メッセージリーディング

このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。
 
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
 
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。

リーディング No.16123

質問:精神医学と精神世界について、ONEの観点からご解説ください。

ソース精神医学と精神世界を並べて比較対照し、論ぜられることは、これまで世間で行われてきていません。「全く異なるジャンルだ」と見なされていることによります。
 そもそも、その両者を同一線上で並べて論ずることは、一般には思いも寄らないことなのでしょう。
 精神世界と精神医学は、その呼称、呼び
名が似通っています。ジャンルの名称のことです。いずれも人間の「精神」を対象としています。それでいて全く異なるアプローチをしています。
 精神医学は、自然科学と学術に関する医学の一分野、一部門です。
 一方精神世界は、一般大衆のサブカルチャーの一分野です。宗教、哲学、思想、心理学、自然療法などと関連しつつ、一般大衆の中から必要があって自然発生した新潮流の分野です。一時代前は「ニューエイジ」
と呼ばれ、最近は「スピリチュアル」とも呼ばれています。マスコミの一部からは「オカルト」「占い」などと蔑称され、取り上げられることがあります。
 このように精神医学と精神世界は、一般には比べられず、比べること自体思いも寄らないことです。
 それでもその名称の頭に「精神」と共通して名づけられ、確かに関連する部分があります。
 
 ARIの「ONEの教え」は、一般的に見れば精神世界に属します。現代のスピリチュアルの中に収められることでしょう。そのことを否定はしませんが、宗教に対するアンチテーゼとして、ニューエイジやスピリチュアルが生じ、そこに留まることなく両者のジンテーゼとしてのONEの必要性を強調しているのが、ARIの「ONEの教え」です。さらには、精神世界と現実世界、一般社会をも一つに統合しています。
 精神世界はその経緯からして、宗教に飽き足らず、反宗教として勃興しました。「宗教で扱われることは本当で大切なものがある」と認めつつ、宗教の弊害にも気づいて、宗教から自由なところでの精神運動を起こしたのが、精神世界です。しかしそのため、精神世界には宗教とは別の意味の弊害や限界が見出せます。
 そこで、ARIにおいては、「本来の宗教」、また「本来のスピリチュアル」を目指し、宗教と、宗教をテーゼとするアンチテーゼの精神世界を経て、両者をアウフヘーベンし、ジンテーゼとしてのONEを説いています。
 キリスト教では特に、正統と異端、善と悪、光と闇、内と外とを截(せつ)然(ぜん)と分ける二元論が未だに強いため、ニューエイジや精神世界に対しては否定的です。
 
 しかしそのようなままであっては、新しい時代に適合できません。そこで、本来のキリスト教であるばかりでなく、本来の仏教、本来の日本神道、本来の宗教として、両極をジンテーゼした教えが、これから理想として求められるべきです。それがARIで説かれているONEです。
 こうして、本当の宗教になってくれば、自ずとONEになります。また、本当のスピリチュアルになってくれば、ONEになるのです。一つの山の頂は、一つだけだからです。「真理は一つ。愛は一つ。あらゆる宗教は一つ」。これがONEです。多様性を個性と役目として容認します。
 これまでのような宗教のあり方のままでは、新しい時代に対応しきれません。もともとそのために、精神世界やスピリチュアルも必要と理由と目的があって生じました。
 ただこのままでは、どうしても反宗教としてのアンチテーゼであるため、偏りと限界があります。そこでどうしてもそこで留まらず、ジンテーゼとしてのONEが必要になってくるのです。
 精神医学は、「癒し」と「治療」を目的としています。一方、本来の精神世界は、「悟り」と「救い」を目的としています。これは目的の種類が異なるというより、目的のレベルが異なることを表しています。
 精神医学は医学の一部であるため、治療がなされれば、目的が遂げられたと見なされます。
 
 しかし精神世界においては、「癒し」や「治療」も目的の一部に含まれてはいますが、少なくとも本来の精神世界であるなら、そこに留まることなく、それ以上の「解脱」「人間完成」が目指されるべきです。
 精神医学や心理療法においては、病気に対して「問題」と見なし、その回復を目指します。特に、心や精神の面においては、「精神に異常を来している」と捉え、その正常化を目指します。正常になったら回復したと見なされ、そこで治療が終えられ、社会復帰ができます。
 一方、精神世界においては、「異常」ということに関して、安易に判断しません。そもそも「異常か、正常か」という分け方自体に、限界と問題があると見ます。
 「何をもって正常というのか」。また、「何を異常というのか」「なぜ治療しなければならないのか」。そこから問い直します。
 「常識」というものが、いつの時代、どこの国においてもあります。常識は完全ではありません。その時代のその地域のレベルを表すのが「常識」です。そこには多数決の原理に近いものが窺(うかが)えます。
 「社会に適応できるかどうか」「周りと合うかどうか」。それが常識の基準となっています。それに合うのが「正常」であり、不適応が「異常」と見なされ、精神医学や心理療法の対象となっています。
 そのことを全面否定はしませんが、それは完璧ではないと見ます。
 
 一般には「異常」と見られている中にも、真理や優れたものがあったり、課題があるにしても、その理由や事情もあります。
 わかりやすく言うと、一般に異常であり、治療の対象と見なされる中には、本当に治療をする必要がある場合と、異常であり問題であると見なされていても、実はそこには理由や事情があるばかりでなく、別の真理や優れたものが宿っていることも多いのです。
 少なくとも、現状ではまだそうではなくても、その種(たね)が宿っていて、今のところ一般に見るとうまくはいっていない状態である。そのような場合が多く見受けられます。
 
 天才性の多くは異常です。それは単に直せばいい、というものではありません。広げてみれば、天才でなくても、全ての人たちが異常性を秘めており、同時にかけがえのない個性と可能性と役目を秘めているのです。
 そのように狭くて固い「正常」と「異常」という枠組みを一度疑い、そして取り払うことで真相が見えてきます。そうすると、一人ひとりに対する見なし方と対応の仕方も変わってきます。自分に対しても。
 それぞれの人には、他と比べられない独自性と可能性と、その可能性を発揮できる役目が授けられて生きています。
 このように、「治療の対象となるかどうか」ということで、まず、精神医学と精神世界とでは異なります。
 
 2点目は、「対象とする範囲の広さ」に違いがあります。
 精神医学は、対象とする人の範囲が狭いのに対し、精神世界は、一般には「異常だ」と見なされる人も含めて、全ての人が精神世界の対象となっています。本人が望みさえすれば。
 3点目の両者の違いは、先ほども少し述べられた、「目的のレベルの高さ」の違いです。
 精神医学は、精神的に疾患にかかっている人たちが治癒され、社会復帰できるところを目指しています。
 それはそれで必要で大切な取り組みではあります。ただ、一般に常識に合い、人並みに生きていけるところで精神世界は留まりません。むしろ「そこから始まる」とさえ言えます。その意味で、精神世界は目標が高いし、対象範囲が広く、基本的には一般の人たちが対象です。
 その意味で、精神世界は「治療」というより「教育」に近いのです。しかし、一般の教育以上に魂の教育であり、目標が限りなく高いのです。
 社会に適応できるところで「よし」とするのでなく、むしろ一般常識を良い意味で疑い、それを超えていって、「常識」というより「良識」を目指します。本当の真っ当なところを目指します。「人格者」「個性の完成」、また「人間完成」を目指します。「カルマからの解脱」です。
 「人間」の生命段階から、さらに進化していくことを目指すのが精神世界です。宗教のほうで「聖者」「聖人」「聖女」と言われます。イエス・キリストやゴータマ・ブッダ、マザー・テレサなどは、よく知られているその典型的例です。
 
 人間のレベルより進化した段階が、仏教では「菩薩」、さらに完成したあり方を「仏」「如来」と呼ばれています。そこまで、一般のレベルに飽き足らず目指し続けるのが、精神世界の使命です。
 4点目の両者の違いは、「深さ」です。
 精神医学は、精神を扱う場合も、肉体という物的レベルで扱われます。脳の働きの延長としての、精神や心や意識の働きと見て、扱われます。そのため薬物療法が主になっています。
 一方、精神世界のほうでは、精神や心や意識に変調を来した場合でも、単に肉体に起因するとは見ません。もっと目に見えない世界まで認め、考慮し、扱われます。ただの肉体の延長としての「精神」とは見ません。肉体から独立している心、さらに肉体や心や頭の元にある「魂」まで考慮して、取り組まれます。
 そのため、精神世界においては、たとえ精神や心に変調を来した場合でも、単に肉体の脳や神経の変調とは見ません。
 もちろん中には、物質レベルで問題が生じていることで、精神や心に変調を来している場合もあります。その場合は、実際的物的な対応が求められます。
 
 しかし多くの精神疾患の場合、もっと肉体よりも、心や魂に起因している場合が実際は多いのです。
 そこで、心や魂を考慮し、対応していくことになります。それとの関連で、「生き甲斐(がい)」「希望」「生きる意味」「自己実現」「社会貢献」などが重視されます。また、「カルマ」ということも考慮され、対応されます。
 精神医学では、「薬物療法」や「カウンセリング」がほとんどです。しかも、薬物療法が主で、カウンセリングは問診程度で済まされます。機械的形式的です。
 
 一方、精神世界では、精神疾患があった場合でも、もっと「愛」や「生き甲斐」や「希望」を重んじます。真の自己回復を。
 精神医学では「薬」を使いますが、精神世界では「愛と祈り、生き甲斐が大事だ」と見ます。「ONEの教え」においては、特にそうなっています。
 「薬が肉体の病気に効くように、愛と祈りと真理が心に効く」、そのように見ます。薬は「どうしても」という場合に限り、それ以外はできるだけ控えます。
 肉体に良い食べ物や薬が効くように、心には愛と祈りと希望が効くのです。真実を認識することも。
 現実の問題の解決を図る。そして、自分の人生の見通しが立ってくる。愛情に満たされる。自分でも自分を愛し、大切にしてあげる。カルマも解消していく。人間的にも成長を遂げていく。
 苦しみや問題の意味や理由を深いところで認識する。本当のことがわかってくる。それによって起きてきていることの意味がわかり、現状や過去を認め、受け入れられるようになる。そして、目に見えない世界との関わりで、力と導きを頂きながら、立て直していく。
 ちょっとしたことを大切にし、ちょっとしたことに意味や理由を見出しながら、ちょっとしたことに感謝し、ちょっとしたことを喜んで、現状の中で生きていけるようになる。自分らしさに気づき、自分らしさを大切に生きていく。そのようにして立て直され、治癒します。さらには、自分を発揮し、人々の助けとなっていく。
 
 ある意味、大きな健全なところに目標を据えることで、心の病からも解放されるのです。また、心の病の真の理由や目的がわかれば、それを受け止め、それを担いながら生きていけるようになります。苦しみやつらさの意味や意義もわかってきます。その意味で哲学的な面もあります。少なくとも本来の精神世界は、このように奥深く健全なものです。
 もちろん精神医学にも優れたところや果たせる役目があり、今後とも発展していただきたいものです。ただ、精神世界にもその正当性と果たせる役目がある、ということ。
 自分や周りの方々に心の病があった場合、ここで述べられたことが参考になれば幸いです。
 それぞれの方が、自分の分野で役目を果たしていけば、多くの人たちが本当のことを知り、救済されていくことでしょう。
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16082

質問:日本の神話について、ONEの観点からご解説ください。

ソース日本の神話は、『古事記』に最も多く記されています。また、『古事記』に続いて編纂された『日本書紀』にも、少し記されています。『ホツマツタヱ』『竹内文書』などの特殊な文書も、いくつか残されています。日本各地の『風土記』がいくつか残されてもいます。そのほか、それぞれの地域に伝承されてきている、物語や記録もあ
ります。
 『古事記』は、神々の創造と日本の国土の創造について、多くのページが割かれています。それに続いて、初代の神武天皇から飛鳥時代の推古天皇までの天皇の事績について、記述されています。
 『古事記』の特徴は、神々と国土の創造の最後に、最も輝かしい天(あま)照(てらす)大(おお)御(み)神(かみ)が創造されたこと。そして、その天照大御神の子孫が地上に降臨され、天皇として日本の国を治めるようになったこと。
 こうして、最も尊い神であられる天照大御神の子孫が天皇となって、代々日本を治めるようになったこと。このことを強調しているのが、『古事記』の特徴です。
 
 『古事記』に続いてすぐ、その8年後、『日本書紀』も編纂(さん)されましたが、『日本書紀』はさらに天皇中心に記述を進めています。「天皇中心の観点で古事記が再編集された」とも言えます。また、『古事記』の足りなかったところが新たに補われた面もあります。
 両者で記述が一部異なっているのは、「古事記の誤りに気づいて日本書紀が正した」ということ、しかしその一方では、「最初に編纂された古事記のほうが正しく、日本書紀では天皇中心の観点で加工された」という面もあります。
 この2つの点があることから、『古事記』と『日本書紀』の記述が一部異なっています。
 『日本書紀』はさらに社会的観点で、日本の国を天皇中心に確立する意図でまとめられました。他の国々に対し、「日本の国はどのような国か」を示そうという意図があります。一流の国なのだ、と。
 
 また、『古事記』のわずか8年程度後に編纂されたとはいえ、それによって新たに入手できた情報や『古事記』に漏れた情報、そして8年間の時代の推移なども加え、飛鳥時代の推古天皇から、もう少し後の奈良時代初期の天皇の時までを記してあります。持統天皇までの事績です。
 『日本書紀』にも神話が記されていますが、『日本書紀』は天皇中心の実際的な面に重点が置かれているため、『日本書紀』の中で神話の占める割合は、少なくなっています。
 『古事記』について見ていくと、宇宙の根本の神さまから紹介され、順を追って、それぞれの神々について次々に紹介されていく記述となっています。
 これはただの多神教ということではなく、全体が一つに体系化され、それぞれの位置と役目が明確にされています。神々の創造されていった順序にも意味があります。
 
 象徴的に表現されている部分が多いため、現代の感覚やイメージで見ると、『古事記』を編纂した方たちの意図から外れてしまうばかりでなく、神々や創造についての真相から外れてしまいかねません。
 一般の人間の営みに喩えて、神々や国土の創造について記してあるのです。
 それはちょうど、夜見る夢と似ています。事実のとおりの夢を「正夢」と言います。事実と全く正反対の夢を「逆(さか)夢」と言います。しかし夢の大半は、象徴的なイメージで見ます。
 それゆえ、潜在意識の象徴的に作り出す夢に精通することで、夢を正しく捉え、活用したり、トラウマを解消したりすることができます。
 
 それと同様に、『古事記』やその他さまざまな伝承に対しても、真意をくみ取るべく、背景や意図に入っていくことが求められます。
 目に見えない世界から目に見える物的な次元に現象化され、神々と国土が創られていきました。神々だけが創られたのではなく、自然の国土なども創られていきました。
 神々には、それぞれの担当分野と役割が付与されていました。いろいろな現実の働きの基に、それぞれの神がおられるという認識です。
 それは、文字通りの神的存在である場合もありますが、象徴的な意味においてそれぞれの働きの基に、特定のご意志や原動力があるということを表しているのです。
 神々や国土の創造にしても、一つの物語形式でわかりやすく記述したのであり、実際は目に見えない世界で、根源の神が意図されて、順を追って、さまざまなエネルギーの動きがあって、それぞれの働きの基になる神的存在が生じ、国土をはじめとする自然も、順を追って創造されたことを表しています。
 
 神的存在は、必ずしも人間のようであるとは限りません。一つの霊的存在とそのご意志を持つエネルギーの動きと働きのことです。それがさまざまな関連と事情の中、生じていったことが具象化されて、壮大な一つの物語としてまとめられているのです。人間の側に歩み寄って、人間がわかる形で表現されている、ということです。
 「それによって、元の真相が保たれるとともに、そこにある生命力が保たれている」。このことが重要です。ただ単に「事実を伝える」だけでは不十分です。その元にある意図と事情、目的、何よりパワーが尊いのです。
 
