メッセージリーディング
このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。(リーディング実施者:浅野信)
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
タイトルをタップまたはクリックすると、内容をお読みいただけます。
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。
当サイト内のすべてのコンテンツの無断転載や無断呈示などを固く禁じます。
リーディング No.17803
質問:蘇生力について、ONEの観点からご教示ください。
ソース:人間は誰でも、頭と心と肉体から出来ています。それらの頭、心、肉体の元に、魂があります。魂こそ、人間存在の本質であり、最も重要な核を成す部分です。
それで、肉体が蘇生するためには、肉体の元にある魂が、まず蘇生しなければなりません。それには、魂が天に接ぎ木されることが肝要です。
魂の中に、蘇生力や回復力が備わっています。その魂の機能がチャクラです。チャクラは、生命力の中枢になっています。魂の7つの働きが、7つのチャクラなのです。チャクラが活性化することで、肉体が蘇生していきます。
このように、魂の中に蘇生力と回復力があるのですが、ただ、魂だけでは限界があります。
魂は、天の創造主の分霊に相当します。天の創造主が命の親、魂はその子、なのです。
命の木の「幹」に相当するのが「天の創造主」、命の木の「枝」に相当するのが「それぞれの人の魂」です。
「ヨハネによる福音書」の中で、キリストは、次のように言われています。
「神さまは、木の幹であり、一人ひとりの命はその木の枝に相当する。枝は幹に繋がってこそ、生き続けていける」と。
この喩えのとおり、一人ひとりの魂だけでは限界がある。ちょうど水栽培や生け花、フラワー・アレンジメント、それに類するさまざまな営みに限界があるように、魂が長く存続し、元気でいられるためには、魂は命の根源であられる天の創造主に繋がっていなければなりません。
そこで、一日を「天への礼拝」からスタートするのです。それによって魂が、天の創造主と天界に接ぎ木がなされます。
それにより、天の創造主から魂に生命力が流入し、魂が元気になって回復力が生じ、肉体も蘇生していくのです。
生命の本源であられる天の創造主に深く礼拝して敬意を表し、自分の全てを任せ切るのです。
このような礼拝と祈り、それから瞑想、このような命の本源との霊的な交流によって接ぎ木がなされ、生命力が流入してきて、魂が活性化し、チャクラが活発化します。それによって、肉体も蘇生へと向かうのです。
一方、次のようなことも助けになります。肉体が蘇生するためには、頭と心も大切です。頭と心と肉体は、互いに関連し合って、相互に影響を及ぼし合っています。
肉体が蘇生するためには、頭でONEの真理を学び、理解すること。そのために、ONEの教えを学ぶのです。ONEの教えを学ぶのは、そのためだけではありませんが、肉体が蘇生するためにも、頭でONEを学ぶことは助けになります。
頭でONEの真理を学び、理解することで、いろいろなことが納得でき、受け入れられ、気持ちが解放されて楽になります。心が良い状態になるのです。
このように、頭でONEの真理を学び、理解すると、価値観が正され、正しい理解と認識に到達し、それが心に及び、気持ちが吹っ切れて、心が楽になり、心が安定し癒され、心が良い状態になります。このように、頭と心は関連しているのです。
こうして、心が良い状態になると、今度はそれがチャクラを介在して肉体にも投影してきます。頭でONEを学んで理解してくると、心が解放され、楽になり、良い状態になります。
そうなると、その良くなった心の状態が肉体に投影してきて、肉体も蘇生し、元気になっていくのです。
先ほどの説明では、魂が命の本源であられる天の創造主と接ぎ木がなされ、祈りや礼拝や瞑想によって、霊的な交流を図ることで、魂が活性化し、魂の中の蘇生力が肉体に及んできて肉体が蘇生する、ということでした。
もう一つ、今説明したのは、頭でONEの真理を学ぶことで真理を理解すると、「なるほど」と思えて、頭での理解が心に及び、気持ちが吹っ切れ、楽になり、浄化され、癒され、心が良い状態になります。心が安定して、充足してきます。
そうなると、その良くなった心の状態がチャクラを通して肉体に投影し、肉体が蘇生して元気になっていく、という面もあるのです。
このように、天への礼拝と祈り、瞑想をしつつ、ONEの教えを学ぶこと。この2点が肉体が蘇生していく上で、助けになります。
また、使命や義務を通して、周りの助けになっていくこと。奉仕的な生き方をすること。仕事や義務、またご奉仕を通して、助けと喜び、安らぎ、理解、勇気などを、周りに及ぼしていくこと。
このような徳積みによっても、自分のカルマが解消し、周りから喜びや感謝がやってきて、自分の肉体にもそれが及び、肉体が蘇生していくのです。
このように肉体が蘇生していく助けになる3つめは、「ご奉仕」「徳積み」です。
できるだけ悪を控え、良いことをどんどんしていくこと。周りに好ましくない影響を及ぼすことを極力控え、好ましい影響を、できるだけ周りに及ぼしていくのです。
周りに及ぼしたことが、周りから自分に返ってくる。この作用反作用のバランスの法則が、カルマです。
結局、生きていく中で、自分が体験させられることというのは、自分が意識的にせよ無意識にせよ、周りに及ぼした影響が周りを刺激し、その反応がそれ相応のものとして自分に返ってくるという、事柄を表しています。
やればやっただけのことがあるのです。善も悪も、全ては正当に報われます。神の法則は、完璧です。公正です。安心してください。
生き霊の影響にしても、亡くなった霊たちからの影響にしても、自分が周りに及ぼした影響が、周りを刺激し、その反応がそれ相応のものとして、自分の元に返ってきて、それを受けることになります。これでカルマが完結します。カルマが果たされる、ということです。
人生で起きて体験していくことは、偶然ではないということです。それゆえ、心の健康のためにも、肉体の健康のためにも、日頃から、周りに良い影響を及ぼすように心がけることです。
それにより周りから肯定的な良い反応が返ってきて、自分の心も肉体も良い影響を受けて、健康で元気でいられます。
周りの人から感謝され、好ましく思われている人は、運が良く、恵まれた人生を生きることになります。病気にもほとんどならず、健康でいられます。
ほかに、肉体が蘇生するために必要なことは、直接肉体に関することに、心がけることです。
天の摂理の物質界での表れである自然の摂理に沿って、日々生活すること。太陽の動きに合わせ、早寝早起きの、明るく健康的な生活を送ること。食べる物も、腹7分目ぐらいにして、中道を心がけ、おいしく感謝して、しみじみと戴くこと。その時の自分に合う、バランスの取れた食事や飲み物を摂取すること。
自分の肉体を悪いことのために使わず、良いことや必要なことのために、肉体を使うこと。肉体に感謝し、肉体を労り、肉体をメンテナンスして生きていくこと。
肉体にも心が宿っています。それゆえ、肉体を慰めてあげたり、肉体に感謝したり、肉体を労ってあげましょう。そしてその時に自分に合った体操や体の動きをさせてあげること。ONEの教えでは、アドリブ体操があります。
このように、肉体が蘇生するためには、肉体自体にも、直接、良い影響を及ぼすように心がけること、があります。体に良い食べ物や飲み物を、与えてあげるのです。そして、自分に合う呼吸法や、頭と心と肉体のバランスの取れた、明るく健全な生活を送ること。
そして、先ほど述べられたように、肉体を罪のために使わず、良いことや必要なことのために、肉体を使うことです。
そして、義務や使命や仕事のために、肉体がより良く使われるよう、日頃から自分の肉体を見直し、整えること。自分の心も見直し、整えること。人間関係も見直し、整えること。周りの状況や環境を見直し、整えること。部屋の換気を良くしたり、お掃除をすること。
部屋の掃除や片づけ、トイレ掃除などは、心を磨き、心を清め、それによって肉体も清まり、カルマも解消へと向かいます。
部屋の整理整頓をすると、頭の整理整頓にもなります。「外界は内界の表れ」であり、内界と外界は相互に関連しているからです。
このように、部屋とか書棚とかを整理整頓する、あるいはファイリングする。いらない物を処分したり、片づける。一方、良いものは積極的に集める。そして活用する。そのようにすると頭も整理整頓され、すっきりします。物からの影響も人は受けるからです。
部屋を掃除したり、換気を良くしたりする。そして、気持ち良く穏やかに呼吸して、生かされて生きていることをしみじみと実感させていただく。
肉体が蘇生するためには、まず心が蘇生することが必要です。一般においても、また、医療においても、「肉体は心の影響を受ける」ということは、知られてきてはいます。
しかし、一般に知られている以上に、肉体は心の影響を受けているのです。心の影響が肉体に及ぶ、それを介在する器官がチャクラなのです。肉体上では、自律神経と内分泌腺です。
心の奥に、心の本体である魂があります。チャクラは魂の7つの働きです。チャクラは直接には、心の働きとして表れています。
それゆえ心を清め、心を整え、心を良い状態にすることで、チャクラが清まり、活性化します。それにより、肉体も蘇生し、健康になり、回復していくのです。心の影響が肉体に及ぶ。それを介在するのがチャクラなのです。
結局、心の状態を良くすることで、チャクラが清まり、活性化します。それにより、肉体が健康で元気になる、ということです。
ケイシー・リーディングの中には、「あらゆる病は罪から生じる」とさえ、出てきます。「直接的な悪を犯す」ということばかりでなく、「天の摂理とその物質界の表れである自然の摂理に反することは罪だ」と言えます。自分の中に罪意識や恐れや悲しみを抱くこともまた、罪と言えます。
自分を許さず、恐れや悲しみに囚われていることも、広い意味での「罪」です。そういった罪意識も含めて、自分の罪が病気の元です。それと、過労、エネルギーの消耗で病気になります。
特に、ムラダーラ・チャクラのカルマが、病気を招いています。ムラダーラは、生命力の元であり、性的なことに関するチャクラです。性腺に相当するチャクラです。
確かに、性的なことは、生命力の源泉です。それがクンダリニーと深く結びついているのです。
性的なことは愛と深く関連しています。愛と生命は一つです。それが性腺です。正しく生命力が活用されることが、健康への道です。それで蘇生していきます。キリストもその方向で、復活を遂げられたのです。
生命と愛が深く関連していて、生命の進化段階を上っていくほどに、愛が本物化していきます。それに応じてチャクラも清まり、発達していくのです。そのことと肉体が蘇生することは、無関係ではありません。
そのためキリストは、人の病を癒すことができ、最後は自分自ら、死から復活を遂げられたのです。その秘密がチャクラにあります。
生命力を否定せず、しかし野放しにせず、昇華させ善用していくこと。それが空海が日本にもたらした真言密教です。それがキリストがもたらした、愛と命の肯定的教えの、日本版です。
全ての秘儀の中で最も大切なのは、その死からの復活の秘儀なのです。「ヨハネの黙示録」も新生がテーマになっています。その中で病気からも解放され、癒されていくのです。
病気は、人生で起きる出来事の中でも、最大のテーマです。病気を通して教訓を学べて、癒され、清められ、成長を遂げていきます。その意味で病気は、貴重な学びと改善と成長の機会です。浄化もされます。
生命を学ぶことほど、尊く大切なことはありません。「生命を学ぶ」とは、「愛を学ぶこと」です。
自分の肉体の傾向と特徴を知り、カルマの特徴も知り、自分の肉体を教科書として、命と愛に関しての学びに取り組みましょう。それが上手くいった結果として、蘇生と健康がやってきます。
そのことに、自分の体という教科書を読み、取り組んでいってください。それが「ONEの学び」です。ありありと健康である状態をイメージし、体感することも助けになります。
できる所から始めましょう。ちょっとでも上手くいったら素直に喜び、感謝し、それを励みに、次に繋げましょう。
たとえすぐに上手くいかなくても、そのことを疑わず、この取り組みを諦めず、何度でも見直し、また取り組みましょう。
その取り組むプロセスが必要で、価値があるのです。それが「ONEの学び」です。
(ありがとうございました)
リーディング No.17763
質問:「ヨハネの黙示録」は何について記された書物なのでしょうか。ONEの観点からご教示ください。
