メッセージリーディング

このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。
 
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
 
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。

リーディング No.17209

 
質問: どのようにしたら、いつまでも若く美しくいられるのでしょうか。活き活きと、心も身体も元気に生きていける秘訣を、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: それに対して一言で答えるならば、「ONEのあり方と生き方にすること」です。
 自分のあり方と生き方がONEに近づくほどに、若く美しく、活き活きと、心も身体も元気で生きていけます。
 地獄的あり方から天国的あり方へと、あらゆる点で自分を移行させていくことです。
 そのためにも、一日を天への礼拝からスタートします。
 「神さま、いつもありがとうございます。これからも全てにおいて、何とぞよろしくお願い申し上げます。全てが神さまのお心の通りになってまいりますように」
 
 このように、天の創造主に素直にお伝えして、天に向けて深く頭を下げます。
 天に頭を下げるのは、「敬意を表するため」
「感謝の意を表するため」「お委ねするため」です。
 こうして自分の全てを、天の創造主と天界に任せ切って、一日をスタートします。後は神さまを信じて安心し、落ち着いて、置かれた所で周りを思いやり、目の前のことに一つひとつ、順序立って適切に応じていくばかりです。
 こうすれば人生がちゃんと回っていき、滞りなく全てカルマも役目も果たされて、天寿を全うし、大往生を遂げて、自分が還るべき霊界へと還っていけます。そのように神さまのお計らいにより出来ています。
 日頃も「天を敬い、天に従う」心がけで、置かれた所で現状に満足し、「天の摂理」とその顕れである「自然の摂理」に調和して、生かされて生きていくことです。
 肉体は自然の一部です。それゆえ、自然の摂理に従って生活すると、肉体の調子が良いです。
 心や頭やそれらの元にある魂は、天の摂理に従って、生かされて生きるようにすることです。
 このようにすると、自分の全てが天の創造主と天界に合致してきます。ONEの生命状態になる。その徴として、心も身体も健康で、活き活き元気でいられる、というようになります。
 「自然の摂理に従って生きる」というのは、「太陽に合わせて生きる」ということです。自然界の中心は太陽だからです。「早寝早起き」です。
 その上で、自分のその時の生活状況や年齢や体質に合わせた生活リズムにする、ということになります。
 
 また、天界の摂理とその物質界の顕れである自然の摂理に従って生きていると、自(おの)ずと、太陽の運行に合った明るく健全な生活の仕方になります。
 夏は、午前4時頃にひとりでに目が覚めます。冬は、午前6時から6時半ぐらいに、ひとりでに目が覚めます。夜は、10時前後にひとりでに眠くなり、床に就きたくなって、割とすっと眠りに入っていきます。
 不眠症とか、浅い睡眠とかにはなりません。それが自然の摂理に適って生きている徴です。心も体も明るく健全に、健康的に生きるからです。自然の一部として。
 適度の日光浴と、ウォーキングを心がけましょう。自分に合ったアドリブ体操を行いましょう。
 しかし、体操や運動より、ウォーキングや自然な労働が基本です。そして自然を愛し、自然に親しみ、自然と共存し、自然と調和する生き方を心がけることです。
 食事は、昔から「腹八分目が良い」と言われます。そのとおりです。食べ過ぎとか、食べなさすぎは不自然で、好ましくありません。特別な断食の時以外は、腹六分目から七分目くらいの食事の分量が最適です。
 気持ちよくおいしく、感謝して、楽しく食事してください。その時の自分に合った食事をしてください。感謝して、楽しみながら味わって、しみじみと食事すると、体にも心にも染みます。
 食事や飲み物は、単なる物質ではありません。何を食べるかばかりでなく、食べる際の心がけが大事です。また、基本的に出された物を選り好みせずに、何でも感謝して、おいしくいただくことです。
 おいしい物をおいしくいただくのは、当たり前です。それ以上に大切なことは、「どんなものでもおいしくいただく」ということです。それで人間的に成長します。体にも効きます。
 精神的に充実し、満たされていれば、また安定していれば、それほど多く食べたいとは思いません。
 
 「若返りの秘法」が、神秘主義には伝えられています。太古の叡智の中に。それはチャクラを活性化することです。なぜならチャクラは、生命力の中枢だからです。クンダリニーも生命力の根源として大事です。
 チャクラが活性化すれば、心も身体も活き活きし、元気になります。特に、7つのチャクラの中でも、第6のアジナー・チャクラが若さや健康と深く関連しています。肉体上では松果体、あるいは松果腺です。
 そのアジナー・チャクラを活性化すると、若返りのホルモンが多数分泌され、身体も心も蘇生へと向かいます。アジナー・チャクラの開発や活性法は、ULCコースなどで伝授されつつあります。
 また、第7のサハスラーラ・チャクラも重要です。肉体上では脳下垂体です。体中の内分泌腺とホルモンを統括しています。丹田のスワディスターナも、元気の元です。
 イエス・キリストが死から復活できたのは、神さまのお力を頂いて体内のチャクラが働いたことによります。復活する目的と役割もありました。それで復活を遂げられたのです。「大ピラミッドの秘伝」です。実際、主は16歳の時、エジプトに赴き、大ピラミッドの秘伝を伝授されました。
 「天の創造主、天界、イエス・キリスト」につながらせていただくこと。それによって身体も心も活性化し、健康になり、美しくなり、若返ります。あらゆる生命の源は天の創造主、天界と、甦られたイエス・キリストにあるからです。
 それゆえ病気を克服し、さらに若返りたいなら、また美しくなりたいなら、イエス・キリストとつながらせていただくことです。
 なお、日本人には、日本の霊統に従って、それに準じたご縁と道を、神さまが用意してくださっています。特に、天照大御神様です。日本に顕れ出たイエス・キリストの実体です。
 また、仏教系では特に、阿弥陀仏です。「阿弥陀」とは、「光と命」の意味です。実際、阿弥陀仏と関わらせていただいた法然は80歳、親鸞は90歳まで生きました。鎌倉時代初期としては、驚異的な長寿です。
 そのほか自分の霊統に合わせた、神々や仏方とつながらせていただくことで、寿命を授かり、病気も治ります。仏教では薬師如来が知られています。
 体に摂ると良い物としては、特に、ロイヤルゼリー、プロポリス、蜂蜜、酵素などが若返りに効きます。
 
 美容のためには、タンパク質とミネラルとビタミンを、それぞれバランス良く適量摂ることです。
 タンパク質との関連で、アミノ酸も助けになります。ミネラルの中では特に、鉄分が美容のためになります。ビタミンの中では特に、ビタミンCが美容のためになります。
 ただしバランスが必要ですので、他のミネラルやビタミンもバランス良く補給してください。
 タンパク質は欠かせません。特に、大豆から摂るのが理想的です。動物性タンパクなら、鶏肉、牛肉、ラム肉などがお薦めです。一方、揚げ物などは控え目にしましょう。
 大豆そのもので摂るのが基本ですが、豆乳や豆腐から摂っても良いです。特に豆乳の中でも、おからまで含めた丸ごと豆乳がお薦めです。
 動物性タンパクを、先ほど肉類としてあげましたが、一番手は魚介類です。季節の魚介類を摂りましょう。特に、鰯(いわし)や鯖(さば)や鮭は、美容や健康に良いです。
 お酢も良いです。
 オイル類では、オリーブオイルや紅花油、ココナッツオイル、ごま油などがお薦めです。
 ナッツ類もそれぞれ良いです。
 季節の野菜や根菜類を、十分摂取してください。高麗人参などは、特に効き目があります。野菜を総合的に摂取するため、青汁で補充するのも良いです。
 野菜の中では、ニンニクが特に効き目があります。
 炭水化物としては、胚芽類を含んだ物が理想的です。特に、酵素玄米と発芽玄米が良いです。
 発酵食品も良いです。味噌、納豆、ヨーグルトなどです。
 また、ブラックコーヒーやブラックチョコレートなども良いです。
 アルコール類は基本的に控えたほうが良いのですが、中では赤ワインが良いです。
 全般的に見て、日本は食事で恵まれています。和食は、全般的に見て良いものです。さらに、日本人の体質を考慮するならなおのこと、日本人には和食が合っています。
 考え方や生き方は、欧米の影響を受けて数十年で変わりましたが、肉体の体質は先祖以来の遺伝で決まっているのです。この2百年ほどで日本人の内面性は大きく欧米化しましたが、肉体は未(いま)だに、先祖以来の体質からそう変わっていません。その意味でやはり、日本人には和食が体に合っているのです。
 
 フルーツやレーズンなども良いです。
 あまりに熱い物や冷たい物は、控えたほうが良いです。夕食と翌日の朝食の間隔を12時間以上、空けてください。
 機械的・形式的に食べるのではなく、先ほど述べられたように、おいしく感謝して、楽しくいただくことが大事です。 
 そして、より良い生活習慣を持って、規則正しく無理のない、心も体も健康的な生活をすることです。呼吸は、ゆったりとした丹田呼吸にすること。
 心の状態は重要です。そもそも、病気になるか健康になるかの分かれ目は、1点目に、心の状態の影響が大きいのです。
 2点目が、食事の内容です。
 3点目が、ライフスタイルや生活習慣です。
 そういうことですので、体や心のために心の状態を良くすることが、いちばん重要です。
 安堵感、充足感、感謝、喜び、温和、それを表す心身のリラックス、自然体、信頼。そういった天国的で肯定的な心の状態が、いちばん美容と健康のためになるのです。天国的な心のあり方にすることです。
 この心の状態がいちばん、体や心に影響を及ぼし、それがそのまま反映してきます。チャクラを介在して。
 それから、有意義な生活を送ること。周りに良い影響を積極的に及ぼし、好ましくない影響は極力及ぼさないことです。
 悪業を控え、善業を進んでなすこと。周りに「希望、理解、喜び、平安」を与えること。これが有意義な生き方です。
 置かれた状況で、できるだけ自分を見直し整え、良い影響を周囲に及ぼす。よろしくない影響は極力及ぼさない。
 自分がその時することを通して、周りの助けになり、喜びと平安と希望をもたらすこと。自分の頭脳や心や手足などを使って、周りに良い影響を及ぼし、それによって周りの人たちが安心し、助かり、喜び、元気になれるような感化をどんどん及ぼすのです。
 このように自分を有意義に使って、周りの助けになる生き方をすることが大事です。そうしている限り病気にならず、生かされ続けます。
 
 周りにとって有用で、居るとよい存在に自分がなること。それによって生かされ、平安と恵みと健康も与えられます。
 病気や不調や苦しみは、天の摂理から外れていることへの警告なのです。
 運の良し悪しも、その目安です。神さまのお心に適っていると運が良く、神さまのお心に適っていないと運が低下するのです。
 また、自分個人の観点で見るならば、自分がおるべき所でするべきことを、自分らしく良い心がけで行い、周りの助けになっていると運が良く、健康で平安なのです。
 一方、自分がおるべき所におらず、自分がその時するべきことをせず、あるいはしていても自分らしくせず、周りに良い感化を及ぼしていないと、運が悪く病気がちになり、心も不安定で焦りがちになるのです。
 このように健康状態や運・不運、心の状態などに、神さまが徴をもたらし、教育しておられることに気づいてください。
 それゆえ昔から、天の摂理に適っていて、自分がするべきことで良いことをして、周りに良い感化を及ぼしている人は、多くの場合病気知らずで、長生きで、病気でというより、老衰や自然死で息を引き取ります。
 十分にするべきことをしてから、還ってけるのです。不安や焦りや後悔や悲しみや恨みがなく、「良かった」「ありがたかった」「本望だ」「悔いはない」。そのように満ち足りて、安心と感謝と喜びで息を引き取り、すっと天界へと運び上げられていくのです。
 生前から天国的あり方で生きましょう。美容や健康は、その副産物として天から自(おの)ずと与えられます。
 「自分がするべきことをして、周りに良い影響を及ぼしているのかどうか」「天の摂理や自然の摂理に適って生きているのかどうか」――それが心の状態を通してチャクラの状態、運・不運などに、徴として顕れ出ます。このように神さまが徴として与え、何が大事で本当かを教えてくださっているのです。
 天の創造主と天界に自分をすり合わせ、合致させましょう。そのためにも一日を、天への礼拝とお捧げからスタートするのです。「自分の本当の気持ちに、素直で正直であること」とも言えます。
 そうすれば心から安心し、夜もよく熟睡できます。夜十分熟睡するということが、健康と美容の秘訣です。穏やかに、喜びと共に目が覚めます。
 
 また入浴している時も、機械的・形式的に入るのではなく、しみじみと味わい、感謝と平安で心が満たされて、入浴してください。そうすると効き目があります。自分を労り、肉体に感謝し、自己肯定感を持つこと。
 夜眠りに入る時は、天界に向かうかのように、天に自分をお捧げして眠りに入ります。そうすると眠っている間、天界に行っています。
 こうして、朝目が覚める時には天界から降りてきて肉体に戻る、というような感じで目が覚めます。
 生きているうちからこういう眠り方をしていれば、息を引き取る時も、すっと天界へと向います。
 なぜなら、「夜眠る時」というのは、「息を引き取る時」に対応しているからです。「眠っている間」は、「霊界にいる時」に対応しています。「朝起きる時」は、「赤ん坊として生まれてくる時」に対応しています。
 人が一日一日、昼間は起きて活動し、夜は眠る。このくり返しがあることが、人は輪廻転生して、この世とあの世を行き来していることを示しているのです。
 自然の循環も、春・夏・秋・冬があること、それが人生の若い時から中年期、晩年期に相当することで示されています。人の輪廻転生にも対応しています。
 「若返りの秘法」は、ギザの大ピラミッドから始まりました。アトランティスの継承としての「大ピラミッドの秘伝」、そしてそれをエジプトからペルシャ、イスラエルを経て、イエス・キリストが成し遂げました。
 それは、秘教的キリスト教の中で継承され、近代には特にサン・ジェルマン伯爵がその秘術を会得し、やって見せました。
 その太古の叡智が今でも、神秘主義の中には保持されています。
 ONEは、その現代版、さらには未来版です。それを、それぞれ自分の今に照らして、応用・活用しましょう。それは目的というより、天の摂理に適ったあり方の結果として与えられる贈りものです。
 ちゃんとするべきことを自分らしく、置かれた所で行って、周りに良い感化を及ぼしていれば、自(おの)ずと健康と美容は授かるものだからです。
 その上で補助として、ここに述べられたようなことも参考にし、取り入れてみましょう。
 
 心が美しければ、チャクラを通して肉体も美しいのです。一人ひとりの美しさがあります。美しさは一律ではありません。霊体が美しければ、肉体にもそれがチャクラを介在して反映してきます。
 そうすれば、それほど衣装とか装飾品、バッグや靴などにこだわらなくても、また化粧やメイクにこだわらなくても、天使や赤子のようにそのままで映えることでしょう。
 これがONEの観点から見た美容です。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17189

 
質問:占星術は当たるのでしょうか。占星術とリーディングはどんな関連があるのでしょうか。また、占星術と人の運命はどうつながっているのでしょうか。ご教示ください。
 
ソース:占星術が「当たる」という人もいれば、「当たらない」という人もいます。賛否両論です。では、どちらが正しいのでしょうか。答えは、両者の真ん中にあります。
 人は、極端を好みます。また、わかりやすさを好みます。しかも、自分の立場で主観により物事を判断し、言います。
 そのため、いろいろに意見が分かれるのです。どの見解も部分的であり、全体真理であるONEに至っていません。
 ブッダは両極端を回避し、「中道」と「八正道」を、全てにおいて説き勧めました。「答えは真ん中にある」とは、そのような意味です。
 「両者の間」というのは、「どっちつかず」とか「妥協点」という意味ではありません。
「中道」が、どっちつかずの中途半端なものであるわけがないからです。
 人は、極端を好みます。極端のほうがわかりやすいし、付きやすいし、やりやすいことによります。しかし、どちらの極端も実情に反し、そのため行ってもうまくいきません。
 そうであるからこそ、ブッダは両極端を見据え、真ん中の「中道」を説き勧めたのです。
 
 物事の判断でも行動でも、「中道」によってこそ実情に合い、うまくいき、カルマも役目も着々と果たされて、現実が成り立ちます。
 「中道」とは、「適切さ」のことです。全く適っている――それが中道です。
 占星術に関しても、このことがそのまま当てはまります。ブッダの説いた「中道」と「八正道」が「ONE」なのです。
 占星術にも一つばかりでなく、数多くあります。それらの中には、精度の高いものから低いものまで、いろいろあります。ピンからキリまで、種々雑多なものが占星術にはあるのです。さらに、それを使う術者によっても、精度が変わってきます。
 それゆえ、当たる占星術もあれば、当たっていない占星術もあります。術者による以前に、占星術自体に、精度の差があるのです。
 そこで、見極めることが必要になってきます。「どの占星術は精度が高く、どの占星術は精度が低いか」を見分けるのです。
 また、そればかりでなく、術者は自分との相性や占星術とのご縁を、見ていくべきです。客観的に見ての精度ばかりでなく、術者は、「自分はどの占星術と相性が良く、ご縁と役目があるか」ということも、考慮に入れる必要があります。
 
