メッセージリーディング

このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。
 
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
 
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。

リーディング No.16867

 
質問:今年は聖徳太子1400年遠(おん)忌(き)で、奈良と東京において特別展が開催されました。法隆寺でも大法要が営まれました。メッセージを賜りたく、何とぞよろしくお願い申し上げます。
 
ソース:一人の人間として人生を長く生きていると、毎年、それなりのことがあるものです。
 それは一個人においてばかりでなく、グループや国、広くは人類と地球においても
同様に見られます。
 その際、毎年起きてくることは偶然でも非合理でもなく、法則に従って厳然と起きてきます。
 「外界は内界の表れである」「その時点の当人の内実を表す、現実の動きや状況や体験となる」――これが法則です。
 個人や家族においてばかりでなく、グループ、さらには国や人類規模のことまで全て、この法則に基づいて事は起きてきます。
 その時点のその人たちの内面性を全く表
すような現実と、雰囲気と、動きと、体験になっているのです。
 そこで、外ばかり見ずに落ち着いて自分の内面を見つめること。そうすると、確かに自分の中にあるものが、それ相応の形をとって周りに表れ出て、それ相応の現実の雰囲気や動きや状況や体験になることが見えてきます。
 これが内観であり、瞑想です。常に学びは、本人の中にあります。カルマも、自分が作ってきて、自分の内面にあるものです。
 このように、「外界は内界の表れである」ということで、その時点の当人の内実を表すような現実になる。これをはっきりと打ち出したのが仏教の「唯識思想」です。「全てが心の表れである」「ただ識のみ」ということです。
 現代人は内省が足りないので、この法則がわかりません。それで余計に不安を抱いたり、あるいは不満を抱いたりして、あたふたします。ストレスも多くなります。
 社会のせいにしたり、人のせいにしたり、不運を嘆いたり、将来を余計に心配したり、現実に起きることを受け止められなかったりします。そこで、このようなONEの学びが必要になってきます。
 現代におけるアプローチはほとんど全て、外に物的に向かうものです。こういう内面に対する気づきや内面を整えること、内側で学ぶことなどが、全く欠如しています。それを補い、バランスを図ることが、現代ほど必要な時代はありません。それがONEの学びです。
 この法則の観点で見てみると、今年、2021年は、昨年に続きコロナが蔓(まん)延して、人々が苦しみ、困っている年です。
 
 また、2021年は、そのようなコロナ禍の中にあって、日本の東京で、オリンピックとパラリンピックが開催された年です。
 また、その同時期に同じ東京で、7月13日から9月5日にかけて、聖徳太子展が開催された年でもあります。
 2021年に起きつつある出来事は、ほかにもいろいろあることでしょう。アメリカ同時多発テロから20年が経ち、アメリカ合衆国はアフガニスタンから引き揚げて、一区切りとさせたことも、2021年の出来事の一つです。
 日本のコロナの大変な中で、ほぼ1年間、菅首相の時代がありました。それが、オリンピックとパラリンピックが終わって、急遽、菅首相は続ける意志をなくし、総裁選が行われる運びとなりました。
 ほかにもいろいろ、2021年に起きつつあることは、日本においても世界においてもあるわけですが、今はARIとの関連で、先ほど述べられたことに絞って、このリーディングでは見ていくことになります。
 
 2021年は、昨年に続きコロナが蔓延して、大変な厳しい時代状況になっています。
 そのような中、1年遅れで、菅政権はあえて、東京でのオリンピックとパラリンピックを開催しました。
 賛否両論がありましたが、「行う意義は十分あった」と言えます。最初から「無観客での開催」ということが良かったのです。最終的にそのようになりました。
 どんな形でも必要最小限、今年の夏に、東京でのオリンピックとパラリンピックを開催する必要がありました。「菅政権はそのためにあった」と言っても、過言ではありません。
 その表れとして、オリンピックとパラリンピックが無事終えられた途端、菅首相は続ける意志が低下していき、首相を続ける気がなくなりました。誰にでも、天から与えられた役割があるのです。
 菅首相は、コロナの大変な事態の中で、1年間首相を務めるような役割だったのです。そして、何としてもそういう中にあって、オリンピックを開催する役目も与えられていました。それが無事終えられたので、首相が交代するような動きとなってきているのです。
 現実の動きや状況は、直接には人間たちがその思いと行いによって、カルマ的に招いているものですが、現実の動きや状況のいちばんの元は、神にあります。
 
 人間が作り出しつつある現実に、神が関与し、計らってくださっている。そういうことで、現実の動きや状況のいちばんの元は、神にあります。「出来事メッセージ」、あるいは「出来事言語」です。
 現実のいちばんの元は、根源の神さまにあるからこそ、根源の神さまに全てお任せし、根源の神さまとの関わりで現実に取り組むと、本当の意味で上手くいくのです。どんな現実的な些細なことでも、そのいちばんの元は神にあるのです。
 そうであるからこそ、より良い人生を生きるため、そしてより良い世の中の動きにするため、現実のあらゆることの元にあって、全てを司っておられる根源の神さまに任せきり、後は安心し、落ち着いて、置かれた所で各自、人を思いやり、より適切に現実に応じていけば良いのです。
 そうすれば、カルマが着々と果たされていき、役目も遂げられていきます。こうして現実は動き、前に進んでいけるようになっています。
 「外界は内界の表れ」ということで、今の時期、日本を含め世界的にコロナが蔓(まん)延して、コロナで苦しめられているということももちろん、この法則に基づいての動きです。
 ないものは表れてきません。その時点のその人の内面性を全く表すような現実となるのです。人類と、人類が影響を及ぼしている自然環境、その内面にコロナをもたらすようなものがある、ということなのです。
 しかも根は深いのです。単なる物的現象ではありません。コロナはもっと奥深い所にも起因しています。
 
 そのため、物的にだけ対応しても、なかなか収束しないのです。物的にも対応する必要はありますが、もともとコロナの原因や理由は、もっと深い所にあるので、物的にだけ機械的・形式的に対応しても、なかなか収束を見ないのです。内側で教訓を学び、根本から改善させることが求められています。
 こういうコロナの大変な事態の中で、よりによって日本の東京で、オリンピックとパラリンピックが開催されることになった。
 これも、単なる偶然でも不運でもなく、深い理由と意味と意図があるのです。こういう大変な事態の中でこそ、日本でオリンピックとパラリンピックが今の時期、開催される必要性があったのです。
 日本の中でも東京が、最もコロナが深刻な地域でした。まさしくその深刻な東京で、オリンピックとパラリンピックが開催されたのです。
 しかも、ほとんどの人は気づいていませんでしたが、まさしく東京でオリンピックとパラリンピックが開催されていた期間、同じ東京で聖徳太子展が開催されていたという事実です。これももちろん、偶然の一致ではありません。
 東京国立博物館での聖徳太子展は、7月13日から9月5日まででした。東京でのオリンピックとパラリンピックの開催時期と、完全に重なり合います。
 東京オリンピックの理念は、「多様性と調和」でした。これはまさしくONEの理念であり、聖徳太子の理想そのものでした。この一致ももちろん、偶然ではありません。
 コロナ禍の中、東京でオリンピックとパラリンピックが開催された。その同じ期間、同じ東京で、聖徳太子展も開催されていた。コロナ禍にあっても、聖徳太子の精神が支え、オリンピックとパラリンピックの趣旨に、聖徳太子の理想である「多様性と調和」が掲げられていた。しかもこれは、ONEの趣旨でもあった。
 
 オリンピックを開催した関係者は、聖徳太子のことは全く意識していなかったはずです。でも、ちゃんと一致しているのです。期間も、東京でのオリンピックとパラリンピックを意識して、同じ時期に東京で聖徳太子展を開催した、ということはなかったはずです。でも、神のご意志にそれがあるので、結局一致するのです。
 2021年は、聖徳太子遠(おん)忌(き)1400年の年回りです。法然や親鸞の遠忌は50年置きに開催されてきています。数年前には、法然上人800年遠忌、親鸞聖人700年遠忌が開催されました。
 一方、聖徳太子の遠忌は、100年に一度、開催されてきています。つまり、100年ぶりの開催だったのです。しかも、1400年という、7の倍数の、とても重要な年回りが今年です。
 ちなみに、100年前の聖徳太子1300年遠忌は、大盛況で、多くの人たちが注目する中、盛大に開催されました。その100年後の今年は、1400年という、とても縁起の良い数でありながら、コロナ禍もあって、それほど注目はされませんでした。
 コロナの影響だけではなさそうです。人々が心や魂や霊から遠のきつつある現状も、反映しています。
 ARIは聖徳太子と直結している所です。ARIは、この世的には小さくささやかな所ですが、霊的にはとても重要で、根幹とつながり、しかも聖徳太子と直結している所です。ヨハネも、東京在住です。
 
 コロナ禍の中、7月から9月上旬にかけて、東京でオリンピックとパラリンピックが開催され、それを支えるかのように、同じ東京で聖徳太子展が開催されていた。今年の東京の夏は、重要だったはずです。
 では、東京に住んでいたヨハネは、この夏、どのようなことがあったのでしょうか。
 40年近く取り組んできている「プロジェクトA1」が、完成しました。まさしくこの夏に。東京の地で。
 これももちろん偶然ではなく、オリンピックとパラリンピックが東京で開催され、同じ東京で聖徳太子展も開催されていた。ヨハネもその聖徳太子展に拝観に行った。オリンピックとパラリンピックも、テレビ観戦した。そのような過ごし方の中で、40年来の「プロジェクトA1」が完成を見た。
 「一見無関係のようなことが、深くつながって連動している」ということに、気づいてください。その意味で、今年の夏の東京は、決定的に重要なイニシエーションを通過しました。
 それをこなして、今日、9月15日に、「聖徳太子1400年遠忌」に関するリーディングが、こうして行われる運びとなったのです。
 そしてこのリーディングが、「月刊インターフェイス(interfaith)」の12月号に掲載されます。聖徳太子1400年遠忌の年を締めくくる、12月です。12月号が発行され、伊勢クリスマス会が予定されています。
 
 日本の中での霊的に重要なスポットは、伊勢神宮です。伊勢神宮は皇室ゆかりの神宮です。聖徳太子も聖武天皇も、ご縁のあった伊勢神宮です。
 聖徳太子1400年遠忌の年の締めくくりとして、伊勢にてクリスマス会が開催されることになるのです。これも自(おの)ずと、天のご意志で、このような運びとなるのです。
 聖徳太子や聖武天皇の前世に、イスラエルのソロモン王があります。ソロモン王はブッダに生まれ変わり、日本の聖徳太子、そして聖武天皇として現れました。
 ソロモン王は、エルサレムの神殿を造ったことで知られています。エルサレムの神殿と日本の伊勢神宮は、相通ずるものがあるのです。
 ソロモン王であり聖徳太子である者が、聖徳太子1400年遠(おん)忌(き)の年の締めくくりのクリスマス会を、伊勢神宮で迎えることになります。
 こうして夏の大きなイニシエーション、すなわちメジャー・イニシエーションを経て、この意義深い2021年の締めくくりは伊勢神宮にて迎えることになります。
 コロナという大変な最(さ)中(なか)、光と闇がコントラストをなし、さながら黙示録のようなドラマの展開の中で、オリンピックとパラリンピック、それから聖徳太子展が同時開催されて通過し、その年の締めくくりは、日本の霊的に最高のパワースポットである、伊勢神宮で開催されます。
 その12月号にこのリーディングが掲載される運びとなります。
 現実の動きや状況のいちばんの元は、神にあります。霊的なことにおいては、なおさらです。
 
 そしてこのことを、伊勢クリスマス会の直前に、主立った方々は知る必要があります。それで12月1日頃に、このリーディングがお手元に届き、主立った方たちは、このリーディングを目にすることになります。それで心構えができて、12月の伊勢クリスマス会に参加できることになっています。神さまは、このようなことをなさるお方なのです。
 現実に起きること自体、出来事メッセージです。霊的なことにおいては、なおさらです。
 こういう考え方や捉え方は、すでに旧約聖書の時代からありました。日本にも、古代からあったことでしょう。
 こういうことがわかると、神を畏れ敬い、神さまにまず全てを任せきった上で、現実に向き合って、現実に誠実に応ずるような態勢ができてくるのです。
 こういう霊的認識と姿勢が現代人には、足りなすぎるのです。神さまとずれているし、神さまと分離しているのです。人間中心、人間主体で、神さまとのつながりが薄いです。その表れとして、コロナが蔓(まん)延しています。
 「神さまと再接続させていただくこと」 「神さまに畏敬の念を抱き、神中心に生かさせていただくこと」
 「自然の摂理に従い、慎ましく生きること」
 これによって清められ、生命力が回復してきます。こうなって初めて、物的・科学的な対応も、功を奏します。今は物的科学が前面に出ている時代状況であり、消費過多です。
 
 夏のオリンピック・パラリンピックでピークを迎えたコロナも、峠を越え、少しずつ収束の兆しが見えつつある現状です。そのような中で、このリーディングが行われました。
 日本の精神の元に、聖徳太子がおられます。聖徳太子が全てではないにしても、古神道と合わせて、日本において聖徳太子の精神と理想は、殊の外重要です。日本の仏教の基(もとい)ともなっているのが、聖徳太子です。
 1400年遠忌ということで、春には奈良博物館で、夏には東京博物館で、聖徳太子展が開催されました。
 イベントというのは、儀式であり、イニシエーションなのです。いろいろな重要な品々が東京に運ばれ、公開された。これは「封印が解かれた」ということ。聖徳太子のパワーが全開し、オリンピックとパラリンピックの元にあって支え、無事大変な中で開催された。
 安穏とした中での「平和と調和」というよりも、光と闇のコントラストの中で、ひときわ光り輝き、切実に求められます。
 イエス・キリストも、ローマ帝国の大変な時代状況にこそ求められ、現れたのです。大変な中で神さまは、貴重なものを与えてくださります。
 「健康な人には医者はいらない。医者と薬がいるのは、病人である」「神さまは、大変な人から優先的に対応して、救いとってくださる」。これは、キリストが言われたことです。阿弥陀如来にも、このような精神があられます。
 
 コロナの大変な時代であるからこそ、オリンピックとパラリンピックが開催される必要があったのであり、それが無事なされるよう、同じ東京で、聖徳太子展が同時開催される必要があったのです。
 こういう大変な時代状況の中で、聖徳太子1400年遠忌の年を迎えました。日本はターニング・ポイントに差しかかっていることを表しています。
 「今年の夏を機に、日本の多様性と調和を願い求める魂が、目覚めますように。それによって、真にコロナを克服解消できますように」。これが神のご意志です。
 そのことを、このリーディングでは聞く耳のあるあなた方に向け、こうして伝えられました。そのようになりますように。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16836

 
質問:祭りや儀礼について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:宗教的・霊的アプローチは、大別して2つあります。1つは祭り、もう1つは、教えを学ぶことです。
 日々の個人個人の取り組みとしても、祈りと教え、この2つが柱となっています。ONEの教えにおいても、そうなっています。それは、この2つが重要で、不可欠だからです。
 古代エジプトにおいても、例えば、アラアラート王の治世下において、ラーは神官、ヘルメスは教師を務めていました。
 イスラエルにおいては、旧約聖書の時代、祭りや儀礼を執り行う祭司とともに、神のみ言葉を預かり、人々に伝え、教育指導を行う預言者、この両方がありました。
 古代インドにおいては、バラモン教は祭りが中心でした。祭りは大切なのですが、形式的になり、生きて機能しなくなることが出てきます。
 人は、祭りによって神さまと関わらせていただき、神さまにお浄めいただいたり、神さまにお近づきになり、お力を頂いたりすることが必要です。
 その意味で祭りは大事なのですが、人間は頭があるので、「わかりたい」「本当のことを知って、気持ちが納得したり吹っ切れたい」「真理を学んで向上し、生きる指針にしたい」、このような面もあります。
 そこで、宗教教育や霊的教育、あるいは神秘教育が必要になってきます。魂の教育です。
 それで、古代インドにおいては、祭り中心のバラモン教社会に、ブッダが登場しました。教主釈尊です。
 