ソース:「ヨハネの黙示録」は、ヨハネ自身の内観によって授かった霊体験の、一連の修行の報告記です。特にキリスト内臨の体験記です。
使徒ヨハネは、当時の社会的権力者たちによって、パトモス島に流罪にされました。その試練の命の危機の只中で、ヨハネは自
分の中を見つめ、そのありようのプロセスを克明に記録していきました。
記録自体も神によって促され、導かれるように書き留めていきました。自分自身の肉体と心と魂に、いろいろなことが起きてきました。
「黙示録」に出てくる天変地異、戦争、病気、奇怪な生き物の登場、それらは全て、ヨハネ自身の肉体や心に現れ出てきた動きの象徴です。自分の心の中の葛藤や恐怖が、天変地異や戦争として描かれているので
す。
こういった心の葛藤を自分の中で体験しながら、ヨハネは浄化と育成の一連のイニシエーションを辿っていったのです。新しく生まれる新生への、キリスト者の試練、死と再生のイニシエーションです。
ヨハネ自身も、ヨハネの仲間たちやヨハネから指導を受けている人たちも、当時試練に見舞われていました。その厳しい状況の中で、ヨハネ自身もヨハネと繋がりのある人たちも、自分の内側にある、新生する回復力の発動する方法を必要とし、それを切に求めていました。
そのような中で、ヨハネに神から啓示が与えられたのです。ヨハネ自身、神のお手入れを受けつつ、自分の内側を見つめ、完成に必要な浄化と育成のプロセスを一通り辿っていったのです。
その途上で、自分の内部に繰り広げられた変化や激動を、克明に描いていきました。奥深い潜在意識での出来事は、夜の夢と同様に、象徴的な形をとって現れる。
そのため「黙示録」の中には、ヨハネの中で起きた一大変化と激動が、象徴的な表現で描かれているのです。
「黙示録」の大半は、暗くて重い、そして怖いような、否定的イメージがその多くを占めています。それは、ヨハネが自分自身と向き合い、自分を深く見つめ、掘り下げていったことを表しています。
そういった一連のプロセスを経ることで、神からのテストに一つ一つ合格し、肉体も心も浄化され、育成され、整っていきました。イニシエーションです。
そして、最後の2章を見れば明らかなとおり、ヨハネは自分を克服解消でき、人間完成を見ました。ちょうどブッダが悟りを開いた時のように、人間完成したのです。
「黙示録」の最後に出てくる「新天新地」とは、「一新されたヨハネの意識と肉体」のことです。いずれは「一新された霊界と顕界」になります。自己完成から社会完成へ波及していきます。いずれ地球全体が新天新地になるのです。
「天から静かに降りてくるエルサレム」とは、「神さまから賜る聖霊の命が、ヨハネ自身の中に注ぎ込まれ、新生を遂げた」ことの表現です。進化し、完成した意識が、「ニューエルサレム」です。進化した魂の状態です。
完成して、美しく光輝くヨハネの魂と心と肉体が、立方体の光輝く神殿として、美事に描かれています。
こうしてヨハネの生命は完成し、光輝いたということを表しています。キリストのような神人合一を達成し、意識は静まり、平安になり、命はみずみずしく活き活きとしました。
ヨハネは神人合一し、いつでも超意識状態になりました。ブッダが悟り、平安になり、ダルマと合一し、救われた時と同様です。使徒ヨハネはブッダの転生者でした。
「命の川」とは、ヨハネの体内を、神さまの生命エネルギーがスムーズに清らかに流れるようになった、ヨハネの天的な生命状態を表しています。
命の川の両岸に生えている「命の木」は、ヨハネの生命体のそれぞれの部分が、命を蘇生したことを表しています。魂に内在する、命の供給と治癒と新生の働きです。
「命の木に毎月実を結ぶこと」は、ヨハネとその仲間たちが神の理想を目的として、その活動と働きが絶えることなく続けられていることを表しています。
現在のARIの活動に対応させるならば、毎月会報誌が作られ、発行され、学ぶ方々のお手元に届けられること。また、単行本が毎年発行され、定期的にいろいろなイベントが開催されていること。日々、リーディングが行われていること。それらに相当します。
そういった、神の理想の目的とその働き・活動が、絶えることなく存続し、地上で行われ続けることが、「命の木に毎月実を結ぶこと」として、象徴的に描かれているのです。
「キリストの再臨」とは、自分の魂の意識である超意識が目覚め、天の創造主が自分の中に入ってきてくださって、自分の中で創造主と自分の魂が融合したこと。そのことを、キリストが再臨することとして、約束されています。
実際、ヨハネ自身、キリストの再臨によって、「黙示録」の体験をスタートしました。それからキリストという超意識に導かれ、自分の中にお手入れが加わり、キリストの型、パターン、その理想のキリストの基準に、ヨハネ自身が合致していくプロセスで、カルマの洗い出しが生じ、自分の中にも恐怖や抵抗を体験しながら、次第に理想の、キリストが作り上げた完成したパターンに、ヨハネ自身が合わさっていくプロセスで、いろいろなことがヨハネの中に、精神的にも肉体的にも起きてきたことを、表しています。
古い自我と欲望に基づく、人間が造り上げた地上的な文明の型、パターン。それが「大いなるバビロンの都」として登場します。ヨハネ自身の、古い地上的で自分を表すいろんな価値観や考え方や生き方を表しています。
大いなるバビロンの都と対比的に登場する、「新しいエルサレムの都」は、「天の創造主とその顕れである天界」です。具体的にはキリストの作り上げた、完成した基準とパターン。それを表しています。
古い、人間が造り上げた好ましくないパターンに基づくエゴと我欲の文明は、滅び去っていく。それが「最後の審判」として、描かれています。カルマの大清算です。
それに取って代わり、キリストが作り上げ、残していった理想の形、それがヨハネ自身の中で次第と優勢になり、遂には自分の全ての部分がそこに合わさって成立し、合致したことが、最後に起きたことを「黙示録」は記しています。ヨハネは自分の修行を成就し、達成したのです。神人合一です。
「額に神の印を帯びた144000人」とは、ヨハネ自身の内部にキリストのパターン、ONEの基準が出来てきた細胞たちです。自分全体の、144000人に喩えられる割合の細胞たちが、清められ、古い価値観や生き方から、ONEという真の基準の形に移行したこと。それが「144000人の、額に神の印を押された者たち」で表されています。
自分の中でどれだけ、古いパターンから新しいキリストの、天界のONEのパターンに置き換えられていったかということが、新生のプロセスです。
「ヨハネによる福音書」の中に、キリストのお言葉として、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と記されていることです。
古いものが自分の中で通用しなくなって清算され、葬り去られていく。キリストの十字架刑による死に相当します。それが「最後の審判」です。
それに取って代わって、新しい本当の天のパターンが出来てきた。ONEという天の摂理が。「ヨハネ・ペヌエルが転生してきて、世界に新秩序をもたらす」ということです。
「万物の新しい理法」とは、「ONEの法則」のことであり、あらゆる事柄や分野において、古い型が滅び去って清算され、新しい本来の天界の基準であるONEが、万物の新しい理法として地上にも築き上げられていきます。新しいエルサレムの降下です。それはまず、人間一人ひとりからです。
その最初がキリストであり、それからヨハネがそのことを求められ、通り抜けて完成しました。それがいずれ、全人類にも波及します。
そのプロセスをヨハネは、書き留めました。それが、他の仲間たちの参考や指針となります。新生を遂げるその生命力を発動する方法と力が、「黙示録」には封じ込められています。それゆえ、各自が新生を遂げるキリストの秘伝の書物が、「黙示録」です。
ヨハネは生前にも、キリストの側に身を置かせていただきました。キリストが昇天された後は、霊的にキリストが現れて、パトモス島でキリストが指導して、霊体が、キリストから新生を遂げるイニシエーションを授かった。そのことを記した書物が、「黙示録」です。
「黙示録」の中に「7」という数が何度も出てくるのは、7つのチャクラが、肉体のレベル、アストラルのレベル、カラーナのレベル、そしてプルシャのレベルと、らせん構造上に幾重にも折り重なりながら、七重のイニシエーションを、4回経ていったことを表しています。
ARIの会報誌も、虹の7色をチャクラに見立て、それを7年周期で、何度も辿っていくイニシエーションの道となっています。
「外界は内界の表れ」。それゆえ、ヨハネ自身の内部に起きたことは、ヨハネの周りの状況や、実際の動きにも表れていました。そのヨハネ自身の周りの動きをも、「黙示録」は記しています。広くは世界の動きを。
しかし直接には、ヨハネ自身の内部の肉体と心と魂に基づいて起きたことの霊体験を、基本的には記した書物です。それが「外界は内界の表れ」ゆえ、ヨハネの周りの状況や実際の動きにも反映し、そのことをも「黙示録」は記したことになります。
さらには、グループソウルということで、ヨハネ派のグループの人たちの身辺に起きたことも記しています。当時のローマ帝国の、問題多き状況と動きを。
「黙示録」はまず、ヨハネを始め、学ぶ人たちの内面に起きたことを記しています。そしてそれが、周りの状況や実際の動きにも反映してきたので、そのことをも記しています。
例えば、「666」で表される存在は、当時キリスト者たちを迫害していたネロ帝を表しています。竜と獣はローマ皇帝たちを表しています。
ローマ帝国から厳しい迫害を受けて、試練に見舞われていた、当時のヨハネ派の人たちや、広くはキリスト者たちの、生きづらい大変な状況を表しています。
古い文明の型、パターンは、直接にはローマ帝国のあり方を示しています。「大いなるバビロン」とは、ローマ帝国のことです。
「竜」は、自分の中のクンダリニーの生命力を表しています。それが自分が整っていないうちは、脅威としての存在になってしまっています。それゆえ、クンダリニーは自我をも表しています。
「竜が従えている二匹の獣」とは、自分の肉体の欲望と心の感情を表しています。顕在意識と潜在意識を表しています。
一方、ローマ帝国の権力によって殉教を遂げた「二人の預言者」とは、自分の中の潜在意識と超意識を表しています。その二人の預言者は神のお力によって再生させられる。それは潜在意識と超意識が浄化され一新することを示しています。外的には、ペトロとパウロが二人の預言者です。
その自分の中の、より良い二つの意識が、古い価値観によって一度死んでしまう。しかし、神によって生かされ、甦ることを表しています。
このように「黙示録」は、直接には、ヨハネ自身の内部に起きた闘争や葛藤が描かれています。古い型から新しいONEの型に移行していく自分の内でのせめぎ合い、を表しています。そしてそれが、周りの状況や動きにも現れてくるということをも、表しています。
直接には、ヨハネたちが生きたローマ帝国の時代状況を表しています。そしていずれ将来、ローマ帝国が滅びることを、示してもいます。
実際、ローマ帝国は滅び、キリスト者たちの精神的王国がローマ帝国を支配するようになりました。キリスト教は、ローマ帝国の国教となったのです。これが取りあえずの、物的な新しいエルサレムであり、新天新地でした。
しかし、浄化と進化は何段階も経ていきます。その場合、法則に基づいて辿るパターンは、らせん状になるため、似たようなパターンを、法則からして歴史上辿ることになります。どの地域においても。
そのため、別の地域、別の時代にも、「黙示録」の法則は当てはまります。これにより、いつどこにおいても、「黙示録」が参考と指針になり、「黙示録」の預言が成就したことと読めるのです。
「黙示録」は直接には、ローマ帝国のヨハネたちが生きた時代を描いた書物です。その意味では社会批判の書物なのですが、その同じ法則は、別の地域・別の時代でも当てはまるので、別の地域・別の時代でも、「黙示録」の預言が成就したことになり、どこのどんな人が読んでも、「黙示録」は参考になるのです、普遍的なパターンを述べているので。
それで例えば、20世紀から21世紀にかけての現代でも、「黙示録」は当てはまります。そして、参考にもなるのです。
世紀末には「黙示録」が流行り、「黙示録のこの箇所は、1992年を述べたものであり、この箇所は99年を述べた箇所である」などといった、「黙示録」の解説書が世に出ました。
それはある程度当たっていますが、完全には当たっていません、解説として。それほど「黙示録」は限定されていません。ヨハネが、2千年後の現代を見越して記した、ということではなかったのです。ただ結果として、法則から、「現代にも黙示録は当てはまる」ということはあります。