 天(あめの)御(み)中(なか)主(ぬしの)神(かみ)と名づけられた根源の神から始まり、順を追って神々と国土が創られていきました。その途中の段階から、特に伊(い)弉(ざ)諾(なぎ)尊と伊(い)弉(ざ)冉(なみ)尊の夫婦神が、日本の祖(おや)神(がみ)となって創造していきました。
 しかし、その途中で伊弉冉尊が火の神を産み落とした時、自ら大やけどを負って息を引き取り、黄(よ)泉(み)の国に行かざるをえなくなりました。
 夫の伊弉諾尊は、そのことをとても悲しみ、妻の伊弉冉尊を追って黄泉の国に入りました。しかし時すでに遅しで、伊弉冉尊は元の美しい姿を留めてはいませんでした。
 黄泉の国に入って穢(けが)れた身と心を、伊弉諾尊は清めるため、禊(みそぎ)を行いました。神道の祓(はらへ)詞(ことば)に記されていることで、よく知られています。神道では禊のお清めを重んじます。
 
 ユダヤ教からキリスト教に変わるエッセネ派の果たした役目も、水によるお清めに特徴がありました。それをイエス・キリストも、エッセネ人(びと)である洗礼者ヨハネから受けて備えがなり、使命を開始できたのです。
 こうして試練を乗り越え、清められ、自分を取り戻した伊弉諾尊は、独りでさまざまな創造を続けました。そして最も良い状態になって成長を遂げた時点で、最後に伊弉諾尊は天照大御神、月読尊、素戔嗚尊の三柱の神を創造できたのです。
 取り分け、長女の天照大御神は、これまでの創造の中での最高の存在でした。その弟の素戔嗚尊は「母恋し」で、いろいろ手こずり、問題を引き起こしましたが、地上に下り、早々と日本の国の国づくりのために働きをなすようになりました。
 
 特に素戔嗚尊の系統から大国主命が現れ、兄弟に妬まれながら成長し、また祖先の素戔嗚尊からも試練に遭い、それを無事乗り越えて立派に成長を遂げました。こうして大国主命が日本の国づくりの基礎を行うことができました。
 このように天照大御神の弟の素戔嗚尊は、最初はいろいろ問題を引き起こしていましたが、八(や)岐(またの)大蛇(おろち)を退治して多くの人々を助け、善なる神に変身を遂げました。そして国づくりのために貢献したのです。それからその子孫の大国主命が、日本の国の基礎作りを果たしました。
 こうして日本の地上界が整ったことを見届けて、高天原という天界に待機して様子を見ていた天照大御神を代表とする天孫族は、いよいよ自分たちが天下って日本の国を統治することを決意しました。しかし、これは茨の道でした。
 いろいろ試みたけれども、なかなかうまくいかなかったのです。「世慣れしていなかった」とも言えます。それでもようやく、努力した甲斐があって、力強い神であられる雷(いかづち)の神、後に鹿島神宮に祀られるようになった神が、出雲の大国主命に国譲りを求め、受諾されました。
 
 大国主命は人格者で、人望もありましたので、事の次第をよく理解し、息子で後継ぎの「事代主神が同意すれば、よい」と伝えました。
 こうして地上の許可が得られ、天照大御神の直系の子孫の瓊瓊杵尊が何柱かの神々を従え、天孫降臨したのです。つまり神々が地上に人間となって転生受肉したということです。
 ただ厳密に言えば、すぐに天界の神々が普通の人間に転生受肉したのではありません。少しずつ地上の人間に近い形になって、次第に一般の人間のように転生受肉するように、ある期間をかけて調整しながらなされていったことです。
 こうしてほぼ、少なくとも表面的には、一般の人間たちのような転生受肉の形をとった天照大御神の子孫ができました。それが初代の神武天皇です。
 しかし内面的にはれっきとした神々の子孫であり、自分もまた内面的には神々の一体でした。しかも、ただの神々ではなく、最も高貴な天照大御神の直系の子孫でした。
 こうして天皇が誕生しました。それから場所も変えるべく、九州から出立し、現在の奈良の地へと向かっていきました。
 それはちょうど、アブラハムが啓示を受けて約束の地であるイスラエルの地へと、故郷のウルから出立したことに対応しています。
 
 また、最初に天孫降臨した瓊瓊杵尊は、一部、族長ヤコブと対応している部分を持っています。姉妹の2人を妻として与えられたけれども、より美しい妹のほうを愛し、大切にした点です。
 その妹のほうがラケルです。このヤコブとラケルの間に、最初に産まれたのがヨセフです。キリストの実体が初めて転生受肉したのです。
 イスラエルの歴史を日本の神話に対応させると、イスラエル民族が神々に相当します。取り分けキリストの実体の転生とその先祖の系列が、日本の天照大御神の子孫である天皇の系列に対応します。それは両者が全く同じという意味ではなく、対応関係があるということです。
 そのため、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』では、イエス・キリストの家系図が具体的に記されたのです。それとの関連で、キリスト自身の30回にわたる輪廻転生が考慮されねばなりません。
 それと同様に日本においても、「天照大御神の子孫が、代々の天皇として現代に至るまで引き継がれてきて、日本を治めていること」が再認識されるべき時です。
 
 同時に一方、それぞれの実体は転生し続けていますので、『マタイ伝』や『ルカ伝』のような生粋の家系図ばかりでなく、それぞれの実体の転生も考慮されねばなりません。日本においても、それぞれの天皇の家系の流れの正統性とともにそれぞれの実体の転生も、必要な限りは考慮され、明らかにされることが今後必要となってきます。
 これまではキリスト教においては、イエス・キリストに至る家系図だけが、日本の神話においては天照大御神から現代の今上天皇に至る天皇の正統的な家系の流れだけが、認識され、重んじられてきています。
 それとともに必要最小限、それぞれの主立った実体の輪廻転生という命の横の流れも考慮され、明らかにされていくことが必要です。
 なぜなら、家系の流れは大事で必要ですけれども、表面的肉体的な流れです。一方個々人の輪廻転生は、一段階奥深い所で起きている命の流れだからです。
 
 天照大御神と、出雲の国づくりを果たした大国主命の実体は、取り分け重要で、キリスト的です。日本に現れたキリストです。
 ともあれ、素戔嗚尊と大国主命の犠牲と尽力により、日本の国固めがなされ、その態勢ができたところで瓊瓊杵尊がようやく天孫降臨を果たし、その系譜から初代の神武天皇が現れました。
 神武天皇は、「九州では日本の西に寄りすぎている」ことに気づき、長兄と共に東の地へと移動を開始しました。アブラハムのように。
 途中でその兄を失いましたが、末の弟の神武天皇は無事予定の地に入ることができ、初代の天皇として立つことができました。
 
 その後、それぞれの天皇が皇位を継承し、いろいろなことがありましたが、神のご意思とご加護とご助力により、天照大御神という尊い神の直系の子孫が人間として代々日本国を治め、それが今日にまで至っていることは驚異的で、喜ばしいことです。それは神のご意志を表しています。
 「天皇は、神々の子孫である。しかも最も尊い、天照大御神の直系の子孫である。天照大御神という、最も気高い神が、次第に人になっていった。その直系の子孫が天皇である」。このことを、『古事記』は伝えています。「だから、天皇を中心に天皇を大切に日本の国がいついつまでも一つにまとまっているように」と。
 これは奈良時代の、天武天皇のたっての願いでした。天武天皇が『古事記』を編纂することを発案し、命じたからです。
 天武天皇は天智天皇の弟です。その意味で天智天皇と天武天皇の兄弟は、日本の天皇でも重要であり、ターニングポイントにあたりました。
 時代は下り、平安時代中期、武将の平将門が東の国に誕生しました。将門は朝廷から受け入れられず、逆賊として討伐されましたが、結果として天皇家を守り、それ以降、天皇家が永久に存続する保証を与えました。
 
 なぜなら将門が新皇を名乗ったことで打たれたため、それ以降どんなに力ある武将も政治家も、朝廷を翻して自分が日本のトップに立とうとは思わなくなったからです。
 こうして逆説的に、平将門が犠牲として捧げられたことで、反例となり、天皇の流れが永久に存続する保証を与えたのです。これも神のご意志によって起きたことです。
 こうして、かつての天武天皇の『古事記』と『日本書紀』を編纂した意図と願いが、遂げられていきました。将門は、天武天皇の直系の子孫、聖武天皇の転生者だったのです。
 
 今、令和の時代が始まったところです。「令和を迎えた今回ほど、天皇や皇室に対して、また改元に対して、日本人が肯定的で、関心を寄せ、歓迎したことはなかった」と言っても過言ではありません。それだけ天皇家が安泰になってきているのです。
 無論、天皇は日本の支配者でも統治者でもありません。「国民の象徴」と言われるとおり、国民の励みであり、支えや指針になっている存在です。お祈りをしたり、お務めをしたり、海外との文化交流をされたりしておいでです。かつて、祭、儀礼、巡礼をされ、要人をもてなしたように。
 直接の政務は、首相をはじめとする官僚と政府の方たちの仕事です。それでも精神的霊的には、日本に天皇が必要なのです。
 それは天皇をさかのぼると、最も高貴な天照大御神に至るという、深い認識が日本人にはあるからです。日本人にはこのような精神的な支えとバックボーンが必要なのでしょう。これは世界的にも類を見ないケースです。その分、日本人が精神的霊的なものを重んじている表れです。
 
 日本人は宗教心が薄いと言われます。実際、宗教に対して否定的です。しかし、どこかで一方では、このようなものが普遍的にあるのです。そこが大事なところです。ただ、現代の日本人は日本固有の信仰心が弱まってしまっています。それに伴い、パワーも。それは今後、喚起されていかねばなりません。
 まずは『古事記』に注目し、『古事記』から学びましょう。
 令和の時代に入り、今、日本に何が必要なのかを見直すべき時です。頭脳偏重の時代、魂こそ大事です。
 
 より良い形で新しい時代を迎えられた今、日本がどのようになっていて、これからは何が必要なのか。そのような時『古事記』を振り返ることで、そこから得られるものがあることでしょう。
 また、本当はどういうことがかつて日本の中で起きたのか。霊的レベルでも現世的にも、それを追究することが必要になってくることでしょう。日本を大切にし、日本に目覚めることが国際社会への道です。このリーディングはそのための第一歩として行われました。
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16038

質問:輪廻転生についてご教示ください。

ソース輪廻転生は日本では、仏教を通して伝えられ、古くから「人の生まれ変わり」が受容され、信じられてきています。
 しかし厳密に見ると、仏教は原始仏教においては、輪廻転生に関しては否定的・消極的です。むしろ仏教以外のインド思想に、一般に見られている概念です。
 「インド思想の全てが、人の生まれ変わりを認めている」ということではないにしても、インド思想の多くが、人の輪廻転生を認め、それを前提に人を導き育てようとしています。それが仏教にも影響を及ぼし、取り込まれていきました。
 
 仏教では、「無常」「無我」を説くため、輪廻転生を積極的には認めていません。それでも、仏教にも次第に輪廻転生が入り込み、それが日本にも伝えられました。
 さらに見ていくと、原始仏教においても開祖の釈尊自身が、自分自身の輪廻転生を回想し、それを自覚し、乗り越えて、平安
の境地に到達したことが、原始仏典に記されています。
 
 近代以降においては、神智学のブラバツキー夫人や人智学のシュタイナー、また、アメリカで退行催眠を通して前世が思い出されたことなどから、輪廻転生が扱われるようになりました。
 退行催眠との関連で、エドガー・ケイシーがリーディングを開始し、リーディングの流れにおいても輪廻転生が積極的に扱われるようになりました。
 「前世療法」という、退行催眠において前世までさかのぼる手法も、一般化するようになりました。前世を記憶する子どもたちの裏づけを取る調査研究も、取り組まれてきています。
 
 最近は日本において、「異世界への転生」がブームになっています。この世でうまくいかない人たちが異世界に転生して、異世界で活躍したり恵まれるといったストーリーが、喜ばれているのです。
 仏教においても、「極楽浄土に行って報われ救われる」という宗教が、特に日本の中世において喜ばれました。
 現代の「異世界への転生」にしても、日本の中世以来の浄土系の宗教にしても、現世に対して消極的否定的であるという課題が残ります。
 
 ただ浄土系の仏教は全て現実逃避かというと、そうではありません。親鸞の浄土真宗には、還(げん)相(そう)回(え)向(こう)という認識があります。
 いったんあの世に帰って、阿弥陀様のお力を授かることで、より救済力をつけて、この世に自主的に転生してくる。それによってこの世で活躍して、この世を浄土にする。そのような肯定的で力強い発想が、親鸞の中にはあります。
 最近の日本における転生ブームの中にも、例えば、「太宰治が、現代の日本に生まれ変わってくる」という着想も少ないながらも見られます。
 
 もともと輪廻転生は、あの世とこの世との行き来であり、どちらかというとこの世から別世界への転生よりも、あの世からこの世に生まれてくる。また、前世からこの世に生まれてくるという方向が一般的です。
 古代のエジプトでは、この世からあの世への転生が、来世への生まれ変わりとして、重んじられていました。そのために位のある人たちは肉体を保存して、ミイラにしたのです。
 「輪廻転生」という用語は、「輪廻」と「転生」に、分けて見ることができます。
 「輪廻」は英語で、トランスミグレーション(transmigration)、「転生」は、リーインカーネーション(reincarnation)です。
 「輪廻」は動物から人へ、また人から動物への生まれ変わりを認め、不毛な、いつ果てるともわからない、無意味な生まれ変わりを続けるという、昏(くら)くて重い思想です。それゆえこれは、本当ではありません。手塚治虫、梅原猛さんなどにはこれが窺(うかが)えます。むしろ「転生」のほうが正しく、好ましい思想です。
 
 「リーインカーネーション」とは、「再び肉体に宿る」という意味です。いわゆる、「転生受肉」のことです。
 「人は人にだけ生まれ変わること」。また、「カルマの因果の法則に基づいて、神さまの下、生まれ変わること」「生命の進化が求められていること」「人は神から誕生し、神に還っていく途上で生まれ変わっていること」「救いが目的で、救いのために生まれ変わっていること」「生まれてくることも恵みであること」。これが正しい、そして明るく健全な転生の概念です。
 
 法則に基づいて人は生まれ変わり、自分が自分を作っていくという、前向きで力強い、そして明るく健康的な認識が正しいのです。
 現代の転生ブームには、「法則」が見られません。また、この世で恵まれず、報われないから異世界に期待をかけるという、現世否定と法則を無視するSF的アニメ的な思想です。ただそれでも、転生がブームになってきていることは、望ましいことであり、時代の兆しを感じさせてくれます。人々の意識が現世だけに限定されなくなってきている表れです。
 一般には「転(てん)生(せい)」と言われるようになりましたが、もともとは「転(てん)生(しよう)」が正しい発音です。
 なお、「前(ぜん)世(せ)」に関して、「前世」「前生」「過去世」など、いくつかの表現がありますが、どれが正しくどれが間違いということはありません。
 
 仏教では、「六道輪廻」と言われています。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人(にん)」「天(てん)」、この六道をぐるぐると輪廻するという発想です。
 これは実は、生命の進化の段階を表しています。すなわち、六道をただぐるぐる堂々巡りする、無意味で無目的なものではなく、法則に沿って自分が作ったもので自分を作り、道を切り開いて成長していくという、力強く明確な目的をもった生命の進化の法則と、それを奨励する発想です。
 六道輪廻の上が菩薩です。その上が如来です。これが、最終段階です。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」、人の上に天があります。増長天のような天的な存在が、人の上にあります。仏教では、「天」は最上位ではありません。天的な存在の上に、真理を求めて止まない、利他的な行に務め励む菩薩が位置しています。
 自分の悟りや平安を後にして、他者の救済と奉仕にあたる、向上意欲と慈悲の働きに生きる「菩薩」です。その上が完成された存在である如来、すなわち仏です。
 
 キリスト教では、輪廻転生を説かなくなりました。しかし、キリストを生み出したエッセネ派と、キリストご自身の中にも、輪廻転生の考え方はありました。
 もともと「輪廻転生を認めるかどうか」ということ以前に、「実際に人は輪廻転生している」という事実があります。当然キリストはそのことに気づいていました。
 しかし、キリスト教ではそれを説かなくなりました。その真理がわからなかったことと、「転生思想は都合が悪い」と見なされたことによります。
 それ以降もカタリ派など一部の教派には、輪廻転生の考え方は、キリスト教の中にもありました。また、キリスト教と関連のあるギリシャ思想にも、輪廻転生の考え方はありました。
 キリスト教でいったん輪廻転生を封印したことは、正解であり、神さまのお心を表していました。しかし、人は輪廻転生をするのですし、いつまでもそれを否定・拒否していては、支障を来します。
 そこで時期が来て、神智学や人智学、それからエドガー・ケイシーが現れ、それ以降、輪廻転生が認められ、積極的に説かれ、扱われるようになってきています。リーディングはその最たるものです。
 