 また、占星術を受ける側も、占星術とのご縁や相性、術者とのご縁や相性を、考慮に入れるべきです。受ける人の心がけ、準備の出来具合も影響を与えます。
 ただ、いちいち占星術や術者を選り分けるというよりも、常日頃から天の創造主に献身し、創造主のお心に適った考え方や生き方をしてさえいれば、自分の中のアンテナが正しく働いてくれて、結局は、その時の自分に合う術者や占星術と出会えます。
 起きることや体験することは全て、自分次第だからです。「その時の自分を表す現実の状況と出来事と体験になる」「その時の自分に見合う現実となる」「外界は内界の表れである」――これが法則だからです。
 それゆえ、その時のものを受け入れ、活用すること。それ以前に、自分をいつも見直し、整えて生きることです。
 「占星術は全部当たっている」というのは極端です。「占星術は全部でたらめで、根拠がない」というのも、違います。占星術には根拠があり、かなり的確です。
 ただ、限界はあります。一つの法則を表してはいても、具体的・個別的な一人ひとりを完全に読み取ることは、ほぼ不可能だからです。
 占星術は一つの法則を示しています。後は生身の、具体的な一人ひとりの人間をじかに読み取って、相手の方の心を感じ取って、適切に応じることが必要になってきます。それが術者の腕です。
 占星術を使って、正しく占星術を読み取ること。さらに、相手の方を直接捉えて、適切に応じさせていただくこと。この2点が必要です。
 占星術には数多くあり、ピンからキリまであります。かなり精度の高いものもあれば、ほとんど根拠のない、迷信的なものまであります。
 例えば、以前流行った「動物占い」などは、全く荒唐無稽なものというほどではありませんが、面白半分のものです。「血液型占い」も、ある程度の根拠や的確さはあるものの、大雑把なものです。
 一方、「紫微斗数」「奇門遁甲」「四柱推命」「算命学」「淵(えん)海(かい)子(し)平(へい)」「六壬(じん)」「七政」「易」「九星」「数秘術」「西洋のホロスコープ」などは、ある程度以上根拠があり、精度も高いものです。
 「インド占星術」や「ペルシャ占星術」は、さらに精度が高いです。
 「姓名判断」には、多少の根拠はあります。「人相」や「手相」「骨相」なども、多少は意味があります。
 「タロット占い」も、術者がよく自分を備え、相手を純粋に思って使えば、的確なものとなります。後は相手の方をしっかり読み取って、適切に内容をお伝えすることです。
 
 日本のカレンダーで、今でも付けられている「仏滅」などの六曜は、ほとんど意味がありません。
 方角は、九星や奇門遁甲に基づくものが多く、ある程度は人への影響がありますが、それに支配されるほどのものではありません。厄年や天中殺は確かにありますが、それに振り回されるほどのものではありません。神さまと信仰と心がけと生き方のほうが、上位にあります。
 運命のバイオリズムはあります。それも占星術である程度示されています。しかしそれに支配されるのではなく、それを知って参考にしつつ、うまく流れに乗ればよいのです。
 例えば、厄年や天中殺にも意味があります。ただし、恐れたり、何でも避けるというのではなく、その間に十分休んだり、これまでのことを振り返ったり、将来に向けて学び、備えをしたり、計画を立てたり、上手に楽しんだりして過ごしましょう。
 人間は生命体です。そのため、自然の循環の春・夏・秋・冬のようにバイオリズムがあって、当然なのです。
 
 冬に相当するスランプが、厄年や天中殺に過ぎません。「冬は困る」「冬はないほうがよい」「冬は何もするな」。それはおかしな道理です。
 ちゃんと春・夏・秋・冬でバランスを取って、その時に合わせた過ごし方をすることが、本当です。これが、自然の摂理に合わせて生きることです。
 夏は、夏の過ごし方があります。冬は、冬の過ごし方があるのです。自然の摂理の元に天の摂理があります。その天の摂理は、神さまのご意志の表れです。
 それゆえ実際的には、自然の摂理に合わせて生きれば、神のお心に適い、うまくいくのです。
 占星術は、宇宙や自然の流れや社会や人の動きを、法則に基づいて示してくれていいるものです。
 人間も宇宙の法則に基づいて輪廻転生し、神に生かされ、育て導かれています。法則に基づいて人は生まれ、生かされています。その法則を、占星術は示してくれているのです。
 そこで、占星術に基づいて人の運命を捉え、人の助けとなるのが占星術です。
 星が、人の運命を支配しているのではありません。本人のカルマと現在の心がけと生き方、天から授かっている役目と必要な学び、それらが運命の要因です。
 カルマと今世の目的に加え、今の自由意思の使い方が運命を決めています。それらのうち、前世からのカルマや今世の目的を、法則を捉える占星術は、ある程度示しています。
 それで、占星術を使って、人の運命をある程度読み取ることができます。あとは、術者の腕が影響します。
 一方リーディングは、占星術などのツールを介在させずに、直接相手の人の心や運命を捉えて、お伝えします。特に神さまのご意志をお伝えするメッセージが、リーディングの真骨頂です。
 
 このように占星術は、法則を表しているので、占星術を使って人の運命を読み取るツールとして使われます。
 占星術を使って相手の人の運命を読み取ろうとする間接的なアプローチが、占星術です。
 一方リーディングは、占星術などの媒体を介在させずに、じかに相手の人の心や運命を捉え、それを伝えます。さらに、人間の上位におられる神さまの、その人に対するご意志を伝えます。
 このように占星術とリーディングは、人の運命を読み取り、助言したり忠告したりする点では共通していますが、占星術は人の運命を読み取る上で間接的であり、リーディングのほうは直接、相手の人そのものを捉えます。
 占星術と運命は、どう関連しているかというと、人の運命は、本人の中にあります。また、神との関わりで、神のご意志の表れにもなっているのです。
 人は法則に基づいて、神によって生かされ、育て導かれています。その法則を、占星術は捉えることができます。
 そのため、人の運命を法則を示す占星術が、ある程度表示しています。
 先ほど述べられたように、星が人の運命を支配したり、導いたりしているのではありません。神が人を導いたり、動かしたりしておられるのです。
 そして直接には、当人の持っているカルマと、今世の目的、そして自由意思の使い方が運命を左右しています。
 如何にも星が導き、運命を支配しているように読み取れますが、本人の持っているものを法則から星が表示しているに過ぎません。
 星を操作することで、人の運命は変えられません。星はもともと本人が持っているものを、表示しているだけです。
 運命を規定している要因は、本人自身の持っている前世からのカルマと、今世生まれてきた目的と役割、そして今、自由意志をどう使うか。それらが運命を決めます。そして、人間の上位におられる神さまが、最終的にはお決めになります。
 
 そこで、星に支配されるのではなく、まず、運命のいちばん元におられる天の創造主に目を向け、お委ねすること。
 そして、自由意思がより良く使えるように、神さまに導かれるように、生かされて生きること。
 自分を内省し、自分の傾向を知って、自分の長所が発揮され、短所が癒され、調整されるように心がけること。
 「ONEの教え」に基づいて、より良い心がけを作って、現状を大切に現状の中で、自分らしく思いやりの心で、やっていくことです。
 カルマが解消するように、神さまによくお祈りしてお委ねし、「中道」と「八正道」を心がけて、現状に応じていくことです。
 これが本当の「運命の開拓法」です。礼拝とお祈りと、ONEの教えが運命を開拓するのです。占星術が運営を開拓するのではありません。
 開運法は、礼拝、祈り、良い心がけ、ONEの教え、人助けです。
 ただ、占星術も運命を読み取る目安にはなるので、うまくツールとして使えば、助けにはなります。占星術をあまりに過大視しないことです。
 しかし人間は、法則に基づいて生かされているので、法則を示す占星術は、目安になります。ちょうど、船の羅針盤に相当します。それ以上の意味や価値はありません。ある程度にしてください。
 イエス・キリストがお生まれになる時、ゾロアスター系の東方の三博士がベツレヘムの星に導かれて、確かに幼子イエスに辿(たど)り着くことができました。そして幼子イエスに、日本の三種の神器のような3つの贈り物を捧げました。
 エッセネ派においては、占星術は研究され、参考にされていました。占星術を過小評価しても過大評価しても、行き過ぎなのです。ちょっと参考にする程度で十分です。そのぐらいのスタンスや関わり方にするのが健全で、主体的に生きられます。
 
 占星術で何もかも読み取れる、ということはありません。一種の統計学に近いものです。ただ、足がかり程度にはなります。
 運命の実質は、本人の、生身の人間の持つものによるのです。そして自由意思が与えられているので、全てが決まっているわけではないし、変えられる部分があるのです。
 変えられない部分でも、「ONEの教え」によって捉え方をより良く工夫することで、重荷ではなくなり、活かすことができます。
 「ONEの教え」においても、占星術はある程度認められ、活かされます。しかし上位には天の創造主と天界、そして本人の生きた命と心と自由意思があります。そこに本当の可能性が秘められています。
 エドガー・ケイシーも述べていました。「星や運命よりも、本人の意思の力が最も強力である」と。
 その意思が、天の創造主や天界とつながることで本当に運を開拓し、新たに創造していく道が開かれます。それがONEの、運命に対するつき合い方と捉え方です。
 確かに、人にはそれぞれある程度運命があります。その運命の正体は、星に支配されているというより、星は示しているだけです。運命は、本人が持っている、前世から携えてきたものと、今世、神さまから授かった役割と目的によります。
 あとは、その時その時の、本人の自由意思の使い方次第です。その自由意思が天とつながることで、最大限正しく発揮されて、より良い人生を送れます。
 もっとわかりやすく大雑把に言うなら、「人の運命を動かしている要因は、星というよりも本人のカルマ」です。
 そうであるからこそ、自分のカルマを自覚し、カルマを解消するのです。カルマを解消するのは、星の力というよりも、星の元におられる生きた神さまとの関わりで、カルマは解消していきます。星占いや星に関する供養、儀礼と言うよりも。星祭り、呪文、グッズ、呪術と言うよりも。
 星は運命の象徴的な徴、ではあります。それゆえ、どんな星がホロスコープや東洋の占星術で割り出されても、びっくりしたり恐れたりしないことです。一方、どんな良い星があっても、油断したり精進を怠ったりしないことです。上手に適切に、主体的に、占星術や星とつき合っていってください。
 
 ブッダも親鸞も、星占いなどとあまり関わらないように、人々を教導しました。それはもっと大事で、影響力の大きいことを優先するためです。
 多くの人たちは、精神的・霊的なことに興味を持っても、本末転倒に陥っています。まして一般の人たちはなおのこと、そうなっています。
 そこで、ブッダや親鸞のように、「何が最重要で本当なのかというのを見定めて、本当に重要なものをより所にしなさい」と、説き勧めたのです。
 そういうONEのスタンスがしっかりできれば、占星術にも意味や役目がありますので、活用できます。占星術もやはり天からの、人間のためのツールとして授けられたことは確かだからです。
 一般のキリスト教では、星占いなどを否定しすぎています。夢や健康法なども。それもまた極端なのです。「中道」ではありません。ONEは中道なのです。それぞれに意味や役目があります。
 そのことを知って、最重要なことから抑えていけば、その中で占星術や健康法や夢や転生や色彩や音楽や宝石なども、有用なものとなることでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17156

 
質問:宗教と芸術・芸能は関係していますか。ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:日本の歴史を見ても、世界の歴史を見ても、実際に宗教と芸術・芸能は関係してきています。歴史が証明しているとおりです。
 それは、偶然そうなったのではなく、双方が関係するような共通性、意味や目的があってのことです。
 宗教家は、芸術や芸能にも目を向け、宗教活動に芸術を取り込んできました。
 一方、芸術や芸能方面においても、全ての人とまでは言えずとも、ある割合の人たちは霊的なことや宗教に着目し、関わりながら、自分の芸術や芸能活動を追求していきました。
 
 例えば、宗教家として芸術や芸能に目を向け、宗教の活動にそれらを取り込んだ人物としては、空海、アッシジのフランチェスコ、ハインリヒ・ゾイゼらがいました。
 ほかにも数え上げればきりがないくらい
多くの宗教や霊的方面の人たちが、芸術や芸能にも関心を寄せ、宗教の活動に芸術を導入してきました。
 古代エジプトのファラオ・アクナテンも国の宗教が変わったことを、芸術の表現を通して知らしめました。さらに、アクナテンの宗教改革は、芸術と文化改革にもなっていました。その意味でアクナテンは、古代エジプトにルネッサンスを興(おこ)した人です。アマルナ芸術です。聖武天皇の大仏造立と天平芸術も知られています。
 一方、芸術家の中にも宗教や霊的方面に関心を寄せ、宗教的・霊的なことを取り込みながら芸術活動や芸能活動を追求してきた人が大勢います。
 例えば、画家のラファエルロ、詩人のノヴァーリス、また詩人であり画家でもあったウィリアム・ブレイクなどです。
 これも数え上げればきりがないくらい無数の芸術家や芸能方面の人たちが、宗教的・霊的なことにも関心を寄せ、自らの芸術活動のためにも、霊的・宗教的なことを糧(かて)としてきました。
 では両者は、どのようなところに接点があるのでしょう。
 まず、宗教も芸術・芸能も心に着目しています。その点、世間的・一般的な活動の政治、経済、金融、製造業などとは一線を画します。
 もちろん、政治や経済や経営なども追求していけば、人間の営みである以上、人間の心が関わってはいます。しかしそこに焦点を当てるということは、ほとんどしていません。表面的・世間的な動きを主として扱っています。
 それに対し宗教と芸術・芸能は、まず人間の内面の心に着目します。心の働きを大切にする点で、宗教と芸術・芸能は一致しています。
 さらに心の元にある魂にまで立ち戻って、魂の観点から人間と人間の生命の営みを追求します。
 特に、「理想を追求する」という方向で、心の思いや心の働きを表現して形にするというところに、宗教と芸術・芸能の共通点があります。
 心、さらには魂に基軸を据えつつ、心の働きを表現して、形にして示す。しかも理想を追求する、現状に甘んじない。
 理想を追求していく中で、特に「美」ということや「調和」ということを重んじ、尊びます。芸術的な働きを通して、表現するばかりでなく、心や魂が浄化され、育成されていきます。
 現時点の心の思いを表現して、形にするばかりではありません。芸術の営みを通して、芸術を行いながら心が育成され、清まる。そのようなダイナミックな働きに、芸術や芸能がなっています。
 芸術的な働きに従事することによって、次第に芸術に従事している当人も、その芸術に触れるほうの人たちも、その芸術活動を通して心が清まり、育成され、癒され、成長し、「理想の美」に向かっていけます。
 
 この点で、宗教の働きや活動と一致しています。そして、理想を追求するということで、「天界」とも関連してきます。
 天界は美の極みであり、心の完成したあり方の実現した世界です。それゆえ、「心」ということと「理想」や「完成」ということとが、「天界」ということで出てきます。
 「天界」と呼ぼうと「天国」と呼ぼうと、「極楽浄土」「高天原」と呼ぼうと、人間を超えた、しかし人間とつながりのある天界を、地上に表現して人々に示すことで、芸術家自身も癒され、清まり、育成されていく。
 そして、その表現された芸術作品によって、多くの人たちも啓蒙され、魂が目覚め、心や肉体が清められていく。
 音楽でも、ヒーリング・ミュージックがあります。ニューエイジ・ミュージックと一時言われていた分野があります。
 そのジャンルに限らず、音楽ではクラッシックをはじめ、幅広く癒しや清めや慰め、また意識の高揚などに、音楽は働きかけます。
 一部のヒーリング・ミュージックやニューエイジ・ミュージックに限られません。音楽はどのジャンルでも、幅広く多くの人たちの心、さらに魂、それから肉体にも働きかけます。
 どの表現芸術や人間の営みにも言えるように、霊界の階層に対応するレベルや性質や方面があります。霊界は心の階層です。
 音楽でも他の芸術や芸能でも、地獄的なものもあります。破壊するような、また損ねるような芸術や芸能活動です。不調和、虚偽、憎悪、恐怖、悲しみ、怨念、醜の表現。
 