もう一つ、こういうこともあります。それは、この現代は取り分け、2千年ほど前の「黙示録」に近い様相を呈してきている、ということ。その分、身に迫って「黙示録」が当てはまり、参考や指針となり得ます。
そのような時代状況であるからこそ、ヨハネ自身も生まれ変わり、生きているのです。
ヨハネはこの2千年の間、何遍も生まれ変わってきてはいましたが、ただ今回は、「ヨハネが自分の前世を思い出して、自覚して取り組んでいる」というところに、他の前世との違いがあります。
それだけ今は、「黙示録」が顕在化し、その預言が大きく成就しつつある時代、ということはあります。
「黙示録」の中で、ヨハネは、「再び預言しなければならない」と、告げられています。「イエス様が来られるまで、存続し続ける者がこの中にはいる」とも、キリストは言われました。
状況が揃い、整い、必要性があり、切に願い求めれば、態勢が出来たところで、イエス様がふさわしい形で来られる、ということはあります。
基本的に再臨は、内臨です。しかし「外界は内界の表れ」なので、外的にも外臨として、再臨が起こり得ます。
タウラーは、キリストの内臨を強調し、大切にしました。そのタウラーは、ヨハネの転生者でした。
「黙示録」の中には、一人ひとりが新生を遂げられる力と方法が、封じ込められています。その意味で「キリストの秘伝の書」であり、一人ひとりが浄化と完成へのキリスト者としての道を歩む、恰好の書物です。
それが『聖書』の最後に「黙示録」が置かれたゆえんです。それで『聖書』全体の預言も成就します。「創世記」がアルファ、「黙示録」がオメガです。そのオメガを、ヨハネは引き受けました。
今はある意味で、審判が起きつつある時代状況です。大きな審判が「最後の審判」です。因果応報の法則が、地上で作用しているのです。ブッダも説いたことです。
「黙示録」の封印が解かれ、今、その動きが起き始めています。そうであるからこそ、「黙示録」を取り上げ、正しく解釈することで、正しく活用する道が開かれます。
そのことをようやく、会報誌でもこのように公表できる時が来た、ということを表しています。そのことに取り組んでいきましょう。
あなた方の目の前に、その機会が与えられています。
「黙示録」は、より進化してヨハネ・リーディングを始めとする現在のARIの活動として行われています。ヨハネ自身もその周りの人たちも、黙示録のヨハネが転生することを知り、自覚し、その使命を間違いなく遂げられるよう、予めケイシー・リーディングの中でヨハネの転生が伝えられねばならなかったのです。
(ありがとうございました)
リーディング No.17746
質問: 仏教のニルヴァーナについて、ONEの観点からご教示ください。
ソース: ニルヴァーナは、日本では「涅(ね)槃(はん)」と訳されています。初期仏教の目指していた、理想の境地です。静寂の、安らぎの境地のことです。それを仏教では、「涅槃寂静」また「寂滅為楽」などと表現しています。
ニルヴァーナの意味は、ロウソクなどの炎を、息をふっと吹きかけて消した静寂な心の状態のことです。
心の中の思い煩いである、燃えさかる煩悩の炎が、仏教で説く、真理の息が吹きかけられることで消され、心が鎮静化し、落ち着き、楽になった状態です。
心の中のさまざまな煩悩が、自分の心を思い煩わせ、それが周りにも及び、周りの人たちをも困らせている。そういった苦悩の状態と状況から脱させるべく、ブッダは宇宙の理法である「ダルマ」を説き聞かせました。
それによって心が真理を悟り、納得了解
し、気持ちが吹っ切れて解放され、楽になります。心解脱です。
そういった心の思い煩いや欲、執着といったものから解き放たれて、心が自由になる。それが「解脱の境地」です。後の大乗仏教では、「空(くう)」と呼ばれるようになりました。初期仏教の時代は、「縁起」と呼ばれていたことです。因縁生起です。
どんなものにも実体はなく、縁によって生じ、縁によって滅びる相対的なもので、囚われるほどのものはそこにはない。そのことに気づくことで、執着から心が脱することができて、平安な境地になります。
気持ちが穏やかで楽に落ち着いて、安心して生きていけるようになります。「救われた状態」とも言えます。自分の状態が良くなるので、周りの人たちも安心してくれます。このような、安らかで穏やかに過ごせるあり方が、「涅槃」と呼ばれます。
後の仏教では、心の思い煩いには、いろいろあることを表現するために、「百八種の煩悩」と言われるようになりました。いろいろな執着や思い煩いがあるからです。
それらが人を苦しめ、制約を設け、道を誤らせます。それが自分にも周りにも、困ったものをもたらし、カルマを生じます。そのカルマの結果が、それ相応に表れ出てきて、困ることになります。
そういった因果のカルマの道理を、ブッダは説き示しました。しかも、このカルマの因果の法則が、前世、今世、来世と、三世にわたって、一貫して作用しています。
今心の中でも、実際の状況においても、困るようになっているのは、偶然ではなくて、かつてどこかでそのような種を自分が蒔(ま)いたからです。それが次第に熟して、それ相応の結果を招いている、ということです。
カルマの因果の法則に基づいて、輪廻転生している。それが苦しみの人生を作り出している。
そのことに気づいて、ブッダの指導に従い、瞑想したり、自分の心を見つめたり、良いほうに自分を向けたりすることで、次第に本当のことに気づいて、気持ちが囚われから脱し、安らぎの境地に到達する、ということです。
後の仏教の『般若心経』の中では、「こちらの岸辺から、彼方の岸辺である彼岸に到達できた」と表現していることです。
仏教は、「苦」をテーマとしています。「全ては苦しみである」と捉えています。それを「一切皆苦」と表現しています。仏教は、その「苦」の自覚からスタートしています。
「では、なぜ苦しいのか?」
それは、「真理に疎(うと)い、無明状態による」と見ています。そこから「渇愛」という、喉の渇きにも象徴される欲求が湧いてきます。この無明と渇愛によって苦しみの輪廻転生が続く、と見ています。
そこで、縁起の理法を説き聞かせ、意識が縁起の理法の真理を悟ると、次第に渇愛が鎮静化してきます。それに伴い、心の思い煩いや執着や愛着も、次第に和らいできます。心が解放され、解脱していくのです。
「諸行無常」。全ての働きは、永遠に変わらずに続くものではない。それは「諸法無我」。全ては縁起によって一時的に生じているだけの、実体のないものだから。
そのことを悟ることで、心が吹っ切れて自由になる。「涅槃寂静」。それが「空(くう)の境地」です。自在に囚われなく、空を生きることができるようになるのです。自然体でありのままに生きることで、全てを見抜き、全てをそのまま受け入れ、活かせる空の境地になります。
このように変幻自在に空を生きることで、自分のことも人のことも見抜き、自分のことも人のことも状況も、そのまま活かせるような境地が「空」です。気持ちを穏やかに楽に、安心して落ち着いて、置かれた所でやっていけるようになります。
「諸行無常、諸法無我」。この物の道理を悟ることで、納得了解し、現実を見抜いてそのまま受け入れ、活かせるような、自由な境地になります。それが「涅槃寂静」と言われる理想の境地です。
このように、カルマから解脱することで六道輪廻が終了し、輪廻のサイクルから脱することができるのです。
初期仏教では、「十二縁起」が説かれています。ブッダが菩提樹の下に座って瞑想し、悟った内容が「十二縁起」だとも言われています。
無明と渇愛が苦悩の原因であることを見抜き、真理を悟ることで無明と渇愛が収まっていきます。それによって心が解放され、平安になります。心が自由な空の境地です。
ブッダとは、「真理に目覚めた者」の意味です。一人ひとりがブッダを見習い、ブッダが悟った内容を辿ることで、ブッダと同様に納得し、深く了解して、煩悩から解き放たれて、安らぎの穏やかで楽な境地に至ります。その状態で、生きていけるようになるのです。これが「生前解脱」です。
まだ肉体があって、この世に生きていて、完全な解脱ではないので、「有餘依(うよえ)涅槃」と呼ばれます。そのようにして生き切ると、完全に解き放たれ、その時は「無餘依涅槃」と言われます。完全なる解放です。
ちょうどキリストが十字架に掛けられて一度死に、全てが清算され、解放された後、 復活を遂げた一新された生命状態です。全く新たにされたのです。完全なる物の次元からの解放が、「無餘依涅槃」と呼ばれます。
ブッダの悟りの内容は、「十二縁起」と共に、「四(し)聖(しよう)諦(たい)」としても説かれています。四つの聖なる真理です。「苦・集(じゆう)・滅・道」。この四つの真理のことです。これは、医療に近い考え方と道筋です。
「苦」という真理は、「全ては苦しみである」ということの自覚です。
「では、なぜ苦しいのか?」
それは、「苦しみの元を集めているから」です。無明と渇愛です。「自分がカルマの集積だから」とも言えます。
「それでは、どうしたらよいのか?」
「苦しみの元を滅すればよい」のです。カルマを解消し、真理を達観することで、無明と渇愛が和らいでいきます。それが「滅」という真理です。
「では、その方法とは何か?」
それが、「中道と八正道」です。「中道と八正道」というのは、全てにおいて適切で適度であること。極端に走らず、またやりすぎず、やらな過ぎず、何においても適切で適度であること。
わかりやすく言うと、「どんなことにもきちんと、ぴったりの形と内容で応ずる」ということです。その「中道と八正道」を具体的な現状で、見抜くのが知恵です。
それぞれの事柄において、「中道や八正道が、具体的にはどんなものか?」を見抜く知恵が必要です。それが般若の「空(くう)の知恵」です。
いついかなる場合においても、ぴったりで適切な考え方や言葉や対応法を取ること。それが「中道と八正道」です。
それによって問題が解決し、必要な良い願いは相応しい形で叶えられ、生きていけます。
わかりやすく言うと、「どんなことに対しても、健全に正しく捉え、きちんと適切に対処する」ということが、カルマから解脱する道です。そうすると、これから困ることが起きなくなってくるのです。
人生で困ることが起きて苦しんだり悲しんだりするのは、かつてどこかで、ほかならぬ自分が正しく捉え、きちんと対処することを怠ったことに対する、それ相応の結果です。
もし正しく捉え、きちんと応じていたなら、苦しんだり悲しんだりという目には遭わなかったはずなのです。因果の理法からして。
そのことを悟り、現状に責任を取るべく、まずはどういったことが起きた場合でも、必ずこのようになることを自分がしたのだろうということを、自分で気づいて、どういうことにおいても、まずは認めて受け止めること。
そして、神さまのお力を頂きながら、正しく考え、適切な言葉や対処法で、現状に一つひとつきちんと応じていくこと。こうすると着々とカルマが遂げられていき、責任を果たし、問題が解決します。
そしてそういう生き方や応じ方や考え方をしていれば、これからは悪業を作らずに済むので、困るようなことになりません。事後対応のようなことに迫られずに済んで、安らかに生きていけるようになります。責任を取らせ、間違いに気づかせるかのように、困ったことが起きてくるのです。
「善因楽果、悪因苦果」。これが因果応報の道理です。良いことを思ったり行ったりすると、楽しいという結果が出てくる。
「悪因苦果」。好ましくない思いや行いをしたり、あるいは怠慢だったりしたら、苦しいという結果が出てくる。一種の条件づけの行動原理です。この法則を神さまが設けて、宇宙に秩序を与え、公正を期しておられます。そしてこれは、神から人への教育法になっています。
苦しい目に遭った時は、自分を見直させ、正させ、対処して責任を取らせ、考え方や行い方の間違いに気づかせ、責任を果たさせよう、という教育です。
一方、恵まれて喜ばしいことに遭遇した場合は、「考え方や行い方が良かった」というお知らせであり、「それでいいから、その調子でこれからも生きなさいよ」という、お諭しです。
このように「善因楽果、悪因苦果」という行動原理によって、神さまにしつけられ、育て導かれているのが人間です。
出来事メッセージ、出来事言語という体験学習によって、神さまにしつけられ、育て導かれていくのが人生の歩みです。
偶然起きることはありません。全ては正当に報われます。やればやっただけのことがあります。全ては、日頃の思いや行いの積み重ねです。それによって自分が作られ、周りの状況や動きも作られています。
この行動原理が、前世から今世、今世から来世へと貫かれています。誰においても公正で、納得できます。安心してください。全ては正当に報われていくように、神さまのお蔭で造られている世界です。
このような物の道理が真理です。この物の道理を見抜くのが、知恵です。「般若の知恵」とも呼ばれます。