 自分や人を掘り下げていき、内省を深めていけば、自分も人も生まれ変わっていることに気づくはずなのです。そしてそれはとても重要なことであり、突破口になります。
 「前世」は、特別で奇妙なことではありません。「過去の頑張り」「努力の結晶」「自分の基盤」ということです。昨日があって今日がある。そして、今日があって明日がある。人は歴史的な存在です。自らの経験によって形成され、記憶が残ります。
 すでに済んだことでも、まだ本当には済んでいないことを、「カルマ」と言います。仏教の「業(ごう)」や「因縁」のことです。そのカルマを果たしたり浄化させたりすることが、現実で起きてくるし、また自分としてもそのように対応していくことが、望ましいのです。
 
 人は過去のカルマを果たすためだけに生きていくのではありません。もっと積極的で力強い、可能性を秘めた存在です。カルマや苦難だけでなく、恵みの面もあります。
 神さまの下で人は輪廻転生する。これは親鸞の考え方にもあります。
 カルマを解くにしても、自分を十分に発揮すること、輪廻転生を脱するにしても、神さまとの関わりが必要です。輪廻転生やカルマだけを説くのでは不十分です。神との関わりと愛、恵み、育成を説かないと。
 
 『旧約聖書』の代表者はモーセ、『新約聖書』の代表者はイエス・キリスト。
 モーセは人間のカルマに気づき、それへの対処として「十戒」を授かりました。イエス・キリストはカルマを癒しカルマを超える、愛と命の教えを説きました。このことが、『ヨハネによる福音書』の冒頭に表されています。
 モーセによって律法が与えられ、カルマの法則をベースにした『旧約聖書』が編纂された。その上で神のお導きとして、イエス・キリストを遣(つか)わされた。
 
 イエス・キリストは本当の光であり、愛と恵みによって生まれ、愛を説くために出てこられた、と。
 本当の愛と赦しがカルマを解き、輪廻転生を完成させ、神の御(み)許(もと)に至る、最も大切なものです。
 カルマにも悪業(ごう)ばかりでなく善業もあります。「カルマは全部いけないもの」とか「果たさねばならないもの」ではありません。生きている限り、カルマを作るのが人間です。それなら、良いカルマを作っていけばよいのです。
 ただ仏教では、悪業ばかりでなく善業も好ましくないと捉え、善業・悪業の両方を果たし、それを超えた解脱を説き勧めます。「それが平安をもたらすニルヴァーナである」と。
 「我執など、自分への囚われを脱すること」
 「欲望や感情に囚われないこと」
 「そのために、物もできるだけ持たないこと」
などを勧めます。
 
 仏教でもキリスト教でも、「出家」が重んぜられてきています。仏教はもともと出家が基本です。南伝の仏教は、今でもそのようなあり方になっています。
 日本に伝えられた北伝の仏教は、大乗仏教であるため、在家が主になっています。それが日本に入ってきた仏教です。
 キリスト教ならプロテスタントが在家であり、カトリックも本来、無欲を奨励する出家です。結婚せず、子どもを儲けず、肉食なども控えます。欲望は全部控え、自分の物を所有しません。徹底した苦行に生きます。
 仏教でもキリスト教でも出家が奨励され、重んぜられてきています。それはそれで意味があり、徹底しているのでしょうが、それでは子孫が絶えてしまいます。何より、消極的否定的すぎます。また、過酷すぎます。生命を損ね、本当ではありません。
 
 欲望や感情を昇華する。否定せずに浄化しながら引き上げて、その生命エネルギーを良い形で活用していくことこそが求められているのです。
 日本の真言密教は、その典型的な考え方です。日本の神道も、そのような方向性にあります。家庭と仕事を重んじ、生命を謳歌し、役立てていくほうに向けていく。この世も肯定し、恵みであると捉える。
 釈尊の晩年の教えと言われる「涅槃経」にも、現世肯定的な面が打ち出されています。
 日本の仏教の始まりとなった聖徳太子は、「勝(しよう)鬘(まん)経」「維(ゆい)摩(ま)経」「法華経」、この3つの仏典を重んじ、その注釈書を書きました。また、それを講義しました。いずれも在家仏教であり、女性を重視している経典です。これによって日本の仏教は、方向づけられました。 それは「よかった」と言えるでしょう。
 
 さらに、鎌倉時代初期には親鸞が現れ、肉食(じき)妻帯を堂々とやってのけました。それ以来、親鸞の浄土真宗ばかりでなく、他の仏教の宗派も、日本においては、僧侶は結婚し、家庭を持つようになりました。日本では、家庭仏教が一般的になったのです。
 この世に生まれてくることは、苦ではありません。問題でもありません。
 確かに、カルマを果たすためにも生まれ変わってきますが、カルマを果たすだけの人生ではありません。自分を活かし、世の中のためになり、良い世の中づくりのために生まれ変わってきています。また、本当の意味で楽しむために生まれ変わってきています。「正しく楽しむ」ために。楽しんでも道から外れないように。
 この世に生まれ変わってくることは、苦しみでも問題でもありません。むしろ恵みです。天からの贈り物として、この世に人間として出てこれるのです。
 実際、あの世に待機している魂たちの多くが、生まれ変わってきたがっています。でも、態勢ができていない、まだ時期ではないと、生まれたくてもこの世に生まれてこれないのです。
 
 生まれてくることは、恵みなのです。天からのプレゼントです。その意味で人生を大事にしなければいけません。生まれてきてカルマを果たすだけでなく、やりたいことをやろうとして、それが許されて生まれてこれたのです。
 「生まれ変わる」と言っても、今世が一度きりであることに変わりはありません。むしろ生まれ変わる分、「今世がかけがえのない独自の尊い一生だ」と思えてきます。それで、今世は今世で大事にして、今世ならではの人生としてください。
 「前世があり、来世もあるのなら、今世は適当にやってやろう」。転生においてはそのように今世が薄まる、このように誤解している人たちが多いのです。今世を否定し、大切にせずに来世や霊界や異世界に期待するのは筋違いです。
 
 輪廻転生を認識することで、今世が薄まることはありません。むしろ輪廻転生を知ると、知らない時以上に、今の人生をありがたく思えて、大切にするようになるものです。今は過去の努力の結果、神の恵みであり、今の生き方が未来を形成するからです。
 輪廻転生には法則が働いています。「この世で報われないから、異世界に転生して活躍する」ということは、つじつまが合っていません。法則にかなっていません。
 過去の思いと行いが、現在の自分と周りの状況を作り上げている。それと同様に、今の思いと今の行いが、将来の自分の状態と周りの状況を自ら作りつつあるのです。
 
 このカルマの因果の法則で、現実が動いています。この「カルマの因果の法則」が、「命の法則」です。そこに神が関与され、本人が作ったカルマを通して、教育し、愛をもって育て導いてくださっています。それが、現実の状況や動きの説明です。
 輪廻転生はでたらめでも怖いものでも、不公平なものでも無意味なものでもありません。整然と神の下、法則に従って、人は育て導かれています。安心してください。
 輪廻転生は恵みです。自然の摂理にも従い、公正で、明るく健康的な考え方です。実際そのようになっています。喜びをもって人生を生きること。今の状況を大切にして、今の中で他を思いやり自分らしく生きていくことです。
 インドは過酷な大地であるため、どうしても現世否定的で、現世から逃避するような発想や、欲望や感情を問題視する傾向が見られます。仏教にもそれは投影しています。
 
 これからの時代、輪廻転生が事実であることを再認識しつつ、本来のあり方、またこれから求められる輪廻転生と、それへの対応が説き直されねばなりません。それがONEの教えです。
 安心し、明るく元気よく自分らしく、命を喜び、育み、今の人生を喜びと感謝をもって、周りを思いやりながら生きていきましょう。
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.16010

質問:因果応報についてご教示ください。

ソース「因果応報」あるいは「因縁果報」については、日本において昔から聞き知られていることです。主に仏教との関わりで、使われています。
 しかしその、詳しく正確な内容まで認識している人は、少ないようです。さらに、「仏教でどのように説いているか」ということ以上に、ONEという真実の観点では、実際はどういうものなのかは、ほとんど知
られていません。
 
 昔から説かれてきていることの全てが、正しいとは限りません。また、その全貌を尽くしているとは限りません。たとえ正しくても。
 そこで、これからの時代へ向け、昔から説かれていることの中でも、本当のことで今後とも求められるであろうことを扱い、わかりやすく解説し、世の中に提供していくこと。それがARIの役割です。
 本当のことで大事なことでも、改めてO
Nの観点で見直すと深まり、見え方も異なってきます。それでこそ、これからの時代に役立つものとして、今後とも継承されていくのです。
 内容が改まり、また一段と深まり、そして広がった形と内容で、昔から伝えられている真理も、今後のために役立っていくことでしょう。
 
 「因果応報」は言うまでもなく、カルマの因果と密接に関わっている内容です。カルマの因果の法則のことです。「業(ごう)、因縁」などと訳されているカルマは、行いに関する因果の法則です。物の次元において因果の法則が働いていることは、自然科学が解明してきています。その法則に基づいて技術が発達し、人間の生活が便利になりました。
 一方、人間に関する因果の法則も見られ、特に、人間の生命の営みも因果の法則に基づいて動いている。それが人間の内容や運命を規定していることが、仏教を始めインドでは知られ、主に宗教や哲学を通して説かれてきています。それが日本にも伝えられて、知られるようになりました。
 それは明治維新以降、迷信的なものとして排除され、また軽んぜられるようになり、わずかに宗教の中において、細々と命脈を保っている程度になりました。
 
 物的な科学の洗礼を日本の国も受けたのです。それによって、カルマの因果の知恵が葬り去られてしまいました。それが、人々の不安、ストレス、焦り、空虚感、自己喪失、犯罪などを招いています。
 物の次元に因果の法則が働いているのと同様に、人間の生命の営みにも因果の法則が働いているのです。それが宗教や哲学の中で、カルマや業ということで知られ、扱われてきています。これが生きていく知恵で、心に平安、喜び、感謝、確信を与えます。
 
 「業」すなわち「カルマ」とは、「行い」の意味です。行いには3種類あります。
 体を使って身をもって行う「身業(しんごう)」、言葉を使って行う「語業(ごごう)」、想念や思考など、心の働きによる「意業(いごう)」、この3つの行いです。
 この3区分はわかりやすくはあるのですが、実際はきれいに3区分できないです。しかも、この三業より、実際は範囲が広いのです。
 
 人間の生命の営み全てがカルマです。カルマは、行いの内容によって「善業」と「悪業」に分けられます。これもわかりやすい区分なのですが、実際は単純に善業と悪業の2つの極に分けられません。実際は良くも悪くもない、一般的な生命の営みが多いからです。それに、そもそも行いを善と悪に分けること自体、「好ましくない」とも言えます。
 人は生きている限り、カルマを作ります。一般に宗教では、カルマを否定的なものとして捉えるため、「できるだけカルマを作らないように、そして作ったカルマは解消したり果たしたりするように」ということに重点が置かれます。これでは、生き方として消極的受身的すぎます。理想的とはいえません。カルマは悪いものではありません。
 
 それに、神さまのお計らいで、過去のカルマは果たされるように現実が動いているのです。そこで、これまでのカルマを果たすよりも、これからより良いカルマを作るようにすることが、重要です。
 「これからは何もカルマを作らない」。そのようだと、受け身的消極的な生き方となり、この世の人生や社会の価値があまり感じられなくなってしまいます。現実逃避です。
 それには、仏教が誕生したインドの土壌や価値認識の影響が手伝っています。仏教ばかりではありません。インドの他の宗教も、大同小異です。
 古いカルマを果たすだけで、新しいカルマを作らないことが「超作」です。仏教では「無(む)漏(ろ)業(ごう)」と言います。これが奨励されているのです。この世では平安を得、死後は解放され、この世に転生してこなくて済む、と。
 
 それはそれで真理であり尊いことなのですが、もっと人生や生命やこの世に関して信頼と価値を置き、肯定的積極的であるのが健全でしょう。この世にも十分意義と価値があるのです。そうでなければ逃避的になってしまいます。
 古いカルマだけを果たし、新しいカルマを作らない。それによって行うごとに古いカルマが果たされていき、しかもそれが新しいカルマとはならないので、遂には全てのカルマから脱却し解脱できる。こうしてこの世に転生受肉してこなくて済むようになる。仏教では「寂静涅(ね)槃(はん)」と言われます。「ニルヴァーナ」です。我執から解放された、平安と自由の境地です。
 
 それはそれで大切で、尊い境地ではあるのですが、それだけだと出家的であり、この世の意義や価値や素晴らしさというものが、感じにくいです。
 キリスト教でも、カトリックだけでなくプロテスタントが登場し、仏教においても、原始仏教や部派仏教ばかりでなく、大乗仏教運動が勃興したゆえんです。
 これからの時代、ますますそのような肯定的で明るく健康的な「カルマ観」、あるいは「カルマ論」「転生論」が必要になってくるはずです。
 カルマとは、良いとか悪いとかに区分できないし、三業(ごう)というように3区分もできない、もっと一般的で広い「生命の営み全て」です。そしてそれには価値があります。
 
 古いカルマを果たすことや解消することに重点が置かれてきていますが、神さまのお計らいで、作ったカルマは自(おの)ずと解消へと向かうのですから、重点はむしろより良いカルマを作るというほうに向けるべきでしょう。そのための教えであるべきです。また、祈りであるべきです。
 カルマというのは行いという意味ですが、「生命の営みがカルマ」と言ったほうが正確です。また、生命の営みそのものと共に、それによる「内外に及ぼす影響」、それこそがカルマです。
 思ったり、語ったり、行ったりする。そうすると、それが自分にも周りにもそれ相応の影響をもたらす。これがカルマです。
 
 自分に及ぶ影響は、主に生命の営みの原動力である7つのチャクラに、行いの種類に合わせ、それぞれのチャクラに生命の営みの影響が蓄積されていきます。
 それによってチャクラの状態が規定され、そのチャクラを土台として、体質、性格、能力、嗜(し)好性、運命などが規定されてきます。これが自分自身に及ぶカルマの影響です。
 
 一方、周りにも余波が及びます。生きている限り、いろいろ思ったり行います。存在そのものでも影響が及びます。そのように周りに及ぼした影響が、周りから本人にも返っていきます。周りを刺激すれば、反応が返ってきます。それが人生で体験していく内容となるのです。「運命」とも言えます。これが「因果応報」です。
 思ったり、語ったり、行ったりする。その生命の営みが原因となって、自分自身にも周りにも、影響を及ぼす。これが因果の「結果」のほうです。
 
 このように周りに影響を及ぼすと、それだけでは済まず、周りを刺激したことになるため、生命は反応を返してきます。「刺激に対する反応」、心理学的にはそのように言えます。それが宗教的には「応報」、すなわち「報い」です。刺激に反応して、それを受けること。それが報いです。
 そのため、カルマは原因と結果の法則なのですが、結果が出るだけで終わらず、「応報という報いにつながっていく」と説くのです。そのような報いを受ける。カルマの結果が出るだけでなく、報いという運命的な意味合いが、そこには込められます。
 
 そうするとまたそれが刺激となって、自らが反応していく。そこで新たなカルマが発動し、新たな原因が作られる。そうするとまた、それが結果を生み出す。輪廻の悪循環です。
 本来、神さまが介在してくださるお陰で、結果が出ることで、さらには報いが与えられることで、作った原因となるカルマが完結し、完了するはずです。学びも与えられる。
 カルマを遂げさせ、しかもカルマを通して学ばせ、見直し、改善させ、カルマと責任を果たす機会を与えていく。役目も与え、役目遂行によって、古いカルマが果たされ、自分を活かし、他のお役に立てる。それが神さまのお計らいです。
 
 しかし人間のほうは、そのような道理に昏(くら)いため――いわゆる無明です――結果や報いを身に受けると、それが新たな刺激となって、無意識に反応をしてしまう。そこで新たなカルマが好ましくない形で作られてしまう。カルマの連鎖です。これが輪廻転生の元です。
 このようなからくりに気づき、釈尊が悟った「十二縁起」を自分の中で内観しつつ、このカルマの連鎖から逃れ出ること。そのために教えと神力が必要です。教えによって本当のことを認識し、理解することが役立ちます。そして、祈りによって神から推進力を授かる。
 