 このように、芸術や芸能にもピンからキリまであるのです。それは行う当人によります。そして、それに見合う人が鑑賞します。
 より限りなく天界に近い芸術や芸能は、「調和」と「浄化」と「癒し」が、特徴となっています。上のレベルに行くほど調和的で、ONEに近づきます。生命を表現しています。
 このように芸術や芸能活動には、レベルがあります。また、種類や方面もあります。霊界と同じです。
 それは宗教的・霊的な活動にも、そのまま言えることです。基本的に宗教や霊的なことは、人間をさらに高め、より良くし、本当のその人を取り戻させる、必要で良き働きです。
 ただ、人間が行う以上、いろいろなレベルや種類になることは、当然起きてきます。そのため、宗教や霊的活動にも古代から今に至るまで、ピンからキリまでありました。
 例えば、最近よく知られている地獄的な宗教や霊的活動としては、オウム真理教や統一教会が挙(あ)げられます。
 人間が行う以上、政治や経済、他の活動と同様、行う人のレベルや性質が表れ出るのです。
 「宗教なのに霊的活動なのにどうして?」と、いぶかしがる人たちがいます。それはわかりますが、しかし人間が行うのですから、その人のレベルになります。そしてそれに、その時点で見合う人たちが付きます。
 「類は友を呼ぶ」の法則によります。一種の「ご縁」です。似たようなものは似たようなものを引き寄せ、関わり合う。その人たち特有のレベルと種類が、そこで明らかになってきます。
 広く見ていけば、その時代状況を表すようなものが世に出てきて、話題になります。良いほうも、問題なほうも。
 その時点の、その人たちの内実を表す現実の状況と雰囲気、動きと体験となる。これが法則だからです。
 このことに気づいて、自分を見つめ、自分を整え清め、自分をより良いほうに向けていくように心がけることです。「ほかがどうの…」と言うことよりも、何でも自分を見つめる機会とすればよいのです。他山の石です。必ず、その時代特有のものが生じてきます。現実の動きは必ず法則に従っているのです。
 時代の象徴として、それぞれの分野のことが生じてきて、話題になったり、問題になったりするのです。またそれによって知られ、元におられる神さまが清算されて、「次の時代に備え導く」ということも行われます。そのことを知って、迷わないように、恐れないように。
 
 個人の狭い範囲においても、世間の広い範囲においても、この同じ法則が働いているのです。
 この法則の観点から歴史を見ると、歴史を深く学べます。必ずその時代、その地域固有のものが必然的に出てきていました。
 今の人類にも、良いところと問題なところと、それぞれあります。
 良いところは、喜びごとや恵みや平安として人々に体験され、知られています。一方、悩ましいことや手間取ること、人々の苦しみや悲しみをもたらすようなことは、その時代の人類の、問題な部分の顕れです。
 それによって神さまが、カルマを表し出して果たさせ、間違いに気づかせ、見直しと学びと対処と、カルマの清算の機会として、与えてくださっています。
 コロナ・ウイルスにしても、ウクライナ情勢にしても、そのような今の時代を表すような象徴的動きです。
 「外界は内界の顕れである」。その時点の本人や本人たちの内実を表すような、現実の動きや雰囲気や状況や体験になるのです。
 そういう中にあって、宗教や芸術・芸能は、できるだけ現状の人間を踏まえ、少しでも良くなるように、神が手立てして与えてくださった表現手段です。
 宗教にしても、いろいろな芸術や芸能活動にしても、人間の心や命、その元にある魂が、現状から少しずつでも清まり、育成され、正され、理想に近づくように表現を与え、形にしながら互いに共有し、確認し合って、芸術や芸能活動を通して、結局は宗教や霊的な活動が推進されてきています。
 日本神道なら、神社の祭りや儀礼や建築様式、また神社の周りの構造や表現に、芸術が使われ、内面が表面化し、物質化されて知らされています。それによって人々が良いものを知り、それに触れ、関わり、助け導かれます。
 「理想の美」を追求し、地上に実現させるという点で、天界で実際に行われている祭りや儀礼を、地上で神社の建物や祭り・儀礼などを通して、天界を地上に反映し、降ろし、移植してきています。
 
 日本ならその典型が、伊勢神宮です。古代の世界ならイスラエルの神殿や、エジプトの大ピラミッドです。あるいは、バチカンのローマ・カトリック教会です。
 できるだけ天界をヴィジュアルに地上にも反映させ、地上の人たちにも天界を知らせ、体験できるようにすること。それが、宗教における芸術的な使命です。
 地上にありながら、まだ地上にはいろいろ問題や課題や苦しみがあり、人間もまだいろいろ課題含みではあるけれども、少しでも聖地を設けて、天界のありようを地上にもたらし、多くの人に知って体験していただくということが、神社やお寺や教会などの役割です。その建物や周りの景観、それから宗教儀礼など。
 ただ、地上の神社仏閣や聖地や聖域は、いわば月の光です。一方、天界の光は太陽の光です。
 太陽は、自らが光を放っています。一方、月自体は光は放っておらず、太陽の光を間接的に反射させ鈍く輝かせているだけです。
 それと同様に、地上のどんな聖地や神社仏閣、儀礼でも、月の光です。
 一方、天の創造主と天界は、太陽の光に相当します。生命の実在する、実際の輝きを放っている生きた場です。力があります、癒したり清めたりする。
 このことに気づいて、地上の聖地や神社仏閣を、ご縁があれば大切にさせていただき、地上にもできるだけ天界を反映させる努力を怠らないこと。
 その場合でも、神そのものの光は天界にあることに気づいて、天界とのつながりを保ち、怠らないこと。そして天界の太陽の光をできるだけ忠実に、より多く、地上に反映させる場や働きとすること。
 そのように心がければ、地上の神社仏閣や聖地も生きてきます。それらにも意味と役割があります。
 また、聖地やパワースポットや神社仏閣を訪れる人たちも、それぞれの聖地やパワースポットに意味があることを知って、大切にさせていただきつつも、真の生きた実在の霊的太陽の光は天界にあることに気づいて、天界をこそ尊び、天の創造主と天界にこそ自らをお任せしましょう。
 その上で、地上の神社仏閣や聖地にも、それ相応の意味と役割と力はありますので、それ相応に尊び、関わらせていただくことで、直接、神社仏閣に従事する人も、また、そこを訪れるほうの人たちも助けられます。
 心や命を表現して形にし、多くの人に恩恵をもたらすという点で、より良い芸術や芸能活動は、宗教の使命と一致しています。
 
 また、宗教にもいろいろな程度や種類があることを知って、本当の意味で自分を大切にするために、より良い所に自分を置きましょう。
 誰でもその時点の自分の中に、いくつかの要素を、同時に持っています。「その時点の自分」といっても、幅があるのです。
 そのことに気づいて、できるだけ現時点の自分として最良の方向づけを取って、今の自分として縁づく可能な、より良い所に、自分を縁づかせてください。
 そうすると、より良い所とのご縁で自分が引っ張り上げられ、清められ、育成されていきます。
 宗教や芸術方面に従事する人たちも、自らの努力を怠ることなく常に精進し、自浄作用を持ちましょう。常に、自分たちの所がより良い所となって、より多くの人たちにより良い影響を及ぼせるように、いつも努力し続けることです。
 宗教や霊的な方面も一種の生き物です。それで油断していると、同じ所でも低下してきたり、濁ってきたりします。
 そこで、いつでも自らを清め、精進し続けることです。そういう所は活き活きしていて、良いものが宿り、周りにもたらしています。
 地上の自然の中の湧き水のように、宗教的・霊的な方面に関わっている人は、そのことをイメージし、常に努力し続けてください。
 それによって自分たちも救われていき、自分たちの活動を通して、より多くの方々に恩恵を与えてもいけます。
 この世のいろいろな宗教や霊的な活動は、霊界に「必ず」と言ってよいほど、対応するものがそれぞれあります。「霊界のどのレベルのどの種類の所に根拠がある、地上の宗教的霊的な活動か」ということが、それぞれあるのです。顕界は霊界の反映だから。
 それに応じた立場、教えの内容、実際の活動とか雰囲気、起きることとかに自(おの)ずとなっています。そして死後も、そこに行って生前の活動を続けます。
 
 「宗教や霊的なことだから全部がいい」とは限りません。魔的なものも多いです。しかし、表面や常識だけで見てわかるとは限りません。
 イエス様でさえ、悪魔呼ばわりされていたり、詐欺師に見られていたのです。
 現代の人は驚くかもしれませんが、当時、いちばん悪魔的であり、詐欺師であると見られていたのは、イエス様ご自身だったのです。そのぐらい霊的な真偽を見分けるのは、すぐには困難だということ。
 ただ一方、イエス様は次のようなことを、ヒントとしておっしゃってくださっています。
 「それがどういう性質の所かは、その実によって見分けることができる」と。「悪い木は悪い実を結び、良い木は良い実を結ぶ。悪い木が良い実を結ぶことはなく、良い木が悪い実を結ぶこともない」。これは「歴史が証明する」ということとも言えます。次第に明らかになっていくのです。
 人間が行う以上、霊的なことも芸術・芸能も、完璧というわけにはいきません。それでも大筋として、「本物かどうか」「良い所かどうか」は、自(おの)ずと時が経つうちに、明らかになってくるものです。
 このようなことは、芸術や芸能活動についても言えます。「外界は内界の顕れ」です。それぞれの芸術家や芸能関係の人たち、またグループや流派などにおいても、時が経つ中で自(おの)ずと、内実がそのとおり明らかになってきます。
 別に、見分けることが大事なのではないのですが、見分けることも自分が関わる上で、ある程度は必要なことです。
 また、忘れてならないのは自分を見分けること。自分を知って、自分を清めたり、正したり、癒したりしてあげること。
 
 それによって、自分の使命をより良い形で行っていけます。それが自分の救いになると同時に、自分の活動を通して、より良い影響を周りに及ぼしてやっていけます。そうすれば芸術は、冥利に尽きます。
 「芸能」というのは、映画、演劇、歌謡、舞踏、落語など、大衆的娯楽のことです。
 「芸術」というのは、文芸、美術、音楽などです。
 また「古典芸能」としては、歌舞伎や能楽や狂言をはじめとする伝統芸能です。それらは宗教と密接に関わりながら多くの表現を与えてきて、宗教に奥行きや幅を持たせ、宗教の活動を推進してきています。
 心の働きに関係し、特に心の働きを表現し、形にすることで、自らも充実し、より多くの人たちにも、その恩恵に浴するようにさせてあげるところが、宗教と芸術・芸能の共通点です。そして心の「理想の美」と対応する「天界」を地上に反映させるということ。
 それゆえ、「ヨハネの黙示録」の最後には、「天界の新しいエルサレムが、地上に静かにゆっくりと降下してくる」というヴィジョンが与えられたのです。これは「天界を地上に反映させる」ということを示しています。それが新しいエルサレムでした。
 エルサレムの神殿は、「ソロモンの神殿」「ゼルバベルの神殿」「ヘロデ王の神殿」、この3回建て直されました。ヘロデ王の神殿は、ローマ軍によって壊され、そのまま今日に至っています。
 そういう中にあってヨハネは、新しいエルサレムが天界から地上に降りてくるヴィジョンを見せられました。
 
 天界を地上に反映させること。それによって地上に天界が実現する。それが新秩序となること。キリストが言われた「神の国の到来」です。
 それには、天界の美を表現することが、地上の物的世界では伴ってくることでしょう。それが芸術と芸能の使命です。芸術家が天界と関わることで、最良の芸術と芸能が行われます。
 後はそれを、各自の個性を通して発揮することです。それがより良くなされるためにも、自分を磨き、清め、癒しましょう。行うのは人間なのですから。
 このようにして、ONEの世界が地上に実現していくことでしょう。あなたもその担い手の一人になってください。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17132

 
質問:人間の意識の働きとその特徴について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: 人間が身を置いて認識し、日々行動して生きている範囲の世界があります。人間の観点から見た「世界」です。
 しかし実際は、人間が思いも寄らないような世界が、同時にあります。広くはマクロの世界、狭いところではミクロの世界があります。霊の世界もあります。
 一般には、マクロの世界が注目されていますが、微細な、極小の世界も見落とせません。それぞれの生き物が、自分の観点で周りを見て認識し、生活を送っています。人間には思いも及ばない、別の認識と生活の仕方です。
 神はそういったマクロの世界やミクロの世界にも精通し、しっかり関与し、管理し、司ってくださっています。そのお蔭で、人間の世界ばかりでなく、マクロの世界やミクロの世界も支えられ、成り立っています。人間が生活し、認識している世界が全てだ
と捉えてはなりません。
 マクロの世界に焦点を当てて見てみると、「宇宙」ということで一般に知られている世界が広がっています。
 
 一口に「宇宙」といっても、人間の認識がとても及ばないような、広大な、無限に近い世界が広がっています。しかも、そのマクロの世界である宇宙は、物の次元に限られません。
 現代において一般に認められている「宇宙」とは、物の次元における宇宙です。しかし、宇宙は物の次元に限られません。心の次元の宇宙があります。さらには霊の次元の宇宙があります。人間や地球との関連における霊的な宇宙を、「霊界」と言うことができます。
 このように「宇宙」といっても、「物の次元の宇宙」「心の次元の宇宙」「霊の次元の宇宙」があります。
 それに対応するように、人間の中にも「肉体」「心」「霊魂」があります。そのそれぞれに、「意識」があります。肉体に属する意識は「顕在意識」、心に属する意識は「潜在意識」、霊魂に属する意識は「超意識」です。
 宇宙のほうも生命の世界であるため、物の次元の宇宙には、顕在意識の世界が広がっています。心の次元の宇宙には、潜在意識の宇宙意識が広がっています。霊的宇宙の世界には、超意識の宇宙が広がっています。
 それで人間が目覚め、意識が広がっていくと、人間はいわば「宇宙の子」であるため、自分の意識がそれぞれの宇宙意識と交流し、自分の中に広大な宇宙意識が目覚めます。宇宙は生命に満ち溢れた世界であり、意識の宇宙なのです。
 「人間が捉えているのは、物の次元の宇宙だけだ」と言いました。しかも、人間が「これこそ宇宙である」と捉えている宇宙は、太陽系を含む一つの宇宙に過ぎません。別の多くの宇宙があるのです。
 そこで、人間が認識している宇宙を「This universe(この宇宙)」と表現することが必要になってきます。実際には別の多くの宇宙があり、それは人間には捉えられていません。
 人間は「この宇宙」の中の銀河系、そして銀河系の中の太陽系、太陽系の中の地球に限定されて、物的にも意識の次元でもその制約の中で考え、感じ、行動して生きているのみです。
 しかし、祈りや瞑想や献身、利他的・奉仕的・慈善的な生き方をしてきた聖者たちにとっては、肉体や自分の住んでいる物的な地域に制約されずに生きていました。
 
 肉体としては自分が生活している地域に限定されてはいても、心や意識や霊は、そのような制約から解放され、本来の広大で自由な「意識の宇宙」と交流し、自分の中でも意識が拡張し、宇宙意識に目覚めていました。それによって意識の宇宙があることに気づき、それを感じ取りながら、太陽系の中の地球に肉体を置いて、生活していたのです。人間は、そのようにまでなれるものがあります。
 そのように徹し、高度に進化して目覚めた存在たちのピークは、キリストやブッダです。そこまで行かなくても、古代の人たちは生きた天体を眺め、現代人より意識が広がり、自然の生きた世界と交流して、生活していました。
 現代においては、物的な科学技術を発達させ、人間は肉体を持ってかなり広範囲に、飛行機や新幹線やロケットを使って、行き来できるようになりました。
 意識の世界でも、インターネットの世界が開拓され、最近ではメタバースなども開発されるようになりました。
 しかし実はまだまだ、現代の科学技術による人間の働きは極限られており、遅れているのです。
 むしろ古代の人たちのほうが、肉体の制約はあっても、心や魂の世界はずっと開かれていて自由で、「意識の宇宙」を認識し、感じ取り、それが生活や心の状態にも反映していました。
 現代は進んでいるといっても、ロケットや宇宙衛星を飛ばして、せいぜい地球から月、火星、一部の衛星などに物的に到達しているのみです。
 インターネットの世界は、意識の世界と結びついてはいるものの、バーチャルが多いし、バーチャルでない部分にしても、まだまだ極限られているのです。
 