知恵によって、このような真理に目覚める。それによって、気持ちが吹っ切れて穏やかになって解放されていく。こうして「涅槃の境地」に至ります。
そうすると、自分のことも状況も人も、そのままを理解して受け入れ、そのまま活かせるような知恵と慈悲が出てきます。
「空を自在に生きる」という、変幻自在な生き方になってきます。どんなことでも執着せず、そのままを理解して受け入れて、活かせるようなありようです。
囚われがなく、水が流れながら、相手の形に合わせて周りを潤し、活かしていけるような、水や風のような自由なあり方が「空」です。初期仏教では、「縁起」と言われていた内容です。これが仏教の教えです。
それぞれの人がそのままを生かしながら、自在に生きられる。変幻自在な境地の中でそれぞれが生かされ、マンダラの世界が現出します。
自分のことも人のことも見抜き、そのままを認めて尊重して愛して、活かしてあげられるようになるのです。
初期仏教の時代は、まだ「苦の解決」あるいは「苦の超克」が、第一目標でした。そのため、消極的な印象があります。
後の密教では、生命を大肯定する前向きで大らかなあり方に、変わっていきます。その場合でも、初期仏教の真理を悟って心が解放されるということは、基盤にあります。アンチ・テーゼからジン・テーゼです。
テーゼとしての一般の人たちの現世肯定に対して、一度アンチ・テーゼを通って見直して反省し、清算させます。それが初期仏教です。
その後、ジン・テーゼとしての、密教の大肯定の世界が出てきます。この世や欲や感情が一度否定され、濾過された上で一新され、純粋に生きてくるのです。それがジン・テーゼの、密教のあり方です。
仏教の最後に空海が登場し、この生命謳歌の大肯定の、命の世界が開かれました。その元にもやはり、仏教である以上、「涅槃寂静」の、自分の欲望や感情から解放されるアンチ・テーゼを通っての純化があります。
消極的なニルヴァーナを経て、そこから生命が大肯定で出てくる「大(たい)楽(らく)」、大きな楽しみは、ちょうどキリストが死んだ後、一度清算されて一新され、かくして命が大肯定された歩みと対応します。「ヨハネの黙示録」も、このプロセスを通っています。
モーセとブッダは、まずアンチ・テーゼを通らせて、清算させたのです。その後、キリストと空海が出てきて、生命を復活させ、新生させたのです。「第二の誕生」が、イニシエーションによって実現します。
そのような、大らかで肯定されて生かされる天界への道行きを、「ONEの教え」で与えられつつあります。
そのことに気づいて、その歩みを通っていきましょう。それぞれの人が通るべき道が、ちゃんと用意されているものなのです。
自分の道に気づき、自分の道を歩んでいってください。その際、ほかの人の歩む道も理解し、配慮して、手を差し伸べてあげましょう。それが菩薩大乗道です。
(ありがとうございました)
リーディング No.17711
質問:変性意識の可能性について、ONEの観点からご教示ください。
ソース: 現代は、能力偏重の時代状況です。頭脳を何よりも重んじ、頭脳に信頼と価値を置いています。子どもの学校から大人の社会構造に至るまで、能力によって序列化されています。しかも、その能力は効率的な物的次元にのみ、限定されています。
そのため、それとは別の能力や、能力以外の「心、愛、さらには魂、神」に関することは、考慮されていません。
これは、ONEの真の基準からすると、限定的一面的で、偏向が著しく、本当ではありません。好ましくないのです。その方向で意識の働きについても、影響を受けています。通常の意識状態を良しとし、それ以外は考えられません。
仮に、通常の意識状態以外の状態があった場合は全て問題視し、「異常である」とか「劣っている」とか、否定的に見なされ、価値は全く置かれていません。論外と見な
されたり、治療の対象と見なされたりします。
統合失調症などの精神疾患や、一般の人でもパニック障害のような状態あるいは好ましくない意識状態に陥っている時など、通常ではない意識状態に対しては全て、問題と見なし、その可能性などは全く考えられません。
ここで、通常の意識状態以外の変性意識には、肯定的な面と否定的な面の両方があることを知るべきです。
確かに否定的に表れ出て、今困った状態に陥ってることはあります。しかし通常の意識状態の全てが問題で、真実や価値が全くないということは、本当ではないのです。
精神疾患に罹っている人の場合でも、よく見ると、そうなるような深い事情や理由があったり、そういう状態の中の鋭い面や一般の人が窺(うかが)い知れないものを捉えていたり感じていたり、ということが実際はあるのです。
昔から「天才と狂気」などと、異常状態に対して言われます。確かにどの分野の天才でも、一般の人のようではありません。そのような際どい中に、天才も働きます。
宗教やスピリチュアルなどにおいて、特に、神秘的密教的な奥深い領域においては、古来から特殊な意識状態に注目されてきています。
日本でも、「いたこ」はよく知られています。精神世界では、「トランス状態」などと言われます。託宣、神託が行われています。
変性意識には、大きく分けて2つあります。本人自身の意識が、通常の意識状態ではなくなった場合。もう一つは、本人の意識状態に別の存在が介在して、変性意識状態になる場合。この二通りです。
『聖書』の中でも、特に「エゼキエル書」「ダニエル書」「ヨハネの黙示録」は、精神医学や精神病理学から見ると、異常者の記録であり、「そういったものには真実性はなく、取り上げる価値はない」と見なされてきています。
ほかの『旧約』の預言も同様に、取り扱われてきています。あるいは単なる空想の文学作品と見なされたり、多少真実があっても、かなり誇張されたり象徴的に描写されていると、見なされてきています。
確かに象徴的に記されている部分はあります。しかし、象徴にも意味はあるし、単なる誇張ではなく、真実がそこには秘められています。
「福音書」に記されているキリストの起こした奇跡や、『旧約』にあるモーセやエリシャをはじめとする存在たちの起こした奇跡、また、ブッダや空海の起こした奇跡、そのほか神秘家たちの体験したことを、どのように見なし扱うか、ということです。
そして大事なことは、そういった神秘現象は、かつてあったというだけでなく、今でもある、ということ。
一方、世界中にある神話や伝説、民話、伝承、昔話、そういった中にも、神秘的で奇跡のようなことが、数多く記されています。日本では『古事記』が代表的です。それらをどう見るかです。
現代の科学や学問は、唯物史観に基づいているため、本当のもので大事なものが捉え切れていません。よほど芸術家や小説家や詩人のほうが、本当のところを捉えて描いています。
学問や科学は、本当のところを捕らえ、解明するはずのものなのに、実際は論文のような学術的な世界は、かえって真実から外れていたりします。半端な理性や論理が、奥深い真実と生命を損ねてしまっています。
もちろん現代の学問や科学にも、真実性や可能性はあります。それによって明らかにされてきたものも多いです。今後ともあることでしょう。
しかし、ただその方向だけで全てが解明されつつあるとは、とても言い切れないものがあります。そこで、こういったONEが登場する必要性が出てきているのです。
「意識」と一口に言っても奥深く、そして広く、いくつかの階層を成しています。通常の顕在意識のほかに、潜在意識、さらには超意識があります。潜在意識には、今世の記憶や働きの「潜在意識A」と、前世に由来する記憶などを基にした「潜在意識B」があります。さらに魂の意識である超意識があります。それは天界や神界、さらに神と通じています。
霊界や宇宙などと人間の意識は、通じています。夜の夢の中でも、単なる潜在意識の投影の、主観的な夢ばかりではないのです。
人間には、肉体のほかに霊体もあるので、肉体では飛べなくても、霊体では飛べたりするのです。こういったことは、現代の常識や学問では全く知られておらず、考慮されていません。そのため、大事な真実が否定され、価値を全く置かれていません。
通常の意識状態でわかることも、たくさんあります。それはそれで意味があり、大事です。やはり人間にとって理性は、基本です。理性を失ってはなりません。
ただ、「それが全てだ」となると、可能性がしぼんでしまいます。人間にはそれ以上の価値と可能性と目的があります。
例えば仏典に出てくるような、「ブッダが深い禅定に入って、地響きが起き、その深い禅定から通常の意識に戻って、人々に説法した」とあります。
「ヨハネの黙示録」も、深い瞑想状態で捉えた真実を、語り伝えている報告記です。
通常の意識状態が基本ではあるのですが、それだけでは捉えきれないものを、変性意識状態で捉えうることがあるのです。そのために、変性意識状態に入っていきます。あるいは意図的ではなく偶発的でも、一般の人の場合においても、変性意識状態に入った時、わかったり感じたりすることがあります。
それで通常の意識状態に戻ると、今までとは見え方や受ける印象が変わり、ちょっとしたことで感激したり、喜べたり、ちょっとしたことを大切にして、慎ましく生きられるようなありように、変わります。
太古の昔からの秘儀の最重要なものは、3日半肉体から魂が出て、天界や神界に至り、そこで体験したものが深い意識に刷り込まれ、その後肉体に帰ってくる。3日半の間仮死状態に置かれ、魂が天界や神界に帰って神秘体験を得、そこで英気を授かって肉体に戻る。
そうすると、これまでとはいろいろなことから受ける印象が変わり、自分の認識や意識状態に変化が生じています。そういう新しい意識状態で生きていくようになるのです。意識が一新されるのです。これが秘儀です。「キリストの死からの復活」は、その極みで起きた事です。
一般の人でも試練に見舞われると、そのような変化がある程度生じます。そこに神の意図があります。それは、秘儀に通じる効果があるのです。人生の苦難を通してのイニシエーションです。
肉体が死んだような状態になり、肉体の機能がほとんど停止した仮死状態になった時、通常の意識に取って替わり、奥深い意識が目覚めて働き出すようになります。
そうすると通常の意識ではわからないことがわかったり、いつもなら感じられないことが感じられたりします。天才の閃きは、それに近いものがあるのです。そういう状態が、変性意識です。そこで得られるものや感じられるものに、真実性の価値があるのです。
旧約時代の預言が、現代に合った形で再登場しているのが、リーディングです。その時代その時代に合った、形や方法が求められています。確実に言えることは、いつの時代でもそういったものがあるし、また求められてもいる、ということ。
本人自身の意識状態の中で、変性意識状態が起きる場合、いろいろなあり方が考えられます。それに伴い2点目の、別の存在が介在して、変性意識状態に陥り、そこでわかったり感じられることもあります。
その典型が霊媒です。本人自身ではなく他の霊が介在して、働きをなすあり方です。また、その方向での、もっと質の良いものとしては、聖霊が介在してある人を通して働きがなされる場合です。
「ヨハネの黙示録」には、そのことを「御霊に感じた」「霊に満たされた私」と表現しています。さらには神々や天使、そして極めつけとして、宇宙創造神さまご自身が介在して、ある人を通して語ったり、働きをなすということさえあります。
キリストも、そのようなあり方であったことが、「ヨハネによる福音書」に記されています。「私は自分から何を語ることもない。私はただ、聞くままに語るのである」と。これは、単なる謙虚さの表明を超えたものです。まして、ただの憑依は超えています。
精神世界や宗教では、憑依体質が問題視され、心配されがちです。霊に取り憑かれやすく、具合が悪くなったり、意識が翻弄されたり、いろいろな気を受けたり、ということで。
それは、本当のものに至る過渡期です。何も恐れる必要はないし、問題視する必要もないのです。
・それを良いほうに振り向けていくこと。
・本物の信仰を持つこと。
・良い目標を持つこと。
・バランスを取ること。
それによって、より質の良い、またレベルの高い、他の霊的存在に関わっていただけるようになるからです。
エドガー・ケイシーは、完璧な媒体でした。さらに使徒ヨハネやイエス・キリストは、もっと高度な媒体だったのです。
キリストが天に還られた後、預言どおり、キリストは火と聖霊のバプテスマを、天から送ってこられました。「聖霊降臨(バプテスマ)」です。炎が舌のように弟子たちに下りました。その時、弟子たちは御霊が語らせるままに語りました。これは、一人だけでなく集団に起きた、質の良い部類の霊媒現象です。
このように、一般には憑依体質は恐れられ、疎(うと)まれがちですが、可能性を秘めているのです。本当の信仰を持って高い神に自分をお任せし、自分の中でバランスを取ること。健全に生きること。そして良い目標に自分を向けること。そうすると霊媒体質は克服解消され、活かされるようになるのです。
