちのピークは、キリストやブッダです。そこまで行かなくても、古代の人たちは生きた天体を眺め、現代人より意識が広がり、自然の生きた世界と交流して、生活していました。
現代においては、物的な科学技術を発達させ、人間は肉体を持ってかなり広範囲に、飛行機や新幹線やロケットを使って、行き来できるようになりました。
意識の世界でも、インターネットの世界が開拓され、最近ではメタバースなども開発されるようになりました。
しかし実はまだまだ、現代の科学技術による人間の働きは極限られており、遅れているのです。
むしろ古代の人たちのほうが、肉体の制約はあっても、心や魂の世界はずっと開かれていて自由で、「意識の宇宙」を認識し、感じ取り、それが生活や心の状態にも反映していました。
現代は進んでいるといっても、ロケットや宇宙衛星を飛ばして、せいぜい地球から月、火星、一部の衛星などに物的に到達しているのみです。
インターネットの世界は、意識の世界と結びついてはいるものの、バーチャルが多いし、バーチャルでない部分にしても、まだまだ極限られているのです。
それに対して古代の人たちは、広がりがあるばかりでなく、意識の実在の世界、バーチャルではない、実際の生きた意識の世界や霊的存在を捉え、それらと実際に関わり、それが自分や生活にも反映していました。
今ではそういう人は減ってきています。しかし、全くいなくなってしまったのではありません。
一般大衆は、物の世界とインターネットなどの意識の、しかもバーチャルな世界に向かっています。「それが全てだ」と思い込んでおり、自分たちを「進んでいる」と捉えています。
ある部分では確かに進んできてはいますが、限定されているし、問題も多いです。もっと本来のところに気づいて、もっと本質的なことを大事にするべきです。人間にはもっと別のアプローチがあり得るし、そこにこそ価値と可能性があります。
そういったことに気づかせ、そこを開拓していくことで、現代の方向性や風潮を正し、バランス化させることが必要になってきています。それを行っているのが、ARIのONEの活動です。
目に見えない世界には、バーチャルと実在の世界、その両方があることさえ一般には知られていません。
例えば、映画やアニメやマンガなどで表現されている世界の多くは、バーチャルです。メタバースの世界も、典型的にバーチャルです。仮想空間です。
「バーチャルの全ては意味がない」とまでは言いませんが、架空の、実際にはない世界を造り上げています。
ほとんどの人は、「インターネットや意識の世界はイマジネーション、空想などの、実際にはないバーチャルである」と思ってしまっています。しかし実際は、心の世界や霊的な世界にも実在があるのです。
瞑想や芸術や芸能などにおいて、確かにイマジネーションの世界も深く関わってはいます。しかしそこに留まらず、想像や空想を呼び水として、本当の、目に見えない生きた実在の世界に導かれていくことが可能です。昔から神秘体験や神体験、霊体験として知られていることです。
目に見えない世界は、物的な科学では証明しにくく、空想の産物なのか、それとも真の霊的実在なのか、判別をつけるのが難しいという課題はあります。
しかし、「全く手がつけられない」ということではありません。こういった意識の科学を推し進めていくことが、今後求められていきます。ARIは、そのために創設された面もあるのです。
今は、外へ外へと物的に、物的な科学技術を駆使して、挑戦しつつある時代です。
日本でも、物的にリュウグウから貴重な土や砂を持ち帰ることができました。それは、物的な科学の成果です。そういったことにももちろん、意味や価値があるのですが、しかし、それが宇宙解明の全てではないことに気づくべきです。
その一方には、意識の宇宙が広がっている。インターネットやメタバースもいいけれども、瞑想や祈りや夢の探求などを通して、意識の宇宙を開拓し、冒険し、解明し、活用する道が未だ残されている。
意識の宇宙への冒険と挑戦――ARIは、こういった意識の世界を開拓する目的で創設された面もあります。