 それに対して古代の人たちは、広がりがあるばかりでなく、意識の実在の世界、バーチャルではない、実際の生きた意識の世界や霊的存在を捉え、それらと実際に関わり、それが自分や生活にも反映していました。
 今ではそういう人は減ってきています。しかし、全くいなくなってしまったのではありません。
 一般大衆は、物の世界とインターネットなどの意識の、しかもバーチャルな世界に向かっています。「それが全てだ」と思い込んでおり、自分たちを「進んでいる」と捉えています。
 ある部分では確かに進んできてはいますが、限定されているし、問題も多いです。もっと本来のところに気づいて、もっと本質的なことを大事にするべきです。人間にはもっと別のアプローチがあり得るし、そこにこそ価値と可能性があります。
 そういったことに気づかせ、そこを開拓していくことで、現代の方向性や風潮を正し、バランス化させることが必要になってきています。それを行っているのが、ARIのONEの活動です。
 目に見えない世界には、バーチャルと実在の世界、その両方があることさえ一般には知られていません。
 例えば、映画やアニメやマンガなどで表現されている世界の多くは、バーチャルです。メタバースの世界も、典型的にバーチャルです。仮想空間です。
 「バーチャルの全ては意味がない」とまでは言いませんが、架空の、実際にはない世界を造り上げています。
 ほとんどの人は、「インターネットや意識の世界はイマジネーション、空想などの、実際にはないバーチャルである」と思ってしまっています。しかし実際は、心の世界や霊的な世界にも実在があるのです。
 瞑想や芸術や芸能などにおいて、確かにイマジネーションの世界も深く関わってはいます。しかしそこに留まらず、想像や空想を呼び水として、本当の、目に見えない生きた実在の世界に導かれていくことが可能です。昔から神秘体験や神体験、霊体験として知られていることです。
 
 目に見えない世界は、物的な科学では証明しにくく、空想の産物なのか、それとも真の霊的実在なのか、判別をつけるのが難しいという課題はあります。
 しかし、「全く手がつけられない」ということではありません。こういった意識の科学を推し進めていくことが、今後求められていきます。ARIは、そのために創設された面もあるのです。
 今は、外へ外へと物的に、物的な科学技術を駆使して、挑戦しつつある時代です。
 日本でも、物的にリュウグウから貴重な土や砂を持ち帰ることができました。それは、物的な科学の成果です。そういったことにももちろん、意味や価値があるのですが、しかし、それが宇宙解明の全てではないことに気づくべきです。
 その一方には、意識の宇宙が広がっている。インターネットやメタバースもいいけれども、瞑想や祈りや夢の探求などを通して、意識の宇宙を開拓し、冒険し、解明し、活用する道が未だ残されている。
 意識の宇宙への冒険と挑戦――ARIは、こういった意識の世界を開拓する目的で創設された面もあります。
 それで、ARIの前のIANAの時は、アメリカのNASAに対する、意識の宇宙の解明と活用を目的として、NASAに似せてIANAと命名されました。ロゴマークも、アメリカのNASAを参考にさせていただきました。
 それは改名された現在のARIにおいても、ロゴマークに使用されている字体が、NASAと同一であることに引き継がれています。
 物的な天文学や宇宙工学も結構ですが、宇宙自体が物の次元に留まらず、心の次元の宇宙、霊の次元の宇宙まであるのです。
 しかも、優先順位として、実は、まず霊的な宇宙があり、それから心の宇宙、そして最後に物的な宇宙が造られたのです。造られた後でも、まず霊的な宇宙で重要なことが起き、それが心の宇宙、それから初めて物の宇宙に投影してくるのです。
 
 本当の意味での最先端であり重要なのは、霊的な宇宙を解明し、開拓し、活用することにあることが、これによって明らかとなりました。
 『聖書』は最初の五書は、「モーセの五書」と言われます。モーセが書いたと見なされているからです。
 しかし実際は、モーセの後継者のヨシュアが書きました。このヨシュアこそ、後のキリストです。
 「モーセの五書」の最初は、「創世記」です。そのヨシュアが書いたという「創世記」を見ると、「神はまず『光あれ』と言われた。すると光が生じた」と記されています。
 これは「神は霊的な宇宙を最初に創った」ということ。もう少しわかりやすく言うと、「霊界を創った」、あるいは「天の世界を創った」ということ。それから物的な宇宙も、霊的な宇宙を元に造られたのです。「創世記」には象徴的な表現で、真実をちゃんと伝えてきているのです。
 現代においては、物的な世界とそれに対応する人間の肉体ばかりが重んじられています。一方、霊的な世界や心、それから霊的な宇宙などは、ほとんど無視され、嘲笑の的にさえなっています。これは本末転倒であり、本来のあり方ではありません。これを正し、正位置に戻すのもARIの役目です。
 スウェーデンボルグは、今からおよそ3百年前の人でしたが、当時の最先端の物質科学を学び、それに精通しました。しかしそれに飽き足らず、霊的な宇宙の冒険に向かっていきました。それだけ「先見の明があった」ということです。
 本当にもののわかる人ならば、物の世界は限定的であり、実はまず霊的な世界があり、それこそが重要であることに気づきます。
 そして霊的な世界や神秘の世界に向かいます。ニュートンもそのようなことに気づいていました。本当の天才でしょう。
 霊的な世界を重んじ、そこをまずきちんとさせる。それによって初めて、物や肉体も活かされ、良くなっていく。物的な世界や実際の現実を良くするためにも霊的な世界をまず探求し、解明し、良くしていくことが不可欠です。
 
 これが本当なのです。でも、今の常識にはなっていません。ここで語られたことを次の常識にするため、ARIが日本に創設されました。
 少しずつでも、こういうことがわかる人が出てきて、意識の宇宙を探求し、自分の中に宇宙意識が目覚めることが、願われています。
 ARIの目的は、大別して2つあります。
 1つめは、「一人ひとりの生命の進化」です。「教育と啓蒙」です。「修行」と言ってもよいかもしれません。これからの時代向きの修行のことです。
 もう1つの目的は、「目に見えない世界を研究し、解明すること」です。
 日本のARIと、大きくは同じ系統であるアメリカのAREも、この2つの目的を担って創設された所です。それはAREの名称にも表れています。「研究と啓蒙の協会」――AREとは、そのような意味だからです。
 日本のARIの場合も、「研究と啓蒙」、この2つの目的があるのです。
 ARIとの関わりで、啓蒙や癒し、自分の目覚めや自分が良くなること、そして世の中に貢献する意義深い人生を送ること。この啓蒙のほうの目的が主になっています。
 確かにそれは大事です。ただそればかりでなく、ARIには「研究」の面の目的もあります。それで、「浅野総合研究所」という名称になっているのです。
 ARIが「研究所」というのは、単なる名称ではなく、その名称のとおりの所だからです。しかも「総合」とついていますので、あらゆるジャンルに関係しています。
 ARIが創立されて40年近くになります。しかし、まだまだこれからの所です。一般の人々の認識も、まだまだ付いて来れていません。時代がまだ、そこまで来ていないからです。それでも、少しずつそれがわかり、それにやり甲斐(がい)や使命を見出す人たちが、出てくることでしょう。
 神秘体験や霊体験は重要です。そのような体験の中にも、空想や想像的なバーチャルが、介在している場合もあります。また、象徴的な形で、真実が表れている場合もあります。
 夜見る夢はその典型です。文字どおりの意味では違っていても、象徴的に読み解けば、真実を表していることは多いのです。あるいは、真実でない場合でも、本人の心の中でのイメージや認識として、そのように捉えているなら、それはそれで意味があり、考慮されるべきです。本人がそのように捉えているのなら。そして、その影響をしっかり本人も受けているのです。
 
 人間の意識の働きでは、イメージや実感やニュアンスの影響が大きいです。そういったことを知って、戦略的に用いるのが広告です。それが芸術的な表現を用いた場合、広告デザインとして一般に行われています。人間の意識に働きかける効果があるのです。
 人間はそういったイメージで影響を受け、動かされている部分が多分にあります。会社の社標やロゴマークなどのイメージは、大きな意味をなし、影響力があります。また、国名や国旗などにも意味や影響力があります。人間の場合なら、名前や姿形、雰囲気などに、周りへの影響があります。
 このように見てくると、現在知らず知らず行われていることの中にも、目に見えない世界のあること、そしてその影響がすでにあることがわかります。それをもっと掘り下げ、追求し、良いほうに活用していくことで、新境地を開いていくことができるのです。
 現代においては、インターネットやメタバースの世界を開拓し、それを駆使しようとしています。AIもその一種です。
 しかし、昔から神秘主義で行われてきているのは、瞑想や宗教儀礼、イニシエーション、また自分が見ている夢に取り組むこと、あるいは預言などでした。それがより正しく、より良く行われるよう、自らの体と心を清め、天の摂理に合った生き方をしてきました。そういった中で一大成果として、イエス・キリストが出現できたのです。
 神秘主義の最大の成果、それはイエス・キリストの出現です。また、そういった秘儀の場として、ギザの大ピラミッドが建造されました。
 日本では今でも、聖地が何か所かにあり、儀礼が執り行われ、伝統は続いています。そういったことに注目し、解明し、さらに活用していくことで、今後の世界に良いものをもたらしていけます。
 聖徳太子は夢を活用していました。それで、聖徳太子が過ごした所は「夢殿」と名づけられ、今日まで大切に残されています。
 聖徳太子はいろいろな所に飛んでいって、神秘的な体験をしたことが伝えられています。現代の学問や科学では、唯物的であるため、それを荒唐無稽なことや誇張として、正しく理解、紹介していません。
 実際は、人間には肉体のほかに霊体があり、物的宇宙だけでなく意識の宇宙がある。それならば、聖徳太子が霊体で飛行し、いろいろな所に赴いて、霊体験をしたとしても、おかしくはありません。太子の伝説は単なる誇張や文芸的な表現ではないのです。まして、意図的に捏造したものでは、さらさらありません。
 目に見えない世界の中にも、空想や願望、恐れ、思い込みのバーチャルも、確かに混じり込んではいるのですが、それらの霊的な意味も理解しながら、真の実在を見出し、それを大事にしていくことで、霊的な真の世界が明らかになり、開かれてくることでしょう。そこは宝庫です。
 あなた方もそれぞれ、自分の置かれた所で、以上のことを理解し、考慮して、今世をより有意義に生きていってください。
 その観点で改めてARIを見て、ARIを活用していかれれば、ARIにとっても学ぶ方々にとっても、得られるものは多大であることでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17110

 
質問:キリストは復活した、と伝えられています。それは本当でしょうか。もし
本当なら、そこにはどんな意味と役割と効力があるのでしょうか。
ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:これまでの2千年ほどのキリスト教の歴史において、キリストが本当に復活したのかどうかが、重要なテーマとして取り扱われ、論議されてきています。
 少なくともキリスト教という宗教の中で
は、福音書に記されていることを信ずるということで、復活を受け入れてきています。
 しかし、キリスト教以外の一般においては、疑問視されてきていることでしょう。
 特に、近代以降、唯物的な科学と学問が隆盛を見る中で、一度完全に死んだ人間が、3日も経って自力で復活するということは起きそうにもないことだと、思われてきています。
 それを反映してか、最近の説の中には、次のようなものがあります。
 「キリストは十字架にかかって死んだように見えたけれども、実は、死んではいなかった。瀕死の状態に陥っただけで、その後少しずつ回復して、ある程度の寿命まで生きた。マグダラのマリアと結婚し、子どもまで儲けている」
 このような説です。このほうが如何にも人間的で、ありそうなことのように思えます。しかしこれは、本当ではありません。昔からの、「福音書」に書いてあることのほうが、事実です。
 キリストは実際に、十字架上で完全に死にました。そして3日後、本当に復活しました。
 
 世間一般でも、近年には、臨死体験が注目を集めています。キュブラー・ロスの臨死体験に関する書物や、日本の鈴木秀子氏の臨死体験などは、よく知られています。仮死状態に陥ってしばらくして、息を吹き返した。その間に臨死体験をした、というものです。
 それはそれで貴重な体験と資料なのですが、キリストは実際に死にました。そして、3日後に見事に復活しました。
 「旧約聖書」の中では、預言者エリシャが、一度死んだ人を甦らせたことが記されています。
 キリストの場合、少なくとも3人の人たちを甦らせました。ヤイロの娘、ナインの若者、ラザロ、この3人です。特にラザロの場合、死んで4日も経っていました。
 人間は、息を引き取って3日ぐらいで、肉体が腐敗し始めます。従って、死んで4日経ったラザロの場合、イエス様でも甦らせることは、非常に困難なはずでした。それに、果敢に挑んだのです。
 ラザロの姉のマルタは、キリストがラザロを甦らせようとした時、「もう死んで4日も経っていますから、肉体が腐敗して異臭を放ってしまっているはずです」と、抵抗を示したことは、理に適っています。
 3日から4日が、甦らせられる限界なのです。それを、見事に甦らせました。キリストの場合は3日でした。
 古来、「死と復活の秘儀」は、ギザの大ピラミッドにおいて、くり広げられてきました。「死と復活の秘儀」は、実際に死ぬわけではなく、仮死状態に入って、再び肉体に戻るという秘儀です。
 3日半肉体を離れ、天界に行って、天界で霊体験をして、それから肉体に戻る。これが、「死と復活の秘儀」です。秘儀の中でも最も高度で、ありがたい秘儀です。
 キリストも洗礼者ヨハネも、16歳の頃、ギザの大ピラミッドに入って、この死と復活の秘儀を授かっています。それを実地にやってのけたのが、十字架刑による死の後の復活でした。
 
 キリストの場合は本当に、一度完全に死にました。仮死状態ではなかったのです。ヤイロの娘、ナインの若者、ラザロ、この3人を甦らせてあげた後、いよいよ本番であるご自身の復活に挑みました。
 先の3人の場合は、復活というより蘇生です。それもありがたく効果があるのですが、キリスト自ら、死んで復活を遂げたということは、蘇生というより復活でした。それゆえ先の3人とは、次元も効力も異なっています。
 自力で、意識的に自ら甦ったことは、おそらくキリストが最初で最後です。そこに、秘儀と効力があるのです。また、役割もありました。
 これは「死を完全に乗り越え、死がもはや働かなくなった」「死を完全に乗り越え、死に勝利した」ということを意味しています。
 人間は生きている中で、さまざまな苦難や試練に見舞われます。それらには、意味と目的と効果があります。多くの場合、自分の弱点やカルマから、神さまによって向き合わされ、それに取り組まされます。人生修行です。
 それによって試され、鍛えられ、カルマが果たされ、神さまのお力添えで乗り越えられる。すると、一段と成長し、乗り越えたことに関しては、身について克服したことになります。
 そうなると、それに関しては「勝利した」ということで、他の人々の同様なことがよくわかり、それに関しては助けられる力がついています。それにより、自分が乗り越えたことを見返して、ほかの同様の人たちへの助けとなれる。それが、それ以降のその人の役割と使命となるのです。
 人間は自ら取り組んで、苦労して乗り越えたことが貴いのです。それで過去の自分を乗り越え、それまでの課題に勝利する。
 そうなると、それに関しての、ほかの人たちのことがよくわかって、助けられるようになっています。それがそれ以降、その人の使命となります。
 一方、ただの知識や情報だけでは、わかったようでいて、本当にはわかっておらず、身についていません。
 そのため、ほかの人に対して説明ぐらいはできても、本当には自分でわかっておらず、身についていないため、それに関するほかの人のことが、本当にはわからず、助けになってあげられません。
 自分で苦労して取り組んで解決し、乗り越えたことが、貴いのです。それに関する力がついていて、そういうことに関してほかの人の力となってあげられる、それが果たすべき使命です。
 このことから明らかなように、キリストの場合の、自ら乗り越えて、ほかの人たちの助けになれることは、「ほかの人たちが死に打ち勝って、死が無効化する。そのお役に立てる」というところにあります。
 自ら、死を乗り越えて復活を遂げられた。そういう人は人類の歴史上、出てきていません。キリストただお1人です。それだけに、このことは最重要です。
 なぜなら、キリストご自身が復活を遂げたことで、もはや死が無効化して死がなくなり、永遠の命になったからです。
 それにより、ほかの人たちがキリストに頼ってくれば、ほかの人たちも死を乗り越えて、死が無効化し、永遠の命に与(あずか)れるように、キリストはできるのです。これがキリストの最大使命です。
 世の中には、「復活した」とか「甦った」とかと、言われる人たちがいます。「不死鳥のように甦った」などと言われます。
 それにも、ある程度の意味や力はありますが、本当にキリストのように死んで、3日後に自ら復活を遂げたというレベルには、到底及びません。
 そういう人でもある程度は立ち直って、元気を回復させたという経験は無意味ではなく、ある程度はほかの人が落ち込んだり弱っていることがわかり、立ち直らせるお手伝いぐらいはできます。
 しかしキリストの場合は、レベルが全く異なります。本当に一度死んだのです。そして自らの意思で、3日後に甦られたのです。
 もちろん、自らの意思と力といっても、天の神さまに完全に委ね切って、神さまのご意志とお力添えで、復活しました。また、復活する条件を揃(そろ)えていて、復活をする役目もありました。
 キリストのほうでも全く清められていて、神さまを信じ切って、完全に委ねていました。準備も十分になされていました。それで、3日後に復活できたのです。
 「ただ甦った」というのではありません。「死んでいたのに息を吹き返した」ということではありません。「全く別の存在として復活した」のです。以前とは全く違っていました。
 肉体の細胞一つひとつが完全に蘇生して、新たにされました。「死からの復活」は「新たな創造」だったのです。
 体は弱り果て、傷だらけでボロボロで満身創(そう)痍(い)でしたが、3日の間、墓場の中で完全に立て直され、蘇生して、本当に元気できれいなお体に回復していました。それゆえ、創造だったのです。
 