このように、変性意識には大きく分けて2つあります。
本人自身の通常でない意識が目覚め、働きをなした場合。通常の意識ではわからないことがわかり、感じられないことが感じられるようになることです。
もう一つは、別の霊が介在し、変性意識状態に陥ることです。これは一般に恐れられ、心配されがちですが、可能性を秘めています。
他から影響を受けやすいことを、良いほうに振り向けていくことで、可能性が開花してくるからです。
現代においても、一般の人たちは通常の意識だけでは満足していません。それで、スポーツの観戦にスタジアムに行ったり、あるいは音楽やダンスのコンサート会場のライブに行ったりするのです。あるいは、アニメを求め、熱中したくなるのです。あるいは、インスタ映えのスポットに行ったり、パワースポットの所に行ったりするのです。
それは一般の人でも、通常のあり方だけではないものがあることに気づいていて、それを求めているからなのです。
もともと自然の美しさや命、人生の感動的なドラマ、それから芸術や文学、さらに霊的な世界や神秘的な宗教、そういったものは通常の意識が全てではないことを、そして一般の人でもそれを感じていて、求めていることの表れです。
その中でも質が良く高度なものを、イエス・キリストやブッダがもたらしました。日本の空海ももたらしました。
現代は現代に合った形と内容で、それがなされるべきです。わずかにアニメや音楽やダンスやインスタ映えなどによって、あるいはグルメを求める旅などによって、人々はそれを求めています。
普段の自分ではないあり方に変身することも、そのことの表れです。コスプレなどやいろいろな祭り、行事などもそれです。
以上のことに気づいて、人間の変性意識の可能性に気づき、各自自分に合った形で、それを叶え、自分の可能性をより良く開花させていきましょう。その上で、通常の家庭や仕事に立ち返るならば活性化し、ちょっとしたことにも喜べたり、感謝できたり、満たされたりするありようになることでしょう。
意識の広がり、宇宙の命や美しさに触れ、融合することさえ、起きることでしょう。
ハロウィンや現代のさまざまな祭りにおいても、人々はそれを求めているからです。
(ありがとうございました)
リーディング No.17690
質問:苦悩から脱却するにはどうしたらよいのでしょうか。ONEの観点からご教示ください。
ソース: ブッダから始まるインドの仏教は、苦悩から脱却することについて説いています。
それは、ブッダの初期仏教の根本的教えが、「四(し)聖(しよう)諦(たい)」であることに表れています。
ブッダ自身、自らの苦悩を深刻に受け止め、その解決の道を見出すべく、出家した
のです。そして、6年間の苦行とその後の瞑想によって、苦悩の原因と解決法を見出しました。自らも苦悩から脱却し、ニルヴァーナに至ることができました。それが仏教の始まりとなりました。
ブッダは、「四苦八苦」と言われるように、四つの主要な苦しみと、残り四つの副次的な苦しみを解決する道を切り拓きました。
四つの主要な苦しみとは、「生(しよう)・老・病・死」、この四つです。
「一人の人間として生まれてきて、生きていかなければならない苦しみ」「老いていく苦しみ」「病になる苦しみ」「最後は、死で終わってしまう苦しみ」。この四つです。
残りの副次的な四つの苦しみとは、「憎む者に会わなければならない苦しみ」「愛する者と別れなければならない苦しみ」「求めるものを得られない苦しみ」「自分の存在の全体が苦しみを盛り集めたようなあり方である苦しみ」。この四つです。
「怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)」「愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)」「求(ぐ)不(ふ)得(とく)苦(く)」「五(ご)蘊(おん)盛(じよう)苦(く)」。このように表現されているものです。
現代は現代で、今の日本の状況は、2千5百年ほど前のインドとは、だいぶ異なってきているものの、そう大きくは変わってきていません。
現代においては、「病気の苦しみ」「最後は死で終わる苦しみ」「お金に関する苦しみ」「人間関係に関する苦しみ」「自分の仕事に関する苦しみ」。そしてやはり、「愛する者と別れなければならない苦しみ」。それには生別と死別との2種類あります。「生き別れ」と「死に別れ」です。そして、「自分の苦手な人と関わらなければならない苦しみ」。
このように、この現代の日本においても、人間の苦悩はそれほど変わっていません。時代状況は大きく変わっても、人間自体は、そう変わっていないのです。
ほぼ2千年前のローマ帝国においても、イエス様が多くの人たちを病から解放させてあげたことからも、「病気の苦しみ」が、当時のローマ帝国でも深刻であったことを示しています。
20世紀初頭のアメリカで、ケイシーがリーディングを行った場合でも、その大半は病気に関する対応でした。
このヨハネ・リーディングにおいては、ケイシー・リーディングほど医療リーディングは多くを占めてはいないものの、それでも35%くらいは、病や精神疾患などに関わることになっています。
イエス様は人々の病を多く治してあげたり、死人を生き返らせたりしたわけですが、ブッダも病に対応してあげました。それでブッダの十の称号の中には、「医王」という表現も含まれています。医者の王様です。
ブッダの説いた根本的教えの「四聖諦」は、「苦・集(じゆう)・滅・道」、この四つの聖なる真理のことです。
まず、生きること、人生は苦しみであるという真理。ここから始まります。苦悩からの脱却が、ブッダの切り拓いた仏教なのです。
ではなぜ、苦しいのか?
それは、苦しみの原因となるカルマを多く作ってきて、自分の存在がカルマの集積だからです。
この「苦・集」が、医療における診断に相当します。続く「滅・道」は、医療における処置、治療法に相当します。
苦しみの原因を集めているから、苦しい。それなら、苦しみの元となっているカルマを滅すればよい。そして真理を悟ること。これが三番目の「滅」という真理です。
では、どのようにしたら苦しみの原因となっているカルマを滅することができるのか?
そのためには「八正道」と「中道」を実践すればよい。これが四番目の聖なる真理、「道」に相当します。
「八正道」と「中道」によって、苦しみの原因であるカルマが解消し、カルマを解脱し、その結果安らぎと救い、健康などが、もたらされます。
この四番目の「道」は、ブッダの仏教では、「八正道」と「中道」ですが、現代のARIのONEの教えでは、「ONE」に相当します。中味はほとんど同じですが、表現として八正道と中道をONEと置き換えているのです。
苦しみの原因となっているカルマを解消するには、ONEが根本真理であることを知り、ONE的に考え、ONE的に捉え、ONE的に語り、ONE的に対処し、行動すること。
ONEという天界の摂理が、真理であり、本当の基準です。それゆえ、根源神さまとその摂理を畏れ敬い、ONEに合わせて生きていけば、徐々に徐々にカルマが解消し、それに応じて苦悩から脱却し、自分の状態も周りの状況も、改善されます。
もともとONEという本当の基準から外れて、考えたり捉えたり、語ったり行ったり、対処したりしたから、それが悪業となり、そのために苦悩を招いているのです。
ですからこれからは、本当の基準であるONEに合わせていけば、徐々にカルマが解消し、自分の状態も周りの状況も、良くなっていきます。
「悪因苦果」に対して、「善因楽果」というように、良い働きである善業をこれから限りなく積み重ねていくことで、これまでのカルマが相殺され、「楽しい」という望ましい結果が得られます。苦から大楽にシフトします。
ARIのONEの教えにおいても、ブッダの初期仏教を忠実に継承しています。ARIのONEの教えは、ブッダの初期仏教の現代版であり、未来編になっているのです。地獄型から天国型への移行です。
それゆえ、苦悩から脱却するためには、祈りとONEの教え、この2つを導入することです。祈りとONEの教えの2つを介在させることで、現状にテコ入れし、底上げすることができます。
ヨハネ・ペヌエルの全ての働きと営みは、人々を苦悩から脱却させ、安らぎと救いと健康をもたらすために、全て捧げられています。
それゆえ、ARIで説かれているONEの教えと全ての働きは、人々の苦悩からの脱却のためにあります。
悪魔的あり方から、天使的あり方へ移行させることで、地獄状態から脱却させ、天国へと生きているうちから移行させることです。これが救いと平安と恵みと幸せをもたらします。自分の状態が良くなって、平安に満ち溢れ、将来が保障されることが救いです。
そのためには、自分の生命状態を良くすることです。それこそが、救いになります。
空海の言う「三密行」です。良く思い、良く捉え、良く語り、良く行い、良く対処する。ブッダの言う「八正道」と「中道」です。
それは現代に当てはめれば、「全てをONEにする」ということです。ONEを基準に生きましょう。ONEに合わせていくのです、全ての命の営みを。その時、本来の自分が取り戻され、個性も発揮されます。
ONEの教えを学ぶことで、根本真理であり普遍真理である、ONEの内容がわかってきます。後は、そのONEに合わせて生きるように心がけることです。
途中で諦めることなく、疑うことなく、何遍でも見直して、ONEに近づくように、取り組み続けることです。
そこでちょっとでも上手くいったら素直に喜び、感謝し、それを励みに、次に繋げていくことです。
また、ONEの教えを学ぶことで、宇宙の法則と神さまのなさり方がわかります。ダルマと、カルマの因果の法則がわかることで、現状の意味が悟られます。
それによって、自分のことも人のことも理解し、適切に許せるようになります。全てを良きに転じて、安心して置かれた所で、やっていけるようになってきます。
「なるほど、それでこういうふうになってきているのだ。それなら現状を認めて受け止め、現状を大切に、現状の中で思いやりの心を持って、適切に対応していきたい」。そのように心が定まってきます。どこの誰のことも良く思い、分け隔てなく優しくしてあげるのです。
ONEを学び、ONEを理解することで、気持ちが晴れて楽になります。ONEを学ぶことで、本当のことで大切なことがわかり、それによって明るく肯定的楽観的になります。気持ちが楽になり、落ち着くのです。ONEは特効薬、あるいは万能薬のようです。全てに効き目があります。
このように、ONEの教えを学ぶことで本当のことがわかり、気持ちが晴れます。後は、ONEという真の基準に合わせながら生きていくことです。それによって徐々に徐々に自分の状態も周りの状況も、良いほうに向かっていきます。
ONEの教えとともに祈りが大事です。苦悩から脱却するためには。
現実のあらゆる事柄のいちばんの元であられる天の創造主を心から敬い、畏敬の念を持って、お委ねし、生かされて生きること。摂理に気づき、摂理を重んじ、摂理に従って生きようと心がけること。
1日を天への礼拝からスタートします。現実のあらゆる事柄の、いちばんの元であられる天の創造主さまに深く頭を下げ、自分に関する全てを任せ切ります。
こうして1日をスタートします。後は、神さまを信じて安心し、落ち着いて、置かれた所で満足し、一つ一つのことに順序立って中道で捉え、適切に八正道で応じていくばかりです。
上手くいかなかった時は見直して、体験から教訓を学んで調整し、教訓が活かされるよう、前向きに対応していけばよいのです。
このように、全ての元であられる天の創造主とその表れである天界を敬い、そこに全てを任せ切って、後は安心して現状の中で、ONE的に応じていけば、ちゃんと一生やっていけるように、人生はできています、神さまによって。だから、大丈夫なのです。そういうことが、ONEを学ぶことでわかります。これが本物の信仰です。
毎朝、天の創造主さまに自分の全てを任せ切って生かされて生きていくわけですが、普段の心がけとしても、天を敬い天に従う心がけで、生かされて生きていきます。
「ARIで教えられていることや行われていることは全て、人々の苦悩からの脱却のためにある」と言いました。
例えば、リーディングを受けること。また講話で学ぶこと。フォローアップ・セッションを受けること。代行ご祈願、洗礼、巡拝、一言メッセージ。ジャーナルに取り組むこと。夜の夢に注目すること。そして感謝と喜びと確信と使命感をもって、仕事や日々するべきことに取り組むこと。
その一方で、自分にご縁のある所で、ご奉仕させていただき、お手伝いすること。例えば、ARIにご縁と恩義を感じているのならば、ARI関連でご奉仕やお手伝いをされることです。それが、「罪障消滅」や「徳積み」になります。