 仏教は当初は、人間教育として始まりました。仏教は教えと修行が柱になっているのが特徴です。後に仏教においても、必要があって、儀礼や祭りも含めて行われるようになりましたが、仏教の特徴と役割は、「教え」にあります。「真理は人を自由にする」。これが仏教の特徴と使命となっています。
 日本においては、伝統的な民族宗教として神道があります。神道は祭りが主になっています。
 しかし、ちょうど時期が来た時に、人間の啓蒙のため、神さまが外来の宗教である仏教を日本にも伝えてくださりました。
 それによって日本人は、仏教を通して啓蒙され、意識が開かれ、目覚めてくるようになりました。仏教は、人間教育、魂の育成と向上に特徴と役割があるのです。修行です。
 このように宗教や霊的なことは本来、「教え」と「祈り」ということで、この2つが柱になっているのですが、それぞれの宗教や霊的な営みの特徴と役割が、それぞれあります。
 神道は祭りや儀礼に特徴があります。
 一方仏教は、人間教育に特徴と役割があるのです。
 仏教では教えを与え、各自が教えを学んで、本当のことを理解して納得し、気持ちが吹っ切れ、現状の意味を悟って、現状の中で現状を大切に、肯定的な気持ちや感謝の心でやっていけるように、導きます。
 その上で、それぞれの宗教の中で、もう一方の側も必要最小限取り込むことになりました。神道の中でもお祭りの後、宮司さんから、ちょっとしたお話が与えられたりします。
 仏教のほうでは、教えを与えることとともに、儀礼やお祭りも、必要に迫られて行うようになっていきました。
 日本の場合、家社会でありました。それは農耕社会であることと関連しています。土地に根差し、土地を大切にしてこそ生きていけました。
 そのため、家系や家ということが重んじられました。シャーマニズムの国です。祖霊崇拝です。そのため、仏教にも先祖供養が必要に応じて入ってきたのです。
 
 本当のことを、教えを学んで知って、納得し、気持ちが吹っ切れたり晴れ晴れして、心置きなく現状の中で適切に行って生きていきたい。そのような人は、教えを主とした仏教に惹かれます。
 一方、あまり理論的なことや真理を学ぶことには関心がなく、感覚的で、神さまや自然の命に心が向かう人は、神道が合っています。それで神道に熱心になります。
 もちろん霊的な系統ということがあるのですが、本人のタイプや、求めているものにもよる、ということです。
 キリスト教も、もともとは教えが主となった宗教でした。モーセ以来の律法を主とする、ファリサイ派やサドカイ派の宗教がありました。それが形式的で形骸化し、煩(はん)瑣(さ)になり、人々を縛っていました。そこにキリストが現れて、本当のことをシンプルに真っすぐに説き伝え、人々を呪縛から解放してあげました。
 このような経緯からして、キリスト教も当初は、教えを学ぶことが主でした。キリストは教えを説くことが主だったのです。病を治してあげたり、奇跡も行いましたが、基本的に教えを学ぶための、霊的な教師として登場しました。
 それでも必要なこととして、お浄めの洗礼を施したり、お祈りを捧げたりすることも、行われていました。それが次第に一つの宗教として組織化され、それを守って維持するような方向に向かうに連れ、特にカトリックでは、宗教儀礼が事細かく行われ、追求されるようになりました。
 それは、日本の浄土真宗においても同様です。親鸞は教えを説くことが主であり、あとは素朴にお祈りを捧げたり、お念仏をする程度でした。
 しかし次第に組織が巨大化し、それを維持するため、宗教儀礼が次第に事細かく定められ、行われるようになっていきました。
 
 キリスト教では、どちらかというとカトリックは宗教儀礼が主となっていて、プロテスタントのほうは聖書主義であり、教えを学ぶことが主になっています。
 どちらかというと、知性派の人は教えを学ぶことに惹かれます。
 明治時代以来の内村鑑三の無教会主義や、それとの関連で岩波書店が取り組んできたのは、典型的なその教え主体の、聖書主義でした。文書伝道です。
 一方、あまり教えを学んだり、理解納得したりということに関心がなく、生きるのに大変で余裕のない人や、感覚的感性的だったり、依存的だったり、神さまに関心があったり、どちらかというと人間教育よりも神さまに惹かれ、神さまのお陰を頂きたい人は、儀礼や祭りに関心があります。神道は、そのような宗教だと言えます。
 神さまやご先祖さんをご供養申し上げること。日本人の多くは、そのことに関心があります。それで神道か、あるいは仏教の中での先祖供養かに意識が向きます。
 一方で、学術的・学問的なことに関心がある人は、仏教学という学問と教えの体系や、真理の追究と解明に向かってきています。
 ARIはどちらかというと、教え主体の所です。それでも祈りや儀礼も、必要最小限行われています。
 ARIの行事としては、クリスマス会や復活祭、あるいは巡礼などは、祭りや儀礼のほうです。代行ご祈願や洗礼もそうです。
 教えを学ぶことは人間のほうに主軸が据えられています。祭りや儀礼は神と人との交流の機会です。神さまへのおとりなしです。
 神と人との関わり、それが祭りや儀礼の機会です。一方、各自が人間として本当のことを学んで、理解を深め、気持ちを吹っ切り、良い心がけを作ったり、意識を向上させることを心がける。教えを指針にして、より良く生きる。そのような努力向上の人間教育としての側面が、教えです。
 
 ONEの教えにおいて、教えを学ぶこととともに、祈りや礼拝や瞑想が大切にされているのは、儀礼や祭りも必要であることを示しています。
 神さまとの関わりで生かされて生きていく。「神さまとの関わり」というところで、必要なことやきちんと行わねばならないことがある。それが祭りや儀礼によって行われます。
 「祭り」は、「神と人との間(ま)を釣り合わせる」ということです。神さまに自分を合わせ、より良い関係にしていただく。
 神さまと人との間合いをうまく取り持ち、再調整を図るので、「祭り(ま・つり)」と言います。また、人と自然との間を釣り合わせることも「祭り」です。人間同士、人と人との間を釣り合わせる人間関係の調整と緩和と癒し、それも「祭り」です。自分と自分との関係の間を釣り合わせる再調整、それも「祭り」と言えます。
 自分をどう捉え、自分をどう扱い、自分とどう付き合っていくと良いのか。自分と自分との関わりの再調整、これも「祭り」です。
 人間にはそれぞれ癖があり、偏りやすいです。やり過ぎたり、やらな過ぎたり。ブッダが「中道」を説き勧めたことも、このことと関連しています。
 「八正道」の「正(しよう)」、すなわち「正しい」ということは、「ぴったりで適切である」という意味です。
 現実も人も変わり、動いていきます。それゆえ、ワンパターンに陥ると、「中道」から外れてきます。現実は生き物です。人間も生き物です。それゆえ変幻自在に囚われなく、その時その時の「中」を見出し、水の流れに乗るように自在に適切に生きていくこと。これが「空(くう)を生きる」という、囚われのない自由の境地です。
 これが「超作」です。これが「八正道」という、カルマを解消する、カルマを超えた超作のあり方です。親鸞はこれを「自(じ)然(ねん)法(ほう)爾(に)」と表現しました。これは中道であり、八正道です。
 現代のわかりやすい表現を使うならば、「ありのまま」「あるがまま」。また、「なるがまま」ということになります。「自分らしさ」とも言えます。
 囚われなく、いつでもぴったりで適切で、空気や水のようで、自然に溶け込んでいる。
 少し前から日本では、「空気を読む」ということが言われるようになりました。それにも、ある程度の真理は含まれています。
 「空気を読む」と一般に言われる場合、「周りを察知してそれに合わせなさい」ということで使われます。
 それは必要なのですが、もっと本質を読むこと。そして、自分の気持ちも大切にすること。何より神さまのお気持ちを読む。神さまの空気を読む。そうすると変幻自在で、本当の自由になります。それが「空を生きる」という解脱の境地、すなわち「超作」です。
 
 ARIのONEの教えでは、これを「アドリブ」と言います。本当の意味で、理想的に空気を読むことです。「中」を知るには、知恵が必要です。神さまへのお委ねも助けになります。
 アドリブ体操は、肉体の次元における
「空を生きる」という「超作」のことです。その時の自分の肉体の気持ちを読み、その時の肉体が本当に欲することを体にさせてあげることで、回復します。これが「八正道」であり、「中道」です。自分の信念やパターンに囚われず、世間の常識や形式にも陥らないこと。
 「八正道」の元には空(くう)があるのです。真の自由が。そうすると間合いが取れてきて、正され、矯正されます。これがアドリブ体操の極意です。真の自由です。
 ブッダが説かれた「八正道」と「中道」は、このような「空を生きる」という、変幻自在の、その時のその場と自分にぴったりの「中を生きる」ということ。これがアドリブです。
 ARIにおけるいろいろな実践は全て、アドリブなのです。体操に限られません。祈りにしても、夢を活用することや瞑想にしても、日頃の行いにしても、言葉や態度、対応にしても、形式にはめ込まれない。むしろ、その時にぴったりで最も効果があり、自然の摂理にかなった思いとか行いになる。これが水や風のように流れに乗っていく道です。ARIの所作は全て、このように行われることが勧められています。
 これは一見すると、形式的な儀礼や教えに反するように見えます。しかし本質のところでは、結果として形に従い、形を活かす元になっています。愛と真実にかなっていれば、自(おの)ずと形式にも従い、形式を導き、形式を活かすからです。こうすると、個性もその場も真に活かされ、機能します。全てを活かし、浄化していくONEのあり方です。
 
 天界でのあり方は、全てこのように動いています。「八正道」や「中道」は、ワンパターンで形式的にはめ込まれてはいません。変幻自在で、いつでもその時にぴったりのあり方で動いています。囚われがなく、自由です。これが本当の愛と知恵であり、自分も人も活かされる方向です。
 ARIのONEの教えで言われる、「その時にぴったりのことを」ということは、自由であり、全てを生かす愛と真実にかなった「空を生きる」ことにほかなりません。
 本当に完成してきたらそうなってきます。あり方として。生きていて楽です。そうすると行っても新たなカルマにならず、古いカルマを解(ほど)きつつ浄化され、生命エネルギーを活かして、その中で自分も関わる人も生かされるように振り向けられていきます。絶対他力です。宇宙を支える、神のお働きの一部になります。
 神さまご自身、このような空(くう)の働きをなさっておられます。だから目立たないし、人間を始め、全ての生き物がその中で生かされているのです。
 愛には、知恵と自由がなければいけません。知恵と自由のある愛が本当に、自分をも関わる人をも生かします。神のお働きが、そのような性質です。
 祭りによって神さまの息吹が、そのような空の自由なあり方で働きかけてきて、人間の間合いが取られ、再調整が図られ、浄化され、活性化されます。
 神と人との出会いと関わりによる再調整。本来のあり方を実現させる。それが祭りです。その機会が宗教儀礼です。
 日頃からそのように生きれば、いつでも形式的な形の宗教儀礼や祭りが、真の意味で機能している生き方となります。それが超作です。
 ヨーガで言えばカルマ・ヨーガが、このような所作を日々生きることを、説き勧めています。
 
 人間はすぐにはそのようになりにくいので、神と人とのおとりなしがなされる祭りや宗教儀礼が、いろいろとその都度、補助として行われてきています。
 日々の生活と起きる出来事、人生そのもの、広くは社会の動きが、そのような通過儀礼としてのイニシエーションの動きそのものとなっています。それを象徴化し、集約して行うのが、宗教上の祭りや儀礼です。
 以上のことをよく理解し、その心得で、お祈りや礼拝をさせていただいてください。そして、ご縁のある宗教上の祭りや儀礼も、活用させていただいてください。そうすれば有効に機能し、その恩恵をいっぱい頂けることでしょう。
 神さまが働きかけやすいように、神さまにご配慮ください。自分を捧げ、素直に従う時に、「空(くう)」という真の自由が働くことでしょう。
 その中で浄化され、カルマが解消し、自分も現状も良化することでしょう。
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16814

 
 質問:人間関係について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: 自分が一人の人間として、人生を生きていく際、「自分はどのような存在なのか」「なぜ生きていくのか」「どのように生きていくと良いのか」。そのようなことについて、知る必要があります。それでこそ周りのためになり、より良く生きていけます。
 その一方で、自分と他との関係性につい
ても、知る必要があります。
 自分について知って気をつけるばかりでなく、自分と他との関係性を知って、関係性にも留意して生きていくことが必要です。
 自分と他との関係性には、次のようなものがあります。
 ・自分と神との関係性
 ・自分と霊との関係性
 ・自分と他の人との関係性
 ・自分と自分自身との関係性
・自分と自然や物との関係性
 「自分と他の人との関係性」には、集合体もあります。
 ・自分と社会との関係性
 ・自分とある団体や組織との関係性
 ・自分とあるグループとの関係性
などです。
 特に、自分が生きていく場は、「家庭」と「職場」にあります。
 ほかに、仕事以外で関わらせていただいているグループや場などを持っている人たちも多いです。ある学びや趣味やボランティア活動などです。それが永続的な場合もあれば、一時的な浅いものもあります。
 
 人によってどういう所にどの程度関わって生きていくかは、本人のご縁や人生目的、興味や価値観、などによります。
 このように「他の人との関係性」の中には、「他の人たち」という複数の特定の場があります。漠然となら世界、日本、社会。もう少し限定され、特定され、具体的な場合は、特定のグループや団体や組織、などです。
 そして特に、一人の人間として生きていく場合、家庭と職場、胎蔵界と金剛界、この場が、2つの柱です。
 そのほかに人によってそれぞれ、学びや趣味やボランティア、地域活動などの、特定の人々とのご縁や関わりがあります。
 自分自身に関することでも、自分と他との関係性に関わることでも、うまくいっていて良い面と、うまくいかず課題になっている部分とが、それぞれあるものです。
 それは偶然ではないし、相手のせいでもありません。基本的に自分自身によることです。
 その時の自分に応じた、状況や現実の動きや体験となるからです。
 その時の喜びや恵み、苦しみや問題。肯定的なことにせよ否定的なことにせよ、偶然ではなく、その時点の自分を良くも悪くも表しています。
 どういうことで喜び事があるか。
 どういうことで思いどおりにならず、つらいことがあるか。
 それは自分自身に関することなのか、それとも自分と他との関係性に関することなのか。
 全ては偶然ではなく、その時の自分を表しています。
 自分自身に関することでうまくいかず、悩みになっている人もおられます。「自分の病気」とか「自分が嫌いだ」とか、「お金が足りない」とか「仕事ができない」とか、などです。
 一方、人間が抱く悩みや問題には、自分と他との関係性に属する悩みや問題も多いのです。そのことに気づいてください。人間関係はその最たるものです。
 直接自分自身に関することを見直して、調整・改善する。それとともに、自分と他との関係性も見直して調整し、改善する。
 