 ご本人の中で、クンダリニーとチャクラが完全に覚醒していたことと、神さまに委ね切っていたので、そして清らかだったので、神さまのお力添えもあって、そのようなことが起きました。
 復活した後は永遠の命となられ、完全なキリストとなられました。天なる神さまと、完全に合一しました。復活前のキリストとは違っていました。
 肉体で本当に甦ったのですが、復活後は、肉体になったり霊体になったり、変換が自在にできるような状態になっていました。
 そのため、部屋を出たり入ったりできましたし、食べ物も肉体で食べられました。いろいろな所に、復活のみ姿を現すことができました。そして最後は、肉体ごと取り去られ、昇天していくことができたのです。
 復活直後、最初にマグダラのマリアの前に姿を現されました。その時、マグダラのマリアに対し、「私の体に触れてはならない。まだ完全に出来上がっていないから」と言われました。これは、根拠のある説明でした。
 ちょうど、さなぎから成虫が出てきたチョウやトンボやセミのように、まだ体が柔らかくてデリケートな状態だったことを意味しています。
 しかし、落ち着いて安定してからは、弟子たちと食事さえできました。疑い深いトマスには、槍で刺された痕のところに触れるようにと、言うこともできました。単に霊体で現れたのでなく、肉体で現れたことがわかります。
 「来るべき時、キリスト再臨が起きる」と、「黙示録」に預言されています。その時も、単に霊体で現れるばかりでなく、肉体でキリストが現れることが、預言されているのです。
 「使徒言行録」の冒頭にも、そのことが記されています。ケイシー・リーディングやポール・ソロモン・リーディングにおいても、「実際に肉体で再臨される」と、言われています。キリストなら、可能なことです。
 復活後のキリストは、実際、肉体になったり霊体になったり、いろいろに変換可能な生命状態になったからです。
 キリストの十字架刑にも、深い意味と効果があります。罪を一度も犯していない清らかなキリストが、生(いけ)贄(にえ)として捧げられた。それが、十字架刑です。屠(ほふ)られた小羊です。
 
 血を流したことで人類の犠牲になり、ご自身と人類の罪が購(あがな)われ、許されたのです。キリストご自身にとっても、必要なプロセスでした。
 洗礼者ヨハネからのバプテスマは、イニシエーションの成就でした。荒野の誘惑は、キリストがアダムであった時の、誘惑を翻すことでした。ゲッセマネの園の悲痛な祈りは、最大の試練でした。
 これらを一つひとつ乗り越え、十字架上で血を流して死んだことで、アダムであった時やヨシュアであった時に犯した罪を、自ら清算されました。
 アダム1人から、人類全てに罪が及びました。アダムがヘビの誘惑に堕ちた時、将来メシアとなって登場することを自覚されました。そして30回輪廻転生して備えがなり、時期が来ました。
 こうして、イエスとして出て来られました。最終的に、イエスはキリストとなられました。天の創造主と完全に合一したのです。
 イエスが、清らかな罪のない身として屠(ほふ)られたことで、イエスを通して全ての人の罪が購(あがな)われるようになったのです。
 最初のアダムから、人類全てに罪が及びましたが、最後のアダムであるイエスが罪を購ったことで、人類全ての罪が許されるようになりました。これが十字架上の死、「ゴルゴタの秘儀」です。
 そして3日後に復活したことで、死と地獄と苦しみと悲しみに、完全に克服勝利しました。
 ブッダが、四苦八苦を乗り越えたことを踏まえ、「諸法無我、諸行無常、一切皆苦」を、キリストが本当に乗り越えさせました。死を克服したことで永遠の命を授けられるようになりました。
 それゆえキリストの復活以降、キリストを信じ、キリストにすがる者は、キリストと同様に罪が購われ、苦しみと悲しみと恐れと地獄と死から、解放されるのです。それこそ、メシアとしての究極使命です。
 
 キリストは今でも、天界におられます。おられるだけでなく、大きな効力を以前と変わらずに放ち続けておられます。
 それゆえ、このことを知った者、そしてキリストを自ら自由意思によって求め、キリストにすがる者は、死と地獄を克服し、永遠の命に入っていくことができます。
 一般の人たちも輪廻転生しながら、ずっと神に生かされていますが、それは本当の永遠の命とは言えません。息絶え絶えで、自分をコントロールできず、生きているといっても、本当には生命を実感できず、不安定な生きている状態が輪廻転生で続いている、というだけです。
 それに対してキリストは、復活したことで死と地獄に勝利し、地獄を治め、死に打ち勝ち、死が無効化しました。
 それゆえ、キリストにすがる者は、キリストと同様、死を乗り越え、永遠の命に与(あずか)ることができるようになりました。
 そのために、キリストは出てきて十字架にかかり、3日後に復活を遂げたのです。これが、キリストの復活の意味と役割と効力です。
 一度殺されたけれども、3日後にまた甦って生きるようになった、というどころではなかったのです。単に息を吹き返して、元のように生きられるようになった、ということではなかったのです。復活後は、全く違っていたのです。キリストとなられ、永遠の命が実現しました。
 3年間の伝道期間もすごかったですが、一度死んで復活した後は、本当に完成され、宇宙創造神と合一されました。
 特に、天の創造主のご意志と我が意思を、完全に一つにさせました。絶対他力です。全託です。本当の合一、ONEです。「ヨハネによる福音書」には、キリストは絶対他力であることが、強調して説かれています。
 
 一般の人たちの中でも成長を遂げた人は、ある程度は天の創造主のご意志と我が意思を一つにすることができているかもしれませんが、完全な合一ではありません。
 天の創造主のご意志と我が意思が完全に融合すると、キリストとなるのです。それをイエスは、成し遂げられました。それによって復活しました。また、復活したことで本当に合一できました。
 それゆえ、「キリストとなられたイエス」と、言われるのです。
 それまでの30回にわたる転生では、特別な実体ではありましたが、完全な合一にまでは至っておらず、従って、キリストになられたイエスほどのお力や恵みは、まだ他に対して与えられない準備期間でした。
 しかし、その必要なプロセスがあって、最後にイエスとして出てくることができたのです。
 イエス・キリストは神のひとり子です。最初の人間です。それゆえ、全ての人たちのお兄さんなのです。アダムだからです。
 そしてエバが、聖母マリアとして、最後に出てこられました。トゥインソウルであることは、「アダムの一部からエバが造られた」ということで、表現されています。
 以上が事実です。そのことを知って受け入れた人、自分の自由意思でキリストにすがる人は、自らの死と地獄と苦しみと悲しみを、キリストのお力添えで、キリストと同様に克服でき、永遠の命に与ることでしょう。これが真の救いです。
 あなた方も、自分の人生で乗り越えてきたことには、意味と役割と効力があることに、気づいてください。
 自分の弱点やカルマを、神さまが上手に使ってくださって、試練を与え、使命に備えさせてくださったのです。自分が克服したことが恵みです。それに勝利したからです。それが自分の身についています。それでほかの人のお役に立って、やっていけます。それがあなたの、使命と役割です。
 それに気づいてこれから、自分の人生を大切にして、自分だからこそできることを、置かれた所で十分自分を活かして、他のお役に立って果たしていきましょう。
 一生をゴールまで、駆け抜けましょう。それにより、ふさわしい霊界へと招き入れられることでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17085

 
質問:覚醒と浄化について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: 覚醒と浄化は、人間が成長し良くなって、命の本源に還っていく上で重要な、2つの対照的な取り組むべきことです。
 覚醒と浄化は、対照的な働きとして、「覚醒」は積極的、「浄化」は消極的です。
 「対照的」と言っても、対立した関係ということではなく、むしろ相関連し、補い合う2つの面です。
 「覚醒」は、人間の中の本質である魂が目覚め、これまで働かなかった魂が働き出すことです。覚醒は、「目覚め」「悟りの働き」であり、真の理解が生じ、真実に対する知恵が働き出し、自分や関わる人を助けてくれるようになります。
 本当でないことに気づいて囚われから脱し、悩ましく苦しく悲しいあり方から解放され、脱却させてくれます。自由です。
 一方「浄化」は、「お清め」です。「肉体のお清め」「心のお清め」「頭のお清め」、そ
れぞれがあります。好ましくないものによって、肉体や心や頭が穢(けが)れてきたあり方から、不浄を洗い流すことです。
 その意味で、これまで生きてきた中で、自分にこびりついてきた垢(あか)を洗い落とし、余計なものを削ぎ落とすということで、「消極的」と言ったのです。
 
 一方の「覚醒」のほうは「目覚め」ですので、これまで動かなかった面が動き出して助けてくれるということで、積極的です。
 覚醒と浄化が対照的な2つの働きでありながらも、相関連しているということ。浄化が進むことで、覚醒が助けられ促されます。
 しかし、浄化が滞ったままですと、覚醒に取り組んでも覚醒が進まなかったり、あるいは汚いものを宿したまま、汚いものまで一緒に目覚めによって助長されるようなところがあります。
 うまくいけば、覚醒によって浄化が進み、洗い清められていくというようにはなります。
 しかしうまくいかない場合は、穢れているままで覚醒だけを目指していると、覚醒が穢れによって滞ったままでいるか、あるいは汚れた部分まで一緒に助長され、表れ出てきて、自分も関わる人も苦しめたり悲しませることになったりするか、という事態に陥ったりもします。
 そこで、覚醒のために浄化は欠かせません。浄化と覚醒をうまく組み合わせて、その両方に取り組むことで、浄化が覚醒を助け、また覚醒によって浄化も進む。このように、互いに覚醒と浄化が助け合って、成長と改善が進んでいきます。
 しかし、両面がうまくいかないと、覚醒と浄化が損ね合い、拮抗し合うことになります。浄化だけでは不十分ですし、覚醒だけ目指しても、浄化がなければうまくいきません。
 修行の順番としては、浄化が先で覚醒が後です。浄化が準備となって、覚醒が行われるようになるのです。浄化がお清めであり、カルマの解消にも通じます。
 エッセネ派でも日本の神道でも、お清めが大切にされてきています。インドのガンジス川でも、沐浴がなされてきています。
 お清めには、「水によるお清め」が一般的ですが、「火によるお清め」もあります。
 イエス・キリストが言われたことは、「まず、洗礼者ヨハネが現れ、水によるバプテスマを授けるけれども、その後本命であるメシアが現れ、火と聖霊による真のバプテスマを授ける」ということです。
 ゾロアスター教でも、仏教の中の真言密教でも、炎を焚いて火による浄化がなされます。
 古代エジプト、またハワイや日本にもある太陽神信仰には、炎による浄化も含まれます。それはギリシャにもありましたし、太古のエジプトでもバイオレットフレームと言われる、紫色の炎によるお清めがなされていました。
 日本の神道では、祓詞(はらへことば)があります。日本神話の中に出てくるイザナギノミコトが、妻のイザナミノミコトを冥界に訪ね、それで穢れて帰ってきたため、水のお清めを行いました。黄泉の国に行って自分が穢れたのを、水で洗い清めたのです。「罪穢れを祓へ給へ、清め給へ」。そのように表現されています。
 お清めには「風によるお清め」もあるはずです。神社に行くとお祓いがなされます。それは、頭を垂れて、房を左右に宮司が振ることで、いわば風を起こして「風によるお清め」がなされます。
 イエス・キリストも、「風は思いのままに吹く。風はどこから吹いてきてどこに向かうか、人は知らない。聖霊の働きにも、そのようなところがある」と、表現されました。
 
 「土によるお清め」や「木によるお清め」などもあることでしょう。自然の五大要素は、中国でもギリシャでも説かれてきています。
 コロナ対策として、殺菌効果のあるアルコール消毒などがなされています。また、うがいも勧められています。それらはある程度効果があり、必要なことではあるのですが、肉体の表面しか清めていません。形式的受身的です。そのため、どうしても限界があります。
 肉体の奥まで清めなければいけません。それには、「心のお清め」「頭のお清め」も必要です。心と頭を一新させること。
 「ヨハネの黙示録」においては、浄化と育成の両面が扱われています。現代の教育にはお清めの面が欠如しています。
 ブッダもキリストもお清めの大切さに気づき、そのことを説き勧めました。
 水による洗礼も助けにはなるのですが、もし表面的・形式的にだけ洗礼を受けたならば、単なる水浴びにすぎず、効果は大したことではありません。
 真のお清めは、「心の悔い改め」です。心を悔い改め、これからいけないことを思ったり、いけないことを行ったりすることを極力控え、良いことを積極的に思い、良いことを進んで行うように決意することが大事です。
 そういう心がけで、本当に自分の存在の全てが、洗礼をきっかけに洗い清めていただくというように臨むと、水による洗礼も効果が上がります。そうでなければ、単なる水浴びにすぎません。真に清められるべきは、心なのです。
 仏教では「三毒」と言われます。三つの大きな心の毒です。「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」、この3つが三毒と言われます。「貪」はむさぼりの心、「瞋」は怒りの心の働き、「痴」は、愚痴などと言われるように、道理を知らぬ愚かな心の働きです。
 ブッダもキリストも、自分が生きていた時代、形式的・表面的にお清めがなされていることを見抜き、本当の汚れは自分の心の奥から出てくること。従って、心の奥から改悛し清めてこそ、本当のお清めになること。このことを、ブッダもキリストも気づいて、説いていました。形式的な宗教儀礼を批判したのです。
 
 現代はあたかも、コロナ対策として行われているのがまさしくそのようです。
 それに対してONEの教えは、ちょうど洗礼者ヨハネやイエス・キリストが言われたような、「心からの悔い改め」を求めています。それが今、真に必要なことです。
 イエス・キリストは言われました。「人は新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。
 新しく生まれるためには、心から悔い改め、自分が一新される必要があります。これまでのあり方の死を通って、自分が新生を遂げるのです。
 人生で起きることは、お清め効果として起きてくることばかりです。浄化作用、カルマを解消させる出来事や体験のイニシエーションの連続です。
 仏教では、煩悩が108種類あるといわれます。それを現すかのように、お寺の階段も108段設けられたりしています。108種の煩悩こそが心の汚れであり、心の毒です。
 自分の心の中にある「心の毒」に気づき、それを自ら改悛し、改め、懺(ざん)悔(げ)し、洗い落としていただけるようにお祈りを捧げましょう。
 アウグスティヌス、親鸞、預言者ダニエル、ダビデなどの心からの懺悔の祈りは、その参考になることでしょう。
 そのように心から懺悔し、改悛してこそ、心の毒が浄化されるのです。そういう心づもりで洗礼を受けると、洗礼もより効果的になります。これがお清め、浄化です。
 現代はそのような、奥深い所からの真のお清めが必要な時代状況なのです。ほとんどの病気は、心の汚れから出てきています。
 本当に、肉体も心も頭も清められてこそ、神の働きかけにより奥深くにある魂も目覚め、活発化して、目覚めが助けてくれるようになります。
 スペインの十字架のヨハネも、浄化を重んじていました。キリストや聖母の特徴は、罪が全くなく、完全に清められていた点です。
 お清めが形式的・表面的なところで終わらないように、深く自分を見つめ、お清めに取り組みましょう。そうすると覚醒という魂の目覚めも大いに助けられ、促されます。浄化と共に覚醒に取り組んでください。
 現代は能力増強や人に勝つことばかりが大切にされ、追求されている時代状況です。学校でも、社会の仕事でも。そのため、能力自体も頭打ちになったり、好ましくない能力の働きに陥っているのです。
 今は本当にお清めが必要な時代です。その意味で、洗礼者ヨハネとイエス・キリストが現れた時代状況に似ています。
 お清めは部屋のお掃除、またトイレなどのお掃除などにも、喩えることができます。部屋の整理整頓も含まれます。また、ジャーナルによって頭の整理整頓をすることもできます。断捨離も浄化の一部です。その中で、豊かさや本当に必要なものが活きてきます。
 霊界の中の地獄は、汚れた場所です。一方の天界は清められ、明るくきれいな所です。
 自分の生命の全ての面が清められ、きれいで輝き、目覚めが十分に発揮されるように取り組みましょう。
 人生において、お清めと目覚めが交互にうまく両立しながら進んでいってこそ、自分も育成され、活かされ、天国へと還っていけるようになります。生きているうちからその成果は出始めます。自分も自分の周りも、天国のようになります。
 