「損して得取れ」と言われます。普通に見ると損をすることで初めて、本当に得することができ、「徳積み」になって、カルマが解消し、罪が許され、恵まれるようになります。
「ギブ&テイク」から「ギブ&ギブ」というように、人に良いものをどんどん与えてくことです。それによってカルマを相殺し、バランス化させることができます。これで恵まれるようになります。
「愛」は「自分の持っている良きものを、人々に与えていくこと」だからです。それによって周りが助かり、自分も成り立つようになります。
喜びを得たいなら、人に喜びを与えましょう。
理解を得たいなら、人々に理解を与えましょう。
健康になりたいなら、人々を健康にさせてあげましょう。
友が欲しいなら、人の友になり、人に良くしてあげましょう。
全て、周りに自分の及ぼしたものが、周りから自分に返ってくるからです。これがカルマの因果の法則です。これによって宇宙に秩序がもたらされていて、神さまは人々に大事なことに気づかせようとなさっておいでです。神さまからの訓育です。起きることには神の戒めが働いています。
リーディングや講話やフォローアップ・セッション、代行ご祈願などを、有効に活用しましょう。そして自分としては、ジャーナルを活用したり、夜見る夢に着目し、生きていきましょう。
夜見る夢は、セルフ・リーディングに相当します。ちゃんと自分に必要な示唆を、自分に与えているのです。前世も同様です。
また、自分の身の回りのちょっとしたことに注目し、ささやかなことを喜びとし、糧(かて)としましょう。身の回りのちょっとしたことで喜び、満足し、感謝します。ちょっとしたことを大切にし、素直に喜び、慰められましょう。
また、周りの人々との繋がりに気づき、ご縁を大切にし、人々と助け合い、支え合ってやっていきましょう。自分でも自分のセルフ・ケアをしてあげましょう。
今できることから行えばよいのです。今必要なものは、全部与えられています。今あるものに注目し、大切にし、活用することで、必ず道が開かれてきます。
今できることで、少しでも助けになることを行っていくのです。そうすると少し良くなり、今度はまた、別のことができるようになっていたりします。そのように現状から始めましょう。
全部、理由と意味と目的があります。それゆえ現状を受け止め、現状でできることから精一杯、一つ一つ丁寧に行っていけば、必ず少しずつ着実に持ち直していきます。必要なプロセスを通り抜けて。
そしたら、ちょっと良くなったことを評価し、感謝し、喜ぶのです。こうして気づいたら、自分の状態も周りの状況も随分建て直され、良くなっていることでしょう。
現実には、全て理由と意味と目的があるのです。こういうことも、ONEを学ぶことで理解できます。それによって、過去や現状のことを受け止められ、活用できます。将来のことを、余計に心配せずに済みます。
「ONE」は現代やこれからに合う、やさしい学びと生き方です。そのために、ブッダの教えやキリストの教えが、これからの日本に合う形で与え直されたのです。日本ばかりでなく世界的にも「ONE」は根本真理であり、役立ちます。
皆、自分が与えられた所に、理由と意味と目的があるのです。そのことを知って、ご縁を頂いたONEの教えを学び、活用していきましょう。それによって、苦悩から脱却できることでしょう。
苦悩さえも理由と意味と目的があり、神の恵みであることに気づければ、今の中に恵みがすでにある。神に愛されていることが、わかることでしょう。そこから、安心、喜び、感謝が湧き上がり、神さまにお任せし、現状でやっていけるようになります。
(ありがとうございました)
リーディング No.17663
質問: 絵などの美術と霊性に関係はあるのでしょうか。ONEの観点から絵についてご教示ください。
ソース: 霊性と絵などの美術は、深く関連しています。内実として深く関連しているばかりでなく、人類の歴史を見ても、そのことが実際に現れてきています。
宗教や霊性は、芸術的な表現をとって表に表れ出て、明らかになります。芸術的な表現が、伝達の有効な手段となっています。
特に「伝達しよう」という意図がなくても、人間は宗教的霊的な体験をすると、「そのことを形に表し、表現したい」という思いに駆られます。それは、「愛」とも言えるでしょう。利他的な動きだからです。
悟りや平安、愛などを体験する。神との一体感などの神秘体験を授かる。そうすると、それをほかの人のために役立てたくて、表現したく思うものです。神さまもその人にその役目を与え、後押しされたりします。
宗教体験や神秘体験を形にし、表現するのは、体験自体が深いものであるため、なかなかそれをそのまま全て形にするのは難しいのですが、体験した者としては「表現したい」という思いに駆られます。
それは、「自分がそうしたい」と思うばかりでなく、他者のためを思って、「伝えて助けてあげたい」という気持ちが動くのです。
そもそもこの地上は、物的領域であり、表現の世界です。霊界も表出された世界ではありますが、それは内面的精神的なもので留まっています。
一方、この地上は物的領域であるため、物の次元にまでその表現が及んでいるのが特徴です。「この世には、物的にまで表現する使命がある」とも言えます。また、形にすることで客観化され、他との関係性も持てるようになります。
それで古来、人類はどの地域においても、宗教的霊的なことを形にし、表現してきています。それが「芸術」です。神殿建築や宗教儀礼も含まれています。
「霊性は自(おの)ずと現実的表現をとる」ということです。もともと芸術自体にそのような使命や特徴があります。
芸術には、いくつかの使命や特徴がありますが、「神さまや愛や命や美しさなどを表現する」というところに、最高の芸術的な使命と可能性があります。
古代ギリシャの哲学では、「真・善・美」が追究されていました。真実にしても、善、良いことにしても、美、美しいということにしても、調和ということにしても、芸術的に表現されます。
物的に完全に表現できるかというと、困難な部分があるのですが、人間はそのことを追求したがるし、そのことはとても尊く素晴らしい追求の営みです。
「深遠な神秘体験を芸術的に表現することは困難である」と諦めて、言葉にも絵や音楽などにもしない、という霊的体験者たちが大勢います。
しかしその一方で、「何とか尊く素晴らしい神さまや愛や命や神秘体験を、ぜひ形にしたい。自分もしたいし、ほかの人にもわからせたい」。そういう気持ちに駆られて、諦めずに挑んできた人たちもいます。それが素晴らしく尊い芸術として、続いてきているのです。
例えば、14世紀のドイツの神秘家ゾイゼは、ほかの神秘家が芸術的に神秘体験を表現することを諦めている中にあって、そのことに挑みました。言葉や絵を通して。
「外界は内界の表れ」。その時点のその人の内実を表す、現実や表現や雰囲気となります。
それで例えば、モーツァルトの音楽が美しく尊く素晴らしいのは、偶然ではなく、少なくともその作品を編み出した時のモーツァルトの内面性が、美しく清らかで尊いものだったということの表れです。作者と作品とは、原因と結果の関係にあるからです。
人は思うところを表現し、語り、形にもします。芸術に限らず、全ての人間の営みは、その時点のその人の内的な実質の表れとなっているのです。良くも悪くも。ないものは出てきません。中にあるものは自(おの)ずと顕在化してきます。霊界とは正しくそのような表象の世界です。
その意味で芸術に限らず、この世のあらゆる物や存在や働きは、全て、それぞれの人間の内面性の表現です。
肉体自体、霊体の表現であり、物質化です。雰囲気や行動や佇まい、仕草などにも、当人の内面性が、良くも悪くも表れ出てきます。
取り繕(つくろ)うことには限界があります。誤魔化しは利きません。特に、霊界ではストレートに、そのように内面性が表れ出ています。
この世の物の領域は、そこまでストレートではないにしても、最終的には表れ出て、帳尻が合います。どんな人生になるかはその人の内実の表れなのです。
それで、宗教や霊性の人類の歴史を見ると、それぞれ宗教や霊性を、芸術的に表現してきたことがわかります。その芸術には、大きく分けて音楽、美術、文芸、この3つがあります。
美術の中には、絵、彫刻、工芸などによる作品、などが含まれています。
文芸には、詩や俳句や文学、その他いろいろな言葉による芸術表現が見られます。宗教の預言も、それと関連しているのです。
日本では、天皇の語る言葉は特別なものと見なされ、「詔(みことのり)」と言われてきています。それで今でも天皇は、うたを作るのです。「言葉には特別の使命と力と働きがある」と、見られているからです。
ダビデが多数の歌(詩)を作ったことは、よく知られています。『旧約聖書』の詩編の約半分が、ダビデの創作による歌(詩)です。
一方、見た目の美術的な表現も、多く見受けられます。日本の神道にしても、仏教やキリスト教にしても、美術的な表現が多く見られます。
ARIのグループ転生の特徴の一つに、宗教と芸術が一つになった使命を遂行してきている、ということがあります。
ARIの場合、具体的には「大ピラミッドとスフィンクスを建造したこと」があります。続いて、アクナテンからツタンカーメンにかけての「アマルナ芸術」があります。また、ダビデからソロモンにかけての、イスラエル統一王国時代の芸術的表現もあります。「ソロモンの神殿」や「ダビデの詩編」は、特によく知られています。
「ツタンカーメンの財宝」と「ソロモンの財宝」がすごかったのは偶然ではなく、その先代のアクナテンやダビデが芸術を愛好し、宗教体験も授かり、神さまから大いなるお力を現世的にも授かっていたことを表しています。
それで、その息子の代になって、「ツタンカーメンの財宝」や「ソロモンの財宝」が残されたのです。如何にその先代の威力がすごかったか、を表しています。
ブッダ時代には、初期仏典アーガマが編纂(さん)され、残されました。
キリスト時代には、4つの福音書をはじめ、『新約聖書』が表現として残されました。使徒ヨハネも福音書と黙示録と手紙を残しました。これらは主に、言葉による文芸的な表現の作品です。
飛鳥時代には、「飛鳥芸術」が残されています。法隆寺や四天王寺は、今でもそれを継承しています。例えば、法隆寺の釈迦三尊像は、聖徳太子とその周りの人たちの美術的な作品です。実際、釈尊に象(かたど)って聖徳太子像が造られました。聖徳太子は生前から、「ブッダだ」と見なされていたのです。シッダールタも聖徳太子も、太子でした。王の後継者の息子だったのです。
奈良時代には、聖武天皇たちが「天平芸術」を残しました。東大寺、国分寺、正倉院宝物などとして。
平安時代初期には、空海らが「弘仁(こうにん)芸術」を残しました。弘仁というのは、空海の最大のスポンサーであった嵯峨天皇の時代を、「弘仁時代」と言います。日本の今で言えば「令和時代」ということです。
鎌倉時代にも親鸞は、仏像や阿弥陀像や自分の像を彫刻しました。また南無阿弥陀仏を文字で描き、一言メッセージも主な方に書いて手渡して差し上げていました。
また、イタリアのルネサンスにおいて、ダ・ヴィンチやミケランジェロの後を継いで、ラファエルロが聖母子像をはじめ、多数の絵画を描き残しました。
このようにARIのグループ転生は、「霊性を芸術的に表現する」ということに献身してきています。
ノヴァーリスの場合は、文芸でした。
タウラーも文章でしたが、音楽的な特徴が見られました。
そしてこの現代におけるヨハネ・ペヌエルの表現も、ONEという最高の霊性の芸術的な作品と言えます。
一つ一つのリーディングや講話やフォローアップセッションや語録、一言メッセージなど、全て芸術的な作品となっています。
直前の前世の徳冨蘆花も、文豪であり、詩人でした。スケッチも描きました。宝物なども収集し、残しました。
ラファエルロも徳冨蘆花も、自画像を描き残しています。
ケイシーたちのグループ転生の場合なら、大ピラミッド建造期の芸術表現が、フランスのルイ王朝時代の芸術表現へと継承されているのが見られます。
ARIの場合はもっと豊かで、何度も芸術的な霊性の表現に挑んできている経緯が確認できます。
誰でも広い意味での芸術家であり、ARIのONEの教えでも、「一生を生きるということは、一つの大きな芸術作品を作ることに喩えることができる」と、再三伝えられています。
本来の芸術家として生きることで、使命を全うできるのです。本当に良い作品ができるためには、自分の内面性が磨かれ、整わないと、とても良い作品ができるものではありません。
手段としての芸術的な表現の技術を磨くばかりでなく、それ以前に、内面の霊性そのものを磨くことが必要です。内面性、プラス芸術的なテクニックです。それと人生経験も関係してきます。