 人間は理性だけでは不十分です。力が必要です。そこで神さまにお祈りし、神さまからのご助力やお計らいを請います。誰においても神さまのお計らいが働いてはいるのですが、弱いのです。
 自分のほうからも神さまに目を向けてお委ねし、また、ご助力を請い願うことで、神さまがこれまで以上に関与し、助けてくださるようになります。
 このようにして神さまからのご助力を頂くことで、教えによる真実の認識と相まって、悪習慣から脱却できます。そして、新しく望ましいパターンに置き換わっていきます。
 
 このように教えを学ぶことで物の道理を理解し、深く認識する。同時に、それを実行していくお力を、お祈りや瞑想を通して神さまから授かるのです。
 カルマは、人間の生命に働く因果の法則です。しかし、その基に神さまがおられます。神さまが宇宙に秩序と公正をもたらすためにカルマの法則を創られたから、カルマの法則があるのです。そして神さまが、そのカルマの法則を作用させて一人ひとりを育て導いておられるのです。
 そこで、カルマの基におられる神さまに自分を向け、神さまにお任せする。その上で、自分を内省しつつ現状の意味を悟り、現状を大切に、自分を活かし、人を思いやりながらより良く思い、より良く語り、より良く行うように心がけること。
 
 それによってカルマが遂げられていき、同時により良いカルマが形成されていきます。それによって人格も運命も、より良いものが形成されていきます。古いカルマが遂げられて、運命も塗り替えられていきます。また、神がそのためにピッタリの使命を授けてくださっています。
 事が起きる時、古いカルマが遂げられつつ、自分が自由意思を使って、新しいカルマをも作りつつある。その二重の面がいつでも現実に、同時に動いているのです。
 
 古いカルマが効率よく遂げられるようにすること。そして、新しいカルマがより良い形で作られるようにすること。この2点が、いつでも必要になってきます。
 仏教では「囚われないように」ということが、教えで強調されます。我執がカルマと転生の元凶である、と。愛情や欲望や感情に関して、執着しやすいのが人間だからです。恐れとか不安、悲しみとか憎しみ、妬みとか怒り、そういった否定的な感情に囚われ、また欲望にも囚われやすいからでしょう。
 
 しかしそのような感情や欲望を昇華し、発展解消させると、生命エネルギーが清められ、活きてきます。「執着をなくす」という教えよりも、人間を信頼し、自分に対しても人に対しても、より良いほうに生命エネルギーを振り向けて活かしていくほうが、望ましいです。
 「カルマを果たすこと」
 「責任を果たすこと」
 「役目を果たすこと」
 この3つは関連し合っています。カルマを果たすことだけを考えずに、責任を果たす、さらには役目を果たす。そのように肯定的前向きに振り向けること。役目を果たす中で、カルマも責任も果たされていく。
 
 もともと神さまが、その人が作ったカルマが果たされ、責任も果たし、同時に生き甲斐(がい)を覚えて自分が活かされることで周りのお役にも立つような、今回の人生にふさわしいお役を授けてくださって生まれてきます。ありがたいことです。至れり尽くせりです。
 それゆえ、古いカルマを果たすことに自分を向ける以上に、前向き肯定的に自分を活かし、役目が遂げられるように生きていくこと。その中で過去に作ったカルマも自(おの)ずと果たされていきます。
 さらには、教訓を学んで過去の否定的な体験や事実、自分の中の否定的な傾向なども、ただ解消するだけでなく、活かされるように振り向けられていきます。神さまと教えが介在することで否定的なものが、解消し、終わるだけでなく、将来のために活かされるようにプラスに転ずるのです。愛と信仰があれば、解決するばかりでなく、全てが活かされるようになるのです。
 
 「カルマ論」には、神さまと信仰と祈りの軸が介在することが必要です。人間のカルマ論だけでは不十分です。「神論」が必要なのです。それによって自分を脱却でき、本来の自分の良さが現れ出るようになります。
 『旧約聖書』はモーセが代表者、『新約聖書』はイエス・キリストが代表者です。モーセは律法をもたらし、イエス・キリストは愛によって律法を成就しました。
 モーセのもたらした律法がカルマ論です。カルマを解くのが律法だからです。しかしそれを、イエス・キリストの愛が成就し、引き上げました。
 モーセは「カルマ論」をもたらし、イエス・キリストは「神論」をもたらした。カルマ論が『旧約聖書』、神論が『新約聖書』。その両方が一つになって、これからの新しい時代がもたらされる。その「カルマ論」と「神論」が一つになったのが、ONEです。ONEの教えです。
 
 「因縁果報」というのは、因と結果の間に縁というきっかけがあるということ。原因が結果をもたらす。その間に外縁、すなわち諸条件が介在し、それがきっかけになって結果が生ずる。もともと原因があるから、結果が出るのです。
 多くの人は、きっかけである「縁」を原因と錯覚します。「誰それさんのこういうことのせいで、こうなった」と。しかし実際は、自分の中に原因があったので、そのような縁、すなわちきっかけが生じ、それによってもともと自分の中にある原因が現れ出てきたということ。因→縁→果。結果が出て、報われる。
 
 しかし、それによってカルマが果たされていくのです。「カルマを解いてあげましょう」ということで神さまが、カルマを炙(あぶ)り出します。そうすると、心の中にも周りの状況にも、いろいろな事が起きてきます。『ヨハネの黙示録』に記されているとおりです。神は行いに応じて、報われる。
 しかしそれでカルマが解消し、果たされていくプロセスをたどる。その中で、学びと見直し、改善と対処する機会が与えられていく。カルマを通して、神が育て導くのです。それにふさわしいお役も、あてがってくださっています。
 
 現実の動きとは、カルマが果たされていくプロセスです。同時に、新しいカルマを自由意思を使って作り出しつつもあります。
 もともと自由意思が天から与えられているからカルマを作り、人の個別性が生じており、運命も形成されているのです。
 運命を恐れず、発展的に生きていきましょう。それが神のみ心にかなう道です。愛がカルマを成就し、カルマを超えさせます。
 カルマの次元だけで終始せず、愛と命そのものに生きることで、カルマを超えていけます。それが本当の超作です。そうすると物の次元を超えていきます。それによって物の領域に生まれ変わってこなくなります。
 
 必要があれば生まれ変わってきて、周りに良い影響や感化をもたらしていけます。人や物を支え、活かせるようになる。
 因縁果報ということで、縁というきっかけによって結果が生ずる。そして報いを受ける。しかしそれで苦しむこともあるけど、カルマが完結できて脱却できる。そこで新たなカルマが生じないように、すなわち無意識に反応して好ましくないパターンが、心でも体でも出ないようにする。
 
 自分を自覚し、そのカルマも自覚し、自分(の執着や感情や欲)から自由になることで、本当の自分が取り戻され、魂が発動し始めます。神さまと、内なる神である魂の発動によって、清められ、解消し、良いものが生み出される生命体になっていくことでしょう。人を助け、世の中を良くする働きをなしていくのです。
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.15987

質問:音楽についてONEの観点からご教示ください。

ソース音楽に癒しの効果があることは、一般にも知られています。ヒーリング・ミュージックとしてよく取り上げられるのは、モーツァルトの曲です。モーツァルトばかりでなく、クラシック全般、また、ニューエイジ・ミュージックと呼ばれるジャンル、広くはあらゆる音楽に癒しの効果があると言えます。
 古い時代から、古代エジプトをはじめイスラエルでも、ヨーロッパでも、インド、中国、日本などでも、音楽の癒し効果は知られ、使われてきています。それは、宗教的霊的な分野とも密接に関わりながら、行われてきています。
 宗教は政治と関わっていると同時に、芸術・文学などの文化とも関連して、人類の歴史は続いてきているのです。
 
 音楽療法は、最近心理療法の一部として考案され、使用されるようになりました。
しかし、それは古くから人類と共にあったものです。
 音楽療法の始まりは、南ヨーロッパのオルフェウス、ピタゴラス、それから古代イスラエルのダビデ王が注目に値します。
 
 また一般には知られていないことですが、イエス・キリストもハープを奏で、人々を癒していました。主は、ダビデの生まれ変わりではありませんが、「ダビデの再来」と見なされていました。
 ちょうどダビデ王が竪琴を奏で、先代の王であるサウルの心を癒して差し上げたように、イエス・キリストもハープを奏で、人々を癒したことが何度かありました。
 
 スペインの十字架のヨハネもギターを好み、晩年に病に冒されていた時、ギター奏者を2、3人呼んで、その音色に耳を傾けていました。
 ノヴァーリスは亡くなる前、弟のカールを呼んでピアノを弾かせました。その弟のピアノの曲を聴きながら、眠るようにノヴァーリスは他界しました。
 癒しにおいてばかりではありません。ダビデはコンダクターの調べに合わせ、トランスに入り、祈りの歌を歌い上げていました。そのことが『旧約聖書』の詩篇のそれぞれの詩の冒頭に明記されています。
 
 現代においてもヨハネは、コンダクターに導かれ、トランスに入り、ダビデの祈りの歌のように、リーディングが行われています。
 それぞれの楽器に、特徴と固有の癒し効果があります。例えば日本では、笙(しよう)という楽器があり、自然の音に近いやさしい調和的な音色を発します。
 ピタゴラスは天体の音楽として、太陽系のそれぞれの惑星が音色を奏で、調和して太陽系を構成していることを、体験から知りました。また天界に行けば、天の音楽が奏でられていることがわかります。
 
 音楽には種類とレベルがあります。その時点のその人に合う音楽があり、自(おの)ずと自分のその時に合う音楽を、人は好んで聴きます。
 音楽のそれぞれには目的があると同時に、用途別ばかりでなく、その時のその人に合う効果的な音楽が必要です。それはちょうどその時のその人に合う食事が望ましいのと同様です。
 それぞれの楽器に特色と効果があるのですが、中でも弦楽器が癒しとして効果があります。
 弦楽器の中でもハープが癒し効果を持っています。そのため、ダビデもイエス・キリストもハープを奏でていました。憑(つ)いている霊も退散するほどでした。また、憑いている霊自体も癒され、救われていきました。
 
 また楽器ばかりでなく、人間の生(なま)の声そのものに癒し効果があります。本当に悟って清らかな生命状態になった人が歌うと、効果が抜群です。
 さらに歌でなくても、悟った人がお祈りしたりお経をお唱えすると、癒しや目覚めや浄化の効果があります。また、普通に話をしていても、癒しの効果があります。声は、その生命体の波動の生きた表れだからです。
 イエス・キリストはもちろんのこと、ゴータマ・ブッダ、洗礼者ヨハネ、そして後の時代のヨハネス・タウラーなども、その講話を聴いている人たちが、まるで天の音楽を聴いているかのように感じられ、話の内容がよく理解でき、心が平安に満たされ、天の波動を身に受けることができました。
 
 同じ経典をお唱えしても、誰が唱えるかで効果が違ってきます。技術として巧みにお唱えするということも必要ですが、周りの人々や霊たちを思って、真心から大切にお唱えさせていただくと、効果が上がります。さらに、本人の生命状態が整っていてお唱えすると、効果が高まります。そして、内容を真に会得している人が唱えると、著しい効果があります。
 
 インドにはヨガの中にマントラ・ヨガもあります。日本の「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」も言霊です。真言密教は、「真言」をお唱えします。唱える声と一つになると超作になり、威力が増し、カルマを解く力が出てきます。
 日本神道の祝詞(のりと)にも効力があります。古事記には、歌のやり取りが数多くあり、楽器に合わせて歌い、神のお言葉、ご神託が伝えられたことが記されています。
 また、自分の声に癒し効果があります。自分で声を発すると、人や霊に聞こえるばかりではありません。自分の耳でも聞こえています。自分の魂に言い聞かせるように、真心から丁寧にお唱えしましょう。
 最初は自分が唱えることから始まり、次第に「自分が唱えている」というより、声と一つになることで、「ただそこに声だけが響きわたっている」という状態になります。超作です。こうなると、威力を発揮し始めます。
 
 さらに、周りの自然や人々とも完全に一体化します。人間の唱える声が自然の動きの一部のようになります。
 ちょうど風の音とか、小鳥のさえずりや小川のせせらぎなどのようにお唱えした声や楽器の音色がなると、超作となり、威力を発揮します。
 「自分の声がいやだ」という人がほとんどです。そこで、自分の声を録音し、それを聴くのです。そうすると自分の声と親密になり、抜群の癒し効果が出ます。
 良い内容の文章を録音しましょう、自分の声で。そして、それを聴きましょう。ミラクルが起きます。癒されるだけでなく悟り、リーディング能力も開花します。
 
 音階が7音階、オクターブに定まってから、だいぶ経ちました。これは昔からのことではありません。「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の7音階です。これが7つのチャクラに対応しています。
 下のムラダーラチャクラから上のサハスラーラチャクラにかけて、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の7つのオクターブが、それぞれ対応しています。
 
 人間の体こそが楽器です。特に7本の弦を持つ弦楽器。それが人間の体です。
 ちょうど楽器を調律するように、7つのチャクラという7本の弦を調律し、調整する。そのように、言霊を体全体に行き渡らせましょう。それによってチャクラが調律され、生命状態が整ってきます。
 名曲は、知らず知らずそのように、聴く側の者の7つのチャクラを調律する効果があります。聴く側の者としても、また演奏する側のほうとしても、そのことを意識して、予(あらかじ)め神さまに捧げ、祈り、清らかな心と愛の心でリラックスして、愛そのものから神と一体化して、演奏しましょう。
 そうすると7本の弦である7つのチャクラが調律され、生命状態が整ってきて、癒され、健康になり、本来の自分を取り戻すことができます。カルマも浄化されます。
 
 聴く側の者は、自分の生命体を弦楽器とイメージしてください。そしてリラックスして天に明け渡し、音楽を聴きながら7本の弦である7つのチャクラが、音楽を聴きながら調律されていくことをイメージし、そのことに自分を明け渡してください。
 このように体を緩ませ、外に開き、音楽の波動を身に浴びて、7つのチャクラがそれぞれ音楽にさらされて、調整されていくように仕向けるのです。良い音や声を浴びましょう、全身に。全身全霊で。
 特に名曲に対してそのように自分を明け渡し、さらけ出すのです。そうすると体全体に良い音色や歌が浸透し、それによって清められ、調律され、本来の自分を取り戻すことができます。チャクラも浄化し、喜び、働き、助けてくれるようになります。
 また、自分で祈りや経典を口ずさむ時、自分の体全体に響かせ、こだまさせてください。完全にその音と同化するように仕向けるのです。
 自分の体から音がこだまし、周りに発せられる。自分の生命体全体が楽器です。自分からも良いものを発しましょう。自分の内側にも外側にも与えましょう。
 
 このようにして、自(おの)ずと7つのチャクラが波動調整され、清められ、育成され、開発され、働くようになります。
 良い音楽を聴きながら、また自らお唱えしながら、自分という一つの楽器を調律し、整え、癒しましょう。そのように発するのです。また、そのように受け止めて聴くのです。これがONEの観点から見た、「音楽療法」です。
 例えば、お念仏としての「南無阿弥陀仏」も、早口に忙(せわ)しなく大声で外に発するのが一般的ですが、それよりもむしろ、ゆっくりとリラックスして、自分の内面に言い聞かせ、響かせて、浸透させるようにお唱えするのです。リラックスして深い瞑想状態の中、ほとんど意識を失った状態で自分の中に響かせるのです。
 
 そうすると、ちょうど薬が肉体に効くように、言霊が心や魂の体に効きます。これがONEの観点から見た、「音楽療法」です。「波動療法」と言ってもよいです。
 人間の声、つまり人の声でも自分自身の声でも、それから楽器でも、そのように使うのです。また、関わるのです。
 オーケストラの演奏のように、それぞれの人が音色を発しています。それが一つの調和をなして、一体化し、そこに素晴らしい世界が現出します。一流のオーケストラの演奏は、そのようになっています。
 
 それと同様にグループにおいても、家庭においても、そして世界全体においても、それぞれの人が固有の音色を発して、しかも全体として一つのオーケストラのようになることが、ONEの命の世界です。
 さらに地球と他の惑星たちの間にも、ちょうどピタゴラスが「天球の音楽」と表現したような「調和」が、そこに現出します。そうするとお互いに良いものを与え合い、受け取り合う、愛の世界が現出します。これが曼陀羅の世界です。
 特に、家庭的な愛においてこの曼陀羅が実現した世界が「胎蔵界曼陀羅」、一方、社会的な使命の点でそれぞれの人が特性を発揮して、自分を活かして社会に寄与し現出した理想社会が「金剛界曼陀羅」です。また、「自然」と「人」、それから「霊界」、それらもそれぞれ協調し、うまく一体化した世界が、「ONEの世界」です。
 