 改めて、浄化と覚醒について振り返って見直し、取り組み直してください。今回はそのための機会として、このテーマが取り上げられました。
 自分の傾向を知って、自分の傾向を正すように、また傾向に合うように、浄化と覚醒に、各自置かれた所で取り組んでいきましょう。ご奉仕や懺悔の行(ぎよう)も行うと、その助けになることでしょう。
 下座行的な他(ひ)人(と)様の支えになる、他人様が嫌がったり、価値を認めがたいことにこそ尊いみ業があります。
 インドのマザー・テレサも、そのようなことに取り組みました。そういうことこそ尊い神のみ業です。
 自分が置かれた状況で各自、本当の意味で尊い下座行のようなことを見出し、進んで取り組んでみましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17064

 
質問:現実、リアリティーについて、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:現実、リアリティーとは、実際のことです。空想や想像や思い違いや作り話などの主観ではなく、本当に実在すること。現実となっていること。それがリアリティーです。
 一般には「そのような現実とは、この世のことである。この世で実際にあること、それが現実である」。そのように見なされて
います。
 一方、心の中の世界や、心が作り出した文学や芸術、あるいは日々心の中で思ったり考えたりすることは、実際にはないこと――すなわち、想像の産物で、非現実である。そのように見なされています。ましてや魂や霊に関することは、実際にはない、非現実である。そのように一般には見なされています。
 
 このように一般には、「現実」と言えばそのまま、「この世の実際的な、現実にあるも
の」「実際の存在や働き」それが現実であると、当然のように見なされています。
 心の想像や願望、恐れや期待、芸術的創作、さらには霊や魂、それから神さまのこと――そういったことは現実ではない。このように常識では見なされているのです。しかし、この一般の認識は、本当ではありません。
 一般には、「もっと実際的に生きなさい」とか「現実的になりなさい」とか、「現実を直視しなさい」とか「空想に走らないように」とか、「それは想像の産物にすぎない」、そのように言われます。
 確かに、心の中の想像の産物はあります。だからといって、心で思ったり考えたり感じたり、イメージで捉えたりするものが、全て存在しない、架空のもの、とまでは言い切れないのです。心の中の動きには空想と霊的事実の両方がある。
 インドにおいてはむしろ、現代の常識とは正反対の捉え方がありました。その典型が、仏教の唯識思想です。「心の中の世界だけが現実であり、物的な世界や存在は全て幻想であり、実際には存在しないのである」と。
 仏教の「唯識論」はこの典型ですが、インドの思想は多かれ少なかれ、仏教の「唯識論」に近いものがあります。
 この観点で見るならば、「心の世界こそが本当で、実際にあるものであり、物質的な状況や動きや存在は、実際はないものである」。このようになります。
 それだけ心の世界や心のあり方、また心の及ぼす影響が、仏教では痛感させられていたのです。それで夜の夢に注目し、夢を重んじ、活用しました。お祈りや瞑想、儀礼も行いました。
 実際は物的な状況や存在も、現実にあります。ただ、仏教の唯識論にも重要な真実が秘められています。実際は、神さまが究極の実在です。本当にあるものというなら、物的な現実以上に天の創造主が完全な実在です。しかもそこに、全ての元があります。第一原因です。いちばん現実なのは、天の創造主なのです。
 続いて、天の創造主によって造られた命たちです。人間はそれらの、神によって創造された無数の命たちの中でも、極みです。
 
 「神のイメージに似せて人は創造された」と、『聖書』にも記されているとおりです。人間を構成するさまざまな要素の中でも、魂が神の分霊です。それゆえ、天の創造主に続いて実在なのは、人間一人ひとりの本質をなす魂です。
 魂に続いて心、それから頭が存在です。それから、心の投影としての物質的な表れである肉体がやってきます。
 それに対応するように、客観世界においても、霊的世界がまずあります。そして、その霊的世界の物質的な投影である物質宇宙があります。
 一般に「宇宙」と言われているのは「物質宇宙」のことです。しかし、物質宇宙は間接的であり、結果としての産物です。
 霊的宇宙が、まず神によって創造されました。そして霊的宇宙を土台にして、その物質的表れである物質宇宙が創造されたのです。霊的宇宙が原因であり、物質宇宙はその結果という位置関係です。霊的宇宙が原型をなし、物質宇宙は間接的な存在、現実となります。
 現代人が思う以上に、心の世界、さらに魂や霊の世界が現実にあるのです。客観的に。
 物質世界も一般の人が思っているように、確かに存在し、現実ではあるのですが、間接的なあり方にすぎません。むしろ物質現実以上に、心の世界や霊的世界のほうが、直接的であり、原因として現実的にあります。
 現代人は唯物的になりすぎているのです。そのために認識や実感自体が、真実から逸(そ)れています。
 本当はまず神がおられ、神から霊的な世界が創られ、それから霊的世界を基に、その物質的な投影として影のように、物質世界やそれに対応する人間の肉体がある、という位置関係にあります。
 したがって、物質世界や人間の肉体以上に、霊的世界や心の世界、それに対応する人間の中の霊的な部分や心の部分のほうが、よりリアリティーがあり、現実にあるものです。このほうが本当の順序です。
 古代の人たちはこのような真相を、かなりな程度把握していました。それで心や命を重んじていました。物質的な世界や肉体には、それほど囚われてはいませんでした。そのため、物質的なことや肉体はそれほど考慮せず、素朴に、簡素に生きていたのです。このほうが天国的なあり方です。
 
この世を中心に見すぎるべきではありません。肉体中心に、自分や人間を見るべきでもありません。
 実際この世に肉体を帯びている時のほうが、部分的で特殊なあり方であり、霊界で霊体として生きているほうが、本来のあり方です。
 これまでの輪廻転生の経緯を見ても、神によって霊的存在として造られ、霊的世界にしばらくいました。
 しかしある事情により、動物のように物質世界に肉体をまとって出てくるようになりました。しかしいずれは本来の霊的世界に復帰して、霊的存在として生きるようになります。この地上での肉体的存在のほうが特殊であり、一時的なのです。
 肉体は一時的であり、50年100年程度の寿命です。肉体は霊体が衣服のようにまとっているもので、いずれ脱ぎ捨てます。霊魂と心だけがあの世に向かい、存続し続けます。そしてまた時期が来て必要があれば、肉体を与えられて出てきます。あるいは、魂が物質化現象を起こした肉体を身に帯びて、出てきます。これが本当なのです。
 それゆえ、「現実」という場合、「霊的現実と物的現実、この2つの現実がある」と言えます。
 もう少し分けるならば、「現実には霊的現実と心的現実と物的現実、この3段階がある」と言えます。「心的現実」とは、心の世界の現実のことです。
 そして霊的現実のさらに上位に、天の創造主がおられます。天の創造主こそ、究極の実在であり、現実です。第一原因です。
 その上で天の創造主によって創られた霊的現実、心的現実、そして物的現実と、次第に表れ出てきます。
 物的現実も一応現実にあるのですが、影のようにはかなく、移ろいやすいのです。それゆえ仏教では、「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静」。このように四法印を説きました。
 「物や肉体やこの世は、はかない一時的なものであり、変わり得る。実体がない。空(くう)である。余計に囚われないこと。むしろ、もっと確かなところにより所を見出してこそ、平安が得られる。そのようにすることで心が収まり、物や肉体も活かされ、健康でいられる。それ以上囚われるほどのものではない」。このようにブッダは悟り、人々にも気づかせていきました。
 肉体を収めるためには、遡(さかのぼ)って心、さらに魂の所、さらに神の所に至ること。それによって肉体が収められ、活性化されます。
 心を収めるためには、心より上位の魂に遡ることで心を収め、活用できます。
 魂を収め活かすためには、遡って神の所に立ち返ることで、神の下で魂が収められ、活性化します。
 霊的現実と心的現実と物的現実があるのですが、霊的現実が最も現実性が高く、続いて心的現実に現実性があり、物的現実も一応実際にあるのですが、影のようであり、究極の実在ではありません。その証拠に変わり得るし、いずれ滅びます。
 物質宇宙は変化して止まず、いずれ滅びます。寿命があるのです。より上位の次元の存在ほど実在性が高く、変化しません。安定しているのです。それゆえ、より上位のところが確かなより所となり、それによって心、それから肉体も収まり、物質世界も安定し、収められます。
 
 これが本当なのです。現代の常識のほうがおかしいのです。だから多くの人は不安や焦りやストレスの中で生きており、真相を見失っています。現代の常識は、いずれ非常識になります。
 今話したような真相を見抜くのが、本当の知恵、すなわち天的な知恵です。
 世間一般で「知恵」や「賢さ」と言われているものは、地上的な物に属する知恵にすぎません。それも、この世ではある程度通用し、役立ちますが、本当の知恵ではないので、真相を見抜いていません。
 そのため地上の知恵だけでは、心が安らがず、病気も発生してしまいます。地上の知恵だけでは、天界に至れません。また、地上の知恵だけですと、悪に結びつきやすいのです。悪知恵のように。
 実際、地上の知恵で高い位に就いたり、成功することはできても、高い霊界には行けず、心が安らがず、悪いことを考え、悪いことを行いやすいです。
 現代においては特に、地上的な知恵に長けている人ほどうまくいき、出世し、位も上がります。
 そうすると国や世界を支配し、影響力を振るいます。そういう地上的な存在が人の上に立つと、とんでもないことを考え、しでかすことも起こします。
 ロシアのプーチン大統領は、その典型です。この世的に評価され、成功し、権力の座に就いた。でも中身は、本当のことがわからず、良心のかけらもなく、平気でいけないことをしてしまうのです。こういうあり方の結果なのです。
 間違った認識や常識で、うまくいった人が、そういうことをするようになるのです。それは、そういう人がうまくいきやすい社会のあり方になっている、今の時代の致命的欠陥です。程度が低く、悪魔的な人が上手くいき、出世しやすい。
 そこで、天の摂理が地上に反映すること。それによって新秩序がもたらされることが、求められます。
 ケイシーが予告した、「ヨハネ・ペヌエルが世界に新秩序をもたらす」とは、そのことです。天の摂理を地上に反映することで、地上に新秩序がもたらされます。
 今の時代状況は、天の摂理と著しく食い違っているのです。その表れとして、現実というものが当然のように物的現実だけだと見なされていることにも、表れています。そして心の世界や、さらに魂の世界が、実際にあるとは見ません。現代は天的あり方に向かう過渡期にあります。移行期に。
 コンピュータの世界では、「バーチャル・リアリティー」と言われます。仮想現実、仮想空間の世界のことです。
 確かにコンピュータで作り出している世界は、意識の世界であり、物的には存在していません。その意味で確かに仮想空間ではあります。
 ただ、人間の意識は物の世界に先取りします。霊界はある意味で意識の世界、バーチャル・リアリティーです。特に下の霊界ほど、バーチャル・リアリティーになっています。
 ただ、この世のものは全て、人間の心が現実化したものです。「外界は内界の表れ」です。その時点のその人の内実を表すような、現実の動きや状況や体験になっています。この世でもそうなのです。まして霊界は尚のこと、そのようになっています。唯識です。
 
 その意味で人間は進化してきており、インターネットの世界において意識を駆使し、意識を操作できるところまで自由に意識を使えるようになっており、意識の働きを強めてきています。それによって、物の世界も動かせるようになってきています。
 ただ、それが野放し状態なのと、あまり良い使い方になっていない難点が、現代にはあります。
 意識の世界は、ある程度コントロールできるようにまで進化してきてはいます。しかしそれが、まだ弱いのと、何よりも正しいところにつながっていないところが、課題です。
 意識の世界から魂の世界、さらに根源神へとつながることで初めて、意識が浄化され、本当に活用されるようになります。それが物質界にも投影すると、理想的になってきます。それがインターネットの、今後のあるべき方向です。
 ともかくも人類は、インターネットの世界を創り上げるほどにまで、意識が進化してきています。意識によって物の世界も肉体も、ある程度コントロールできます。
 心の世界は確かに主観的な幻想で、本当のことではないものを、人間はいろいろ思ったり考えたりイメージしたりしています。「思い違い」などはその典型です。しかし心の世界には、真実もあります。そして、心の世界はまだ非実在であっても、心の世界から物質界に投影すれば、それは現実となります。
 心の世界の中のものが全部空想の産物で、本当ではないということはありません。心が真実を捉えることもあります。気づきや理解や発見、さらには悟りがそうです。
 心の世界から、さらに霊的な世界は実在します。「霊」や「魂」というと、一般には何かわけがわからず、こわい世界だったり、迷信だったり、本当ではない。それに対して物的な現実が安全で確かで、本当に現実であると、そのように見なされています。
 確かに霊の世界にも、本当でないことや空想や妄想や幻想も混じってはいます。それでも霊的な世界は実際にあります。その証拠に霊界があるのです。
 幽霊なども実際に存在しています。錯覚で幽霊がいると思い違いする人もいますが、だからといって、全てが思い違いや空想ということではありません。
 物的現実以上に霊的現実が存在しているのです。それゆえ「霊体験」というのがあって、それは物的な現実で体験したこと以上に本当の体験であり、インパクトも大きいのです。単なる主観ではなく、れっきとした体験です。
 
 物的な世界で体験したことだけが体験なのではありません。霊的世界があり、霊的世界での体験も体験なのです。物的世界での体験以上に、体験です。
 また、物的世界にも真実はありますが、物的世界の真実以上に、霊的世界には真実があるのです。それで昔の人は夢や瞑想、宗教儀礼や祭りなどを尊び、重んじました。
 聖徳太子も「この世のことははかなく、本当ではなく、ただ仏の世界だけが真実である」と表現しました。親鸞も同様のことを述べていました。それは単なる現実逃避ではなく、本当のことをつかんで述べたものです。ONEは単なる唯心論ではありません。
 そのような真実に気づき、真実に立ち返った上で、この世を見て、この世の不完全さを正し、真実の観点で現実を浄化したり癒したり整備していくことが、この世に生まれてきた者たちの使命です。それによって新秩序がもたらされ、神の国が地上にも実現します。
 それには、まだしばらく時間はかかりますが、少しずつできるところから、わかった人がそのことを実現させていかねばなりません。そのための「ONEの教え」です。
 この世の物の次元で体験したことだけが体験なのではなく、霊的な世界での霊体験もある。むしろそちらのほうが体験である、ということ。物的世界だけが現実なのではなく、霊的世界にも現実があり、むしろそちらのほうがより現実であり、リアリティーが高いということ。
 このようなことを知られねばなりません。そして神の下、霊的現実、心的現実、そして物的現実という順序で、次第にランクは下がりつつもリアリティーが見出せます。
 その全体像がONEです。単なる唯心論、現実軽視ではないわけです。全ては一つで関連し合って、一体を構成しています。これが全体真理です。
 この全体を偏りなく把握して、起点に立ち返って全てを見据え、末端まで活かしていきましょう。それによって全てが整備され、その中で肉体や物質、この世も良くなっていくことでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17038

 
質問:内面の開発について、今私たちにお伝えできることがあれば、どうぞご教示ください。
 
ソース:一般には、「人間とは肉体の物的存在だ」と見なされています。
 しかし実際には、人間は肉体ばかりではなく、頭や心があります。さらには魂もあります。そして、それらが全て関連し合って、一つの生命体を構成しています。
 それゆえ、自分や人間を扱う場合、肉体
だけを見るのでは不十分です。頭や心、さらには魂を考慮しなければなりません。
 現代の特徴と課題は、自分や人よりも外部の世界を重んずるところです。外的・物的で、実際的な客観的世界のほうに目を向けて、外的・物的な領域を調べ、手を加え、それでより良い世界や環境を作ろうとすることに、ほとんどエネルギーや労力や知恵が費やされています。
 もっと人間に目を向けなければいけません。外的・物的な世界ばかりでなく、自分
自身や人間に目を向けるべきです。
 しかも、人間に目を向ける場合でも、一般には肉体にしか目を向けません。人間は肉体のほかに、頭や心、さらには魂もあるのです。
 さらに現代の課題として、人間を見る場合、肉体だけしか見ないということばかりでなく、より重要で因果関係としても優位にある、内面の世界がおろそかにされていることが問題です。
 人間の中で肉体という部分しか考慮していないということと、肉体よりもっと上位にある、本当は肉体以上に重要な部分がおろそかになっていることが問題です。
 仮に頭や心が考慮される場合でも、頭と肉体を重視し、心が軽んじられています。まして魂は、ほとんど無視されています。
 しかし実際は、人間には肉体や頭だけでなく、心、さらには魂があります。しかも、あるだけでなく、内面のほうがより重要で、因果関係の優先順位も高いのです。
 