本当に内面性ができてきた人は、それが自(おの)ずと紡ぎ出され、それ相応の素晴らしい芸術的な表現が作られます。音楽においても、絵や彫刻や物的作品においても、また、文学や小説や詩においても。
それで残された作品が宗教的な作品であると同時に、芸術的な作品でもあり、それに触れることで、その元にある作者の神秘体験や神さまの息づかいに触れることができ、触れた人たちもまた、その体験者の体験へと誘われていきます。
例えば、ヨハネ・ペヌエルが自身の神秘体験を画文集として形にしています。それを呼び水として、縁のある方たちはヨハネと同様の神体験へと導かれる助けとなっているのです。
もともと霊的な芸術作品には、そのような特徴と使命があります。例えば、ラファエルロの残した聖母子像に触れると、多くの人が癒され、満たされ、心が洗い清められます。
シュタイナーは、深紅のバラを瞑想すると心が洗い清められ、アストラル体が聖杯に設えられることを説き、その瞑想を勧めました。
自然の生きた題材である赤いバラを瞑想すると、人間の心に癒しと清めの効力があるというのです。
自然は神の芸術作品です。それで神の子である人間たちも、芸術作品に挑むことで、まず作りながら自分が再形成され、洗い清められます。ちょうど祈りに自浄作用があるように。
各自が作品作りに取り組むことを通して、芸術への取り組みで本人が清められ癒されます。また、表現したものによって自分に向き合い、自己調整が図られ、自己発見にも繋がります。これが、芸術の真の使命です。
「なぜ人は芸術するのか」。それは、芸術に取り組むことで各自が自分に向き合い、自分が洗い清められる。ちょうど祈りや瞑想によって自分が誘われ、導かれ、清められ、癒されるように。
絵を描いたり、作品を作ったり、楽曲を作ったりすることで、その取り組みを通して自らが洗い清められ、命が再調整され、カルマも解消へと向かうのです。
このようにまず芸術的な取り組みによっても、人間は洗い清められ育成され、神に導き育てられます。
ラファエルロもダビデもノヴァーリスも、そのようなプロセスを辿ったことでしょう。それが遂げられた時点で、死を迎えました。
一方、素晴らしい芸術作品に触れることで、鑑賞する側の人もまた、名作からそして一流の作品から、良い感化やインスピレーションを得ることができます。
例えば、ケイシー・リーディングやヨハネ・リーディングを聞くと、心身が洗い清められ、啓発されます。ケイシーやヨハネの元にある悟りや平安、生きた神体験がリーディングに表れているため、そのリーディングに触れると、リーディングを受けた側や読む側にも、良き影響が及ぶ。それでリーディングに触れることで、自分の中にもインスピレーションや生きる力や慰めが入ってくるのです。
ラファエルロの聖母子像を見ると、見た側にも、ラファエルロの持つ霊性や穏やかさ清らかさが、聖母子像を通して、それに触れた人たちにも及びます。これが「絵画療法」です。
このように作り手の側も、作品に触れる側にも、それぞれ効力があります。自ら絵を描くことで癒され、自分を取り戻していく。それと共に、そのようにして残された作品を見ることによって、見る人たちにも、作り手の効果が及んでいくようになる。
このように「絵画療法」には、自ら取り組む人自身にも、それによって作られた作品を見る人たちの側にも、それ相応の影響が及び、恩恵がもたらされます。
宗教的霊的な体験が本物であるほどに、そして作者の内面性が良いものであるほど、作品にそれが投影され、込められます。
それにより、作る側の取り組みの中で、芸術によって成長し、カルマが解消するとともに、そうして残された作品に触れた人たちにもその恩恵が及んでいく、ということが起きてきています。ここに芸術の、真の使命があります。
今回は特に「絵画療法」ということで、絵を通しての、もたらされる効力についてお伝えしました。
ARIのグループ転生には、多分にこのような霊性と結びついた芸術的な使命があります。ARIの会報誌やライフシール画を見ても、そのことが形になって実現しているのです。
(ありがとうございました)
リーディング No.17626
質問:超意識とは何ですか。超意識についてONEの観点からご教示ください。
ソース:超意識は、英語では「super consc-iousnes」と言います。一般の心理学では超意識は認めておらず、扱っていません。超心理学やトランスパーソナル心理学という、特殊な心理学の中でのみ認められ、扱われています。
「何で一般の心理学では超意識を認めず、
扱っていないのか」というと、人間の中に魂があることを認めていないからです。
人間は、頭と心と肉体から出来ています。そして、頭と心と肉体の元に魂があります。魂こそが、人間生命の本質です。
また人間を、肉体と霊体の2つの体からなる生命存在と見ることもできます。その場合、肉体のほうに頭が帰属し、霊体のほうに魂が存在しています。心は、肉体と霊体の両方にわたっています。
人間は肉体の死に伴い、魂が肉体におれ
なくなって、肉体から出ます。その時に死を迎えます。肉体上の死です。
しかし、人間はもともと肉体だけの存在ではありません。霊体があります。むしろ霊体のほうこそ、自分そのものです。
そこで肉体の死に伴い、肉体から霊体が出て、霊体が霊界のほうへと向かっていきます。
その霊体の中には魂があり、また、魂の延長部分としての心もあります。そういう存在のあり方として、霊界でしばらく過ごすことになります。
人間の中の「肉体」「心」「頭」、それから「魂」、それらにそれぞれ意識が備わり、意識が働いています。
頭と肉体の中で働く意識が、顕在意識です。通常の意識です。それは、「建て前」を特徴としています。面子とかペルソナ的な、常識や論理や社会性に関わる意識です。常識とか人の手前とか、自分を取り繕うとかが、特徴となって働く意識です。理性が働く意識です。
一方、心の中で働く意識は、潜在意識です。英語では「sub・consciousness」と言います。夜眠っている間に雑夢などで、よく動く意識です。潜在意識は、「本音」を表しています。その潜在意識は、「潜在意識A」と「潜在意識B」に分けて見ることができます。
「潜在意識A」は、今世の肉体に結びつく、今世のこれまでの記憶と経験に基づく知恵や感情の動きと関連しています。
一方「潜在意識B」は、前世の経験に基づく記憶と知恵とカルマを宿している、深い潜在意識です。
仏教に当てはめるならば、潜在意識Aは、「末那(まな)識」、潜在意識Bが「阿頼耶(あーらや)識」に、ほぼ相当します。
しかし人間は、頭と心と肉体だけの存在ではありません。魂があります。魂は神の分霊であり、人間生命の本質です。心の本体とも言えます。
魂は神に由来するため、永遠不滅です。その魂の中で働く意識が超意識なのです。それは、「良心」を特徴としています。本当の愛と知恵が備わり、素直さや無邪気さなど、キリストが「幼子」と言われた、本来の心です。
アダムとエバが、エデンの園で原罪を犯す以前の、本来の心が魂です。
神秘家のタウラーの表現では、「魂の根底」、ドイツ語の「グラント(Grund)」に相当します。
仏教では、「仏性」「如来蔵」に、ほぼ相当します。
空海は人間の中に仏性を認め、「誰でも良いものが宿っていて、肉体のある今世のうちに悟りを開き、完成することができる」と、人間を肯定的に見ていました。仏性が誰の中にもあるがゆえに、「即身成仏」が可能なのです。
「即身成仏」は、命の全体性の回復と実現、人間完成。すなわち、「ONEになること」です。
このように、超意識は魂の意識であり、「良心」、それから「愛と知恵と創造」を備えています。
落ち着いて素直になり、魂の元であられる天の創造主との関わりで、素直に現状の中で生きていくことで魂が目覚め、活性化します。
魂の7つの機能がチャクラです。霊体に備わる7つの生命エネルギーの、生命装置です。クンダリニーという、自分の中の生命力の根源の目覚めとともに、7つのチャクラが稼働し始めます。
「肉体」は両親をはじめ、先祖からの賜物です。自分の中の「頭と心」は、自分の前世たちからの賜物です。自分の中の「魂」は、創造主からの賜物です。
従って、「肉体」は両親をはじめ、先祖に似ています。遺伝の法則によって。「頭と心」は、自分の前世たちに似ています。輪廻転生の因果の法則によって。自分の中の本質である「魂」は、創造主に似ています。創造主の分霊、分け御霊なので。
大乗仏教になって、人間の中に「仏性」や「如来蔵」を認めるようになりました。しかし遡れば、ブッダの時から、ブッダの教えとして「宇宙の理法であるダルマに従いなさい。そして、自分をより所としなさい」と、説かれていました。
ブッダの時すでに、一人ひとりが自分をより所として生きるよう、自分を大切にすることを、説き勧めていたのです。
それがブッダの時からあったため、大乗仏教の時代に入って、「仏性」や「如来蔵」を認めるようになったのです。それを推し進めたのが、仏教の最後の段階で登場した「密教」です。
特に日本の空海は、そのことをとても大切にし、強調しました。それが「即身成仏」の一言で表されています。これはONEの教えに通じます。一人ひとりが神の子であり、創造主と一体となることで完成を見ること。そのことに通じます。
「ONEの教え」では、命の全体性の回復と実現、すなわち、「自分の中でのONE」を目指します。
魂を主軸に据えることで、頭と心と肉体も収まり、それぞれが正当な位置を得て、魂の下で生かされるようになるあり方です。
その場合、自分の中だけで完結することは困難です。キリストは「ヨハネによる福音書」の中で、次のように述べたことが伝えられています。
「神さまは木の幹であり、あなた方一人ひとりは木の枝である。木の枝は、幹に繋がらなければ生きていけない」
このキリストのお言葉は、「天の創造主が木の幹であり、一人ひとりの魂が木の枝である」ことを表しています。
それゆえ自分の魂が、天の創造主という幹に接ぎ木されることが、どうしても必要になってきます。自己完結だけでは、ONEになれず、自己完成を見ません。
そこで「ONEの教え」では、「1日を天への礼拝からスタートすること」を勧めているのです。そして「日頃も、天を敬い、天に従うこと」「天という真の基準に自分を合わせて生きるよう心がけること」を勧めます。
そういう中でこそ初めて、自分の持ち味や個性も真に活かされ、役立ってくるし、カルマも解消し、今世の目的も遂げられます。
神さまと一致するONEは、自分を押し殺したり否定することを意味しません。神さまに捧げられ、神さまと一致した時、初めて個性が活かされる。それが自分を大切にすることなのです。
このように縦軸で、天の創造主に自分の魂が繋がらせていただくこと。それで魂が活かされ、チャクラも活性化して、霊体が活き活きしてきます。これが「キリストの復活」に相当します。キリストは、そのことをやってのけた存在です。
そのことを「ヨハネによる福音書」の中では、「私イエスを通して、天の本源に還り着ける。私は道であり、真理であり、光であり、命である」。そう表現しておられます。
縦の軸が据えつけられることで、自分が蘇生し、ONEが実現します。神人合一です。そうすると、本当に自分の中でも、ONEが実現してくるのです。そうなると、横のONEも実現してきます。
『華厳経』には、「重重無尽縁起の法」が説かれています。
「全ての命は、天の創造主の下で作られた同胞であり、兄弟姉妹です。全ての命は繋がり合い、一体です」
これが大乗仏教の慈悲の精神の元にあります。お互いに天の創造主の同胞であり、兄弟姉妹である、と見るのです。
本当に悟りが開かれれば、超意識が覚醒し、このことがわかり実感できます。そうすると、本当の慈悲に目覚めます。
キリストとの関わりで超意識に取り組み、超意識が覚醒した時、超意識を「キリスト意識」と言います。「クライスト・コンシャスネス(Christ consciousness)」です。キリストの内臨です。
または、超意識を「ハイアーセルフ」と表現する人たちもいます。より高い自己の意識です。「内なる神」と表現する人たちもいます。あるいは「シンガ」。シンガと言う場合に「神の我」「真実の我」、この2つの漢字を当てることができます。神我と真我です。あるいは「大我」、大いなる我。これらも魂と、魂の次元で働く超意識を表しています。
「ヨハネによる福音書」の中でキリストは、「聖霊を送り届けてくださる」ことを言われています。その聖霊は「神性」、神の性質を表します。
魂の次元で働く意識やさまざまな営みは、「霊」と呼ぶことができます。一般には「霊魂」などと、合わせて呼ばれます。魂は人間の本質です。その魂の働きが、「霊」と呼ばれるのです。
また、霊の中には「神霊」と「心霊」の2種類があります。神の霊と心の霊です。「神霊」は、神さまや魂の次元で働く営み。心の霊の「心霊」は、心の次元で主に働く霊的な働きのことです。