 社会の中でも、「社会」と「自然」と「霊界」の互いの関連性においても、それらが一つに溶け合うようなONEの世界です。新天新地の創出です。
 ただ混じり合って互いの個性が損なわれる、あるいは薄まるというのではなく、それぞれの特色が活かされ、さらに際立つように、互いに組み合わされていく。それが『華厳経』で説かれる「重重無尽縁起の法」と呼ばれる世界です。
 「一即一切、一切即一」
 「一つは全てであり、全ては一つである」
 
 聖武天皇が造り上げようとした『華厳経』の曼陀羅の世界です。それが東大寺の大仏として表現されています。これがONEの命の世界です。
 実際にも、それが日本に、さらに世界に現出するように目指しましょう。
 聖武天皇はそれをイメージし、念願し、日本のそれぞれの地域に国分寺と国分尼寺を建立し、日本全体を曼陀羅化させようと夢見ました。それぞれの国分寺に七重の塔を造らせたのです。これはセブンテラス瞑想の7テラスであり、生命の進化段階、つまり7つのチャクラを表します。
 七重の塔は「完成された人間」の一人ひとり、すなわち仏です。7つのチャクラを持つ七重の塔は、一人の仏を表します。人間の完成したあり方です。そうなるために愛と真実のお言葉を自分に響かせ、7つのチャクラを調整しましょう。また、周りにも与えましょう。
 
 チャクラの状態で健康か不健康かが決まります。チャクラの中に善業と悪業が蓄積されています。そのため言霊による波動調整によって、チャクラが浄化されれば、カルマも浄化され解消します。その結果健康になり、心も体も平安になります。
 それが、生きながらにしてこの世から仏界へと移行した状態です。この世は俗界、あちらの世界は聖なる悟りの世界、愛と命と平安の世界、いわゆる彼岸です。
 
 こちら岸が此(し)岸、あちら岸が彼岸。それで『般若心経』の最後には、「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝僧莎訶(ぎやていぎやていはらぎやていはらそうぎやていぼうじそわか)」とお唱えされるのです。「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ。悟りよ、幸いあれ。平安あれ」
 

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.15943

質問:カルマとは何ですか。カルマから解脱するとは、どういうことですか。お教えください。

ソース「カルマ」とは、「行い」という意味のサンスクリット語です。日本では、「業(ごう)」「因縁」「因果」「縁起」などと訳されています。
 主に前世から今世、そして来世へとわたる輪廻転生の中で働いている「命の法則」
です。
 カルマは、「意業(いごう)」「語業(ごごう)」「身業(しんごう)」の3つに分けられます。 仏教ではそれを、「身口意(しんくい)の三業」と表現しています。身をもって体を通して行動する「身業」。言葉を使って行われる「語業」。心でいろいろ思ったり意図したり、念じたりイメージしたりして行う「意業」。この3つです。
 
 また、カルマを内容的に好ましいものか好ましくないものかで、「善業」と「悪業」に2分類します。そして「善因楽果、悪因
苦果」と、因果関係でわかりやすく表示しています。
 良いことを行うと楽しいという結果が待ち受けている。悪いことを行うと、苦しいという結果が待ち受けている。
 今もし苦しい目に遭っているとしたら、それは偶然ではなく、自らがかつてどこかで悪いことをしたことに対するそれ相応の結果である。
 今もし恵まれていたり健康であったり、楽しかったりしているとしたら、それも偶然ではなく、かつてどこかで善い行いをしたことに対する、それ相応の結果である。
 
 このようにカルマは、行うことで、いずれ遅かれ早かれ、それ相応の結果を招きます。
 この因果関係が、すぐに現れ出る時もあれば、ずっと後になって結果が出ることもあります。
 すぐに結果が出た場合は、わかりやすく自覚されるので、反省し、また謝罪して責任をとることができます。しかし、前世で行ったことに対する自覚はないため、起きてきたことがどうしてこうなったかわからず、納得できず、結果を受け入れられません。それゆえ、謝罪したくなく、素直になれず、対処もしたくありません。
 
 しかし必ず、現実の動きはカルマの因果関係に沿って起きてきていることがわかれば、自分では自覚がないことに対しても、また普通に見ると非合理で、とても受け止めがたいことでも、因果の理法からして必ずそれ相応のことを自分が行ったことに対する正当な結果だと捉えられ、たとえどんな状況や出来事に見舞われても、平静な心で神さまを信じて受け止め、落ち着いて適切に応じていくことができます。そのためにカルマについて学びます。
 
 このように、カルマとは行いの意味なのですが、行いがそのままでは済まず、それ相応の結果を招く。そのため、カルマを「因果」あるいは「因果応報」、あるいは「因縁果報」として表現するのです。いわゆる「報い」です。
 カルマは「行い」という意味なのですが、実際は「心のエネルギー」のことです。
 
 人間は誰でも生命体である以上、エネルギーを持っています。そのエネルギーの元は、神さまから日々授かる賜物です。生きていく上での生命エネルギーは、神から頂く食物のようです。
 それゆえ、イエス・キリストの勧めた「主の祈り」の始まりにも、「日ごとの食物を今日もお与えください」と出てくるのです。
 いわゆる食べ物ばかりでなく、「食物」とは、天から頂く日々生きていく上で必要な生命エネルギーのことです。
 その天から頂く生命エネルギーをどう捉え、どう使っていくかで、どんなカルマが作られるかが決まってきます。そしてそれに応じた結果を受けていくことになります。
 
 そのカルマの法則を通して、神が人間を教育し、本人が作ったカルマを通して、神が人間を導きます。その意味でカルマは教科書です。
 多くの場合カルマの結果は、出来事として起きることが多いため、「出来事が教科書である」「人生体験が教科書である」とも言えます。その出来事はカルマによるため、「カルマが教科書である」とも言えます。
 
 神が、本人が作ったカルマを題材として教育し、育て導く。それが現実に起きてくることの説明です。
 「カルマ」は、一般には「行い」ということで説明されるのですが、そのカルマはたとえどんなカルマの場合でも、その正体は「心のエネルギー」です。
 神さまから日々頂く生命エネルギーが、特に心の次元で働くのがカルマです。
 
 人は日々思うところの存在となります。心のエネルギーを使って、いろいろ思ったり念じたり、エネルギーを傾注していることが物質化します。日々思っているような、自分の内面のありように形成されていく。これがカルマです。
 現在のその人のありようは偶然ではなく、前世から今に至るまでの、本人がいろいろ思ったり意図したりして、自らそのようなありように形成してきたということ。思ってきた結果が、現在のありようとなっています。
 そのことを知って、たとえどのようなあり方でも受け止め、現状に立ってこれからの心のエネルギーの使い方や心の方向性で工夫し、また配慮することで、現状から出発し、少しずつ着実に内面のありようが良くなってきます。
 
 カルマは、これまでの経緯と現在のありように対する説明であるとともに、これからどうなっていくかという前向きで希望のある法則でもあるのです。
 同じ法則が過去から現在、そして現在から未来へと一貫して作用しています。もちろん誰に対しても公正に作用しています。人間社会における法律に似ています。
 「カルマ」は、このように「心のエネルギーの及ぼす影響」のことです。心のエネルギーを使うことで、その影響が内外に及ぶこと――これがカルマです。
 
 「内外」といいますのは、自分が思うことで自分のありようが決まってくる。これが自分自身に対するフィードバックという内側への影響。
 もう一つは外部への影響。自分が思ったり念じたり行ったり語ったりすることで、周りにそれ相応の影響を及ぼしていることです。そしてそれが周りを刺激し、それがそれ相応の反応として周りから本人に返ってきて、それを受ける。それが人生で体験していくことの説明です。
 このように、心のエネルギーを使うと、自分自身にも周りにも、それ相応の影響を及ぼします。
 
 こうして人はいろいろ思ったり念じたり、心のエネルギーを使うことで、そしてそれが行動や言葉にも表現されることで、自分にも周りにもそれ相応の影響を及ぼして、自分の状態を形成し、また周りの状況や出来事を形成してきています。
 現在の自分の状態にしても、自分の周りの状況や動きにしても、ほかならぬ自分が、心のエネルギーの使い方で形成してきた産物です。
 そのことを知って、たとえどんな現状や自分の状態でも、まずは受け止めて、そして現状に立って、誠実に対応していくことです。
 
 カルマは、3つの観点から見ていくことが必要です。「カルマを解消する」「カルマを果たす」「カルマを超える」。この3つです。
 1点目の「カルマを解消する」ということは、主に自分の心の中における取り組みのことです。わだかまりとか、心の傷、トラウマ、不安、悲しみ、恐れ、憎しみ、妬(ねた)み。こういった否定的な心のしこりを解消すること。これがカルマを解消する側面です。
 愛着とか執着など、一見すると肯定的な、また、積極的なエネルギーとしてもあります。それらをうまく昇華したり、良いほうに振り向けていったりすることです。
 
 人間には記憶があります。そのため、物事が終わっても、心の中には残ります。現実的には済んだことでも、本人の心の中では終わっていない。そのカルマを、教えを学ぶことで物の道理を理解し、心が執着から解き放たれます。これがカルマの解消です。
 また愛情とか、周りとのコミュニケーションなど、そしていちばんの元では、お祈りを通して神さまの慈愛が注がれることで、カルマが解消していきます。
 「許し」によってもカルマが解消していきます。人を許すことで自分も許されていきます。
 このように、心の面に対する主観的なカルマを解消する。
 
 2点目は、「カルマを果たす」。これはもう少し客観的実際的に存在するカルマのほうです。
 つけがあることに対し実際に行動し、必要な対応をすることで、責任を果たす。これがカルマを果たす側面です。
 このカルマは負債に喩えられます。借金です。これが2点目の実際的客観的カルマです。これに対しては実際に働いて、お金を返済するように対処することで終えらせられます。これがカルマを果たすという側面です。そのために人は生きていき、必要なことを行うようになっています。
 
 その上で、人はカルマを果たすためだけに生きているのではなく、さらに積極的自発的に、周りのお役に立つということで福徳を積んだり、周りを助けたりすることができます。
 これがご奉仕であり、自分のカルマを果たすだけではない、それ以上のものが行いとして出てきます。使命や役目を遂行する前向きな側面です。
 
 3点目は、「カルマを超える」。これは解脱と表現します。カルマからの解脱です。
 成長する。囚われから脱する。理想に自分を向ける。これらによって、カルマの世界を超え、純粋精神、神の世界へと入っていけます。
 1点目の「カルマを解消する」、2点目の「カルマを果たす」、それらを踏まえ、カルマを超えていく道です。
 カルマを果たすことは、使命や役目や義務を果たす中で、カルマも多くの場合、果たされていきます。そしてカルマが果たされてなお使命や役目を遂行すれば、福徳が積まれます。それがご奉仕や人助けです。
 
 さらに「福徳を積む」とか「良い目を見る」ということを当てにせず、純粋に愛から周りのためになっていく純粋な行いに徹する時、ただ善業を積んで将来恵まれるということを越え、カルマを超え始めます。カルマの因果法則が作用する領域を超え始めます。それが解脱です。こうして物の地上世界から離脱し、純粋な精神、神の世界へと入っていけます。
 カルマは物の世界で働く因果の法則なのです。たとえ善業でもその中です。そのような物の世界で働く相対的な善悪の域を超え、純粋に愛から自然体で良いことをすることが超作です。これが解脱への道です。
 まず、カルマを解消すること。続いてカルマを果たすこと。そして、良い行いをして周りの助けになること。そうすると周りのためになるととともに、自分も恵まれたり健康になったり、性格や才能が良くなったりしてきます。しかしまだ、カルマの内です。この世の物の領域の中です。
 
 それらを踏まえ、魂から純粋に、愛そのもので良い働きを自然の一部として行わせていただく。そのような超作によって、自我が昇華され、カルマを解脱し始めます。
 そうすると行うごとにカルマを捨て、カルマの域を脱し始めます。こうして真の自由へと向かいます。
 それは人間の願うような自分勝手な自由ではありません。全ての呪縛から解放される、解脱です。自分からの脱却です。喜捨は、そのために有効です。
 
 『般若心経』の「空(くう)」は、そのことについて説き明かされています。そのことが「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)」、最高の真理として表現されているのです。
 生きているうちからこのように、超作に徹してどんなことでも行うと、行うごとに自由になり、カルマやこの世の呪縛から解き放たれるように向かっていきます。
 そのようにして純粋精神、神の世界へと向かっていきます。生きているうちにその境地に到達した時を「有余依(うよえ)涅槃」、そして生命が尽きて肉体がこの世から解き放たれた時が「無余依(むよえ)涅槃」と呼ばれます。
 
 「カルマを果たすこと」と「カルマを超えること」とは違います。「善業を積むこと」と「超作」とも違います。それでもまずは、カルマを解消し、カルマを果たすこと。そして悪業を控え、善業を積むこと。
 そのためには、自分を見直し、調整し、良い目的を持つこと。理想に自分を設定すること。神さまにお委ねし、神さまに操っていただくように仕向けること。捧げきった行いをしていくように心がけること。
 そのような中で次第に、心のエネルギーが神さまの働きの一部として有効活用され、次第に自我を脱し、神さまの一部になっていきます。神さまと自分が一つに融合してくる。その時、個性が真に活かされるようになり、周りのお役に立ちます。その時、自分の命は心から安らぎ、喜び、納得します。
 
 段階を踏んで進んでいってください。自分で自分を育てること。いきなりカルマを超えるということは、困難です。ステップ・バイ・ステップで進んでいくようにしてください。
 カルマを果たし、それからカルマを超えるように心がけるのです。
 神さまと人々に自分を捧げていく生き方。それをしていると、いつしか自分を脱し、超え始めます。それがキリストの死と復活を表すプロセスです。
 この世のしがらみや欲望や感情と結びついている自我が強い、古い自分が死に、神さまによってきれいにされてカルマが清算された後、神さまによって生かされた時、神さまとつながり、本当の自分として生き始める。神我の開顕。
 
 自力から他力へと向かい、遂には一力(いちりき)として、神さまと本当に一つになって生かされて生き始めるようになります。とても楽で自由な心境です。あるがままでいられます。そのままで生かされるようになります。
 落ち着いて感覚を働かせ、神さまに自らを委ね、そして世の中に自分を捧げながら、安心して信じて、落ち着いて自然体で、生かされて生きていきましょう。

 リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
〈了〉

リーディング No.15908

質問:イニシエーションとは何ですか。イニシエーションについてご教示ください。

ソースイニシエーションとは、「入会式」「入門式」「手ほどき」「通過儀礼」「秘儀の伝授」「秘伝」などの意味です。神秘主義や密教、特に秘伝や秘儀、儀式などに関わる専門的な概念です。

イニシエーションを授けられた者を、「イニシエート」と言います。伝授を受けた人、入会者です。特に、大きなイニシエーションであるメジャー・イニシエーションを授かった者は、「グレート・イニシエート」と呼ばれ、周りの人たちから一目置かれ、尊び敬われます。偉大なる霊的指導者、霊的教師がグレート・イニシエートです。秘伝を授けられた者のことです。

一方、秘伝を授ける者は、「イニシエーター」と呼ばれます。創始者、首唱者、入会式を行う人、教導者、伝授者。多くの場合、秘伝を授けられたイニシエートは、今度は弟子たちに秘伝を授けるイニシエーターとなります。

輪廻転生の中で、偉大なる師匠から秘伝を授けられたイニシエートが生まれ変わってくると、何らかの徴を刻印されて生まれてきます。「素直で謙虚で清らかである」とか「直観が鋭い」、「大きな理想を抱き、その目標に向かって邁進する」とか「持続力がある」、「度量が大きい」「人間的な魅力に溢れる」「オーラが清らかである」、また「オーラが大きい」「人懐っこい」「無邪気である」「人に対して寛大で優しい」「人を労り思いやる」「守られている」などです。

歴史上、グレート・イニシエートとして知られている人物は、ゾロアスター、トート・ヘルメス、オルフェウス、ゴータマ・ブッダ、モーセ、プラトン、ソクラテス、ピタゴラス、空海、聖徳太子、親鸞、老子、パドマサンババ、ソロモン、洗礼者ヨハネなど。しかし、何と言っても最高は、イエス・キリストです。