 自分自身を癒すとともに、自分と他との関係性も癒す。直接自分に関するカルマを解消するばかりでなく、自分と他との関係性のカルマも解消して癒す。
 それぞれの人の傾向や特徴があります。自分に直接属することでの課題や学びが多い人と、自分と他との関係性で悩みや課題を抱えている人と、それぞれおられます。
 人生を生きていく上でも、仕事をしていく中でも、例えば仕事において、自分の適性や能力や興味、それ自体で仕事で行き詰まっている人もいれば、自分は仕事自体はできるけれども、上司や同僚や部下など、仕事での人間関係がうまくいかず、限界に直面している人もいます。
 自分が成長し、良くなっていくためには、自分そのものが改善されるとともに、他との関係性も学び、理解し、調整されたり、改善されたり、癒されていくことも必要です。
 自分自体は良くなってきているのに、人間関係でうまくいかず、限界に直面している人も多いのです。それは残念で、もったいないことです。
 人生での学びや成長において、関係性、特に人間関係は、おろそかにできない重要な側面です。
 
 勉強や仕事はできても、人間関係がうまくいかずに限界に直面する人は多いです。
 子どもの学校時代からすでに、クラスメイトとの関係、部活での人間関係、先生との関係などで、うまくいかない人がいます。また、家族とうまくいかない人もいます。
 大人になってからは、家族の人間関係とともに、仕事での人間関係、友だちや仲間との人間関係などでも、それぞれ自分の特徴が自(おの)ずと出ます。また、恋愛関係もあります。
 その時点の自分の内実を表す関係性や出来事や、状況になるものです。そこで自分を見直すこと。
 
 「自分を見直す」という場合、自分自体を見直すとともに、自分と他との関係性も見直すこと。
 ・相手をちゃんと理解して、認め、受け  入れているか。
 ・相手を評価しているか。
 ・嫌っていないかどうか。
 ・本当に愛をもって、適切に関わってい  るかどうか。
 ・相手の人をどう捉え、どう見て、何を期待し、何を疎(うと)んじているか。
 自分の人間観や価値観が問われます。
 まず、相手を理解することが必要です。また、感じられるようになることが必要です。
 ・相手がどういう人で、何を求め、何を  嫌っている人なのか。
 ・自分に対しては何を求めてこられ、何  は求めてこられていないのか。
 それを、できるだけ推し量ることが必要です。
 人は、自分のことさえ、その全部を知っているわけではありません。まして人のことは、もっとわかりません。
 それでも諦めることなく、できるだけ相手の人をわかろうとすることが、大事です。人をわかろうとすることを、諦めないことです。
 相手を理解するというばかりでなく、相手を尊び、思いやり、受け止めて感じてあげること。共感すること。
 自分と人とは異なっていることを理解し、「異なっていて良い」と見なすこと。
 個性や考え方や生き方の違いを理解して認め、愛し、尊び、受け入れること。
 まず、相手を尊び、認め、評価すること。互いに違っていても良いし、自分とはどう違い、なぜ違っているのかも理解しようとすること。極力、相手のためになろうとしてあげること。
 この人は自分に、どういうふうにしてくれるか、関わることのメリットだけを見ずに、こちらからできることを見ること。
 相手の人に自分は何をしてあげられ、どう助けになれるかを、大事にすることです。
 
 また、人間関係も学習の重要な一部です。人生を生きていく中での学びの中には、「人間関係を学び、習得する」という部分があります。それはとても重要です。
 生きていくためには、仕事のスキルを身につけ、仕事でやっていけるようになることが必要です。それとともに、人間関係も学んで理解し、人間関係も習得していくことが必要です。
 カルマや学びや課題の中には、関係性に関わることも多いのです。苦しみや悩みも、問題も。
 自分を理解する。人をも理解する。自分を受け入れてあげる。人をも受け入れてあげる。自分を育てる。人をも育ててあげる。整ってきた自分を発揮して活かす。ほかのそれぞれの人も活かされるように、計らってあげる。互いに認め合い、より良い関係性の中で共存し、互いに活かし合い助け合うように、関わっていく。生きていく上で、いろいろな関係性があります。
 自分の過去が参考になります。自分はどういう存在で、どういうことは習得し、どういうところは未(いま)だ習得していないか。
 自分の特徴が、これまでの人生の歩みに、そのまま現れています。学校のテストの採点に似ています。これまでの人生の経験は。そこに人生での、自分の学びの特徴が出ています。
 「人間関係」というところに焦点を当てて改めて見てみてください。具体的には、自分は誰との関係性でうまくいかず、相手を傷つけたり自分が傷ついたりしたのか。
 ・相手は友だちだったか。
 ・2つ年上の先輩だったか。
 ・3つ年下の後輩だったか。
 ・それとも家族だったか。
 ・家族だったら誰だったか。
 ・父親だったか、母親だったか。
 ・結婚している人なら配偶者だったか。
 ・息子や娘だったか。
 
 人によっては祖父母との関係、孫との関係などでも、いろいろとそれ相応にあります。自分の対人関係の特徴や学びを見ていくことは、大いに学びになります。人間関係の学びは重要です。その分人間関係を癒すことも、欠かせません。
 「癒す」ためには、相手を理解して受け入れ、許すことです。また、相手に対する自分の愛を大きくすることです。自分の中の本当の愛を。
 ・自分は同性との関係はどうだったか。
 ・異性との関係はどうだったか。
 ・年上の同性、同年齢の同性との関係。
 ・年下の同性との関係。
 ・年上の異性との関係。
 ・同い年の異性との関係。
 ・年下の異性との関係。
 自分の人間関係には、どういう特徴や良さや課題があるか。これまでの人生を振り返って、具体的に見ていってください。
 ・家族それぞれとの関係性。
 ・職場での人間関係。
 ・友だちや仲間との人間関係。
 自分はどういうことに惹かれ、どういうことを恐れ、どういうことを嫌うか。そこに自分の価値観やこだわりが出てます。前世からのトラウマなども。
 過去に悲しいつらい体験をすると、そのことがネックとなり、意識してしまい、似たような人との関係性がうまくいかなくなるケースが多いです。
 過去の体験という場合、今世の過去の体験に限られません。それ以前に前世での人間関係の体験があります。それは思い出せない分影響が大きく、やっかいだったりします。
 思い出せなければ影響を受けないのではなく、むしろ思い出せない分、漠然とした不安や恐れや嫌悪感があり、自力ではコントロールしにくいのです。
 今の状況での人間関係も見ていきます。自分の心の動きも見ていきます。恐れとか願いとか、悲しみとか不安とかを。現状の人間関係はどうなっているか。
 
 そして先ほども述べられたように、自分と自分自身との関係性が基本です。これは一般に、見過ごされがちです。
 ・自分は自分を好きかどうか。
 ・自分を受け入れているかどうか。
 ・自分を本当にわかっているかどうか。
 例えば、自分の中の母性との関係性が、具体的に母親との関係性となって現れています。全部、自分の中に起因しています。人のことではないのです。
 自分の中で学び取り、癒し、改善すること。自分の中のいろいろな部分との関係性が、具体的に反映したのが、それぞれの人との関係性です。
 自分はどういう人とはうまくいき、どういう相手のイメージだと、恐れたり構えたり、うまくいかなくなりやすいのか。そこに、過去の体験が見え隠れしています。さらにその元に、前世での人間関係のカルマがあったりします。
 そこで、神との関わりで祈りながら、神さまのお導きや働きかけを頂くことで癒され、気づきが得られ、囚われから脱し、次第に癒されて緩和され、楽になっていきます。
 そうするとそれを反映するかのように、その方面の人間関係を意識したり構えたりせずに済むようになり、自然体でうまくいき、自分の良さも表れ出るようになります。
 自分の価値観や人の見なし方が、相手との関係性に投影します。
 人はお互いに、察知し合う生き物です。人間関係を学ぶということは、仕事に関係することを学び習得するのと同じくらい、生きていく上で重要です。
 「自分が社会性を持つ」というふうにも言えます。人との共存と調和、協調。これはONEの教えでも、大事な部分です。
 それをさらっと簡単に言葉で言うことはたやすいことですが、いざ一人の生身の肉体と心を持った人間として生きていく上では、そうたやすいことではありません。
 
 癒され、学習して習得するまでは、同じ方面のことに遭遇し、躓(つまず)き続けます。人生は試行錯誤の学習のプロセスです。
 それでもめげず、諦めず、人を責めず、自分をも責めず、挑んでいくことが求められています。
 しかしあまりに構えたり、意識したりしすぎても、しんどいし、うまくいきにくいです。神さまを信頼し、自分をも信頼すること。そして自然体で相手のことを、肯定的に良く思うこと。
 そうすると、自分の良さが表れ出るようになります。あまり恐れたり、身構えたりしないことです。
 お互いに人間は感じ取り合い、反応し合います。まず相手を認めれば、相手もこちらを認めてくれるものです。相手を受け入れると、相手もこちらを受け入れてくれます。
 自分にも信頼と自信を持ってください。そして、たとえすぐに人とうまくいかなくても、動揺したり焦ったり諦めたりせず、気持ちを落ち着けて気を取り直し、自分の良さが自然に表れ出るようにこれからも取り組んでください。
 また、人間関係がわりとうまくいっている人を観察し、参考にさせてもらうことです。また、自分でも試しているうちにコツがつかめて、「あぁ、こういう人とはこういうふうに関わるといいんだ」と、次第に身についてきます。
 過去のことにこだわりすぎず、体験から教訓を学んで解消してください。そして過去のことはあまりに意識することなく、過去に関わった相手や自分を許し、教訓だけでも学んで、今後に反映させていけば良いのです。
 人間はお互い様です。最初からうまくいかなくても良いのです。何遍でも取り組んでみてください。その取り組みに、意義と価値と目的があります。
 その中でちょっとでもうまくいったら、自分を評価してあげてください。そして素直に喜び、それを励みに、次につなげてください。
 人間関係を喜び、楽しんでください。互いに活かし合えるようにしてください。
 たとえうまくいかないことがあっても、落胆しすぎないでください。動揺したり自分を責めすぎないでください。人のこともわかって、許してあげてください。そしてまた挑んでください。
 現代は、非寛容で容赦ない人が多いのです。お互い人間同士です。それぞれの事情や弱さや言い分もあります。お互いに理解し、感じ合い、良い方向づけをとって取り組んでいってください。
 魂のところに自分を置いて、感覚を働かせ、落ち着いて取り組めば、次第に良い兆しが出てくることでしょう。
 この世もあの世も、根本のところでは神の世界です。安心して神の下、人間関係にも取り組み、人間関係を癒しながら育て合い、学び合い、活かし合い、助け合って生きていきましょう。
 
 人間関係は、くだらないことではありません。とても貴重で尊く、大事なことです。そう思えれば取り組み甲斐(がい)があり、励みになります。そのような捉え方が本当で、健全です。自分に直接関わる事柄、対人関係、いずれも大事です。
 人によって得意なことと苦手なことが、それぞれあります。トータルに自分の学びの特徴や傾向を見ながら、落ち着いて神さまの下、人とも思いやり合いながら、これからも落胆せずに、安心して、神の世界で、一つひとつの小さなことを大切に、励み続けましょう。神さまは喜んで見守り、育て導いてくださることでしょう。
 お互いに労り合い、励まし合って、取り組みましょう。その中に神がおられます。 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16777

 
質問:お清めに関することを、ONEの観点からいろいろとご教示ください。
 
ソース:今は世界的に見て、お清めが必要な時代状況です。コロナに端的に、そのことが表れています。コロナとは、そういうものなのです。
 また今は、「ヨハネの黙示録」的な時代状況でもあります。「ヨハネの黙示録」のテーマは、「浄化と育成」です。
 それはヨハネ個人をひな形とし、他のクリスチャンたち、広くは世界と人類が対象になる「浄化と育成」がテーマの、書物です。そのような中で、「最後の審判」も出てきます。今は世界的に見て、最後の審判の時代状況と言えます。
 
 「ヨハネの黙示録」に記されていることは、何も、今の時代だけを予告したことではありませんが、「命の法則」に関して伝えられているため、「今の時代にも当てはまる」ということです。ある意味で周期的に、浄化と育成は巡ってきます。個人においても、
グループや人類全体においても。
 今の時代状況は世界的に、かなりな程度、「最後の審判の様相を呈している」と言えます。コロナはその具体的で典型的な顕れです。育成だけでなく、浄化も大事だということ。
 現代は、能力主義の競争社会であり、また欲望と感情の行きすぎているあり方です。そのような中では、「育成」ということは言われても、「浄化」ということがほとんどなされていません。そうであるからこそ、「浄化」がやむなく起きたのです。それがコロナです。
 
 それでもまだ人類は、そのことに気づいていません。しぶしぶマスクの着用、うがいや手洗い、3密の回避、自粛などを求められるようになっています。これらはいずれも「浄化が必要である」ことを示しているのです。欲望の行きすぎに対し、神が自粛(しゆく)を求めてこられている。
 普通に見ると物的な科学の観点から、そのことが求められていることですが、実は、その背後に神がおられ、神が現代の科学技術を通してさえ、結局は人々に足りなかった浄化を起こさせようとされている動きです。カルマが果たされ、是正されつつある。
 そのことに気づく必要があります。それによって、もっと自発的に率先してお清めに当たれます。それにより、表面的形式的機械的なお清めに留まらず、奥深い次元まで徹底したお清めが、起きるようになります。
 
 「育成」というのは、どちらかというと、量を増やしていく方向性です。前向きです。
 一方、「浄化」というのは対照的に、量を減らしていく方向です。いい意味での否定的後ろ向きの方向なのです。
 「能力開発」や「育成」ということだけですと、アンバランスです。そこで、「余計なものをそぎ落とす」ということが必要になってきます。それが浄化です。そのために自粛が求められているのです。
 現代は物の次元での、また肉体の次元での能力増強と欲望助長が特徴です。それがエネルギーを消費する、消費文明として現れています。それが地球の自然や人の肉体にダメージを与え、また汚してもいます。
 
 これは浄化の面が気づかれず、見過ごしにされてきた結果です。そこで、自粛が求められるようになったのです。
 これは現代の文明の弱点であり、現代の欲望の文明、また物質文明、あるいは情報化社会などと対極をなす方向性です。アンバランスの行き過ぎに対する歯止めと軌道修正が、今求められているところなのです。
 「お清めが必要だ」という点では、洗礼者ヨハネが登場し、人々に悔い改めの警告のメッセージを伝えた時代状況とも共通しています。
 ヨハネ・ペヌエルは、洗礼者ヨハネの転生者ではなく、使徒ヨハネの転生者ではありますが、同じ「ヨハネ」ということで、洗礼者ヨハネの役割も、一部、担わされています。それで、こういうことを語るのです。それはまた、「ヨハネの黙示録の時代」でもあるからです。
 
 洗礼者ヨハネが登場し、人々に悔い改めの警告のメッセージを伝え、希望する者たちにお清めのバプテスマを授けました。
 主ご自身も現れ、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けて備えられ、清められ、使命の備えがなって、使命をスタートされたほどです。
 人々のほうも、洗礼者ヨハネのメッセージに耳を傾け、お清めを施された。こうして預言されていたメシヤが登場し、新時代が訪れたのです。
 「キリストが再臨する」と言われるこの現代、まず必要なことは徹底したお清めです。文明の行き過ぎに対する歯止めと是正、そしてお清めです。人々がお清めをしないので、神さまに強制的にお清めをさせられている時代状況です。
 このことに気づいて、自らお清めを行うことで、キリスト再臨に象徴される新時代が訪れるのです。それが、「ヨハネの黙示録の成就」です。そのために、ヨハネ・ペヌエルもやってきています。
 