まだ悟っていない人間が霊になると、「心霊」です。一方、悟りを開いた存在や神々の霊が「神霊」、神の霊と呼ばれます。
超意識が覚醒すると、チャクラも働きをなして助けてくれるようになります。
ブッダとは、「目覚めた者」の意味です。悟りを開いて真実に目覚めた者です。
「目覚める」というのは、「本当のことに気づいて自覚が生じた」ということ。無意識状態が自覚化され、意識化されたことが覚醒で、長い眠りから覚めて、働き出すようになる。自分を意識し、本当のことを自覚してくると、働きが活発化して助けてくれるようになります。いろいろなことに無自覚ではなく、意識し、気づくようになるのが「目覚め」、すなわち「覚醒」です。
多くの人たちは未だ、超意識が眠っている状態です。それが目覚めてくると、活動を本格的に始めます。自分でもそのことを自覚できるようになります。カルマの因果や現実の動きが、意識できるようになります。長い眠りから覚めた者が、覚醒した者、ブッダです。
ほとんどの人は起きているようでいて、眠ったままです。
一方目覚めた者たちは、普通に見ると半分眠っているようなあり方ですが、本当には目覚めている者たちです。そのことを仏像では、「半眼」で表現しています。
リーディングの時に眠りの状態で行うのも、常識的に見ると眠った状態が、本当に内側が目覚めた状態であることを表しています。
大半の人たちは、表面の意識が目覚めて動いており、奥深い意識が眠って止まったままです。本当のことにまだ気づいていない、迷妄の状態です。
一方、本当に目覚めた者「ブッダ」は、表面的には安らかで落ち着いていますが、奧深くが目覚め、活発に動いているあり方です。
ほとんどの人は本末転倒の価値観であるため、物的に目覚めているのみです。浅い所が。そのため奥深くは眠りこけて、道理に昏(くら)いままです。そのため、不安や恐れや怒りや悲しみや欲望の虜になっています。
一方、目覚めて完成したONEの人は、表面は穏やかで眠っているような、副交感神経型です。その分、奥深くが目覚め、活発に動いているあり方です。これが天界の存在のありようです。根源の神さまは、さらにそれが極まったあり方です。
まず、価値観の見直しから始めましょう。本当の価値基準は、天の創造主と天界にあります。
この世の常識も、それなりに意味がありますので受け入れましょう。しかし、この世の基準はほどほどにし、真の基準に自分を立脚させて生きていくのです。
そうすると次第に、地上型から天上型に移行していきます。それが菩薩や天使のあり方です。さらにそれが極まると、神々とプルシャのレベル、さらには如来や神のレベルに到達します。
空海は、生命段階を十段階に分けて説いています。『十住心論』という書物の中で。これが生命の進化と成長です。最後は、「密教の段階」「ONEの段階」です。
超意識が覚醒した人は、「目覚めた人」「ブッダ」です。もはや人ではなくなり、菩薩や天使さえ超えて、神々のレベルです。
天の創造主とは異なります。天の創造主は、ただお一人だからです。それでも中身は、天の創造主と同じになります。それが完成した型です。
超意識が覚醒するためには、素直で幼子のようになることが助けになります。「ONEの教え」を学んで、それを指針とし、天の創造主への礼拝とお委ねを積み重ねていきましょう。
置かれた状況で人々を思いやり、自分を活かして、周りの助けと喜びとなっていきましょう。
そういう中で、自分の生命状態が次第にONE化してきます、自分の生命のあり方が。普段から自覚し、自分を意識していることで、奥深くが覚醒してきます。
一般の夢は雑夢であり、潜在意識の働きです。それが次第に、意味のある夢を見るようになり、さらには「霊夢」「正夢」などを見るようになります。それが超意識の働きの夢です。こうなると、神体験や神秘体験が伴います。これが本当に目覚めた人です。
ノヴァーリスは、「夢は現実となり、現実は夢となる」と表現しています。ビジョンが本当のものを現実に作り出すようになるのです。
密教では、「密厳浄土」、あるいは「密厳国土」と言われます。
自分を天に捧げながら、周りを思いやり、本来の自分を取り戻していきましょう。
(ありがとうございました)
リーディング No.17594
質問:2024年の立春を迎えるに当たり、本年の日本と世界に関して、胎蔵界的、金剛界的両観点から予測し、展望してください。併(あわ)せて、留意点、対処法もご教示ください。
ソース: 2024年は、石川の能登半島の地震から始まりました。また、その救援のため、羽田空港から海上保安隊の飛行機が離陸する際、ちょうど着陸してくる旅客機に激突し炎上する、という惨事にも見舞わ
れました。正月の頃には、他の地域でも火災が相次ぎました。
2024年は、この事に象徴されるように、地震をはじめ、人々を驚かせるようなことが、何かと起きることでしょう。地震も、能登の地域の周辺で余震が続いています。
そればかりでなく、他の地域や国々においても、今年は地震が起きやすい年となりそうです。
また、ゲリラ豪雨や雷雨、竜巻や突風な
ども起きそうです。台風の被害も考えられます。
関東大震災は9月1日、東日本大震災は3月11日、ニューヨーク同時多発テロは9月11日、能登地震は1月1日、阪神・淡路大震災は1月17日、そして今日は1月11日。全て1の付く日か月になっています。1は始まりの数だからです。
今年は、それぞれの分野で、日本も世界も勢いを増し、活気づく年になりそうです。
コロナもほぼ終焉を迎え、人々は「待ってました」とばかりに、動き出します。すでに、その動きは2023年から始まっていますが、年明けて2024年に入ると、なお一層勢いを増し、それぞれの分野で活気づきそうです。
文化や国際交流、イベントなど、それぞれ活発に開催されそうです。
人々も明るく元気になり、活気づき、勢いづいてきます。
この数年温めてきた事を起こし始めそうです。何かと「事始め」のような、新しいことの始まりとなります。勢いづいて活気づく、明るさも増す。
しかし、勢い込んで激しさも加わり、トラブルとか争いとか、驚くことが起きるなどが、伴いそうです。
それぞれの人の、潜在的に持つ課題や欠点が増幅し顕わになります。それでいろいろ驚くことが起きたり、物事が決裂したり、争いになったりしそうです。
ロシアによるウクライナ侵攻も激しさを増し、抜き差しならぬ事態に陥るかもしれません。 また、イスラエルとパレスチナの自治区・ガザを支配するハマスとの争いも終わらず、むしろ激しくなりそうです。さらに、周辺諸国の中近東も関わり、複雑で難しい様相を呈する可能性があります。
ロシアがウクライナに対して、原爆を使用することはないにしても、何か大きな、爆弾のようなものを投下する危険性があります。あるいはそれが、精神的な打撃として襲うこともあります。
問題な事にしても、うれしい事にしても、活気づいて勢いを増し、びっくりするようなことやショッキングな事が起きて、事態が急転することが何かと多く、激しくて騒々しい年になりそうです。
政治や経済や外交の面においては、見直しと再調整が迫られます。日本国内においても、世界的にも。
日本国内においては、自民党の裏金問題が発覚し、政界は動揺し、不安定です。それへの対応が行われるようになります。
しかし、なかなか進展を見ず、手こずります。それでも、夏以降に次第に、政界は整理され、整ってくる可能性はあります。
外交の面においては、日本と他の国々、また他の国々同士、難しい複雑な関係になってきていますが、それらに取り組みます。
良い関係はますます良好となり、一方、潜在的に課題を抱えていた面は顕在化して、決裂したり、対立関係になったりします。
2023年は夏ばかりでなく、1年を通して最も暑い年となりました。地球の温暖化が、顕著になりました。2024年も、それに近い気象状態になりそうです。温暖化の傾向は止みません。
農業や漁業は異変が生じ、そのマイナス影響が出そうです。
何かと、争いやけんかや対立などが生じ、問題が顕在化して、決裂したりすることが起きる、騒がしい年回りとなりそうです。それも全体として、コロナが明けて人々が動き出し、目覚めて、勢いづいてやりたかったことを始め、推し進めることによります。
全体としては、活気づいたエネルギッシュで元気な年とはなります。それゆえ、態勢が整い、より良く準備して適切に行う人たちにとっては、収穫の多い、前進する年となります。また、長年温めてきたことを起こし、活発化して発展する、伸び盛りの年となります。
しかし、課題を抱えてきた人や組織や国にとっては、問題が発覚して爆発するようなことや、ショッキングなことに見舞われそうな年です。
今年は辰年で、辰は龍に通じます。龍には、火(か)龍と水(すい)龍とがおられます。火の勢いと災い、水の勢いと災い。これも、「吉と出るか、凶と出るか」は、それぞれの持っているものによります。潜在的にあるものが現れ出る年となります。外界は内界の表れです。
その時点のその人たちの内実を表す、現実の状況と動きと、雰囲気と、体験になります。
今年は特に顕在化して、結果が正直に、そのとおり出る年となります。このことを知って、各自自分の内面を見つめ、整える年としましょう。落ち着いて対応すること。
そして上手に適切に、内面のものを表し出し、良い方向づけをとって取り組みましょう。そうするならば、今年は飛躍の年となり、発展が期待できます。
活気づき勢いづいて、何かと騒々しく、いろいろなことが顕在化して起き、予想外のことも起きてびっくりして、対処を迫られ、事態が急転したりしそうです。龍の勢いが感じられます。
今年はそのように、活気づいて激しさを増し、びっくりするような事が起きやすい、慌ただしい、しかし元気で、前進し、動きもある年になりそうです。
そうであるからこそ、元旦早々、それを象徴するかのように、能登地震と羽田空港での事故が起きたのです。そして、余震も続いているのです。
他の地域や国々でも、地震が起きる可能性が高いのです。そうならないとよいのですが、そうなりやすい勢いや激しさが、感じられます。
そのことを知って、予め対策し、備えておきましょう。必要以上に恐れたり、警戒する必要はありません。
全ての元であられる天の創造主によくお祈りし、お任せしましょう。後は、神さまを信じて落ち着いて、各自置かれた所で、自分のバランスを取って、エネルギーを適度に出しながら、上手に運用しましょう。
とかく勢いづく年となりますので、その分自重し、落ち着いて、平静な心で物事に臨みましょう。
控える必要まではありませんが、良い心がけを持って、勢いを活かして良い流れに乗り、自分の良さが出るように、一方、自分の欠点が出ないように、留意しましょう。全ては因果の法則で動いています。
人生は全て自分次第です。自分次第でどうとでもなるのが人生です。その意味で、はやる気持ちを抑え、一度見直した上で調整を図って、慌てず、落ち着いて、物事を適切に、そして適度に行うように留意しましょう。
今年は夏に、パリで五輪が開催されます。そのことも、今年を象徴するイベントとなりそうです。
パリでの五輪ばかりでなく、世界的にも、日本国内でも、文化的なイベントや交流が、活発化しそうです。音楽のコンサートやスポーツのイベントの開催なども、活発化しそうです。
事件とか事故とかトラブルも、何かと起きそうです。通信関係でも、思わぬトラブルや異変があるかもしれません。
すでに世の中はネット社会で、フェイクニュースなども蔓(まん)延しています。そのようなことも人を惑わせ、ネットの世界でもごたごたがありそうです。
芸能の方面でも、すでにジャニーズ問題がありました。そういったことでも、今年もその関連のことがいろいろ発覚し、取り沙汰されることでしょう。
これまで潜在的に問題だったものが顕在化して発覚し、人々がびっくりしたり、ある物事が終わり、新しいことが始まったり、急展開する、慌ただしくて落ち着かない、勢いのある時期を迎えそうです。
それが吉と出るように、自分個人としても組織やグループとしても、さらには国としても、こういう時こそ見直して落ち着き、勢いが良いほうに現れ出るように、留意しましょう。そうすれば前進し、発展できるチャンスとなりそうです。
エネルギーが動き、これまで温めてきたものが一気に顕在化して動き出し、活発化する時期を迎えます。そのことに気づいて、その流れに上手に乗りましょう。
いつでも八正道と中道が、王道です。いついかなる場合においても、八正道と中道が、天地の摂理に適った正道です。ONEの道です。
こういう時こそ落ち着いてよく見直し、調整を図り、物事や事態を見極め、きちんと愛と知恵をもって、適切に応じていきましょう。素直で謙虚に、人を思いやって。
そうすれば追い風を受けて前に運ばれ、発展し、喜びの実りがあることでしょう。そのように捉え、心がけ、応じていきましょう。
(ありがとうございました)