イエス・キリストの実体から前世において、イニシエーションを授かった者は幸いです。特に、イエス・キリストとしての人生から直接秘伝を受けた者として、ペトロ、ヨハネ、ヤコブが代表的です。また、マグダラのマリアやラザロ、霊的な形で主のみ光を受けたパウロなどもいました。

イエス・キリストからイニシエーションを受けると、キリストからのイニシエーションは「ハイエスト・イニシエーション」、すなわち「最も高いイニシエーション」であるため、他の霊的指導者から受けるイニシエーションの比ではありません。イエス・キリストと目と目が合っただけで感化を受けるほどです。子どもだった時、主から手を置いて頂いて祝福された者は、生まれ変わってもその徴と効果が留まり続けます。霊的な良き感化がイニシエーションなのです。「朱に交われば赤くなる」などと、中国の諺(ことわざ)にはあります。イエス・キリストとしての存在からのイニシエーションほどではないにしても、イエス・キリストの前世の人物から秘伝や感化を受けた場合も、恵みが留まり続けます。例えば、ヨセフ、ヨシュア、メルキゼデクなどからの感化です。

イニシエーションは、宗教儀礼や儀式、祭りなどを通して授かる場合が一般的です。例えば、モーセが弟子のヨシュアの頭の上に手のひらを置いたのも、モーセからヨシュアへのイニシエーションでした。主が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたのも、イニシエーションでした。空海が唐の長安において、恵果阿闍梨(あじゃり)から伝授を受けたのも、イニシエーションでした。

宗教の中でも神秘主義や密教では、このような秘儀の伝授が尊ばれ、重んぜられてきています。太古の昔からの叡智の伝統です。ミステリースクール、エソテリックスクールにおいてなされます。ギザの大ピラミッドの王の間にある石棺は、死と復活の秘儀を伝授される装置でした。その王の間において、長い時代にわたり、死と再生の命のドラマが演じられてきています。今でも霊的存在が、そこにはいます。

大ピラミッドは「秘伝の宮」と「記録の宮」を兼ね備えているのです。スフィンクスとその地下は、「記録の宮」です。ホワイトブラザーフッドの「秘伝の宮」と「記録の宮」です。現代におけるホワイトブラザーフッドの「秘伝の宮」と「記録の宮」が、ARIとして復興しました。具体的には、東京ワークショップ、エッセンスコース、ULCコース、フォローアップSなどが代表的です。

日本の国の中にも、古来、聖地やパワースポットなど、秘儀を授かれる場があります。伊勢神宮、出雲大社、比叡山、高野山、東大寺、本願寺、永平寺などです。また、京都御所や奈良の平城宮跡、そして現代の皇居などにも、そのような場があります。日本の国の中における最大の秘儀は、天皇即位の儀礼「大嘗祭(だいじょうさい)」です。歴史上最高の秘儀は、キリストの十字架刑、いわゆるゴルゴタの秘儀です。そしてそれに続く復活です。それからペンテコステです。

また、一般的な秘儀の場だけでなく、個人的個別的な秘儀も見落とせません。その人にとってご縁があり大切で、効果を伴う具体的な場です。ご先祖さんの土地のたどり直し、自分の前世の土地のたどり直し、自分の今世の土地のたどり直しなどです。また、場所だけではありません。行うことや仕事なども前世のたどり直しであり、現実の問題への対処も大事です。その中でカルマを解消し、癒されつつ、今世の備えがなり、今世では前世を超えて、先まで進んでいけるようになる。そのことが重要です。仕事と使命の成就。前世もそのために必要に応じて明かされます。

リーディング自体、秘儀の伝授のイニシエーション効果があります。リーダーの肉体は天に捧げられる供物、ベッドは供物台です。キリストの肉体が小羊として生贄(いけにえ)にされたように、リーディングにおいても象徴的に、リーダー(Reader)は身を横たえて、肉体を供物として天に捧げます。そうすると天において受け取られ、代わって天から、メッセージとパワーが受ける方に授けられるという儀礼です。リーディングはホワイトブラザーフッドの「死と復活の秘儀」の系統の現代版です。そのため、大ピラミッドの王の間の石棺とリーディングのベッドは、深く関連しています。キリストの死からの甦りは、その最高の形での実現でした。

その証拠に、キリストの復活の頃にリーディングは開始される場合が多いのです。ケイシー・リーディングは3月31日、ヨハネ・リーディングは3月30日開始でした。ARIのイスラエル・ギザツアーにおいて、大ピラミッドの王の間の石棺に身を横たえさせていただいたのは、77名で、ちょうどリーディング開始7周年の日になりました。これによって、ヨハネ・リーディングと大ピラミッドの王の間の石棺とが、深くつながっていることが明らかです。リーディングはホワイトブラザーフッドの死と再生の儀礼の現代版なのです。

また見落とせないのは、人生に起きるさまざまな出来事がイニシエーションになっていることです。まず、生まれてくる時がイニシエーションです。それから、死んで行く時がイニシエーションです。輪廻転生自体が死と再生の命のドラマだからです。生まれてくる時というのは、あの世からこの世への通過儀礼、入会式です。死ぬ時というのは、この世からあの世への通過儀礼、入会式です。それゆえ、生まれてくる時と死ぬ時が、誰においてもメジャー・イニシエーションになっています。

また、重要な学びの会に入会する時も、大きなイニシエーションです。例えばARIに入会された時や、リーディングを初めて受けた時は、大きなイニシエーションでした。学校の入学式や卒業式もイニシエーションです。会社の入社式や会社を退職したり、別の会社に転職する時もイニシエーションです。結婚式や出産などもイニシエーションです。子どもや孫を授かることは、イニシエーションです。自分や家族が病気になることもイニシエーションです。試練に見舞われることもイニシエーションです。

イニシエーションとカルマは連動して働く場合が多いです。神さまが本人の作ったカルマを上手に使って、カルマを遂げさせ、イニシエーションとさせる。このように神は、カルマを通して試み、鍛え、育て導き、練り上げていく、愛のお方です。キリストのたどった生涯に、典型的な神からのイニシエーションと、神のお手入れのなさり方が如実に現れています。イニシエーションの観点から生涯を見ると、奥深い真相が見えてきて、参考や指針になります。

イニシエーションには至福感や喜びとともに恐れや苦痛、悲しみなども伴います。与えられるものもあり、失っていくものもあります。失うことの代償として、それ以上の得がたい賜物を授かったりします。

宗教の儀式や祭りは、演劇方式でよく構成され、考えて作られています。それが人生上では実際に神直々に行われて、イニシエーションを通過させられていくのです。宗教の祭りや儀式にも意味や効果はありますが、人生のただ中でやむなく体験し、通過させられることのほうが真のイニシエーションであり、必要で効果も高いのです。

そういうことがよくわかった上で、秘伝を授けたり、儀礼を執り行わせていただくならば、それはご神意に沿い、有効により良い形で作用を起こします。しかしもしこういうことがわからぬまま、形ばかりの儀式にしたならば、あまり意味と効果はなく、場合によっては逆効果のようなことも招きかねません。そういったものの典型が黒魔術です。

神秘主義の歴史を見ると、そのように道から外れたものや、あまりよくわからない人たちが執り行ってきていることも、多く見受けられます。命を突き詰めていった所に神秘主義があります。そのため、危険性も孕んでいたり、怖かったり、つらかったりということもあります。本当に必要で正しく作用するなら、苦しみやつらさがあってもよいのですが、そうではないものは危険であり、ないほうがよいものです。正しく見極め、関わっていきましょう。

現代は秘儀が失われ、作用しにくくなっている時代状況です。そういう中で神秘主義や秘儀に憧れる一部の人たちもいます。しかしその多くも、本当のことがわからぬまま、模索し、道を踏み誤る場合も見受けられます。そういう時代状況だからこそ、秘儀が出てくることが必要です。しかも正しい秘儀、イニシエーションが。それがARIの役目の一つです。

イニシエーションを理解し、それを正しく作用させることで、人は明るく元気になれます。本当の自分を取り戻し、見違えるようになる。それがイニシエーションの目的と効果です。「特殊であるから秘儀である」ということではありません。当たり前で軽んぜられがちなことの中にこそ、本当の秘儀とイニシエーションがあることに、気づかないといけません。身の回りの当たり前だと思っていることに再注目しましょう。

この世もあの世も、根本の所で神の世界です。神が全てを取り計らって現実が成り立ち、動いています。それがわかれば、ありきたりのことに注目し、受け入れて大切にし、適切に関わるようになることでしょう。生きるということそのものが、イニシエーションの通過儀礼なのです。神さまがその時点のその人に必要で最も効果的なことを設定してこられます。夜見る夢もイニシエーションです。

生まれてきたということは、最高の秘儀の学校に入門したことを意味しているのです。そして死ぬ時というのは、この最高の地上の秘儀の場である人生を一度卒業するということです。あるいは学年をひと学年ずつ進級していくことにも、輪廻転生は見立てることができそうです。「進学」と言ってもいいし、「進級」と言ってもよいということ。毎回生まれ変わるごとに、例えば中学1年生から2年生へ、そして次の人生は3年生へと進級していく。春休みは、死んで霊界にいる期間に相当します。

輪廻転生そのものが神直々の、本当でまっとうなイニシエーションになっているのです。命を蘇生させ、浄め、育成していくプロセス、それがイニシエーションという手続きです。このプロセスを各自、自分にふさわしくたどりましょう。それを克明に象徴的に描いたのが、『ヨハネの黙示録』です。現代には現代にふさわしい効果的な儀礼があってしかるべきです。ARIはこのことを世に知らせ、現代に合う形で明るく健全に行っていきつつあります。

キリスト系、仏教系、神道系、いろいろな儀礼とイニシエーションがあります。古代文明には神話もありました。ギリシャ神話、インドの神々の神話、エジプトの神話、日本神話などです。古代の神々の時代から、人間たちの普通の時代、そして今の唯物的で情報過多の時代へとつながってきています。

ここで古来の叡智の伝統がより良い形で蘇ることが、願われています。秘儀の模索や失敗も、人類の歴史には数多く見られます。それらを反面教師として、これからの時代、明るく健全で、本当のイニシエーションがなされていくことが望まれています。現代に応じた命の神秘教育が。

ここでカルマやチャクラとともに、イニシエーションについても理解を深め、学んで、より良い形で行っていきましょう。それによって、これまでわからなかったことがわかり、心が安定し、問題が解決したり、良い願いが自分にふさわしい形で叶えられたりしていくことでしょう。

(ありがとうございました)
〈了〉

リーディング No.15874

質問命の回復についてご教示ください。命の全体性の回復とは、どういうことでしょうか。

ソースARIでのONEの学びは、命の学びです。命に関わる学びをする所がARIです。「命とはどういうものか」を学んで理解し、人生に応用することで、より良い状態となり、それによってより良い人生を送ることができます。自分の命の状態が良くなることで周りのためになり、ひいては自分自身のためにもなります。そのためにONEを学びます。

ONEは根本的な教えです。世間にある無数の教えの中でも根幹を成しています。そこからいろいろな派生的具体的な教えが出てきます。ONEはなぜ根幹を成す教えかというと、霊的存在方の中にあっても、宇宙創造神から出ているからです。根源神による根本の教え、それがONEです。それゆえ、キリストの教えもONEになっています。

ONEとは、ある部分を指しているというよりも、「全体」を指しています。全体が一つを成しているので、全体を「ONE」というのです。全体的な教えであるのは、ONEが宇宙創造神から出ているからです。部分的局部的な教えではありません。そのため、ONEという命の学びに取り組むと、命の全体性が回復してくるようになるのです。命に関することを学び、それによって命の状態が良くなる。

「生命状態が良くなる」という場合、「命の回復」ということが起きています。ONEの学びに取り組むことで、内容を単に頭で理解するだけでなく、命そのものが回復してきます。それが、「生命状態が良くなる」ということです。命が癒され、蘇生し、回復してくる。命が成長し、育成し、本来のより良いありようが取り戻されてくる、本当の自分になれる。本来の自分のありようが回復し、実現してくる。それがONEの完成状態です。なるべき自分になるのです。

そのようなONEの生命状態は、本来の個性が遺憾なく発揮され、自然体の無理のないありようです。主はそのあり方を、「幼子」とひと言で表現されました。人より優って天国に行くのではありません。幼子のようになることで、天国に行けるのです。なぜなら、天国に住む存在たちは、幼子のありようである点で、共通しているからです。偉ぶった存在たちが、また他を見下す存在たちが、天国にいるのではありません。天使にせよ、み使いにせよ、指導霊や高級霊たちにせよ、あどけない無邪気で素直でありのままの、自然体です。それが幼子のありようであり、ONEの状態です。

こうなると、生きていて楽で落ち着きます。「自分らしくあること」が完成です。それぞれが個性を遺憾なく発揮しつつ、周りとうまく溶け合い、調和し、共存し、それによって全体が一つの豊かな世界となります。皆が同じような状態になることで、一つの世界が訪れるのではないのです。むしろそれぞれが本当の自分を取り戻し、回復することで、互いにかけがえのないことを知って、認め合い、助け合い、補い合うことで、一つの豊かで調和のとれた世界が訪れるのです。それがONEの世界、すなわち神の世界の実現です。

それぞれがうまく棲み分け、自分の持ち味を出して、自分だからこそできることを行い、それによって全体の一部を成し、他とうまく調和しながら、助け合い補い合って、一つの大きな全体が理想的なありようで実現してきます。自分自身の中でも、そのようなありようが実現してきます。自分のそれぞれの部分がぶつかり合うことなく、自分の中にある、いろいろな部分が互いに認め合い、補い合い、助け合って、全体として一つの生命体を成す。自分の中でのONEの実現です。

「自分の中のこういう部分は好きだけれども、別の、ああいう部分は好きではないから受け入れられない」。それは、ONEの状態ではありません。自分の中のそれぞれの部分がけなし合ったり、けんかし合ったり、否定し合ったりすることなく、互いに理解し、思いやり、協力し合うことで、全体として一つの生命体が実現してくる。それが、「命の全体性の回復」です。

他に対する信頼と尊重の心があります。それによって、それぞれが自分らしくあることができ、安心し、落ち着ける。その時互いに協力し、助け合って、一つの生命体を構成することができます。全体は一体を成していること、それがONEです。自分の中のどんな部分も認め、受け入れ、大切にしてあげることが、ONEの実現に必要です。

個性の面でも、能力の面でも、体質の面でも、体のそれぞれの箇所に対しても、このようなONEの認識と捉え方、関わり方が求められます。無条件の愛に基づく「許し」です。また「優しさの実行」です。他に対してそのようにするし、自分自身の中に対してもそのようにしてあげましょう。

自分の過去に対しても、どんな過去の体験や自分の行動に対しても、理解し、受け入れ、大切にし、感謝していくのです。そうすると自分の過去のそれぞれの部分が癒され、納得し、救われ、回復へと向かいます。そうすると自分の妨げの要因であったものがプラスに転じて、今度は助けてくれる側に回ります。

そのように、自分の過去のそれぞれの体験や自分の行動に、優しく肯定的に、無条件の愛をもって関わってあげることが、ONEです。それによって癒され、回復へと向かいます。全てがプラスに転じ、助けてくれる側に回ります。ただ、否定的なものが解消して無くなるというだけではないのです。例えば、マイナス30がゼロになるばかりでなく、プラス30になるのです。そこがONEの素晴らしいところです。愛と信頼と尊重に基づいて取り組むと、そのようになるのです。根源の神さまの愛が、そのような性質と方向だからです。

人間は、頭と心と肉体からできています。そして、それらのそれぞれの元に魂があります。その魂は自分の中での生命存在の本質です。その魂に回復力があります。愛と知恵と良心と創造力、それが魂の特徴です。素直さと幼子の心、それが魂の特徴です。それゆえ魂に目覚めれば、幼子のようになり、自然体になって、ONEが実現へと向かいます。

頭の元に魂があります。心の元にも魂があります。肉体の元にも魂があります。それゆえ魂が目覚めてくると、頭も心も肉体も活性化され、明るく健康的になり、本来のありようが実現してきます。これが、「命の全体性の回復」です。