 ヨハネが生まれてくるのは、黙示録的な時代状況の時です。「最後の審判」自体、大きなお清めのことです。行きすぎに対する歯止めと軌道修正。これまでの大きなカルマの清算。そして、新時代にあらゆるあり方を組み替えること。本末転倒を直すことによる「秩序の回復」です。「新秩序がもたらされる」ということです。これが黙示録で伝えられていることです。
 現代はそのことが起きて、レベルアップが求められている時です。それが具体的には、コロナとして現れています。
 お清めには大きく分けて、「水によるお清め」と「火によるお清め」との2種類があります。
 キリストも言われました。「洗礼者ヨハネは水でバプテスマを授けたが、来たるべき時、あなた方は真のバプテスマである火と聖霊のバプテスマを受けるであろう」と。また、風のバプテスマもあります。
 「ノアの洪水」は、本当に起きたことです。これまで「最後の審判」が3度ありました。1度目はノアの洪水、2度目はキリストの登場。3度目は、霊界において、西暦1757年に起きました。
 
 霊界で1757年に、すでになされた最後の審判が、時間差で徐々にこの世にも表れ出てきます。それが今、際立って表れ出てきているとも言えます。
 それゆえ、ヨハネは生まれてこなければならなかったのです。人々がそれを理解し、受け止め、適切に応じて、旧秩序から新秩序に移っていけるように、です。本末転倒であったこの世の秩序が、正されるのです。
 「ノアの洪水」は、「水によるお清め」でした。ただ、「風によるお清めだった」とも言えます。
 スウェーデンボルグ自身霊的な解釈をしていることですが、「世界が大洪水に見舞われて溺死した」、つまり溺れ死んだ。それによって一掃された。
 
 それはそうだったのですが、同時に一方、「人々と自分の想念の毒気により、窒息死した」とも、スウェーデンボルグは解釈しました。「水による溺死ばかりでなく、自らや人々の悪想念によって窒息死した」と。「それがノアの洪水の真相であった」と。
 その意味では、否定的な想念が否定的な風を吹き荒らした。聖霊の風なら良いのですが、否定的な想念に基づく毒気の風が吹き荒れて、窒息死したということ。
 
 現代の新型コロナウイルスも、それと共通しています。人々のマイナス想念、そして自らのマイナス想念によって、新型コロナウイルスが発生し、そして蔓(まん)延し、コロナを招いている。
 新型コロナウイルスの特徴は、呼吸困難に陥るところにあります。そのため、酸素ボンベのような、コロナを治すための特殊な機具が求められているのです。これはノアの大洪水の時代に起きたことでもあったのです。
 物的客観的に空気が汚染して、それで窒息するというよりも、霊的に穢(けが)れてくるとマイナス想念が特殊な新型コロナウイルスという具体的な形をとって現れ、それに多くの人たちが感染し、その毒気に当たって窒息死するようなコロナに感染しているのです。病気の中には、極めて霊的なものがあるのです。
 イエス様は、多くの人たちの病を治されました。それらの中には憑依に基づく病も多く、悪霊や邪霊を取り除いてあげることで、多くの人たちは病から解放されました。これは「浄化」と言えます。
 「水によるお清め」と「火によるお清め」。また補足的に「風によるお清め」があるということですが、基本は「自分の中からのお清め」です。悔い改めです。
 
 他者から、また外部から儀礼的に施していただくお清めが、一般には「お清め」として連想されます。しかしそれは補助的な手段です。基本的根本的なお清めとは、自らの想念と言葉と態度と行いを清めることにあります。ダビデや親鸞やアウグスティヌスに見られたことです。
 自らの悪業を清め、自らの善業を推進していくことです。自らの善業が、自らの悪業を清める。これがお清めの基本です。
 それを各自がせずして、外から施しのように水や火のお清めを期待するだけでは、限界があります。
 
 今、真に必要なのは、このことに気づいて、一人ひとりが自らの想念と言葉と態度と行いを清めることです。このようなことは、ブッダやキリストが気づき、強調したことです。
 例えばキリストは、「人は外から来るもので穢(けが)れるのではなく、自分の中から出るもので穢れるのである」。このように言われました。「口から入る物で汚れるというより、口から出るもので自ら汚れる」
 「外部の物的なものによって穢れる」と、当時見られていて、それが回避されている中にあってキリストは、「そういう外的物的なもので穢れるというよりも、自分の心から出る悪想念や悪い言葉や態度や行いが、自らを穢しているのだ」と、キリストは言われたのです。
 これと全く同様のことをブッダも気づき、強調していました。外的物的形式的に戒律を守ろうとしている人に対してブッダは、「そういうことはあまり意味はない。もっと自分の内面から想いを清め、言葉や態度や行いを清めるべきだ」と、説いたのです。
 
 まさしく現代には、このようなことが必要とされています。こういうお清めこそが、今、本当に世界的に求められているのです。
 その上で補助手段として、宗教的に外部から、また他者から、水や火のお清めを施していただくということなら、有効です。
 「水によるお清め」としては、日本の神道の祝(のり)詞(と)の中に、そのことが歌われています。
 
 イザナギノミコトが、他界してしまったイザナミノミコトに会いたくて、黄(よ)泉(み)の国に入っていった。しかし、それによってイザナギノミコトは穢れてしまった。それで、黄泉の国から戻ったイザナギノミコトは、水によるお清めを受けられた。
 そこで、目を洗ったり鼻を洗ったりした。その時アマテラスオオミカミやスサノオノミコトが誕生した、と伝えられています。
 神道では「禊(みそぎ)」が大切にされています。
 キリスト教でもエッセネ派以来、「洗礼」ということがなされています。
 仏教や修験道においても、「水浴び」や「滝行」や「寒行」が行われています。
 インドのガンジス川では「沐浴」がなされています。
 一方、「火によるお清め」は、ゾロアスター教を始め、仏教の中の護摩供養が知られています。火渡りもあります。
 「太陽瞑想」や「天国瞑想」も、きれいな光の炎によって浄化されていくプロセスです。
 
 古代のエジプトでも、バイオレットフレームが焚かれていました。
 自らの好ましくない欲望や感情に基づく想念や言葉や行いを自ら改め、謝罪し、解消すること。これがお清めの基本です。
 洗礼者ヨハネによる水のバプテスマも、悔い改めのバプテスマでした。自らが悔い改めて素直になってこそ、外からの水のお清めも、功を奏するのです。そうでなければ、単なる水浴びにすぎません。
 現代においてコロナ対策として、物的な科学技術の観点からのお清めも、衛生学の観点からの形式的お清めです。それはある程度は効果がありますが、真の悔い改めがなされなければ、表面のお清め程度で終わります。それでは残念です。
 しかし、現状はほとんどそのような表面のレベルだけで終わっています。体験から真に学ぶべきレッスンを学びとらず、真の悔い改めと改善がなされないままです。
 
 そのため、真に人間や社会は良くなっておらず、その結果、なかなかコロナが収束しないのです。逆に変異株のような、もっと困難な形態に変わって、人々を苦しませ、悩ませています。
 一人ひとりが真の悔い改めをすることが必要な時代です。その意味でも、現代の様相は洗礼者ヨハネが現れた時代に似ています。
 それ以前のノアの洪水の時代、「なぜノアとその家族だけが救われたのか」。そのことを今、学ぶべきなのです。これが最も根本的なお清めです。これが今、一人ひとりが最も気づくべき、そして実践するべきことです。
 このことに気づいて、受け入れられる人は、受け入れましょう。そしてまず自分から、この方向で真のお清めに臨みましょう。
 それに対して、ARIでの「洗礼」や「太陽瞑想」や「天国瞑想」が、補助として併(あわ)せて施されれば、有効であることでしょう。
 科学的な観点からの自粛や自制、3密の回避などは、「ヨハネの黙示録」に出てくる「大いなるバビロン」という、人間が造り上げた欲望の文明の体系あるいは体制が、神に喜ばれず、崩壊していく浄化のプロセスを示しています。現代は、そのような様相を呈している時です。
 自らの否定的な感情と欲望で、生命力の中枢であるチャクラを穢し、体と心を弱体化させた。そこで、感情と欲望のエネルギーを昇華し、生命エネルギーを善用することでチャクラが活性化し、体も心も元気になる。これが三密です。
 
 どんなに表面的に受身的にさせられても、それだけでは限度があります。ここで語られたことに気づいて、心で学び、悔い改め、出直しを図りましょう。
 自分のあり方を見直して、根本から改めていくのです。そして根本から清めていくのです。それが真のお清めです。そうすれば、コロナを真に克服することができます。
 現代は、浄化が本当に必要とされる時です。その意味でコロナの蔓(まん)延は、必然的でした。
 コロナの被害者になったり、コロナを余計に恐れたりすることなく、この法則と神の意図を知って、改めて現状を受け止め直し、本当にするべきことを適切に行っていきましょう。
 あなた方から始まって、周りにもこのことが知られ、共に行われていくならば、新生を遂げ、新時代へと入っていくことでしょう。そうなりますように。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16739

 
質問:家系に関することを、ONEの観点からいろいろとお教えください。
 
ソース:人間の命をどのように捉えると良いのでしょうか。
 さらに、人間一般を踏まえ、個人的具体的な自分という存在を、どのように捉えると良いのでしょうか。
 「どのように捉えるか」ということがきちんとできてこそ初めて、人間や、人間の一人としての自分に対して、より良い対応
ができます。
 そして、より良い対応をすることによって、人間や自分自身を、今よりもっと良くしていくことができます。
 こうして自分から始まって、ほかの人それぞれも今より良くなることで、家庭も社会も安全で明るい、快適な家庭や社会とすることができます。
 人間と人間の一人としての自分自身を、どのように捉えると良いのでしょうか。
 人間は、肉体と心と魂から出来ています。
肉体と霊体の2つの体から出来ている、とも見ることができます。
 また、肉体と心と魂という三重構造というのを、さらに細かく頭と心と肉体があり、そのそれぞれの元に魂がある、というように捉えることもできます。
 自分の中の肉体は、ご先祖さんからの賜物です。直接には両親からの賜物です。
 そのため、自分の肉体はご先祖さん、直接には両親と相似通っていて、家系的な賜物です。
 長所も短所も、良いところも課題も、さらには善業も悪業も、家系の中での要因を引き継いでいるのが、自分の肉体です。
 
 自分の中の心は、自分の輪廻転生の賜物です。心の次元での先祖とは、自分の前世の人物たちです。
 それゆえ、自分のそれぞれの前世の時の善業と悪業の結果が、自分の心です。長所も短所も、自分の前世からのものを引き継いで、それらと相似通っているのが心です。
 ちょうど肉体次元に遺伝の法則が作用していて、両親を始め、ご先祖さんに肉体が良くも悪くも似通っているように、自分の心は、前世の結果であるため、良くも悪くも、自分の前世の人たちに相似通っています。
 自分の中の魂の部分は、神さまからの賜物です。自分の魂の親は、創造主という神です。
 自分の肉体上の親は、お父さんとお母さんという肉親です。自分の心の親は、自分の前世の人たちです。自分の魂の部分の親は、根源神さまであるため、魂は根源神さまに相似通っています。ありがたく、うれしいことです。
 そこで、自分の魂に気づき、魂を発揮させることで本当の自分を取り戻し、実現させることができます。
 自分の頭と心と肉体のそれぞれの元に魂があります。そのため、魂に主軸を据えて生きることで、頭も心も肉体も治められ、浄化し、整い、発揮されるようになります。こうして命の全体性が回復し、ONEという本来の、命のありようが実現します。
 これこそ、本当の自分らしさであり、真の自分の実現です。魂が自分の中の第一原因だからです。
 神さまと自分との命の関わりは、垂直です。縦のつながりです。その上で、相対的に見ての自分の命の横の流れと、縦の流れがあります。
 絶対的な神さまとの縦のつながりを基にした上で、相対的な横の流れと縦の流れがあるということです。
 相対的な横の流れとは、輪廻転生です。自分自体の生まれ変わりです。
 相対的な縦の命の流れとは、家系の命の流れです。
 この、相対的な横の命の流れと、相対的な縦の命の流れとの交差した所に、今の自分が位置しています。
 
 今の自分は、相対的に見ると、前世からの結果であり、同時に一方、家系的な流れの結果にもなっているのです。
 心の面では、前世からの横の命の流れの産物。肉体の面では、先祖以来、両親を通しての家系の産物。それが今の自分です。
 家系的な流れで直接には肉体が、遺伝の法則によって、ご先祖の賜物であるわけですが、性質や興味や能力、さらにはカルマなどまで、ある程度は縦の流れの反映としても、家系の流れが表れ出てはいます。
 ただそれは、遺伝の法則のつじつまが合うように、家系を選んで生まれてきたまでのことであり、根底に流れる法則としては、心の面では、前世からの自分が自分で作り上げてきた産物です。
 肉体次元での遺伝の法則の根底に、輪廻転生という、横の命の流れが働いているのです。
 肉体的物質的次元での遺伝の法則を破ることなく、それに合うような形で、自分自身の持てるものが現れる家系の人間として、生まれてきます。
 こうして肉体の次元で、家系のつじつまが合っているため、その根底に輪廻転生の因果の法則が作用していることが、気づかれにくくなっています。
 しかし、突然変異や隔世遺伝などによって、本人自身のものを引き継いでいるということが、明らかになっています。良くも悪くも自己責任です。
 遺伝子の組み合わせで、本人特有の内面や外面になっていますが、ではなぜ、そのような遺伝子の配列になったのかという理由までは、物的科学では説明できません。
 
 そこに、輪廻転生や、さらに魂レベルでの法則、その元に神の意図や働きかけがあるのです。
 科学は物的次元の事実は説明できても、「なぜそうなっているのか」という理由や意図や目的までは説明できません。「そうだから、そうだ」としか、現代の物的科学では言うことができません。
 『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』を見ると、イエス・キリストの家系図が具体的に事細かく列挙され、紹介されています。
 メシアとしてのイエス・キリストが生まれてきたのには、それだけの根拠や準備があったということが、家系の流れから説明されているのです。
 イエス・キリストという特別な存在を筆頭に、人間は誰でも、良くも悪くも家系的な産物です。それでご先祖さんを大切にし、「先祖供養」ということが勧められるのです。カルマや福徳の面でも、確かに家系の影響を人は受けています。
 仏教ではもともと、個人のカルマの因果についてのみ述べていたのですが、その仏教が中国から朝鮮半島を経由して日本に渡ってくるようになると、家社会に合うような形でカルマの因果の法則が説かれるようになりました。
 もともとブッダの説いた教えでは、横の命の流れとしての、本人の輪廻転生の中でのカルマの因果の法則を述べていました。
 