 さらに、人間の中で最高の部分である魂だけでも不十分です。魂の元に宇宙の創造主があられます。
 一般の宗教では、特に日本の場合、部分的・地上的な神々や霊的存在がほとんどです。しかしそれ以前に、天の領域に宇宙の創造主がおられます。それが最重要なのです。
 天の創造主が命の木の幹です。人間一人ひとりの魂は、命の木の枝に相当します。枝は幹につながっていてこそ生きられ、元気でいられます。
 水は高きから低きに流れるように、まず天の創造主から始まって、一人ひとりの魂、それから心、そして頭と肉体――こういう順序で、命は流れ下ります。そして肉体から、客観的な物的・外的世界へと及びます。
 ところがどうでしょう。今の世の中や科学や学問においては、末端に相当する物的・外的世界をいちばん重んじています。続いて人間の中の頭と肉体を重んじています。
 人間の中では頭をいちばん重視しています。能力社会です。競争世界です。心や魂がほとんど無視されています。そしてその源であられる天の創造主が、完全に無視されています。
 これは本来のあり方からして、本末転倒であり、部分的で偏っていて、全く好ましくありません。
 そのことが例えば日本では、スピリチュアルということが、嘲笑の的のような、あるいはおかしなことのような用語として使われていることに、端的に表れています。
 常識はそれなりに真実を含み、考慮しなければならないのですが、今の世の中の常識は部分的で歪んでいるあり方であることが、端的に表れてしまっているのです。
 宗教やスピリチュアルのほうにも、そのように見られてしまう課題や問題はあるでしょう。それで宗教やスピリチュアルに関わる人たちも、謙虚になって見直しを図り、良いものにしていくよう、努力しなければなりません。
 
 しかし一方世の中一般のほうも、正しくて健全かというと、そうではありません。本当のところから見ると、一般常識や科学や学問のほうもおかしいのです。そのことに気づかないといけません。
 そこでONEということが必要になってきます。「ONE」というのは、先ほど述べられた、「あらゆる部分を認め、トータルに扱うこと」です。外的・物的世界だけでなく、人間も扱う。さらに、人間の中でも肉体だけでなく、頭や心や魂も扱う。さらに、その元であられる天の神さまを重んずる。そして、「全てを扱うというだけでなく、順序も考慮に入れる」。
 全ては並列関係ではないし、まして、頭や肉体が優先するのではありません。むしろ、天の創造主から始まって、人間の中の魂、心、それから頭と肉体です。こういう順序です。
 人間の中では、頭脳がいちばんなのではなく、魂がいちばんなのです。その魂に近いのが心です。その意味で、頭の良さよりも心の良さを大事にするということが、本来であり、天国的です。
 今の世の中はそのようには、残念ながらなっていません。それで人々は苦しく不安であり、世の中でもいろいろと問題があるのです。いじめとか心の病気とか、自死とか犯罪とか。
 「ONE」というのは「トータルに全部を扱う」ということと、「順序ということをきちんとさせる」という、この2点があります。
 今のような時代風潮だからなおのこと、このようなONEが、とても必要です。そこで、今回のテーマの「内面の開発」ということが出てきます。
 内面だけを重んじる、というのではありません。単なるスピリチュアルや精神主義ではありません。観念的なことではありません。SF的な、現実から飛んでしまうことではありません。むしろ本当のことで大切なことです。全ての元です。それゆえ結局は、実際的で役に立つことです。
 多くのスピリチュアルは観念的であり、現実から浮いています。また、飛びすぎていて、本当のことを伝えていないことも多いです。また、一般の人たちを軽んじすぎています。自分たちに特別意識があります。自分たち一部の人だけが救われ、アセンションし、素晴らしい新時代に移行していけるという狭く限られた認識です。これは本当ではなく、好ましくありません。
 
 そこで、「ONE」という本当で健全なあり方が、求められます。そういうONEの健全な、本当の観点で、「内面の開発」ということが行われていきます。
 それにより、自分の中の心も頭も肉体も活性化されます。人間がこうして良くなることで、周りの人々や環境にも良い感化を及ぼせます。物的な科学技術も正しい方向に進められ、物的な科学技術や学問によって明らかにされた真理を、正しく活用していくことができます。人も世の中も良くなるのです。
 天の摂理と、天の摂理の物的表れである自然の摂理に基づいて、人間が明るく健康的に生きていくことが、これから求められます。これが本来の、天国的あり方です。
 そうすれば病気にならず、トラブルや問題も生じなくなります。地上に天国が訪れるのです。浄土です。神の国の実現です。特定のどこかの神とか宗派の天国というより、根本からして普遍的な神の国が、地球全体に実現します。
 それにはまだ、いろいろな課題があり、人間もまだその理想の規準から隔たっています。そのため、すんなりはいかず、必要なプロセスを辿(たど)っていき、時間もかかるでしょう。
 たとえすぐに実現しなくても、このことを疑って取り組みを止めたりせずに、何遍でも見直して修正を加え、また挑むこと。
 ちょっとでもうまくいった時は素直に喜び、評価し、それを次につなげていくことです。
 人間が良くなってこそ、物的な科学技術や学問の成果も正しく活用できるのです。物的な科学技術は道具のようなものです。それを使う人間が良くなってこそ、正しく扱い、活かされるものです。
 今の世の中は、物的な科学技術が重んじられすぎ、それを使う人間の開発が遅れています。しかも、人間の中では、頭と肉体ばかりが重んじられています。ある種、悪魔的でさえあります。
 大事であり本質なのは、むしろ魂と心です。その魂と心が発達し、健全になってこそ、頭と肉体も、活性化し、健全になります。そうすると頭も活かされ、知恵や知識や理解や情報も、正しく運用されるようになります。
 頭と能力、知力だけ重んじる今の世の中は危険です。知恵は一つの道具であり、善用も悪用もされるからです。
 
 魂と心を開発しないと、頭だけ重んじているあり方では、知恵や情報が悪用されます。実際今の世の中は、そうなってしまっています。
 全部が間違って使われているということではないにしても、かなりの割合、知恵や理解や情報が悪用されています。意図的に悪用されていない場合でも、あまり上手に活用されていません。
 魂と心が開発されて初めて、頭脳が有用なものとして役立つのです。それが天国のあり方です。
 そして魂と心が良くなれば、チャクラを通して肉体も清まり、悪業をしなくなり、肉体も健康になるのです。真の美しさも実現します。
 そしたら、医療の役割はだいぶ軽減され、必要最小限の役目だけで済むようになります。
 今の世の中の価値観やあり方は、病的で歪んでいるため、せっかく医療を発達させても、病気の人を多数生み出すシステムなので、医療の対応が追いついていません。これは病的であり、本来の理想的あり方ではありません。
 知恵や理解はそれなりに良いものなのですが、それだけを重んじると間違った方向に暴走し、せっかくの知恵や理解も役立つどころか、人や自分や環境を損ねることになります。実際かなりの割合、今の世の中はそのようになってしまっています。
 これは客観世界と人間の中の頭と肉体だけを重視している、歪んだあり方に由来しています。そこで、本来の健全な、ONEのあり方が求められます。
 ロケットを開発して宇宙に飛ばす、物的な宇宙開発も結構ですが、また人間の中の肉体の次元だけを解明し操作する、物的な医療もそれなりに必要で有用ではありますが、それ以前に人間の魂と心に注目し、魂と心というソフトウェアのほうを開発することが、如何に重要かということ。
 物的・外的な宇宙開発以上に、内面的・精神的な宇宙の開発が、これから重んぜられ、取り組まれるべきです。
 古代においては、物的な科学技術は未熟でした。その代わり、内面的なことに関しては重んじられ、取り組まれ、発達していたのです。瞑想、祈り、儀礼、祭、心の修養などです。
 
 それが今は物的・外的なことを発達させ、そちらばかり重んじ、優先し、評価するようになってしまっています。内面的に貧困で、癒されていない不安な人たちを、多数作り出してしまっています。
 「スピリチュアルは問題でおかしい」というよりも、「スピリチュアルを軽んじ、排除するほうがおかしく、問題である」ことに気づくべきです。こういう本当でまともなことを言う人が、必要です。
 あなた方もこういうことに気づいて、自信と確信をもって、ONEの学びを続け、周りにもよくわかるように伝えていってください。それによって、世の中も良くなっていきます。
 相手の方がよくわかり、納得し、受け入れられるように伝えていってください。
 まず、自分がONEを学んで応用していくこと。それとともに周りの人たちに対しても、その人その人がわかって受け入れ、それを取り入れていけるように、一人でも多くの方に上手に適切に伝えていくことです。
 こうして自分から始まって、家族や仲間たち、そして、まだこういうことに気づいていない人たちにも次第に及んでいくことで、世の中も少しずつ健全で良くなります。
 こういう啓蒙が、どんなにか大切でしょう。
 古代においては、エジプトでもイスラエル、インドでも日本でも、こういうことがわかっていて重んじられ、取り組まれていました。
 内面の宇宙開発、内面の冒険、それが瞑想であり、祈りであり、礼拝です。また周りに対しては慈悲深い人助けや、奉仕が積極的に行われていました。利他的な奉仕の業(わざ)です。
 物的にはシンプルに素朴に、自然の摂理に調和して生きることが本当です。
 物をたくさん作って消費し、後は捨てるような、そして自然にダメージを与えるような、自分の肉体や自然にダメージを与える、そういうことは本当ではない。そのため、いずれ困ったことが起きて、行き詰まります。天の戒めが働きます。それは、上等な生命体のあり方ではありません。
 「内面を開発する」ことを、ONEの教えでは、いろいろと説き勧めています。礼拝、祈り、瞑想、夢への取り組み、ジャーナル、リーディング、ご奉仕などです。エッセンス・ULCコース、洗礼、一言メッセージもあります。超作というあり方も、ヒントになります。
 
 心豊かで心が美しい人を目指しましょう。肉体的に美しいという以前に、魂と心が美しいチャクラ美人を、女性も男性も目指しましょう。
 あの世には肉体を置いて往(い)くのです。魂と心が美しくなっていれば、本当に美しいので、天国に行って美しい生命体として生きていけます。それが「救われた」ということです。
 本当の意味で、「自分を大切にする生き方」です。それが、周りのためにもなっていきます。
 ぜひそのように心がけ、内面を開発する「礼拝」と「祈り」と「瞑想」、「夢への取り組み」「リーディング」や「ジャーナル」を、行っていってください。
 内面が開発され、耕され、清まり、整って、美しく輝くように心がけてください。自己修養です。
 その上で、肉体にも考慮したり、頭でも学んで、理解を深めていってください。魂と心が良くなれば、それだけでも、頭や肉体が活性化されて元気になります。美しくもなります。それが「本当に優れていて美しい」という、生命体のあり方です。
 以上のことを参考に、それをイメージして、その方向づけをとって取り組んでいきましょう。
 それで、ちょっとでもうまくいったら素直に喜び、それを励みに次につなげていって、また取り組みましょう。
 すぐにうまくいかなくても、ここで述べられたことを疑わず、諦めて取り組みを止めず、工夫しながら気長に、プロセスを大切に、楽しみながら取り組んでください。
 自分で自分を育てる。そして、良くなってきた自分を活用する。また、ほかの人が育っていくために協力する。そして、良くなってきたほかの人が活用されるように協力する。以上のことがとても価値のあることです。これが本当の学習です。「命の学び」です。そのことに、置かれた状況で各自、取り組んでいきましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17015

 
質問:人生に目的や意味はありますか。人生は偶然ですか。運・不運はありますか。あるとしたら、どんなものですか。どうかお教えください。
 
ソース:人生に目的はあります。人生に意味もあります。運・不運もあります。人生は偶然ではありません。非合理でもありません。出来事には意味があり、神からの意思表示として与えられます。
 一般の人たちには、窺(うかが)い知れないこと
や思いも寄らないことが、まだまだたくさんあるのです。
 人は、自分の目で見て、自分の主観で考え、「こうだ」と勝手に判断し、決めつけます。それで生きています。
 しかし、自分の目に見えて頭で「こうだ」と思う。それが正しいとは限らないし、全てを見たり、把握したりしているのでもありません。そのため、真相との間にずれが生じています。
 
 真実の全ては目で見えていないし、真実
の全てを頭で理解しているのではありません。「全てを把握できていない」というのと、「主観的に自分の観点から捉えている」のと、この2点がある。そのため、自分で思ったり、そこから受ける印象は、実際とは違ったものになっていたり、限られたものになっているのです。
 そういう人間が、「人生には意味も目的もない」とか「運・不運はない」とか、「人生や社会は、非合理で理不尽だ」とか思ってしまうのです。こういうことに気づいて、人はもっと素直で、謙虚にならなければいけません。
 例えば、「神さまは見えない。神さまを認識できない。だから、神さまはおられない」とは言い切れないのです。
 また、普通に見ると「世の中は不完全で、非合理で、理不尽である」と思う。「だから、神さまも仏さまもおられない」。あるいは、「おられるとしても無力であったり、主観的な神仏である」と。そのように思ってしまいます。
 しかし、そのように自分が思う、その思いが、完璧で正しいということではないことに、気づかないといけません。人間には思いも寄らないことが、まだまだたくさんあるのです。
 そこで、神さまに素直に目を向け、神さまとの関わりで、生かされて生きていくこと。それにより、本当の知恵が働き、必要なことは知らされます。
 認識の面で、神さまが正しく導いてくださります。さらに認識だけでなく、実際に対処して生きていく実行力とか生命力とか、対処能力も、神さまが授けてくださります。
 内なる認識の面でも、外なる実際的な対応力にしても、自分だけでは限られています。自分なりの癖(くせ)とか限界とか課題が、人間には誰でもあります。自分本位に思ったり対処したりするだけでは、限界があることに気づくべきです。
 まず、幼子のように素直になること。そして、自分には限りがあることに気づいて、神さまに自分を任せきること。その中で自分としても精一杯、努めさせていただくことです。
 
 そして他の人々も、自分と同様の人間であることを知って、それぞれの人のことを思いやり、尊んで、より良く関わることです。互いに認め合い、必要な時は助けたり助けられたりしながら、自立しつつも協調して生きていくことです。
 このようなことに気づいて、その方向づけをとった人たちが、神さまから本当のことを知らされ、それが教えとして、その時代、その地域の人たちに対し、与えられてきています。それぞれ教えとして神さまが与え、神さまが教えを通して育て導き、生きる力を与えてくださってきているのです。
 これからの時代のためには、グローバルな世界が訪れ、いずれ世界が一つになるので、そのためにふさわしい普遍的根源的教えが、宇宙創造神から与えられました。それが「ONEの教え」です。
  「ONEの教え」は、宇宙創造神様の教えです。ONEの信仰は宇宙創造神様を信仰する根本信仰です。普遍的で本質的で、全体を網羅する、偏りのない、シンプルな教えと信仰です。
 それは他のさまざまな教えや信仰を否定するものではありません。むしろそれらを理解し、それらの元になって、それぞれを活かし導く、根本的な教えと信仰です。こういうONEのスタンスが、本当に世界に平和をもたらし、地上に神の国を実現させます。これが、このONEが、本当の一神教です。
 これまでの歴史上の一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、日本のいろいろな一神教的な宗教、それぞれほとんど全て、真の一神教ではありませんでした。
 そのため限りがあり、主観的で、その結果、他と相容れず、対立してしまっています。
 それでは、世界平和をもたらす力にはなりにくいのです。対立や混乱を招きます。
 それに対し、本当の一神教がONEです。これは宇宙創造神とキリストから発せられています。このような普遍原理に基づいて、それぞれが認められ、活かされることで、全体も一つとして無理なく営まれていきます。
 
 各自、宇宙創造神様と直接つながらせていただきましょう。そうすると、生きているうちから恵まれ、あらゆるカルマが解消し、自分もONEに近づいていき、自分の態勢の出来具合に応じた、より良い霊界に帰っていけます。
 最も根源的で高い霊界に帰り着くためには、ONEを学び、ONEに献身することです。
 世の中においては、「人生に意味はない」とか「人生に目的はない」とか、「運・不運もない」「ただの偶然である」とか、「自分の自由意思でいかようにでも作れる」とか「カルマや因果応報などは迷信だ」とか、そういった間違った認識が増えてきています。主に知性的な人たちです。
 それは高慢であり、自分を頼みとし、自分本位で、唯物的です。「神仏を畏れ敬う」という最も大切なあり方が欠如しています。キリスト時代のファリサイ派やサドカイ派のようです。それゆえ主は、「幼子のようにならなければ、天国には行けない」と言われたのです。
 幼子のようになってこそ完成し、天国に入れさせていただけて救われていく。それが、人間です。
 現代は、「天界に行って救われる」というようになりにくい、世の中の価値観や風潮です。能力主義が横行しています。頭に寄りすぎています。学校でも社会でも。人に勝つことが目指されています。
 こういうあり方は、低い霊界のあり方なのです。こういう時代状況だからこそ、ONEの教えが、その分必要です。
 人は誰でも、明確な目的を持って生まれてきています。その目的が遂げられる方向で、人生が展開していきます。そして目的がほぼ遂げられた時点で寿命となります。その頃には体も弱ったり病気になったりして、息を引き取って霊界に帰っていきます。
 運命はあります。どういう人生になるかは、主に三つの要因で決まります。「前世のカルマ」「今世の目的と役割」「自由意思の使い方」。この三つで、どんな運命になるかが決まります。
 