ONEの命の学びにおいては、「頭」だけを扱うのではないし、「心」だけを扱うのでもありません。「肉体」だけを扱う学びだけでもありません。「全体性の回復」ですから、頭も心も肉体も扱い、頭も心も肉体も回復してくるのです。「魂」だけを扱う学びでもありません。魂に基軸を据えながらも、魂が目覚め、チャクラが働き出すことで、頭も心も肉体も活性化し、頭も心も肉体も回復していくことが、ONEの学びの眼目です。それゆえONEの学びに取り組むと、魂の目覚めに応じて、頭も心も肉体も活性化し、明るく健康で、本来のありようを取り戻し始め、人生が豊かで素晴らしいものになってきます。

「自分」が生きていくのですから、自分の生命状態が良くなることが先決です。そうなれば、周りに良い影響を及ぼすことができ、周りのためになり、状況や環境も良くなります。そうするとそれが自分にも返ってきて、自分のためにもなります。自分の状態が整ってないままで周りのためになろうとしても難しいし、また無理があります。「その時点の自分の内面性に応じた、周りの状況や出来事となる」「外界は内界の表れである」。それが法則だからです。

誰でもその時点の、自分の許容範囲を持っています。その中のことしかわからないし、その中のことしか受け入れられないし、その中のことしか対処できません。その中のことしか体験しません。人は誰でも、自分の世界があり、その中で生きているのです。

例えば、霊的な教えを学ぶ場合でも、その時点のその人のレベルと内容と方向性、それに応じた教えとか団体とか先生とか仲間たちの所に引き寄せられるように、現実はいつでも動くのです。良くも悪くも、その時点の本人の内容とレベルと方向性の人や所に縁づき、それが合います。また、ためになります。

皆が皆、高くて本当のところで清らかなものに惹かれたり、高いものが理解できたり、それを求めたりするのではありません。「方便」というのがあります。その時点のその人に見合う所に縁づき、それが本人もしっくりきて理解でき、役に立ちます。このような法則が働いているため、いつの時代でも、いろいろな教えや先生やグループや団体があるのです。「類は友を呼ぶ」という法則です。

良くも悪くも、その時点のその人に似つかわしい内容とレベルの、教えや先生や仲間や団体に縁づいています。それがその人に似合っているし、役に立ち、理解できるからです。自分より高いレベルの所にも、低いレベルの所にも縁づかず、合いません。あの世は完璧にそのような特徴があります。レベルと内容と方向性に応じて、いろいろな霊界があるのです。

それを主は、「マンション」と表現しました。「あの世にはさまざまな住まいがある。私は先に行って、あなた方のために住まいを用意しておいてあげよう。あなた方があの世にきて困ることがないように」。そのような住まいが、「マンション」ということです。

あの世は完璧にそのように棲み分けられていますが、この世も実はそのようになっています。自分に似ている人ほど、また合う人ほど、自分の近くにいます。それは「物理的に近くにいる」ということもありますが、「内面的心理的に近くにいる」ということが、特にあります。その上で実際的物理的にも、自分に似ている人は、近くにいる場合が多いのです。あるいは、そのような人たちと頻繁に交流するとかになります。

人間は誰でもそのように動いています。また周りもその法則で動いています。誰でも自分の周りの動きは、自分に近い存在ほど、つまり似ている存在ほど、心理的にも実際的にも自分の身近にいて、それだけ頻繁に関わっています。家族はその典型です。また、友だちとか仲間とか、教えとか、教えを学ぶグループとか先生とか、誰でも皆それぞれしっくりくるようなもので取り巻かれています。

では、なぜそのように似ていて縁づき、関わるようになるのか。それは多くの場合、前世でも関わりがあったことに基づきます。そのため、生まれ変わっても同じ実体たちと引き寄せ合い、関わり合うようになるのです。カルマも役目も関心もレベルも、共通していることによります。その上で人間には自由意思も与えられているので、これからいろいろに関係性を作り替えていきつつもあります。人は、過去や前世から規定されているばかりではないからです。過去からの規定の上、自由意思をどのように使うかによって、また少しずつ変わっていくのです。見直しと自己調整も役立ちます。

このように、「類は友を呼ぶ」法則が働いているため、良くも悪くもその時点の自分にふさわしい状況とか出来事とか、仲間とかグループとかになります。前世でも今世でもそのように自分の周りは動いていて、偶然ではないのです。人は、状況や体験していくことや行動していくことに、理由と責任と役目があるということです。それゆえどういう場合でも、現状を認めて受け止め、大切にし、思いやりをもって適切に応じていくことです。

自分の生命状態が良くなれば、自分が楽になり、安定するばかりでなく、それに伴って周りの状況や動きも良くなってきます。「外界は内界の表れ」だからです。自分も生きやすくなるばかりでなく、自分の状態が良くなることで、周りの助けにもなってあげられます。周りのためになりたいなら、まず自分の状態を良くすることです。

自分の状態が良くなるということは、否定的な認識や捉え方が、肯定的な認識や捉え方に代わることに特徴があります。生命状態が癒され、回復してくると、肉体でも心でも頭でも、否定的な動きが減り、肯定的な動きが増えてきます。それだけ癒され、満たされ、理解が生じてくるからです。そうすると明るく健康的で、健全になります。楽観的肯定的になります。そうすると生命が喜び、活かされるようになり、周りのためにも自分のためにもなります。「健康」というのは、その結果です。肉体の健康、心の健康、頭の健康、それぞれが実現します。

一般の人たちも「頭」で学んでいますが、ONEの学びは質を異にします。実際的社会的俗世的な学びにも意味と有用性はありますが、煩悩を解消することは困難です。ONEという教えを学ぶことは、一般の学びとは質を異にして、俗世的なものというより、神聖な天に属するほうの学びです。そのため浄化させ、癒し、頭も回復させます。救済力のある学びになるのです。ONEを学ぶと頭も浄化され、頭も癒され、頭も救済され、命の根源に関する理解と認識が生じて頭も楽になり、心も肉体も癒される方向へ向かいます。そういうONEの教えを「頭」でも学ぶのです。だから、教えを学んだりリーディングを受けると、癒され、楽になり、安定してきます。頭の学びで本当のところが理解できるようになるからです。そこが一般の、世間的なことを学んだり勉強したりすることとの違いです。

当然、頭の能力も質を異にします。今、世間では能力主義ですが、一般の能力にも意味と有用性はあるものの、癒しと救済力はありません。本当の天に属する知恵こそ平安をもたらし、また平和をもたらし、救済力や癒しの力があるのです。だから教えを学ぶことは、一般の世間的な学びとは効力が異なります。同じ活字で表されていても、ONEの学びは真の理解を与え、癒しと平和をもたらすのです。

自分の中では魂が最も価値がありますが、しかし、それは単独では成り立ちにくく、また働きにくいものです。それを主は、枝葉に喩えました。そして、「神が木の幹である」と言われました。「枝は幹につながらなければ生きていけないし、育っていけない」と。命の木があり、命の木は宇宙の命の木です。その宇宙の命の木の幹が根源神です。人間一人ひとりの魂は枝に相当します。魂がどんなに優れていて立派でも、枝ですから、幹につながらなければ存続できず、生かされず、成長しにくいです。

それゆえ魂は、神さまにつながらせていただくことが不可欠です。それでこそ魂が活性化し、生き続けられ、癒され、魂を通して頭も心も肉体も蘇生へと向かいます。自力だけでは不十分なのです。本当に自力が発揮されるためには、他力が必要です。そこでお祈りさせていただいたり、礼拝させていただいたり、瞑想させていただき、日頃も神さまに捧げきった人生を送ることです。生かされて生きるのです。その時本当に自分が活かされ、発揮されます。

例えば、自分で呼吸しようとしてもできません。神さまの後押しで、呼吸もできています。頭で考えることもそうです。心や肉体の働きも同様です。神さまあってできることです。また仮に自力で、また自分の意思で呼吸できたとしても、空気や酸素がなければ、呼吸しただけでは生きていけません。空気の中の「酸素」が「神さま」に相当します。魚が水中で泳ぐ時の水、人が地上を歩く時の大地、料理の際の食材。これらが他力、神に相当します。神あっての人の努力なのです。他力の中での自力です。

全ての基にある、全てを超えた根源神さまにつながらせていただきましょう。それがONEの命の学びです。それによって本当に蘇生へと向かいます。自分らしくなれて、本当の自分が取り戻されていく道です。自然体でありのままでいられるようになります。生きているうちにそのようになれれば、この世の目的を果たして他界した時、自ずと天国へ向かい、天国で光り輝くことでしょう。それが、「本当の意味で自分を大切にする生き方」です。それは必ずや周りのためにもなることでしょう。

これからも、ONEの命の学びに励んでいってください。それが命の将来への保障となります。自分の未来への贈り物となります。また、自分の子孫への保障ともなることでしょう。世界への贈り物ともなることでしょう。こうして、世界平和が実現します。

(ありがとうございました)
〈了〉

リーディング No.15848

質問意識の変容についてご教示ください。

ソース:意識の変容には、一時的なものと永続的なものとの2種類があります。また、その内容からして、肯定的なものと否定的で問題なものとがあります。便宜上わかりやすく「一時的な場合と永続的な場合」、また、その内容や状態や周りへの影響などからして、「肯定的で望ましいものと否定的で苦しく問題である場合」とに、それぞれ2大別することができます。

精神医療では、「正常と異常」などと分けられる場合もあります。能力的に高い低いというように分けられる場合もあるかもしれません。通常の意識状態以外を変性意識状態と見ることができます。通常の意識状態ではない、それが変性意識状態ですが、それは望ましいものと課題がある場合との、両方を含んでいます。

ただ、わかりやすく便宜上そのように2大別するだけであり、実際のところ、はっきり二分できるものではありません。また、双方が混じり合っている場合も、しばしば見受けられます。望ましいものが好ましくない状態に転化し、またつらくて好ましくないものが尊い至福の意識状態に移行したり、といったようにです。単に「精神的に異常である」とか「心の病であるから治すべきである」とか、決めつけることは危険で、それこそ問題があります。

「天才と狂気」などと言われるように、非常に能力の高い人や、特殊な能力者においては、人格ということも大事ですが、ある意味で危うい中に屹立(きつりつ)したすごい能力が秘められていたり、発現できたりすることも多いのです。それは超常能力の持ち主の場合にも言えます。能力的に並のレベルではないことは、その人の人格全般からしても際どい中にその能力や技が支えられていたりします。それ相応の前世や今世の役目を持って、生まれてくる場合もあります。ただ単に異常で問題があるから、治療の対象になると見なすほど、事は単純ではありません。

「正常か異常か」「好ましいか問題か」「本当のものか病気なのか」「優れているのか劣っているのか」「天使か悪魔か」。それは出てくる内容が有用なものかどうか、また、真実か妄想かで、分けられると一般に見られます。また社会的に適応できるかどうか、本人が幸せになれるかどうかなどで分けられます。確かにそれらは目安となり重要ですが、しかしそれも事は単純ではありません。古来、東洋の神秘家も西洋の神秘家も、並の人間ではありませんでした。単に常識とか、平均とか、普通とか、問題がないとか、そのようなことだけで見てはならないものがあります。

一般的ではないあり方の全てを精神的な病と見なすことには、大いに問題があります。近代になって、精神医学が始まり、その中で例えば、『聖書』の中の「エゼキエル書」「ダニエル書」「ナホム書」「ゼカリヤ書」「ヨハネの黙示録」などは、精神病の妄想の所産と見なされました。それは近代以降の科学の弊害です。科学の全てに問題があるということではないのですが、現代の科学が万能だというものではないのです。

変性意識状態はチャクラと関連し、瞑想の中で訪れやすいです。また、一般の人でも夜の夢や昼間のうたた寝などの白昼夢において見受けられます。また、祈っている時に体験したりもします。催眠やスポーツ、試験中などにおいても。そのほか、大自然の美しく雄大な光景に触れた時に、いつにない特殊な意識状態に誘われます。本に熱中したり、映画や演劇に引き込まれている時にも起きます。また日常の場面でも、感動したり感激するような場面に遭遇すると、言い知れぬ思いが湧いてきて、普段味わわないような感覚や意識状態になります。

人生において、追いつめられたり、ショッキングなことがあったり、病気になったり、生死をさまようような状態、また大変な疲労感、パニックなどの場合も、通常の意識状態の枠を越え、自分自身でも周りから見ても、驚くような生命状態になることがあります。それが肯定的で望ましい意識状態にせよ、否定的で問題と見られる状態にせよ、本人も周りもびっくりし戸惑うような意識状態に入ることがあります。その時人間の意識は、狭いものではなく、条件が与えられれば、普段とは異なる意識状態が訪れることを知ります。

修行者などはしばしば自分を追い込むことで、そのような意識状態を作り出します。滝に打たれたり、断食したり、寒行をしたり、山ごもりをしたりすると、そのような意識状態がやって来ます。また、一心に念仏をお唱えしたり、マントラをお唱えしたりしていて、そのような特殊な意識状態に入ることがあります。また、芸術家やアスリートなども打ち込んでいる時に、自分でも驚くような特殊な意識状態に入ることがあります。宇宙飛行士も体験します。

一心に何かに集中していると、錐で穴を開けるような感じで、限界を突き破り、意識が広がって宇宙意識を体験したりします。クンダリニーとチャクラは、特殊な意識状態をもたらす、体内の装置です。前世において修行をしたり、一つのことに打ち込んで自分の限界を超えたりした人が転生してくると、チャクラのあり方が一般の人たちと最初から異なっているため、チャクラやクンダリニーに興味を持ち、ちょっとしたことがきっかけで再び覚醒し、変性意識状態に入りやすくなることが多いです。

前世でのカルマや福徳や努力や修行、あるいは社会貢献などの成果は、チャクラに刻印されています。そうするとその人は生まれてきても雰囲気とか価値観とか興味とか生き方が、一般の人たちとは異なります。時には人格者であり、時には異常です。また大変な能力者であったり、一つのことを集中して行い続けたりできます。

変性意識状態に入ると、いつもの自分ならわからないことがわかったり、感じられないことが感じられたりします。トランス状態、リーディング意識はその典型です。天才や非常に頭の良い人は、クンダリニーが覚醒している場合が多いです。中には、心の病気や問題がある人と見なされる場合もあります。障害者とも見なされます。

前世で悪行を作ったり、問題のある人だったりした人が生まれ変わってきたから、今苦しんだり精神的に異常を来していたり、問題を引き起こしたりしていると、単純に見なしてはなりません。前世で社会的な地位が与えられ、また活躍をした者が、カルマを返済するために、周りから問題と見られるような人に、一時的になっていることも実は多いのです。人間は表面や常識だけで見てはわからないことが多い、奥深く複雑な存在なのです。

神秘主義があります。古今東西、いつでもどこでも神秘主義があります。それは変性意識状態を研究し、追究してきています。神秘主義は宗教と深く関連していますが、宗教と全く同じものというのではありません。宗教と深く関連しつつも、宗教より普遍的で、芸術やスポーツ、文化全般に神秘体験は見受けられます。

宗教との関連で見れば、宗教を追究し、宗教の本質に入ると、神秘主義が必ず宗教の核に存在しています。例えばイスラム教の神秘主義にはスーフィーがあります。ユダヤ教の神秘主義にはカバラがあります。仏教の神秘主義には密教があります。密教は仏教だけでなく、あらゆる宗教にある秘伝的な宗教の生命であり、本質です。

ONEというのは、その宗教の本質を意味しています。それが「本当の一神教」であるONEです。それに基づくと、インターフェイス(interfaith)によるONEが実現できます。新秩序による世界平和です。ヨハネはそれをもたらすと言われています。

秘伝を得た者たちは宗教の本質に分け入ることで、一つの宗教の枠を越え、普遍的な真理に根差すようになります。それによってそれぞれの宗教に尊いものがあることがわかり、それぞれの宗教を認め尊び、共存してやっていける大きな器の人になります。そのように本物化した人が、世界平和を実現させる担い手となっていきます。

それぞれの宗教やグループからそのような、「本当の人」が顕れ出てくることが、これから願われています。また、魂の学校で育成される必要性があります。「どの宗教宗派が良いか」ということを見るよりも、どの宗教を通しても本当のものを掴んだ人が、世界平和の担い手となれるのです。「ヨハネの黙示録」には、14万4千人の良き人として描写されています。さらに見ていくと、宗教の枠を越えて本当のものに到達した人が、また真理を体現した人が、世界平和をもたらしていけます。