 それが、シャーマニズムとしての農耕社会における家単位の、朝鮮半島から日本という仏教の変遷の中で、カルマの因果が、縦系列の家の中でのカルマの因果に取ってかえられて、説かれるようになったのです。
 個人の輪廻転生という横の流れでの因果は、本人の内省がなければ洞察しにくいこともあり、さらに、朝鮮半島や日本はシャーマニズムの国として、農耕社会の定住民が、家や土地を基本に共同生活している事情が手伝ってのことでした。
 そのため、「親の因果が子に報いる」。このように、家系の中でのカルマの因果や福徳ということが、強調されるようにすり替えられていきました。これに関しては、『ブッダのカルマ論』の中に説かれています。
 「親の因果が子に報いる」。確かに表面的物的現実には、そのような法則も作用しています。遺伝の法則も、それと関連しています。
 ただその根底に、個人の輪廻転生のカルマの因果が作用してのことです。それが物的家系的な流れの因果に合うような形で、個人の輪廻転生も合わせて動いているのです。そのため表面的な家系の流れだけしか、人は見抜けません。
 とはいえ、仏教が日本に伝えられるようになって、先祖供養を重んじる。そのことにも意味と役割はありました。
 その上で、個人個人が、自分を見つめ、自分のかけがえのなさに気づくこと。それによって本当の自分を取り戻すことが、必要な時期に入ってきました。
 それで改めて、本来の横の命の流れの生まれ変わりということで、自分を発見し、取り戻すことが必要になってきています。
 それが家系の流れを軽んじたり、破ったりすることはありません。もともと自分という存在は、家系の流れと自分の転生の流れとが交差したところに、出てきています。
 土地や家は、家系的な流れに関連しています。それにも意味と役割はあり、大事です。
 これからは、横の流れと縦の流れの関連性を見ながら、どちらも考慮すること。さらに、絶対的な縦の関係である創造主と自分とのつながりということに、基軸を据えること。これでONEになります。これで完全になるのです。
 「家が栄える」ということは、大事なことです。本当の意味で「栄える」ということです。俗世的表面的に栄えるというより、真の意味で栄えるということ。
 
「家系の力」というものがあります。例えば本当の信仰者は、信仰のある家系に出てくる場合がほとんどです。
 『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』でも、こういうことを言いたいわけです。「メシアほどの人物は、三代くらい続く信仰者の家庭では不十分で、十代二十代あるいはそれ以上の蓄積の中で初めて出てこれる」と言いたいのです。それが『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』に出てくる、「イエス・キリストの家系図」です。
 一般の人の場合でも、本当の信仰者というのは、三代ぐらい信仰があり、世の中に貢献した立派な人が曾祖父母、祖父母、両親と続いて、その下で初めて、その子どもとして生粋の信仰者や人格者が出てくる。
 そして親の福徳の庇護の下で健全に育てられ、本当の愛を知って、社会貢献できるような人間として、家庭から社会に送り出される。こういう「家系の力」というのがあります。
 また、霊的な面ばかりでなく、家系の職業や役割という傾向も出てきます。
 歌舞伎の家系、能楽の家系、学者の家系、経営者の家系、特定の職人の家系、芸術家の家系。このように、職業とその元になる特殊な才能、感覚、そういうものが家系的に引き継がれていきます。
 日本の最近の首相を見ても、ほとんどが首相の二世や三世ばかりです。
 日本の国にあって、家系の力や由緒ある生粋の流れということで、典型的に天皇家があります。天(あま)照(てらす)大(おお)御(み)神(かみ)まで先祖を遡(さかのぼ)ることができる、というのです。
 万世一系という流れに意味があり、力が宿ります。途中で途絶えないということ。また切り替わらないということ。
 比叡山に点る灯も、宗祖の最澄以来、同じ火がずっと、一度も消えることなく点り続けているといいます。
 味わい深い料理では、継ぎ足しながら同じ味を保持し続けています。秘伝のタレの継ぎ足しなどです。伝統の持つ力には、絶えることがないということ、そして切り替わっていないということ。そこに、力と精神と使命が宿り続けます。良いものが継承され、発展していく。
 『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』では、そのことを言いたいわけです。日本の天皇の流れも同様です。
 浄土真宗の本願寺も、宗祖の親鸞以来、血がつながり続けているということに、力と使命が宿り続けます。そういう中で果たされていくことがあります。これは世襲制の最も良い部分です。
 伝統芸能などには、血はつながっていなくても、同じ襲名を代々引き継いでいくことが多く行われています。同じ名前と役割と精神と技を引き継いでいくのです。
 これは宗教や特殊な技、役割において、多く見受けられます。ゾロアスター教も、「ゾロアスターという名前の人物が14代以上続いた」と言います。
 家系の流れとして血がつながっている世襲制の場合もあれば、血はつながっていなくても襲名がなされることで、代々精神と役割が引き継がれていく場合もあります。
 
 チベットのダライ・ラマの系統は、それです。「同じ実体の生まれ変わり」と言いますが、実際は同じ実体の生まれ変わりではあり得ません。すぐに次のダライ・ラマに継承されますので、生まれ変わりは起こり得ません。
 それでも、象徴的な意味での生まれ変わりではあり、精神や役割が途絶えることなく、代々引き継がれていくのです。
 政治家の家系にしても経営者の家系にしても、科学者や学者や教育者の家系、あるいは芸術の家系にしても、先祖代々悪業が控えられ、世の中に貢献するという福徳が、本人の来世に引き継がれるとともに、子孫にも引き継がれる。また、グループや会社にも引き継がれていく。そのような蓄積が因果の法則によって起こり得るということ。
 その意味では、日本で言われるようになった、「親の因果が子に報いる」ということは、あるのです。
 個人の輪廻転生の中で「自業自得」と言われるように、善業も悪業も、本人が相続者であり、自分のカルマを担って責任と役割を果たしていく。
 それが基本的なカルマと福徳の、因果の法則ではあるのですが、その応用編として、家系の流れやグループの流れの中での、カルマや福徳や役割や性質が、引き継がれ蓄積されて、それが後の代に増幅して表れ出るということもあるのです。
 災いや運命でも、能力や素晴らしい役割や社会貢献でも、このように後になるほど増幅して、前の代のものが蓄積されていって、後の代に表れ出るということ。
 何でもいきなり一代では、出てきにくいのです。目に見えない蓄積があるのです。本人の中でも、縁ある人々の中でも。
 キリスト教の福音書の場合は、イエス・キリストの家系図から、イエス・キリストの根拠が示されました。
 一方仏教では、開祖のブッダの前世物語が大切にされています。『ジャータカ』です。
 ブッダが、なぜそれほど偉大な存在として出てこれたのか。その根拠として、家系の流れというよりも、本人の前世の良い生き方の積み重ねが示されたのです。
 
 「先祖供養」には2つの面があります。癒されていない先祖を弔い、成仏させていただくように祈ること。もう1つは肯定的な面であり、福徳のあるご先祖さんに感謝し、大切にさせていただくこと。
 このように「先祖供養」には、否定的消極的面と、肯定的積極的面との両面があります。
 ご先祖さんには、いろいろあります。課題があって、子孫の足を引っ張っている先祖に対しては、よく本当のことを言い聞かせ、更生していただく。そして成仏していただく。
 神仏の慈愛が注がれることで、癒され、清められ、成仏していく。そうすると現状が改善され、子孫に良いものが表れ出てきます。これは否定的消極的面です。
 一方肯定的積極的な面での「先祖供養」とは、福徳があり、社会的に活躍したご先祖さんに感謝し、大切にさせていただくことです。そうすると尚一層守護霊として就いてくださり、子孫が保障され、子孫にも良いものがますます出てくるようになります。子孫の問題が解決し、一人ひとりが発揮され、良い願いが叶えられ、成就していきます。
 先祖供養に相当する、横の命の流れに対する供養があります。それが「前世供養」です。これは、ONEの教えの特徴の一つとなっています。
 自分の前世が癒され、頑張った前世に感謝する。前世供養においても、消極的否定的な面と積極的肯定的な面との両面が必要だということです。
 自分もいずれ先祖の一人に加わります。そこで今生きているうちに、良い働きをすること。良い人間になって良い働きをなすこと。そうすると、自分の子孫や後継者たちのためになります。自分の来世のためになるばかりでなく、自分の継承者や子孫のためにもなります。
 
 命はこのようにして、つながっていきます。たとえそれが自分自身の将来でなくても、つながりの中で続いていくのは、縁起の理法の教えるとおりです。そこに愛があります。それで神仏もご支援してくださる。そのことを考慮して、自分の未来に対しての贈り物と保障ばかりでなく、自分とご縁のある子孫や後継者の人たちに対しても、はなむけをするよう、回(え)向(こう)を心がけていきましょう。それがひいては自分にも返ってくることになることでしょう。
 こうして社会全般も、縁起のつながりの中で良くなっていく。自分が周りに及ぼしたものが周りを良くし、それが自分の将来の保障にもなる。自分につながりのある流れの将来に対しても、はなむけの回向となることでしょう。そのように生きてください。全ての命は一つ、愛は一つ、それがONEの教えです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16718

 
質問:苦悩はどのように捉え、対応したらよいのでしょうか。どうかお教えください。
 
ソース: 仏教では、「苦」「無常」「無我」、この3つが重要な真理として説かれています。
 まず「一切皆(かい)苦(く)」ということで、「全てのことは皆、苦しみである」。このことが説かれています。自分の思いどおりにならない。
 ではなぜ、全てのことが苦しみなのか。
それは、「諸行無常であるからだ」と、説
明づけられています。
 「あらゆる働きは、変わらずに続くものではなく、変わっていってしまう」ということです。これが諸行無常です。
 ではなぜ、全てのことは変化して止まず、変わらないということが叶わないのか。それは「諸法無我であるからだ」と、説明づけられています。法とは、存在するもののこと。
 あらゆる働きや営み、存在と理法は、実
体がない。「これこそは自分である、また自分のものである」。そのように、「永遠に続く自分の実体というものがなく、無我であるからだ」と、説明づけられています。
 このように仏教では、まず「一切皆苦――全てのことは苦しみである――という事実を直視することから始まり、全てが苦しみであるのは、永遠に続くものがなく、全てが変わってしまうからである」と。そして「全てが変わってしまい、永遠に変わらずに続くことがないのは、我(われ)という永遠に続く実体がなく、無我であるからである」と。
 このことに気づいて、無明と我執から解き放たれることで「涅槃寂静」、すなわち「心の平安に至る」と、説かれています。以上の4つを四法印と言います。
 「これは私である」
 「これは私のものである」
 「それらは永遠に変わらずに続くものである」
 そのように捉えたり期待したりする。しかし、現実はそうはならない。それは、自分というものがそもそもないからであり、縁起性のものであるからである。
 
 そのため、全ては変わってしまい、永遠に続くものは、何一つない。それなのに、永遠に続くと捉えたり、永遠に続くと期待するところから、苦しみが生じる。この、物の道理を悟ることで、心が囚われから脱し、平安に至る。これが仏教で説く、「苦」「無常」「無我」の教えです。
 また仏教では、「四(し)諦(たい)」を説きます。四諦とは、4つの真理のことです。「諦(たい)」という漢字は、一般には「諦める」と解釈されますが、そればかりでなく、真理や真実を指しています。「4つの聖なる真理」、それが「四聖諦」です。
 「苦」「集(じゆう)」「滅」「道(どう)」、この4つが聖なる真理です。これは、医療と共通しているところがあります。
 まず最初の真理は、「苦」ということです。現実は苦しみである。生まれてくることからして、苦しみである。
 仏教では「四苦八苦」と言い、主たる苦しみが、「生・老・病・死」です。「生まれてくること」「老いること」「病気になること」「いずれは死ぬこと」。この4つが、主たる苦しみです。
 副次的な4つの苦しみは、「愛する者と別れる苦しみ」「嫌な人と会わなければならない苦しみ」「求めるものを得られない苦しみ」、そして「自分の存在の全てそのものが、苦しみを盛り込んだような存在であるという苦しみ」。これが副次的な4つの苦しみ。
 このように、主たる4つの苦しみと、副次的な4つの苦しみを合わせて、「四苦八苦」と言います。
 「これが現実である」と、仏教では捉えています。これが最初の真理である「苦」です。
 2番目の真理である「集(じゆう)」とは、「集める」という字を書きます。
 なぜ苦しみであるのか。それは苦しみの元を集めているからである。苦しみの元となる悪業を自ら作り、その集積が自分だから。
 前世から、カルマを作ってきたからである。そのカルマを自分が集めてきたからである。いろいろな苦しみを招くカルマを、自分が作ってしまったのは、物の道理に昏(くら)い無明による。また、欲望に基づいて、飽き足らない、求めて止まない欲求があるからである。これを「渇愛」と言います。
 このような「無明」や「渇愛」によってカルマを作り、カルマが蓄積されているから、苦しむようになっている。これが「集」という真理です。
 医療に当てはめるなら、1番目の「苦」という真理は、病気で苦しんでいるという状態を指しています。
 2番目の真理の「集」とは、診断です。なぜ病気で苦しんでいるのかを診断して、明らかにする。それが「集」です。
 自らカルマを作って、カルマを自分の中に集積している。そのことが診断で、明らかになります。
 3番目の真理は、「滅」です。
 ではどうすればよいか。苦しみの元であるカルマを解消したり果たせばよい。さらには、カルマの元の無明を智慧によって破ること。こうして苦の元を滅すること。これが処方箋です。
 
 現実は苦しい。ではなぜ苦しいのか。カルマを作ってきたからである。そのカルマを作ってきたのは、元はといえば、物の道理に昏(くら)い無明と、飽き足らない欲求や欲望や感情のせいである。
 そこで、苦しみの元であるカルマや、カルマの元にある無明や渇愛を滅すればよい。これが処方箋です。
 最後の4つめの真理は「道(どう)」です。滅するには、具体的にはどうしたらよいのか。それが「道(みち)」です。仏教では「八正道」、また「中道」と呼ばれます。
 「苦行や自虐的なほうに向かわないこと」 一方、「快楽的なほうにも向かわないこと」
 「適切で健全な考え方や過ごし方をすること」
 これが苦楽の中道と言われます。それを8つの方面で展開したのが、「八正道」です。8つの適切な道、すなわち生き方。
 例えば、正しい考え方や正しい認識、正しい瞑想や価値観。正しい対処法、正しい食事の仕方。
 「正しい」というのは中道であり、極端に走らないこと。「適切でぴったりである」というのが、正しいということ。
 「どんなことにおいても正しく捉え、適切に応じたり行動したりすること」
 「祈りも、正しく適切にお祈りする」
 「人との関わりや物事の見なし方も、正しく適切に処する」
 これが「八正道」ということ。
 なぜ苦しいのか。苦しみの元であるカルマを集めてきているからである。そこで、苦しみの元であるカルマを解消したり果たしたりすればよい。これが「滅」。そのための方法や手立てとして、「八正道」や「中道」が勧められたのです。
 これが医療で言えば「治療法」。処置とか手術とか、薬を摂るとかです。あるいは養生して、ゆっくり休むとか、です。
 この場合、カルマが原因で苦しみを招いているということですが、カルマを作った元に「物の道理の昏さ」があります。
 そこで、教えを学ぶわけです。これはONEの教えにおいても、そのまま当てはまります。
 ONEの教えを学ぶことで、物の道理がわかります。そうすると、「なーんだ、そういうことなのか! それならわかる。それなら認め、受け入れよう」。このように納得し、気持ちが吹っ切れて解放され、現状を認め許し、それから適切に応じられるようになります。真理が薬のように効くのです。
 以上が仏教で説く「四(し)聖(しよう)諦(たい)」、4つの聖なる真理です。
 さらに仏教では「三学」を説きます。3つの学ぶこと、です。「戒」「定(じよう)」「慧(え)」、この3つです。
 