 使命は、生まれてくる時点で授かります。カルマは自分がすでに作り出したものであり、そのカルマを果たし、今世で自分を活かして周りのお役に立てるのにふさわしい役割を、神さまが授けてくださって生まれてきます。
 それで、「どういう人生になるか」、すなわち「どんな運命になるか」は、前世のカルマの内容と今世の目的によって、ほぼ決まります。
 人生は過去に自分が作ったカルマが表れ出て、果たされていくプロセスだからです。同時に一方、生まれてくる時点で神さまから授かった目的と役割が、果たされていくプロセスにもなっています。そういう中にあって自由意思も働き、自由意思をどう使うかで今後の運命が変わってきます。
 自由意思は未来的です。起きてくることをどう捉え、実際にどう対応していくか。それが自由意思に基づくことです。
 過去のカルマが表れ出て果たされていくと同時に、その中で、自由意思をどう使うかで、新しいカルマと運命を作りつつもある。この双方が二重に、同時進行で起きているのが、現実の動きです。
 過去のカルマを果たしつつ、新たなカルマを作りつつある。そういうことが、同時に起きているのです。
 そこで留意点としては、「過去のカルマはスムーズに着実に果たされていくようにすること」。もう一点は、「新しいカルマをより良いものとして作っていくこと」です。
 生きているからには必ず、新しいカルマも作りつつあります。休んでいたり寝ていても、カルマは作りつつあります。何もしなければ新しいカルマを作らずに済む、というものではありません。
 また、何もしないで新しいカルマを作らないのが、理想の生き方であるということでもありません。古いカルマを着実に果たしつつ、同時に一方、より良い新しいカルマを作っていくよう心がけることです。さらに、あらゆるカルマを超えるということが「超作」です。
 新しい良いカルマを作っていくわけですが、究極的な観点では、普通の善業や悪業を超えたところで、本当に良い、神さまに関わることを、神さまにお捧げして、神さまの働きとしてなす。
 そうすると、ただの良いカルマを作りつつあるというカルマの因果を超えて、あらゆるカルマを返済しつつ、真の自由へと向かっていきます。解脱です。
 
 自分が完全に神さまに捧げられて、神さまが自分を通して働かれるように100%なった時、親鸞の言う「絶対他力」であり、「自(じ)然(ねん)法(ほう)爾(に)」です。これが「超作」です。
 そうすると、ただ個人的な良いカルマを作っていくというレベルを超え、周りや宇宙を支える行いを、生命の営みとして自分がし始めます。完全に神さまの働きの一部と化するのです。これが「超作」です。それを心がけるのです。
 まずは、「より良いカルマを作る」というように、心がけてください。その一方で余裕があったら、その上を目指すのです。「超作」を。
 できるだけ悪いカルマを作らないようにします。思いとしても、言葉としても、行いとしても。
 古いカルマを果たしつつ、その一方で、思いとしても、言葉としても、行いとしても、より良い新しいカルマを作るように心がけます。
 さらに「超作」という、自分がいい意味で無くなって、自分を通して神が働かれるようにすることです。そうすると完全に自分が活かされます。自分本位ではなくなり、神本位に、また人々本位に、自分がなっていきます。その時に、心からの平安と喜びがあります。浄化され、自分が天のエネルギーの流れる水路となります。
 自分を成り立たせる思いや行いを超え、全体を成り立たせる思いや働きになります。すなわち、神の働きの一部に完全に自分がなります。それが、ONEという「神人合一」の境地です。
 これがどの程度実際になされたかに応じて、本当にカルマが解消して浄化し、ONEの境地に至るかが規定されます。
 これが完全にできた時、最高の霊界へと向かっていきます。これが「神人」「神の人」のあり方です。キリストとブッダの境地です。
 
 この時、個性が最も発揮されます。個性がなくなるのではありません。本当に個性が活かされ、全体のためになります。
 運・不運は、主にカルマに基づきます。カルマの因果応報が、運を決めます。しかし、自由意思も人間にはあるので、運を開拓していけます。天の摂理にかなったあり方の中で、その時自分のするべきことを行うとよいのです。
 また世間で、「運がいい」とか「運が悪い」というのは、必ずしも正しい判断にはなっていません。普通に見ると運が良いようでも、本当の意味では運が悪く、霊界に行って困ることになったりしています。
 一方、普通に見ると運が悪いようだったり、短期的に見ると運が悪いようだったりしても、真の意味では恵まれ、神に愛され、運が良い、という人もいます。また、生きているうちだけでは判断できず、あの世で報われる場合も多いです。
 これも冒頭で説明したように、人間の主観や常識だけで運が良いとか悪いとか、簡単にわかるものではありません。世間的な評価と、真の評価というのは、異なる場合が多いのです。常識に対する超常識です。非常識ではありません。
 キリストもブッダも親鸞も、「超常識」を説き勧めたのです。世俗的な宗教は常識に迎合して、人々に喜ばれます。しかし真の宗教は、「超常識」を勧めます。それはチャレンジです。それが成長への道です。解脱です。真の自由です。浄化と育成のプロセスです。
 ただの常識で終わらず、しかし非常識に陥らず、正しい超常識を目指しましょう。
 仏教では、「世俗諦(たい)」と「真諦(しんたい)」とに、分けて説明していることです。
 「世俗諦」というのは、「世間的な知恵と尺度」のことです。地上の知恵です。一方、「真諦」というのは、「出世間的な知恵と真の尺度」のことです。天的な知恵です。
 そうするとありのままに知り、見る、「如実知見」が開かれてきます。ブッダとは、「目覚めた人」「覚者」の意味です。「真実に目覚め、真実と一つになった存在」です。
 そうなると真実がありのままに見えてきます。見えてくるだけでなく、真実と一つになって、真実を生きるようになります。周りに真実を創り出せます。
 仏教は本来、一人ひとりが成仏する、すなわち「仏になる道」です。それには自力だけでなく、他力の観点が導入されなければなりません。
 それで、大乗仏教が生じたのです。大乗仏教になると、キリストの愛の教えと近くなってきます。
 この世もあの世も、根本のところでは神の領域です。起きることは偶然でも非合理でもなく、直接には本人が作ったカルマの結果です。人間は不完全で偏りがあるので、現実に起きてくることは、不完全で苦しいものとなっているのです。
 しかしそこに神が関与し、良きに計らって、現実は起きてきてもいます。現実の動きや状況のいちばんの元は、神にあるのです。その意味で現実は正しく、完璧なのです。
 ちゃんと因果応報の法則に基づいて、現実は営まれています。公正なのです。全ては正当に報われていきます。
 
 仮にこの世で報われなくても、霊界で報われたり、来世で報われたりします。必ずつじつまが合っています。神の法則は公正で完璧だからです。
 神さまがおられる世界なので、人生には意味があるのです。自分がより良くなり、より良い働きをして世の中を良くすること。そのような働きを通して、より良い霊界に帰っていけるようになること。それが、人生の意味と目的です。実際、全てその方向で事が起きてきます。
 本人が作ったカルマや、一人ひとりの欠点や弱点を使ってさえ、神が大事なことに気づかせ、そして正させ、良い機会を与えてくださっています。それが現実の動きや状況、また人生に起きることの説明になっているはずです。
 自分が成長し、カルマを果たし、自分を活かすことで、人々のお役に立っていくこと。これが人生の目的です。
 その上で個別的具体的な、それぞれの人の人生の目的や使命があります。それは自(おの)ずと生きていく中で現れてくるし、自分の気持ちやイメージの中にも潜んでいます。「心から喜べること」が、自分の使命や目的を表しています。
 「ぜひこうしたい」「こうすることが必要だと思えてならない」。そのような純粋な思いが、自分の人生の目的を表しています。
 人は思い違いをするので、ちょっとずれている場合もありますが、まずは、今思うところに素直になって、現状の中でその思いを頼りに行っていくことです。
 生きるということは、本当の自分になっていくことです。生きる中で本当の自分を知り、本当の自分を取り戻し、なるべき自分になっていく。そのために人生を生きていきます。
 世の中において、「人生には意味はない」とか「目的もない」とか「運命もない」とか「自分が生きていくために何をしても構わない」など、そういう知識論者や虚無論者の意見に惑わされないでください。
 気をしっかり持って、本当の神さまと生きた愛を大切に、置かれた所で素直に、それぞれの人を思いやって、助け合って生きていきましょう。それが本当に自分のためになります。そうなりますように。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16986

 
質問:2022年立春を迎えるに当たり、本年の日本と世界に関して、胎蔵界的、金剛界的両観点から予測し、展望してください。併(あわ)せて、留意点、対処法もお示しください。
 
ソース: 2022年になりました。
 今年は、日本国内においても、世界的に見ても、エネルギーが高まり、強まり、いろいろな潜在的な問題が顕在化して、動乱の年となりそうです。エネルギーが強まって不安定になり、落ち着かず、慌ただしい
年となることでしょう。
 そのような中で、コロナ後の人々の暮らしや社会のあり方が、少しずつ着手され、流れが出来てきそうです。
 エネルギーが強まって不安定ではあるものの、人々は少しずつ模索し、コロナ後の新しいあり方が見つかり、私生活においても仕事においても、社会のあり方としても、各分野で新しいあり方が見出され、着手され、少しずつですが軌道に乗り出して、コ
ロナ前のあり方から徐々に移行し、ほのかに希望が感じられるようになる年です。
 それには個人差があるでしょうし、国や地域別においても違いはあるし、分野別においても企業別においても差が見られます。それでも全体としては徐々に移行し、新しいあり方へと向かい始めます。
 コロナ自体は、年内に収束の見通しが立つことでしょう。現時点ではまだオミクロン株が勢いを増して、新規感染者数も激増の一途を辿(たど)ってはいます。非常に感染力の強い変異株です。
 ただ、ウイルス自体の力は弱体化してきてはいます。今後とも、新しい変異株などが出てくることでしょう。それでも少しずつウイルスの持つ力自体は弱まっていき、ちょうどインフルエンザのような、もっと弱まって一般化すれば、一種のカゼのような内容となってくることでしょう。
 
 こうしてコロナ自体は、感染者が増えていっても、症状のほうはウイルスが弱まることで、また、人間がコロナに適応できるようになることで、コロナと折り合いがついて共生でき、その結果収束してきます。
 一方、科学技術の力と研究者たちの努力と人々の祈りによって、コロナに対する飲み薬や治療法なども考案され、社会政策とも相まって、対応できるようになっていくことでしょう。
 これも国や地域別に、差はどうしても出るにせよ、全体として普及し、人類はコロナを克服解消していくことでしょう。
 今年のうちにそれらが全てなされるのではないにしても、今年の後半期頃には、その見通しが立つ感じです。日本国内では、ワクチン接種の3回目が早められて、行われていくことでしょう。
 このようにして、次第にコロナとの付き合い方を覚え、コロナと折り合いがついて、その結果、人類はコロナを克服解消します。
 いちばん大事なことは、人々が再び神さまを認め、敬い、天の摂理に従って生きていくことです。「天界の秩序」とその地上界での表れである「自然の摂理」に従い、調和して生きることです。
 あらゆる分野においてその方向で、取り組まれていくことで、コロナとの折り合いがついてきて、その結果、コロナを克服解消できるのです。
 コロナと戦って、やっつけて滅ぼすというよりも、コロナから学んで、コロナに導かれ、自分を内省しつつ、コロナと折り合いをつけて、天の摂理に合うような考え方や価値観や生き方にすることで、克服解消できます。
 一般にはコロナを恐れたり、コロナを憎い敵と見なして、科学技術の力をもってコロナと戦ってやっつけるという認識が多いようです。それは本当ではありません。そのため、うまくいきにくいです。無理があります。そういうことではないのです。
 その時代を象徴するようなことが起きます。現代を表すことが、新型コロナウイルスなのです。その変異株が出てきて、その変異株の内容や性質がどういうものであるか。そしてそれをどう捉え、どう応じていくか。そういうところに、時代性の特徴が出ています。
 
 このように、今年の後半辺りから、コロナは感染して新規感染者が増えてはいても、ウイルス自体の力は弱まり、人々の科学技術の力と相まって、コロナと折り合いがついて、人々は新しい暮らしを始めるようになっていきます。エネルギーが強まって不安定な動乱の中、このようになっていきます。
 人々は、コロナ後の考え方や価値観や働き方や楽しみ方や生き方になっていきますし、その必要性があります。
 これまでは物主体の、アナログ的なあり方でした。コロナを機に、ITが前面に出て、デジタル化が急速に進みつつあります。
 これは必ずしも、悪いことでも間違ったことでもありません。コロナによってデジタル化が促進されつつあります。
 では、全部がデジタル化されるのがよいかというと、そういうことではありません。アナログの良さがあるし、アナログでしか出せないものが、依然としてあります。
 むしろ、デジタル化が進む分、アナログの良さや、強みということに気づかれ、それが大切にされ、評価され、活用されるようになるし、そうなるべきです。
 それぞれのことにおいて、アナログとデジタルのそれぞれの性質と、役目に気づいて、それぞれのことにうまくアナログとデジタルを使い分ければ良いのです。
 確かにデジタル化によって効率化が図られ、人間の労働などの過重負担から、人類は解放されつつあります。
 これからは物中心のあり方から、もっと心や魂を大切にするような、いい意味での効率的なあり方へと移行していきます。
 
 また、それだけにアナログや物の良さ、実際に動く大切さなども知られ、評価されるようになります。
 今年はエネルギーが強まって、いろいろなことが顕在化し、不安定になります。そのため、自然災害も多くなります。地震も起きそうです。日本においても、世界的に見ても。
 中規模から大規模にかけての、ある程度以上大きな地震が起きる可能性が高いです。
 日本国内なら、茨城から千葉にかけての地域が不安定で、地震のエネルギーが強まりつつあります。あるいは箱根の辺り、それから日本の中部地域です。
 今年は、ある程度以上大きな地震があるかもしれません。世界においても起こり得ます。
 地震をはじめ、火山の噴火、巨大台風、竜巻、集中的なゲリラ豪雨、洪水の被害、また世界においては干ばつ。温暖化による高気温の熱射に見舞われることなども起こり得ます。山火事などもあります。
 このように、地震をはじめ自然災害が多く、あちこちに発生しそうです。よく対策するようにしてください。
 また、エネルギーが強まっていろいろな課題が顕在化するため、社会問題もさまざまな方面で表面化して、社会が不安定で、人間の心も不安になりそうです。
 ウツになる人や、自殺する人も、若い人を中心に増えそうです。
 社会問題も、いろいろな分野で発生する、大変で心配で気が滅入るような、またイライラさせたり怒りが爆発するようなことも、世界的には起こり得ます。
 そういう中にあって、天の神さまを信頼し、天の神さまにお任せして、信じて安心して落ち着いて、自分の置かれた所で人を思いやり、自然に感謝し、自分らしく現状の中で、誠意をもって適切に応じて、シンプルに生きていくことが大事です。
 天界の秩序とその地上界の表れである自然の摂理を敬い、それらに従って簡素に、小さなことを大切に、小さなことで喜びながら、慎ましく、朗らかに生かされて生きることです。
 そうすれば、社会問題が起きたり、自然災害があったりしても、乗り切れます。起きることには必ず原因と理由があって、真の意味で良くなるため起きる通過点なのですから、起きることで余計に不安に陥ることなく、元におられる神さまを信じて、起きてくることを信じて受け止め、落ち着いて適切に応じていくことで、一つひとつが解消します。それによって育て導かれ、問題が解決して、次のあり方が訪れるように、どんなことでもなっていきます。
 
 今年はいつになくエネルギーが強く動くため、人々も社会も落ち着かず、不安があり、多くの人が慌てたり、怒ったり、イライラしたりするでしょう。
 テロのようなこともあるかもしれません。あるいは社会的な事件や事故なども。
 そういう時こそ気を落ち着けて、元におられる神さまを信じてお任せし、神さまのお心に沿って、思いやりの心で現状を大切に、現状の中でしっかり生きていくことが大事です。そうすればどんなことでも、乗り越えられます。
 起きることでカルマが解消へと向かい、起きることで見直しと学びと改善と対処の機会が与えられていくのです。こうすれば来年(2023)は、わりと安心し、充実して、確立してくるような感じです。軌道が出来そうです。
 
 今年は動揺があって、激しくいろいろ動くけれども、産みの苦しみの中で、新しいことがいろいろと着手されることでしょう。いろいろ起きて、不安定で慌ただしい1年となりそうです。
 信じて気持ちを落ち着けて、それぞれ置かれた所で、周りを思いやって、謙虚に素直に生きてください。
 そうすれば、どんなことでも乗り越えられ、解決し、そこから新しいあり方が始まっていくことでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