例えば富士山に登るコースはいくつかあります。東京の高尾山にも、頂上に登るコースが何通りかあります。「どの道が良いか」ということよりも、ONEという共通の頂上に登りつめることが尊いのです。普遍的な根本真理は頂上にたとえられます。それによって、それぞれの宗教に意味と役割があることがわかり、人間的に大きな存在になって、世界平和をもたらしていけるようになるのです。狭い人はレベルがまだ低いことを表しています。そのような人は、自分の所しかわからず、ほかを認められず、受け入れられません。他とは仲良くやっていくことが、難しいのです。

神秘体験にもレベルと種類があります。その時の自分に合うコースをとって、自分のレベルを自覚しつつ、レベルを上げていくことでより広がりができ、普遍性を持つようになり、神秘体験が昇華し、活かされるようになります。その時自分の特色も、遺憾なく発揮されるし、他の人や他のグループの特色も理解し、活かせるような人になります。

意識の変容は、一般には瞑想を通してやってきます。あるものに意識を置き続けると、その置き続けた対象とつながりができ、その影響を受けて自分もそれと似た者となります。それゆえ、自分の意識を清め、また高めるような、望ましい対象を瞑想の題材に選ぶことです。清らかで尊く命ある、本当のものを心に思い描くこと。意識はエネルギーです。そうすると自分の意識も生命全体も、思っている対象の良い感化を受け、清められ、育成されていきます。

人は日々自分が思うところの存在になります。自分が尊敬している相手に近い者となっていくのです。自分の心をどこに向けて思い、生きていくのか。観音様をいつも思っていると、いつしか本人も観音様のようなありようになってきます。マリア様をいつも思い浮かべて目標にしていると、いつしかその人もマリア様のようなありようになってきます。どの人を尊敬し、目標にするかは重要です。自分が目標にし、尊敬する人物がいることが尊いのです。それが自分を引き上げ、育て導くからです。

意識の変容はいろいろな形でやって来ます。それらを一つひとつ受け止めてこなしながら、自分が調整され、特殊な意識状態を経て、次第に育成され、変性意識状態もより本物化していくことが望まれています。

変性意識に囚われすぎてはいけません。変性意識自体が目的ではないからです。ただし、変性意識状態を恐れたり、拒否してもなりません。生命と意識が進化していくプロセスで、付随する現象だからです。トランス状態、恍惚状態、無意識状態、憑依現象、自動書記、体のけいれんや震え、偏った意識と感覚など、さまざまな異変が起きてきます。声、ヴィジョン、脱我、歓喜、恐怖、悲痛、暗夜、無力感。

それはある程度、生命が浄化し進化していく上での付随現象です。カルマの洗い出し現象もあります。それらが象徴的に「エゼキエル書」や「ヨハネの黙示録」に表現されているのです。それを恐れたり否定したり嫌ってはいけません。囚われすぎてもいけません。求めすぎてもいけません。しかし、否定したり「問題だ」と見なして、抹殺しても進化はうまくいきません。上手に取り込み付き合っていってこそ、進化を遂げていけます。

それはちょうど人生を生きていく中で、いろいろな出来事と体験がある場合、特殊な出来事や体験を否定したり拒否したり問題視したりしてはいけないことと似ています。また、特殊な出来事や体験に囚われすぎてもいけないことに似ています。ある程度付随現象として伴い、カルマが解消したり、出来事から学んで成長したり、使命を遂行したりしていく上で、体験していく現実の動きなのです。それが内面的には変性意識状態として伴うのです。

「意識の変容」があることを知って、健全に偏りなく付き合い、上手に取り込みながら消化しつつ、それらを手段として上手に育て導かれていくようにしてください。根本のところで神さまにお委ねし、良き心がけで実際的に自分らしく生きていくこと。

変性意識状態には、可能性と課題の両方が含まれています。しかしその可能性と課題は、はっきり二分できません。それゆえ、早期に判断して対処するということには、慎重であるべきです。一見否定的で問題があるようなものが、必要で可能性を秘めていたりするからです。また一見好ましく肯定的なものが、幻想的で魔的な場合もあります。

それゆえ、いずれにも加担せず、囚われることなく、広く平らな心の状態をもって、その時その時付随する意識の変容を、温かく静観しながら関わっていくことが、真の神秘主義の道です。古来、上等な神秘主義は、そのようなことを説いてきています。それはこの現代においても求められるはずです。 それがONEへの命の道です。

意識の変容を理解し、上手に付き合い、取り込んでいってください。そうすると意識の変容はとても有用で、得がたい賜物を授けてくれることでしょう。真の神体験に通ずる道となるからです。

(ありがとうございました)
〈了〉

リーディング No.15819

質問2019年立春を迎えるに当たり、本年の日本と世界に関して、胎蔵界的、金剛界的両観点で予測し、展望してください。併(あわ)せて、留意点、対処法もお示しください

ソース2019年は、日本では節目を迎えます。4月30日に天皇陛下が退位され、5月1日に皇太子の浩宮様が新天皇として即位されます。それに先立ち4月1日には、新元号が世の中に公表されることになっています。4月30日の退位においては、そのための儀礼も行われることになっています。そして5月1日の新天皇の即位では、お言葉の表明などもあることでしょう。このようにして日本は、新時代を迎えることになります。これまで30年間ほど続いてきた平成の時代に幕が下ろされます。

「一世代30年」と言われるように、ちょうど平成の期間は一世代となりました。これからは天皇制においても、天皇陛下が崩御されるのを待たずに、皇太子へと天皇の位が譲位されることになりそうです。いわゆる定年制です。その意味で今回は、新しい制度に基づく歴史上久しぶりの時を迎えます。奇しくも一世代30年ほどの間、今上天皇は天皇を務め上げられました。これからは基本的に定年制が導入されることで、一世代の30年前後ずつ、天皇の位を務めていかれるような、バランスのとれた日本の天皇制に移行していくことでしょう。

これは理に適っていることです。自然の季節の循環にしても、春夏秋冬を3か月ほどずつ経て推移していくようにできているからです。人間も自然の命の一部です。バランスよく、ほぼ30年ずつ、それぞれの天皇陛下が務め上げられていけば、無理がなく、日本も安定するのではないでしょうか。もちろん「必ず30年きっかりずつ」ということではなく、お一人お一人は個性もご事情もあられる存在ですので、「ほぼ30年ずつ無理なくバランスをとって務め上げられていけばよい」という意味です。

これまでは天皇陛下は崩御されるまで務め上げられてきました。そのため過酷であった上に、日本も天皇陛下次第ということで不安定でした。例えば最近では明治時代は45年間ほど、大正時代は15年間ほど、昭和時代は65年間ほどといったように、長かったり短かったりと、バラバラでした。そして、いつまで続くかも定かではなく、何より「天皇陛下ご自身が生きている限り務めなければならない」という、大変な制度でした。

それが平成時代では、 2、3年ほど前に今上天皇自らが、体力の限界に近づいてきているということで、「そろそろ退位したい」旨を表明されました。それを受けて検討され、定年制に近い制度が導入されたのです。それによってちょうど一世代の30年ほどの間、平成時代が続いて、平成天皇も十分に務め上げた上で、健康なうちに皇太子様に譲位されることになったのです。

人間はそれぞれ天から役目を授かって、生かされている身の上です。役目を遂げれば天に還っていけます。基本的には誰でも亡くなるまで役目がありますが、仕事となるとまた少し別です。仕事自体は無理がない程度に行って、次の者たちに引き継がせるのが一般的で、無理がないあり方です。それで定年制が設けられているのです。

ただ最近は、長寿化の傾向にあるため、定年が少しずつ引き延ばされています。それは当然のことです。その上でさらに個別的には、それぞれの人が自分の体力や健康や気力、それから職種やポジションに合わせて、「いつまで仕事をするか」を決めればよいことです。中には、仕事そのものも「生涯現役」という形で続ける人もいます。そのような生き方もあってよいのです。

ただ、天皇陛下のような公の役職は、それでは過酷です。天皇のポジションこそ定年制があってしかるべきでしょう。これからはほぼ30年ずつ、それぞれの天皇が務め上げていくようになるのではないでしょうか。多少長い短いはあっても、バランスのとれた循環性の日本の天皇制が始まる時でもあるのです。

11月頃には「大嘗祭」が執り行われることになっています。 5月1日に即位されますが、霊的な手続きとしての宗教儀礼が必要です。それが「大嘗祭」です。それで、本当に実質上新天皇が誕生するのは、今年の11月の「大嘗祭」の時です。その意味で今年の11月は、日本にとって霊的な始まりの重要な時です。それが何かと、日本の内外に徴として表れ出てくることでしょう。

また、その11月の「大嘗祭」の前後に、それぞれの人やグループが、「大嘗祭」の一助となれるような、自分たちとしての役目を果たすことは、望まれることです。それによって周りからも、日本の霊的な生まれ変わりをサポートさせていただくことができ、それによってまた自分たちのほうも、恩恵を頂けるようになります。各自、自分の立場と役目と力量と願いを自覚して、11月頃にふさわしいことを行うのがよいのです。日本にとっては11月頃に行われる霊的な「大嘗祭」が、要となるはずです。その周りでも、その一助となれることがあれば、行わせていただきましょう。

10月1日には、消費増税が行われる予定です。これまでの8%から10%に増税されることになりそうです。このように胎蔵界の面でも、金剛界の面でも、日本は秋に節目を迎えることになりそうです。それが何かと、いろいろな形で表れ出てくることになることでしょう。なぜなら、「外界は内界の表れ」だからです。その時点のその人にふさわしい状況や出来事となる。「現実の動きや状況は、偶然ではなく、その時点の当事者の内面にあるものの表れである」、これが法則だからです。

一人の人の人生を見ても、誰の場合でも、その時点のその人に見合う状況や出来事や雰囲気や行動になっているものです。そのことに気づくだけでも、現状に納得でき、心が楽になり、どんな現実でも受け入れて大切にして、精一杯現状に安心して応じられるような自分になれます。そこにONEの教えを学ぶ意義があります。これは「悟り」と言ってもよいでしょう。物の道理を理解することで、心が楽になり、安定して定まります。どんな現状に対しても、現状を認めて受け止めて、落ち着いて応じていけます。どんな現状でも大切にして、現状の中で精一杯自分らしくやっていけるようになります。

今年は天皇陛下が交代されることに代表されるように、他のいろいろなことにおいても、日本は節目を迎える年になりそうです。今年は「変化の年」になりそうです。これまで続いていたことで、役目が終わり、必要がないことは終わります。また、好ましくないことも強制中断させられたり、強制終了をさせられます。問題のあることで、まだ終わっていないことは、見直しが図られるようになり、改革を求められるようになります。また、新規に始まることもあることでしょう。それぞれの分野で、新しいリーダーが登場することも見られそうです。

これまでのあり方で問題のあることは、見直しと改善と対処が迫られる、見直しと改善と改革の年になりそうです。そのことに気づいて、自ら率先して見直して、調整したり、改善しましょう。そうすれば、事が起きてしぶしぶ見直して変えざるを得ない、というようにならずに済みます。それはちょうど、体調不良に陥ったり病気になってから、しぶしぶ慌てて見直しを図って、改善などに取り組まざるを得ないよりも、その前に、日頃から自分で気をつけて、自己調整をしたり改善をして、生活していれば、わざわざ体調不良に陥ったり病気になって困ることで、しぶしぶ見直して改善させられずに済むようなものです。いわゆる予防医療の勧めです。

見落としていたり、薄々気づいていても、そのまま惰性に流されていたり、誤魔化しがあったりすると、積もり積もって困る事態を招き、カルマが清算されるような厳しい事態に見舞われます。その時重い腰を上げて、仕方なく見直して教訓を学んで改善し、謝罪し、現実に対処して責任をとるというようにさせられる場合が多いです。世の中の大半は、そのようなあり方になっています。

現状維持のまま、問題を孕(はら)んで続いている。そこで問題がある分量に達すると、もはや限界に達し、問題が発覚する、あるいは問題が生ずる。それによってしぶしぶ見直しを図って、謝罪し、改善を図ったり、現実に対処して責任と役目を果たすように状況が関係者を追い込む。見直して改善したり、対処して責任をとったりということが、後手後手に回り、問題が生じて初めて問題に気づいて、改善や対処に取り組むというやり方が、世の中のほとんどのケースです。それでもやらないよりはましですが、できるならそのように問題が生ずる前に気づいて、自ら腰を上げ、改善したり対処するのが、より上等な人間と上等な生き方です。

今年は、これまで何となく問題を孕んだまま続いてしまっていることが発覚し、強制中断させられ、しぶしぶ見直しを図って、改善したり現実に対処を迫られるということが、いろいろな面で出てくることでしょう。そのことに気づいて、問題が表面化する前に自ら見直して、問題に気づいたら率先して、調整を図ったり、改善したり、現実に対処しましょう。そしたら嫌な思い、つらい思いや悲しい思いをして、犠牲があった上でしぶしぶ責任をとるような目に遭わずに済むのです。

これは個人の健康や仕事や生き方や人間関係ばかりではありません。仕事に関することや、もっと広い範囲での自然に関すること、また社会面、全てにおいて言えることです。天変地異などの災害にしても、偶然ではないのです。社会面においても、自然現象においても、全てが因果の法則に基づいて動いているからです日頃から内省し、自分の内外ともに見直して、先手先手で調整し、善処していくようにしてください。そうすれば今年は、特につらい思いを、問題が生じることで味わうということにならずに済みます。そして前向きの自発的な改革で、良い変わり目の年にできます。

自然災害などに関して見るならば、今年も豪雨や異常気象はあることでしょう。豪雨による土砂崩れの災害が、懸念されます。今のうちから自分の家や職場の周りの土地の状況を調査し、リスクのある場所や土地には、しかるべき対処をしておいてください。背後を山に囲まれて地盤が不安定な土地などは、今のうちから土砂崩れなどが起きないように、対処しておいてください。

地震に関しては、ある程度は起きますが、中規模程度の災害の年回りの感じです。つまり、全く地震がない、安全な年回りではないし、かといって巨大地震に見舞われて大災害をもたらす大地震に見舞われる年ということでもない。中規模程度の地震の災害の年回りになりそうです。日本においても、世界的に見ても。どちらかというと今年は、地震よりも豪雨などによる土砂災害が懸念されます。

また、それぞれの人に身内や身内がらみの不動産に関する、悩みや課題が起きそうな感じがします。日頃から見直して、より良い状況を作り上げるように留意していてください。

今年はこれまで続いていたことで、問題を孕んでいたり、役目が済んだりしたことは、急に変化したり、問題が生じたり、強制終了したりして、大きく事が変わることが起こり得ます。何かと変化や中断が見られそうな感じです。その意味では慌ただしい、びっくりしたり当惑したりすることが起きそうな気配です。安定して穏やかという年ではなさそうなのです。ただ、それを先ほどのように、自ら見直して、事が起きる前に調整したり改革して自発的に生きれば、苦しい思いや悲しい思いや嫌な思いをせず、滑らかに新しい体制や新しい自分に移行していけるという年にできます。

終わるものは終わってよいことに気づいてください。本当に必要で良いことで、まだ続く必要のあることは終わりませんので、余計に心配しないことです。新しいことで必要なことは、今年始まることでしょう。今年は土地などの不動産がらみのことも、いろいろと起きそうな感じです。政治の分野でも、これまで長く続いてきた体制が終わるか、あるいは大きく変化しそうです。

経済的には、やや苦しい状況に入っていきそうです。特に10月1日の消費増税がらみで、いろいろとごたごたや苦難が経済面でありそうです。国際関係について見てみると、他の国々との貿易摩擦や軋轢(あつれき)もありそうです。 TPPにしても、すんなりはいかないことでしょう。

しかし、どういうことが起きた場合でも、この世は根本は神さまが司っておられる神の世界ですので、余計に心配せず、神さまを信じて、神さまに委ね、愛と真実からも本当の自分からもぶれることなく周りを思いやって生きていれば、間違いはありません。原因と理由のあること、そして必要のあることが、良くなるために起きるのですから。そのような肯定的な認識と信仰こそが大切です。

いつでも心構えを作って、態勢を整えて人生に臨みましょう。心を養い、態勢を整え、周りをも思いやって臨めば、変化は味方してくれることでしょう。もちろん変化しない部分もあります。それは感謝して大切にして、これからも引き続き応じていけば良いのです。

本年もお一人お一人にとってより良き一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。神のご加護と恵みが、限りなくありますように。

(ありがとうございました)
〈了〉