 「戒律を守ること」
 「正しい禅定、すなわち瞑想を行うこと」
 「それによって慧(え)――智慧――が生じる」
 これが仏教における、「苦」への対処法としての「三学」です。「学ぶ」といっても、頭だけで学ぶ知識や理解を超えています。もっと生き方や、修行そのもののことです。
 まず「戒律を守る」ということで、「悪を慎み、善を進んでなすこと」です。これで、自分が健全になり、整います。
 キリスト教のほうにも仏教のほうにも、守るべき規律や掟(おきて)があります。モーセ以来の律法があり、それが事細かに規定され、形式主義に陥ったり偽善に陥ったりしていました。あまり意味のない細かいことまで規定され、煩(はん)瑣(さ)になっていました。手段であるはずの律法が目的になり、人や自分を縛るものとなっていました。
 そこにイエス・キリストが現れ、律法を整理しました。そして本当に重要なことにまとめ、そのことを、有効に機能させるようにしました。モーセ以来のあらゆる律法は、次の一点に集約される。
 「全身全霊をもって神を愛しなさい。そして自分を愛するように、汝の隣(となり)人(びと)たちを愛しなさい」と。
 また、『ヨハネによる福音書』の後半部分には、イエス様が最後の晩餐の席で、弟子たちに伝えました。
 「あなた方に新しい掟を与えよう。それは難しいことではない。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これが新しい律法であり、戒めである。これを守りなさい」と。
 もともと規律や律法や戒律は、愛のためなのです。本当の愛が善です。本当の愛から外れ、本当の愛を損ねることが悪です。
 モーセ以来の律法にしても、仏教の戒律にしても、縛ることが目的ではなく、救うことが目的です。ユダヤ教の中でキリストがしたことを、仏教の中では親鸞が行いました。
 では、救われるにはどうしたらよいのか。
 悪を控えること。そして善を進んで行うこと。
 要するに、律法にしても戒律にしても、縛るためや苦しめるためではなく、道から外れないようにすることにあります。こうして、自分も周りも、社会も整います。
 「道から外れない」とは、「悪に向かわない」ということ。「悪い思い」「悪い考え」「悪い言葉」「悪い行いや対処法」、こういったことが悪です。そしてその悪が、苦しみを招くのです。カルマの因果応報の法則に基づきます。
 「悪」が苦しみを招くということ。それが「悪業」です。そうであるからこそ、律法や戒律が定められてきているのです。
 悪を控えるだけでは不十分です。「駄目だ」と言って押さえるだけではなく、「なぜいけないのか」、物の道理を教えを通して学んで知ること。
 
 また、いけないことを考えたりしてしまう元に、無明や渇愛があることを知って、自分を整えていくこと。現代的に言えば、癒しも必要です。
 このように、ただ「駄目だからしてはいけない」というのではなく、そのようにせざるを得ない事情や理由や無理解ということに思い至って、そこから処置していくことが必要です。さらに、良いことをどんどん積極的に明るい気持ちで行っていくこと。
 そのために、仏教でいう「三学」の智慧が必要なのです。そしてその智慧を得るために、禅定すなわち瞑想が助けになるということです。瞑想によって智慧が得られ、智慧によって正しい認識が生じて、物の道理がわかり、そうなると殊更「してはならない」と言われなくても、しなくなります。
 また、「どういうことが良く、どういうことがいけないのか」、智慧が生じてこそわかります。無明が明に変わります。明らかな智慧に。
 それで仏教では、智慧を重んじます。明るい智慧が無明を消し去り、物の道理に明るくなって、「どういうことがいけないのか」わかり、わかるだけでなくて、自ら控えるようになります。
 まず戒律を守ることで、自分が整い、落ち着きます。それにより、瞑想に入れます。その瞑想によって、智慧が生じ、無明が明に変わります。
 現代に必要なのは、本当の智慧なのです。物の道理に明るくなること。そのために教えを学んだり、魂を目覚めさせるチャクラの開発に取り組みます。
 「悪」を控えるだけでは不十分です。「善」を進んでなすことが必要です。それで悪業も相殺されます。
 自分を活かすこと。生命エネルギーを清めて発揮し、他者の助けになること。それが「善」です。「善業」です。それが苦しみをなくし、喜びや平安や恵みをもたらします。戒律はそのための規定です。
 苦しみは、自分を苦しめている前に、人や周りや自然を苦しめてます。それが因果応報で自分に返ってきて、自ら苦しむこととなります。他者に対しても自分に対しても、「悪業は、よろしくない」ということです。
 周りに及ぼした影響が自分に返ってきて、それを体験させられているのです。
 
 一方「善」というのは、周りに対しても自分に対しても良いものです。苦しみを解消します。喜びや恵みや平安をもたらすのが、「善」です。
 実は、健康法や病気の治療法も、これなのです。悪を控え、善をなすことです。それがまた、「浄化する」ということでもあるのです。
 良いことを思い、良いことを考え、良い言葉を語り、良い行いをする。これがお清めの基本です。
 汚れや穢(けが)れとは、悪業によります。
 「清める」というのは、「善業」によります。「良い思い」「良い食事」「良い言葉」「良い働き」、それが自らを清めます。
 「良い」というのは「愛」です。周りのためにも自分のためにもなる、それが「善」です。それが自らを清めます。これがお清め法です。これで病気も治り、チャクラも清まり、癒されます。これが戒律ということの目的です。戒律を守ると自分が整います。自分の肉体も心も整う。人間関係も環境も整う。これが戒律の目的。
 そうすると落ち着いて瞑想に入れます。こうして瞑想によって魂が目覚め、チャクラが開発され、智慧が生じます。智慧によって正しい認識が生じます。「苦の由来」や「どうしたらよいのか」がわかり、自分の気持ちが吹っ切れて解放されます。それから適切に対処して、現実の問題も解決できます。これが「戒・定・慧」の三学。
 以上は一般的なことです。ほかに「自分を知る」ということも必要です。自分のご縁と使命を知ること。
 自分を知るために、前世も役に立ちます。自分がどういう存在なのかを知ることで、なぜこういう苦しみが生じているのかが個別的具体的にわかってきます。
 自分を知ることは、自分のカルマを自覚することと関連しています。それによって自分の傾向がわかり、対処法も個別的にわかり、実践できます。
 これによって苦しみの由来がわかり、解決できます。自分の人生目的や使命を知ることも役に立ちます。
 
 一般的な真理からずれるだけでなく、個別的な真理からもずれないようにするべきです。
 そのためには、自分の縁を知るべきです。自分はどこでどういうことをする必要があるのか。そのことからずれていたら、余計な苦しみを招きます。
 このように、「己を知る」ということも大事です。苦しみを解消するために。
 「苦悩の解決法」ということで見てきました。一般的なところから見ていくこととともに、「己(おのれ)を知る」ということで、個別的具体的に自分を見ていってこそ、苦悩の原因や理由がわかり、適切に対処して解決を図れます。そして、さらに自分を活かして周りから喜ばれ、生活も成り立たせていただけて、神さまのお心に沿った充実した人生を送れます。真の自己実現が大事です。
 神さまの思い、しかも自分に引き当てられた個別的な神さまの思いを知ることも、大事です。「神さまはこの自分に、どうすることを願われているのか」。そのことがわかってこそ、苦悩が解決し、自分が活かされて、充実した人生を送れるようになります。
 神さまを知ることも、苦悩の真の理由と解決のために必要です。それによって、苦脳は否定的消極的なことや、ただの問題だということだけでなく、修行でありトレーニングであることがわかります。
 こうして、神の愛から苦悩が出てきている。苦悩の直接の理由は自分にあるにしても、根本のところでは神から苦悩が与えられている。こうして苦悩の肯定的な意味がわかり、それを進んで引き受け、それを糧(かて)としていくことさえできるようになります。
 
 これでこそ本当です。ただ「自分に問題があるから」とか、まして「人に問題があるから」とか「社会が不完全だからだ」とか、そういう見方は当たっていません。
 良いほうに自分を向けること。苦悩には理由、原因、意味、目的があり、事は神の下、前向きに起きます。そこで大事なことに気づいて、出来事から学んで改善し、体験とそこから得られた教訓を糧(かて)として、前向き肯定的に生きるのです。単に苦の解決、解消だけを目的とするというよりも。
 神の愛から来ているのが、苦しみです。これが究極的な、苦しみの解釈法です。それでこそ、自分を否定的に捉えることから脱し、自分の課題を通してさえ、全てが活かされ、感謝と信頼の中で、喜びを抱いて生きていけるようになることでしょう。
 これが新しい真理、すなわちONEです。これからの時代のための教えです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16672

 
質問:ご縁についてお教えください。
 
ソース: ARIのONEの教えでは、実際的なことが重んぜられています。それは、現実の動きにはそれだけの理由と根拠、意味と必要性、目的があるからです。
 神さまが宇宙に秩序を与え、公正に人を導く手立てとして、カルマの「因果の法則」を設けられました。
 そして、その「因果の法則」に基づいて、
人々を、本人のカルマを通して育て、導い
てくださっています。それが現実の動きと状況です。
 この法則の作用の仕方に、すなわち現実の動きと状況に、神さまのお心と神さまのなさり方が顕れ出ています。
 そうであるからこそ、ONEの教えでは、実際的なことを重んじ、いつでも現状の中で現状を受け入れ、現状を大切にやっていくことが勧められているのです。
 その「因果の法則」と「ご縁」ということが、深く関連しています。縁起、因縁で
す。人はご縁で成り立ち、やっていけます。
 
 ご縁を通して、前世からのカルマを果たし、成長を遂げ、今世生まれてきた目的と役割を果たしていけます。
 ご縁を抜きにして、前世からのカルマも、今世の目的と役割も遂げられません。ご縁ということは、実際的なことの中に表れています。
 「こうであるべきだ」とか、「現実から浮いた自分の願いとか理想」、そういったものは観念的で、現実とつながりがないため、真実でないことが多く、実現しにくいし、そのことを努力する必要もありません。
 もちろん、自分の心の中にある理想は大切にしたほうがよいし、心の中の理想やイメージや願いには、意味と根拠があることも多いです。
 現状の中では、まだ実現していないことでも、将来を予見するかのように、自分の心の中に、将来実現するであろうことや実現すると良いことが、すでに焼きつけられているからです。ただ、その場合でも、現状をまず受け入れ、大切にし、果たすこと。現状からスタートです。
 それでこそ、現状の責任とカルマと役割を果たし、その中でやっていけて成長を遂げ、着々と準備が整って、必要なプロセスを経て、心の中の青写真が、自分にふさわしい内容と規模で、実現していくのです。
 現状を嫌がったり、否定したり、拒否したままで、自分の心の願いを実現させようとだけしても、現状からして無理があるし、法則からしても難しいし、そのようにするべきものでもありません。
 前世で作ったカルマにしても、今世で果たすべき目的や役割にしても、自分個人だけのものはほとんどありません。過去から現在にかけて、現在から未来にかけて、カルマも役目も、過去のものを解消しつつ、新たに作りつつもあります。
 
 カルマは、周りとの関わりで作られた場合が多く、カルマをご縁のある人たちと共有し合っています。それゆえ、ご縁の中で取り組むことで、前世のカルマを果たせます。実際、人間関係や状況の中で、カルマが顕れ出ることが多いものです。
 同時に一方、今世の生まれてきた目的や、果たすべき役割や願いのほうも、単独で実現することは少ないし、理想や願いのほうも、ご縁のある人たちと関連している場合が多く、そのため、ご縁のある人たちとの関わりで自分の夢も叶えられます。
 「ご縁」というのは、「つながり」のことです。人は、ご縁の中で成り立ち、やっていける。ご縁を通して前世のカルマを果たし、今世の生まれてきた目的と役割を遂げられ、あの世に帰っていける。
 ここで「ご縁」というと、一般には当然のように「人とのご縁」ということが思い浮かびます。もちろん「ご縁」の中で、「人とのご縁」は大切であり、基本軸を成します。
 ただ、ご縁の中には「人とのご縁」以外にも、いろいろとご縁があるのです。そのことに気づいてください。
 「仏縁」などと言われるように、「仏さまとのご縁」。そしてもちろん、「神さまとのご縁」があります。
 
 「霊的存在方とのご縁」。ある人は、観音様とのご縁が深いです。不動明王とのご縁が深い人もおられるし、イエス様や聖母マリア様とのご縁が深い方もおられます。ここで霊的系統である「霊統」が浮かんできます。
 家系の宗教や宗旨にも、ある程度意味や目的が潜んでいます。これまで自分がご縁を頂いてきた宗教や霊的関係のことにも、自分の霊統のご縁が顕れ出ているものです。またその霊統は、前世の自分のルーツや経緯とも関連しています。
 宗教や霊的なことと関わらせていただく場合、ただ単に「こうであるべきである」とか「どこが本物で高いところか」とか、そういうことばかりでなく、「ご縁」ということで見ていく必要があります。ここでも「実際性」ということが大切にされます。
 宗教や霊的なことに関わらせていただく場合、本当のところで「良いところである」ということが、条件の1つです。
 もう1つの条件は、「自分とご縁があるかどうか」です。これは相性ということとも関連しています。ご縁のあるところには、ご縁のある人たちがおられるものです。それでこそ、前世からのカルマを果たし、今世必要な学びを頂けて、関わりの中で使命を遂行し、共に成し遂げることができて、あの世に帰っていけます。
 
 このように「ご縁」という場合、「人とのご縁」のほかに「霊的存在方とのご縁」というものが考慮されるべきです。家系的な先祖霊たちとのご縁もあります。「霊界の霊たちとのご縁」が、広くはあります。
 人は生きていく場合、関わりの中で共存し、協調していくことが求められます。「人や社会との共存と調和」「自然界との共存と調和」「霊界との共存と調和」。このいずれも大切です。
 多くの人は、今挙(あ)げた3つのどれかに偏っている場合が多いです。いずれも本当で、大切にするべきです。
 「霊界との共存と調和」の元に、「神さまとの共存と調和」というものがあります。また、「自然界との共存と調和」ということの中には、「土地とのご縁」「自然のいろいろな命たちとのご縁」もあります。
 また、「太陽とのご縁」「月とのご縁」、水星や火星などの「惑星とのご縁」もあります。ある人は天王星とのご縁が強いので、天王星を特に大切にすると良いです。
 このように自分の傾向を知って、「特に何を大切にすると成り立ち、生きていけて、使命を遂げられるか」ということが考慮されるべきです。
 このようにご縁の中には、「自然とのご縁」というのがあるのです。自然とのご縁の中では、まず「土地とのご縁」が重要です。
 人は、特定の家系と土地に、そのご縁によって生まれてこれるのです。ご縁がないと、この世に出てきたくても、出てこれません。そこで、出てくる場合、「ご縁」というつながりがあってこそ、出てこれます。
 「時代とのご縁」というのもあります。シュタイナーは「時代霊」という、時代を司る霊を重んじました。
 
 三次元領域に出てくる場合、「いつ、どこで」ということになります。その「いつ」ということを、時代霊が司ります。「どこに」ということは場所ですので、土地とのご縁です。人は土地との関わりで転生し、カルマも使命も果たしていけます。
 日本では特に、農耕生活が長かったため、土地とのご縁と家系とのご縁が結びついています。次第に工業化が進み、現代では情報化が進んでいるため、家系と土地とが必ずしも結びついていなくなってきてはいます。それでもある程度は、家系の流れと土地が関連しているものです。
 土地とのご縁を始め、自然のさまざまなつながりのご縁の支えで、人は生きていけます。
 「水が合わない」という表現が、昔から使われます。それは象徴的比喩的な意味も含めて、「人間には自然との相性やつながりということが大事である」ことを表す表現です。
 また、「どの地域の出身か」ということが問われます。これにも意味があり、人は生まれ育った所と別の所に移り住んでいても、未(いま)だに出身地の土地とのつながりがあり、出身地の土地の動きの影響を受け続けることが、感じられていたことによります。
 土地や家系とのつながりの強い人ほど、結局は、その土地や家系に帰って住むようになります。それで成り立ち、住みやすく、カルマも使命も遂げられるからです。
 一般に、家系や土地のつながりが強い魂は、長男や長女に産まれてきて、家や土地を継ぎます。名字(苗字)が変わらない人も、家系や土地とのつながりが強いことを表しています。
 