それで、ARIの前のIANAの時は、アメリカのNASAに対する、意識の宇宙の解明と活用を目的として、NASAに似せてIANAと命名されました。ロゴマークも、アメリカのNASAを参考にさせていただきました。
それは改名された現在のARIにおいても、ロゴマークに使用されている字体が、NASAと同一であることに引き継がれています。
物的な天文学や宇宙工学も結構ですが、宇宙自体が物の次元に留まらず、心の次元の宇宙、霊の次元の宇宙まであるのです。
しかも、優先順位として、実は、まず霊的な宇宙があり、それから心の宇宙、そして最後に物的な宇宙が造られたのです。造られた後でも、まず霊的な宇宙で重要なことが起き、それが心の宇宙、それから初めて物の宇宙に投影してくるのです。
本当の意味での最先端であり重要なのは、霊的な宇宙を解明し、開拓し、活用することにあることが、これによって明らかとなりました。
『聖書』は最初の五書は、「モーセの五書」と言われます。モーセが書いたと見なされているからです。
しかし実際は、モーセの後継者のヨシュアが書きました。このヨシュアこそ、後のキリストです。
「モーセの五書」の最初は、「創世記」です。そのヨシュアが書いたという「創世記」を見ると、「神はまず『光あれ』と言われた。すると光が生じた」と記されています。
これは「神は霊的な宇宙を最初に創った」ということ。もう少しわかりやすく言うと、「霊界を創った」、あるいは「天の世界を創った」ということ。それから物的な宇宙も、霊的な宇宙を元に造られたのです。「創世記」には象徴的な表現で、真実をちゃんと伝えてきているのです。
現代においては、物的な世界とそれに対応する人間の肉体ばかりが重んじられています。一方、霊的な世界や心、それから霊的な宇宙などは、ほとんど無視され、嘲笑の的にさえなっています。これは本末転倒であり、本来のあり方ではありません。これを正し、正位置に戻すのもARIの役目です。
スウェーデンボルグは、今からおよそ3百年前の人でしたが、当時の最先端の物質科学を学び、それに精通しました。しかしそれに飽き足らず、霊的な宇宙の冒険に向かっていきました。それだけ「先見の明があった」ということです。
本当にもののわかる人ならば、物の世界は限定的であり、実はまず霊的な世界があり、それこそが重要であることに気づきます。
そして霊的な世界や神秘の世界に向かいます。ニュートンもそのようなことに気づいていました。本当の天才でしょう。
霊的な世界を重んじ、そこをまずきちんとさせる。それによって初めて、物や肉体も活かされ、良くなっていく。物的な世界や実際の現実を良くするためにも霊的な世界をまず探求し、解明し、良くしていくことが不可欠です。
これが本当なのです。でも、今の常識にはなっていません。ここで語られたことを次の常識にするため、ARIが日本に創設されました。
少しずつでも、こういうことがわかる人が出てきて、意識の宇宙を探求し、自分の中に宇宙意識が目覚めることが、願われています。
ARIの目的は、大別して2つあります。
1つめは、「一人ひとりの生命の進化」です。「教育と啓蒙」です。「修行」と言ってもよいかもしれません。これからの時代向きの修行のことです。
もう1つの目的は、「目に見えない世界を研究し、解明すること」です。
日本のARIと、大きくは同じ系統であるアメリカのAREも、この2つの目的を担って創設された所です。それはAREの名称にも表れています。「研究と啓蒙の協会」――AREとは、そのような意味だからです。
日本のARIの場合も、「研究と啓蒙」、この2つの目的があるのです。
ARIとの関わりで、啓蒙や癒し、自分の目覚めや自分が良くなること、そして世の中に貢献する意義深い人生を送ること。この啓蒙のほうの目的が主になっています。
確かにそれは大事です。ただそればかりでなく、ARIには「研究」の面の目的もあります。それで、「浅野総合研究所」という名称になっているのです。
ARIが「研究所」というのは、単なる名称ではなく、その名称のとおりの所だからです。しかも「総合」とついていますので、あらゆるジャンルに関係しています。
ARIが創立されて40年近くになります。しかし、まだまだこれからの所です。一般の人々の認識も、まだまだ付いて来れていません。時代がまだ、そこまで来ていないからです。それでも、少しずつそれがわかり、それにやり甲斐(がい)や使命を見出す人たちが、出てくることでしょう。
神秘体験や霊体験は重要です。そのような体験の中にも、空想や想像的なバーチャルが、介在している場合もあります。また、象徴的な形で、真実が表れている場合もあります。
夜見る夢はその典型です。文字どおりの意味では違っていても、象徴的に読み解けば、真実を表していることは多いのです。あるいは、真実でない場合でも、本人の心の中でのイメージや認識として、そのように捉えているなら、それはそれで意味があり、考慮されるべきです。本人がそのように捉えているのなら。そして、その影響をしっかり本人も受けているのです。
人間の意識の働きでは、イメージや実感やニュアンスの影響が大きいです。そういったことを知って、戦略的に用いるのが広告です。それが芸術的な表現を用いた場合、広告デザインとして一般に行われています。人間の意識に働きかける効果があるのです。
人間はそういったイメージで影響を受け、動かされている部分が多分にあります。会社の社標やロゴマークなどのイメージは、大きな意味をなし、影響力があります。また、国名や国旗などにも意味や影響力があります。人間の場合なら、名前や姿形、雰囲気などに、周りへの影響があります。
このように見てくると、現在知らず知らず行われていることの中にも、目に見えない世界のあること、そしてその影響がすでにあることがわかります。それをもっと掘り下げ、追求し、良いほうに活用していくことで、新境地を開いていくことができるのです。
現代においては、インターネットやメタバースの世界を開拓し、それを駆使しようとしています。AIもその一種です。
しかし、昔から神秘主義で行われてきているのは、瞑想や宗教儀礼、イニシエーション、また自分が見ている夢に取り組むこと、あるいは預言などでした。それがより正しく、より良く行われるよう、自らの体と心を清め、天の摂理に合った生き方をしてきました。そういった中で一大成果として、イエス・キリストが出現できたのです。
神秘主義の最大の成果、それはイエス・キリストの出現です。また、そういった秘儀の場として、ギザの大ピラミッドが建造されました。
日本では今でも、聖地が何か所かにあり、儀礼が執り行われ、伝統は続いています。そういったことに注目し、解明し、さらに活用していくことで、今後の世界に良いものをもたらしていけます。
聖徳太子は夢を活用していました。それで、聖徳太子が過ごした所は「夢殿」と名づけられ、今日まで大切に残されています。
聖徳太子はいろいろな所に飛んでいって、神秘的な体験をしたことが伝えられています。現代の学問や科学では、唯物的であるため、それを荒唐無稽なことや誇張として、正しく理解、紹介していません。
実際は、人間には肉体のほかに霊体があり、物的宇宙だけでなく意識の宇宙がある。それならば、聖徳太子が霊体で飛行し、いろいろな所に赴いて、霊体験をしたとしても、おかしくはありません。太子の伝説は単なる誇張や文芸的な表現ではないのです。まして、意図的に捏造したものでは、さらさらありません。
目に見えない世界の中にも、空想や願望、恐れ、思い込みのバーチャルも、確かに混じり込んではいるのですが、それらの霊的な意味も理解しながら、真の実在を見出し、それを大事にしていくことで、霊的な真の世界が明らかになり、開かれてくることでしょう。そこは宝庫です。
あなた方もそれぞれ、自分の置かれた所で、以上のことを理解し、考慮して、今世をより有意義に生きていってください。
その観点で改めてARIを見て、ARIを活用していかれれば、ARIにとっても学ぶ方々にとっても、得られるものは多大であることでしょう。
(ありがとうございました)