 人がこの世に生まれてくる場合、カルマは何も自分個人のカルマだけではないので、家系のカルマ、自分の前世のカルマ、土地のカルマ、地域社会とのつながりなどの、どれが優先的に作用するかによって、生まれてくる所や辿(たど)る運命が、自(おの)ずとそれ相応のものになります。その上で、自由意思が使われ、新たなカルマを作って生きていくということになります。
 自分個人のカルマや目的よりも、家系や土地のカルマのほうが強い人の場合は、自(おの)ずと「自分個人がどうの」というよりも、家や土地を守るような願いを持っていて、それが遂げられるような人生を送ります。
 また、地域社会とのつながりが強く、その目的のために生まれてきた人は、地方公務員になったり、地域社会に貢献するような働きをしたり、その願いを持って、それ相応の人生を送ります。
 日本の国のカルマとのつながりが前世から強い魂は、あまり地域とか家とか自分とかには関心がなく、日本の国に関心があり、国家公務員になったり、日本の政府の仕事に就き、手腕を発揮します。それで前世からのカルマも、今世の使命も遂げられるからです。
 首相になるような人は、器があるだけでなく、日本の国のカルマや日本の国土とのつながりがあるのです。また、首相になれるような家系に生まれてくるものです。
 「外界は内界の顕れ」です。その時点のその人の内面性を表す、状況と動きと体験になります。「たまたま総理大臣になる」ということはありません。天皇になるということも、もちろんその顕れです。
 その上で、「自由意思をより良く使う」ということが、求められてきます。
 「自由意思」が遺憾なく発揮されるためには、自分のご縁のある霊的な系統に就くと共に、どのような霊統かの元にあるONEの神さまにまで遡(さかのぼ)ること。それでこそそれぞれの霊統も活かされます。
 神との関わりで、自由意思が遺憾なく発揮されます。こうして運命が開拓され、定まったところは肯定的に捉えて、活かす方向で関わっていけます。
 変えられるところは積極的能動的に変えていき、変えられない部分は「そういうものだ」と理解して受け入れ、より良く捉えて適切に関わっていくということです。
 
 「人とのご縁」という場合、自分との関係からして、さまざまな人とのご縁があります。「自分自身とのご縁」ということも、見落としてはなりません。
 さらに細分化するなら、「自分の肉体とのご縁」「自分の心とのご縁」「自分の魂とのご縁」、それぞれあります。
 基本的に、自分の肉体は、「家系の賜物」です。自分の心は、「自分の前世からの賜物」です。自分の魂は、「神さまからの賜物」です。その全体が1つに構成されているのが、「自分」です。 
 「人とのご縁」の中には、「家族とのご縁」があります。それは前世からもご縁が深い人たちの場合がほとんどです。「父親とのご縁」「母親とのご縁」「祖父母とのご縁」。
 結婚している人の場合、「夫や妻とのご縁」。子どもを授かっている人の場合は、「息子とのご縁」「娘とのご縁」。また、長男・次男、長女・次女などと、複数子どもを授かっている方もおられます。さらに、「孫とのご縁」。このように家族のご縁があります。さらに、親族や親戚まで含まれます。おじやおば、甥、姪などです。
 人は必ずしも家系の中で、その子孫に生まれ変わるとは限らないし、自分の前世が家系のご先祖さんであることも少ないです。
 ただ、家系とのつながりが強い魂の場合は、家系の中での生まれ変わりもあります。また、家系の直系の生まれ変わりでなくても、関連の家系や、友人知人の家系に生まれ変わったりすることも多いです。
 人は、生まれ変わる場合、国や民族、人種、さらに宗教の別を超えて生まれ変われます。性別も超えて生まれ変われます。
 
 ただ、それでもある程度、自分の特徴や傾向は出ており、その方向で生まれ変わる場合が多いです。それでこそ、カルマも使命も果たせるからです。
 ただ時々、別の側に生まれ変わってバランスを取り、カルマを果たすこともあります。敵方に生まれるとか、です。
 前世で平家だった者が、源氏の家系に生まれ変わる。前世でギリシャは自分の敵だったけれども、今度は自分がギリシャ人に生まれ変わるといったようなことも起きます。
 いつもいつも同じ国の人として、あるいは同じ宗教の系統の人として、生まれ変わるとは限りません。
 これまで生まれ変わりを見る場合、同じ国や同じ宗教の系統の中で生まれ変わると限定して、捉えられすぎてきています。実際は、もっと広い範囲で生まれ変われます。それでもある程度、傾向はあります。
 また、古い時代には、ある程度制約の中で生まれ変わることが多かったのですが、次第に範囲が広くなり、制約から自由に生まれ変わるように、成長を遂げてきているということは見られます。
 ご縁を大切にしなければならない理由として、「人はある一定範囲で生まれ変わりやすい」ことがあるからです。
 万人平等で、人類は一つである。その前提の上で、特徴や傾向ということを見てこそ、実際的であり、成り立ち、カルマも使命も遂げられていくということです。
 ただの国際性や、一般的な真理だけ見ても始まりません。そうでないと、それぞれの国の実情の人のことがわからず、広い普遍的なONEだけスローガンで掲げても、現実は成り立ちにくいし、伝わりにくいです。
 
 個別性を理解し、尊びつつも、個別性だけに終わらず、広い普遍性にまでそれぞれが向かっていってこそ、ONEが実現するのです。
 人とのご縁という場合、社会性の部分も大切です。金剛界的な職業です。「仕事とのご縁」が大事です。それは社会性とも関連します。
 家族との、胎蔵界の人とのご縁と共に、金剛界方面の社会的な職業を通してのご縁。これは使命ということになってきます。
 多くの人は、前世と関連した職業にまた就きます。全く同じ仕事で、ということではないにしても、ある程度前世の時に近い仕事に就きやすいのが実情です。
 自分の使命を遂行し始めると、前世の時の仕事で関連した人たちと出会い直すことが多いです。
 ただ人は、発展的に進んでいくので、前世で関わらなかった人たちとも出会い、関わっていくということがあります。進展していくのです。その場合も、前世との関わりが基盤になります。前世という基盤を無視したり、軽んじたりしては、現実は成り立ちにくいのです。
 このように、仕事や働きの方面での人とのご縁があります。また、地域社会の人たちとのご縁ということもあります。
 仕事とのご縁と似たものとして、趣味や文化活動とのご縁というものもあります。前世で仕事だったことが、今世で趣味になる人は多いです。前世で趣味だったことが、今世で本業になることも多いです。
 そういうことで、趣味や文化活動や何かの学びで、つまり仕事以外でも、人との出会いとご縁は大事です。その中で、カルマも使命も果たされていくからです。
 カルマや役目や目的があれば、自(おの)ずとそれ相応の人と出会い、その中でカルマが出て果たされ、学びが与えられ、今世でより良い関わりに進展します。そうなるために、前世やカルマが知らされます。前世やカルマが具体的に知らされない場合でも、法則を学ぶことで、現状を間違いなく捉え、対応して切り抜けられます。
 またお祈りをして、神仏のお力添えやお力を頂くことで乗り越えられ、前世より前進できます。
 宗教の行や教えや祈りの内容にしても、前世でご縁のあった霊統だと、相性が良く、わかりやすく、学びや修行やご奉仕も進展しやすいです。
 ご縁のあるところには、ご縁のある人たちがいるものです。学校でも会社でも、霊的グループでも、地域社会でも。
 
 以上、ご縁についていろいろ見てきました。それら全てのご縁を自覚し、大切にし、活かしてこそ、今世がより良いものとして遂げられます。
 「自分のカルマを自覚すること」「自分のご縁を自覚すること」「自分の今世の目的と役割を自覚すること」。それが「本当に自分を知る」ということ。それで生きる基盤ができます。
 そうすると、今世の願いの意味がわかり、今世の生まれてきた目的を、ご縁の中でより良く遂げていけます。人は互いに相手に対して、責任とカルマと役目があるのです。
 以上のことをここで確認し、改めて自分を見直して、自分を本当にご縁の中で見出し、ご縁というつながりを大切に発揮して、今のこの人生を生きていきましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16647

 
質問:お役に立つことの大切さがONEの教えでは強調されています。このことについてご教示ください。
 
ソース: ONEの神であられる宇宙の創造主は、愛と知恵のお方です。その神に創造された神の子としての人間にも、愛と知恵が宿っています。
 愛と知恵は魂にあります。ただ、神の子としての人間は、まだ親としての神さまのような完全な存在にはなっていません。そうなれるよう、ONEの教えやリーディングが与えられています。
 生まれ変わりながら、親であられる神さまの働きかけで、自分が作ったカルマを通して、親であられる神が、育て導いてくださっています。それが、現実の動きや状況の説明です。体験学習です。
 
 試行錯誤を重ねながら、自分の作ったカルマによって、神さまから訓育を受けている。それが人生を生きるということ。広くは、輪廻転生するということです。
 生まれ変わりには、教育の面とともに恵みの面もあります。
 「かわいい子には旅させよ」と言われます。それと同様に、親であられる神は、子である人間に対して、地上に生まれ変わらせるということで、「旅のように楽しんでこいよ」と、プレゼントとしての機会を与えてくださっている。それが「生まれてきて人生を生きる」という、恵みの面です。
 「修行し、カルマを果たし、霊的成長を遂げること」。成長すればカルマも解けていきます。そして、「地上を天国にするため、人々のお役に立つため、自分を発揮していくこと」。この二つが生まれてきた目的です。
 霊的に成長し、カルマを果たすとともに、成長して良くなってきた自分を発揮して、世のお役に立っていくこと。それによって、地上にも天国が訪れる一助となること。これが生まれてきた目的です。
 そして3点目の生まれてきた目的が、「恵みとしての楽しみ」です。
 
 1点目の霊的成長と、カルマ解消により、完成し、自分の役目も果たし終えると、最早生まれ変わってこなくなります。こうして神の子として、天国で輝くようになるのです。
 愛と知恵が、それぞれ自分の中で完成するのです。ただ、自分が完成しても、他の人々のために地上に人間となって生まれてき続ける魂もいます。仏教で言う「菩薩」です。観音菩薩に象徴されるあり方です。聖徳太子も親鸞も、そのような存在と見なされていました。
 霊的に成長し、神の子としてふさわしいあり方になる。それは親であられる神の愛と知恵、それぞれが発達していくことを表します。
 「お役に立つ」ということが愛であり、慈悲なのです。だからお役に立つことが、ONEの教えで大切にされています。
 愛と知恵は並列関係ではなく、愛が元であり優先するべきものです。
 知恵は、愛が正しくより良く行われるために必要な手段です。知恵があることで愛が正しく働きます。知恵がないと、間違った愛になり、盲目的な愛に陥りやすいのが人間です。
 地上的な知恵は、愛とは別であり、時に愛と対立します。一方天的な知恵は、愛と一つであり、愛が正しく働くための手段としてあります。そこが「天の知恵」と「地上の知恵」との違いです。
 
 「地上の知恵」は、愛とつながっていないばかりでなく、愛に反することも多いのです。悪知恵や人を陥れる策略や偽ることなどは、その典型です。
 振り込め詐欺であったり、ハッカーであったり、戦争やいじめなど、世の中には知恵や力が悪用されることが多いです。それは愛とつながっていないばかりでなく、愛に反しているからです。
 一方、「神の愛と知恵」と言う場合の知恵は、「愛と一つ」なのです。天国とは、互いに役立ち、助け合うことで成り立っている役立ちの王国です。
 お役に立つ場合も、愛に基づく知恵が必要です。いろいろ行っているうちに、知恵もついて、愛が正しく行われるようになって、他の助けになれます。霊的に成長すると、愛も知恵も発達し善になってくるのです。
 天界は、上・中・下の3段階に分かれています。上位の天界に行くほど、愛も知恵も高まります。なぜなら、親であられる神さまが、愛と知恵の完成したあり方だからです。愛は熱、知恵は明るさで表れます。
 この世においても、本当にお役に立つためには、愛も知恵も必要です。愛も知恵も発達してきて、しかも愛と知恵が一つで神と一致するならば、本当に他の助けになれます。神のみ業を地上においてもなし始めます。
 
 イエス・キリストも、ゴータマ・ブッダも、愛と知恵の両方において優れていました。
 霊的に成長してくると、親であられる神と近い存在になるので、そのように自(おの)ずとなってくるのです。あとはその人のもともとの特性、タイプや役目や理想によって、そのあり方がバラエティに富んできます。
 知恵がないと、愛があっても有効に作用しないことがあります。ありがた迷惑とかお節介になって、本当に相手のために必要なことができなかったりで、残念です。
 愛は尊く、良いものなのですが、「本当にお役に立つ」ということが大事です。相手を思うということが、根本ではあるのですが、せっかく相手を思っていても、対応がぴったりしていなければ、お役に立てません。
 ARIのONEの教えでは、「愛が最も大切である」と教えられています。その愛というのは、観念的なものではないし、センチメンタルなものでも、自己本位なものでもありません。実際に働く助けが愛です。
 もちろん、純粋に相手を思っているだけで尊いし、思ってあげているだけで、すでに助けになっています。
 
 相手が良くなることを願い、悪くなることを願わない、悲しむ。これだけでもすでに、相手の支えや助けになっています。
 その上で、さらに適切な行動にも出れば、確かな助けになります。それが「お役に立つ」ということです。
 愛を最も大切にしているONEの教えにおいて、自ら動いてお役に立つことが大切にされるのは、そのためです。お役に立つことをONEの教えで大切にするのは、愛を大切にしているからです。
 「愛」というだけではよくわかりません。「その愛が実際の働きをなしていること」が、「お役に立つ」ということなのです。
 自分の身になって考えれば、すぐわかることです。自分が困っている時に、ぴったりの形でしていただくと、大いに助かり、本当に救われた思いになります。
 自分の人生を振り返ってみて、本当に自分が困っている時とか、何かをしてほしい時とかに、誰かがそれを察知してくれて、ぴったりの形でしてくださった時に、どう感じたでしょう。
 
 相手が救世主のように感じたはずです。相手の人が自分にとって神さまのようであり、恩人であると思えます。これこそが神のみ業です。
 仏教では「抜苦与楽」と言います。苦しみを抜いて、楽しみを与えること。自分が苦しい時に苦しみを取り除いてくださる母の悲(あわれ)み、自分が必要でためになることをしてくださって、楽しみを与えていただける父の慈しみ。
 「苦しみを取り除く」というのは、消極的なほうです。「楽しみを与える」というのは、積極的なほうです。いずれも助かり、ありがたいです。それで安心し、苦悩が取り除かれ、やっていけます。
 神の愛と知恵のみ業が、「抜苦与楽」です。これが「他者のお役に立つ」という利他愛です。
 善業であり、徳です。徳積みです。自分や家系の罪障消滅にもなります。自分や家族のカルマや罪が果たされ、浮かばれます。救われます。
 
 ほかの方の苦しみを取り除いてあげる悲(あわれ)み。ほかの方に楽しみを与えてあげる慈しみ。この慈悲は救済のみ業です。これがお役に立つということです。愛のみ業です。神の働きの一部です。
 これによってほかの人が助かり、成り立ち、心が安心し、喜べます。心も楽になります。慈悲喜捨の四無量心です。捨とは、心が平静となることです。
 相手との関係性、相手の人の状態や必要性、自分の立場や役目や能力、そういったことから、「今、自分が相手の人に何ができるのか」が、推し量れます。
 いつでも自分にできることをすれば良いのです。自分にできないことを悲しむのではなく、自分がその時できることを見つけて、それをすれば良いのです。
 
 「その時自分にできること」というのは、偶然ではないのです。それが「自分がすると良いこと」であり、神さまがそのようにセッティングしてくださっていることを表しています。それゆえいつでも、その時自分ができることをしましょう。
 それで、ほかの人が助かります。また、役立ちということは、人間に対してばかりではありません。自然の命に対して、そして物に対して、それから親であられる神さまに対して、お役に立たせていただくこと。
 それから、自分自身に対してもあります。本当の意味で自分のためになることを、自分にしてあげる、あるいは自分がするということ。ブッダは自分への愛を基本に慈悲を説き勧めていました。
 例えば、将来に備えて下調べをしたり、勉強したり、自分を磨いたりすることは、これはとても良いことです。休むこともあっていいのです。
 役立ちや助けは、ほかの人に対してばかりではありません。自分の自由になる時間や体力やお金を、自己投資ということで、自分に充(あ)ててあげる。そうすると自分が良くなります。
 
 こうして、良くなってきた自分が、今度は他者の助けに尚一層なれます。自分の態勢を整えて臨めば、尚一層、他の助けになれます。
 自分が何かを行う場合、「これを自分が行うことで、より多く相手の方たちが助かり、喜び、心が楽になり、元気にやっていけるように」と意図して、その時自分が行うべきことを行いましょう。
 その時点の自分として「これ以上できない」というぐらい、より良い思いとより良いやり方で行わせていただくのです。「お役に立つ」ということが愛なのですから、実際的に生きるのです。
 「これを自分が今することで、関わる人が助かり、心が楽になり、安心し、元気にやっていけるように」、そのように意図して、今自分がするべきことを行うのです。
 スウェーデンボルグも、「役立ちの大切さ」を強調していました。役立ちこそが愛だからです。身近なところで実際的に生きることを重んずるのが、本当の教えです。
 
 自分だけで満足したり自己陶酔するような高尚な教えや頭だけの考えは役立たず、あまり意味がありません。愛というのは実際的なのです。
 置かれた状況で、今自分ができることやするべきこと、役立ちそうなことを、たとえ小さくても軽んぜず、諦めず、きちんと真心からさせていただきましょう。
 本当のことがわかっている人は、小さなことをなおざりにしません。良いことでも悪いことでも、小さなことをなおざりにしません。小さな悪を控え、小さな善を行います。
 何でも日頃の小さなことの積み重ねです。善も悪も正当に報われていきます。やればやっただけのことがあるのです。宇宙は公平です。神の法則は完璧です。
 
 だから安心し、置かれた所でより良く思い、より良く行っていってください。
 「お役に立つ」ということが善業であり、徳です。それで自分も生かされ、救われていきます。罪障も消滅して頂けます。
 これまでの悪業や罪業を恐れないことです。神を信じ、自分を神に委ね、自分の可能性に賭けてください。自分の態勢を整え、自分を発揮して、より多くお役に立ち、他の助けとなっていくのです。
 そうすると、これまでの悪や欠点も相殺され、許されます。許されたければ、許すことです。他にしたことが自分に返ってくるからです。
 本当の信仰があれば、恐れたり悔やんだりしません。人のことも自分のことも、責めないこと。命が永遠であることが救いです。いくらでもいつからでも取り返しがつく、ということだからです。
 本当のことがわかって愛が大きい人は、自分を活かして、他の助けになるように生きているものです。
 本当の人は恩義を知って、恩義に報いていきます。自分だけを思わず、自分を活かして、他の助けになる働きをします。
 布施があります。施しです。施しには、「身施」「財施」「法施」があります。
 
 「身施」は、わが身を施すこと。自分の体を使って、他を助けていくことです。自分の体力の提供です。
 「財施」は、自分の持っているお金を施すことで、他を助けることです。お金の有効活用です。
 「法施」は、教えを他に施して、他の助けになることです。
 「法」というのは、「ONEの教え」のことです。本当のことをほかの人にも知らせ、教えてあげて、ほかの人が本当の理解に達し、気持ちが吹っ切れて楽になったり、本当の知恵がついたりすることです。
 ONEの教えやARIのことをほかの人に教えるのが良いと思える人は、ほかの人にも教えてあげましょう。自分が何をするかは自分に聞いて、自分で決めて行動しましょう。必ず自分にできることでお役に立てることがあります。
 仏教でもキリスト教でも、このように自分が教えで救われたら、今度は他の方々も教えで救われていくように、教えを伝えていくことが勧められました。それが「慈悲」です。役に立つことを教えてあげることが。
 いろいろ、愛と慈悲の行い方はあります。自分の置かれた状況で、自分ができることやすると良いと思えること、自分が納得することをさせていただきましょう。とっておきの情報をほかの人に教えるのが、「法施」です。
 
 ほかの人のお役に立って、ほかの人が楽になったり喜んだりすることが、自分の喜びや励みになります。それで相手の人が助かり、自分もその善業の行いを通して、救われていきます。浄化され、カルマが解消していきます。生きているうちから恵まれ、死後は天界に迎え入れられます。
 ほかの人が喜ぶことが、いちばん自分が喜べることです。「生きている甲斐(かい)があった」と思えます。
 人間はそのような時初めて、空しさを覚えず、命を体感できるように最初から創られています。それが「神の子」です。
 仕事と本務を通してお役に立つこと。そして、自分が価値を感じること、喜べること、できること、ご縁と恩義のあること、活かされること、求められていることなどを行って、お役に立つことです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16617

 
質問:2021年立春を迎えるに当たり、本年の日本と世界に関して、胎蔵界的、金剛界的両観点で予測し、展望してください。併(あわ)せて、留意点、対処法もお示しください。
 
ソース: 本年2021年は、日本においても世界においても、コロナに関しての正念場を迎えることになります。
 ワクチンの接種が日本においても始められ、それに関して慌ただしくなりそうです。
 どのように接種されていくかということ
とともに、その効果や副作用に関しても取り沙汰され、論議されていくことでしょう。ワクチンそのものの是非に関しても、問われることになりそうです。
 今年のうちにコロナを克服し、収束できるかどうかが、今年の重要な課題となりそうです。
 人類がコロナの真の意味を悟り、コロナから教訓を学んで成長し、改善し、コロナの真の目的が遂げられるならば、その証として東京オリンピックは簡素な形で、その
象徴として開催されることでしょう。
 
 しかしもし人類が、コロナの真の意味を悟れず、コロナから教訓を学んで成長し、改善するということがなされなければ、コロナはなかなか収束せず、東京オリンピックは中止となることでしょう。
 今後、コロナに関してどのような経過を辿っていくにしても、ある程度はコロナの影響が、今後とも影響を及ぼしていくことになりそうです。
 それによって、世界は変革を迫られることになります。経済的なダメージは大きく、世界は改変を余儀なくされることでしょう。
 人類や社会にとって、それほど必要ではないと見なされる業種や営みは、縮小されたり改変を求められることでしょう。最後の審判に近い厳しい整理や淘汰のようなことが起きそうです。
 コロナを機に見直しが図られ、人の生き方も価値観も、社会のあり方も改まりそうです。
 経済的に厳しい過酷な1年となるかもしれません。それでもその一方で、人々は産みの苦しみを通って、試行錯誤を重ねながら、新しい社会体制を作り出していくことでしょう。
 その意味で今年は、産みの苦しみを伴う、新しい価値観と、生き方と、社会の仕組み作りの、模索の1年となりそうです。
 IT関連はますます求められ、行われるようになり、さまざまなつながりやネットワークが、実際にもネット上においても模索され、構築されていきそうです。ネット社会がさらに加速しそうです。
 国同士の実際の交流や貿易も控えられ、それぞれの国が自分の国で、こじんまりと営まれていくような体制になりそうです。
 海外旅行や海外の交流は減少し、それが定着するようになるかもしれません。
 
 アメリカ合衆国では、トランプ政権に代わり、バイデン新政権が発足しました。これは新しい体制の象徴ともなりそうです。
 できるだけ穏便に平和に、それぞれの国が理解し、忍耐して、調整を図りながら、それぞれの国が自国として営まれていく体制になりそうです。互いに認め合いながら、それぞれの国がやっていくような体制です。そのような国際協調社会が求められるようになることでしょう。
 貿易や金融に関しては経済的なダメージも影響し、争いや軋(あつ)轢(れき)が生じそうです。そのため、調整が必要となります。
 金融方面の打撃は大きく、経済的な方面での争いや問題が、生じやすくなりそうです。国の覇権争いも気になりそうです。
 忙しい業種と職を失う人との開きが著しくなります。それらにより、自殺者やうつの人が増えそうです。また一部には、過労死も問題になりそうです。
 交通事故は減る傾向にありますが、今年は世の中が慌ただしく、人々の気持ちが定まらぬ影響も出て、交通事故が少し増えるかもしれません。
 地球温暖化の傾向は続きます。しかし、局部的には厳寒になって、大雪をもたらしたり、雹が降ったりの、異常気象が起きそうです。集中的なゲリラ豪雨があったり、一方では日照りがあったりなどの、アンバランスが目立ちます。
 人々はいこじになったり、焦りがちになったりして何かと争いが多く、自分を主張する人が増えそうです。強引に事を急いで運ぶ人も、また強圧的な人も目立つ年になることでしょう。
 そのような時代だからこそ、周りの動きに振り回されることなく、自分を落ち着かせ、自分を見つめ、自分を育成して、目の前のことに落ち着いて、謙虚に感謝の心で対応していくことが心がけの基本となります。
 全般的に見て今年は、それぞれの分野で試行錯誤を重ねながら、産みの苦しみを通って、新しい社会体制を作り出して、人々の生き方も価値観も、働き方や楽しみ方も、社会のあり方も、刷新される年となることでしょう。
 
 それはすんなりはいかず、軋轢や争いを招いたり、経済的なダメージや失業者を生じさせることでしょう。
 倒産する企業も増加の一途を辿り、国の経済も厳しくなりそうです。
 コロナは偶然ではありません。「外界は内界の顕れ」です。その時点のその人たちの内面性を表すような、状況と体験となります。
 人々が自然を労らず、欲望を満たすため、また肉体の感覚を喜ばすため、エネルギーを多く消費し、自然にも自分や人にもダメージを与えてきた結果です。
 人口も増え続けています。世界人口は、78億人に達しようとしています。人々は飛行機を飛ばしたり、電車や車を数多く走らせたり、また贅沢をし、過食気味になっていたりしていました。
 自然への感謝が足りず、自然を敬ったり自然と調和する、簡素な生き方が足りませんでした。
 エネルギーを数多く消費して、地球の自然を損ね、自分たちも弱体化してきました。また、欲望や肉体の感覚の喜びを追い求めた結果、生命体として、汚れが数多くチャクラに蓄積されました。そのため、浄化が必要となってきているのです。
 
 その象徴的な動きとして「手洗い」や「マスク着用」が、義務づけされているのです。行動の自粛や規制も、人々の行きすぎに対する自制を求める、象徴的な動きです。ただ、世間のコロナ対応は、形式的表面的物的機械的受身的すぎます。必要なことは、コロナから教訓を学んで成長、改善し、清まることです。
 外部から形式的機械的物的に強要され、義務づけられて従うというレベルを超えて、「なにゆえそのようになってしまったのか」に気づき、自発的に自分を自制し、コントロールできるように、感謝をもって調和しながら、少しで喜び、満足できるように、そして、感覚器官や生命エネルギーを清めるように、努め励まねばなりません。
 こうして自然と調和し、自然を大切にしながら、ある程度で満足し、喜び、感謝し、調和しながら、生きていけるあり方ができてきます。
 このように人がなるためには、自然の理法に気づき、魂が目覚め、根源の神さまの存在と働きに気づいて敬い、謙虚に素直に素朴に生きるということが必要です。
 
 そうなるためには、「魂の目覚め」と「霊的成長」と「お清め」が、最も効果的です。
 人々がこのことに気づいて根本から改まり、内面的に成長して充実・充足し、清まれば、免疫力が高まり、チャクラが浄化され、コロナを真に克服したことになります。
 消化器系が特に清まって活性化すると、免疫力がアップします。心が安定・充実すると、自律神経が良い状態になります。このようにしてチャクラが活性化し、コロナを克服し、コロナが収束します。
 胃腸を始めとする消化器系が清まり、元気になる食事を摂りましょう。
 ヨーグルトや納豆は効果的です。また、適度の日光浴をするのも良いことです。明るく健康的、健全に生きましょう。身心を清め、価値ある良いことを行っていくことが、コロナを克服するためにもなります。
 
 「何をどう思い、実際に何を行うか」に留意していくのです。「心の平安」と「感謝」と「充足感」、それがチャクラに最も効果的な思いです。その良き思いがチャクラを浄化したり、活性化します。「チャクラに良いのは食べ物ばかりではない」ということです。
 ARIにおいても、2021年の総合智シリーズは、2月に『チャクラ』の上巻、10月頃に『チャクラ』の下巻が発行予定です。これは象徴的です。2021年が霊的な学びにおいて、チャクラがキーワードであることを示していることだからです。
 これまでもチャクラに関して、ARIでは扱い、取り組んできています。それが改めて2021年には、重要になってきます。
 コロナを真に克服し、収束させる最大の鍵は、一人ひとりのチャクラの開発と浄化にあるのです。心身のお清めと活性化です。
 自律神経とホルモンが免疫力を高める。それがコロナを克服するために最も効果的である。このことは、世間でもある程度知られ始めています。その最大の鍵を握っているのがチャクラなのです。
 
 世間では、免疫力をアップするために、「日光浴」や「良い食事」や「腸内環境を整えること」は、言われ始めています。
 しかしそれ以上にもっと本質的で必要なのは、「心の良い状態」なのです。そしてその心の良い状態を作り上げるのが、「ONEの教え」と「祈り」や「礼拝」なのです。そうでなくて心の良い状態を作り上げるのは、難しいものです。
 ONEの教えを学ぶことで、本当のことで大切なことがわかります。そして、宇宙創造主であられる根源の神さまを敬い、感謝し、大切にします。そうすると心が安定し、充足します。こうして、心の良い状態が作られます。そうなると、心も行いも清まってきます。
 それによってチャクラが清まり、活性化します。その結果、免疫力がアップして、コロナを克服できるのです。これが霊的成長や、魂の目覚めということ。
 
 チャクラは魂の7つの働きなのです。チャクラの肉体レベルだけ見ても、表面的です。チャクラは本来、魂の生命器官だからです。
 ここで、霊的な学びが本質を成していることが見えてきます。世間では唯物的な物質科学を基としているため、捉え方も対応も表面的機械的形式的すぎます。それでは対症療法にすぎず、限界があります。ONEの学びは、命の本質に関わることです。それによって根治療法となるのです。唯物的な物質科学の元に霊的世界とその法則がある。このことに気づかねばなりません。
 あなた方から始まり、少しずつでもこのように、深いレベルでの気づきと対応ができれば、世の中が深まり、根本から良くなってくることでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