メッセージリーディング

このコーナーでは、時事の問題や未来予測に関する、ARIのオリジナルリーディングを掲載しております。(リーディング実施者:浅野信
 
メッセージリーディングとは、個人の問題ではなく、社会的事象や歴史上の不明点、また未来に関すること、その他、政治、経済、科学、技術、宗教、哲学、医学、医療、教育、芸術、等々の分野での調査目的で行うリーディングです。
 
タイトルをタップまたはクリックすると、内容をお読みいただけます。
 
どうぞONEの学びの一つとしてご活用ください。
 
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リーディング No.17860

 
質問: 新生について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:「ヨハネによる福音書」の中には、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。このように、イエス様のお言葉が記されています。「新生」です。
 肉体的な誕生が「第一の誕生」。水と霊による霊的な誕生が「第二の誕生」であり、それが「新生」です。
 現代においては肉体しか考慮されていないため、赤ん坊としての肉体の誕生である「第一の誕生」しか、気づかれていません。
 
 しかし人間には霊体もあるので、霊的な誕生である「第二の誕生」、すなわち「新生」が求められています。それが大事であり、ありがたいのです。新生は死と再生のイニシエーションです。
 「ヨハネの黙示録」のテーマは、まさしく「新生」にあります。浄化と育成の必要なプロセスを一通り経て、新生を遂げることが「黙示録」には記され、そのことが実現することが明らかにされています。
 「創世記」において、神さまによって最初の人であるアダムとエバが創造されました。そしてエデンの楽園に置かれ、しばらくそこで恵まれて生活していました。
 ところが、エバがヘビの誘惑に遭って、「食べてはならない」と神さまから言われていた、「善悪を知る知識の木の実」を食べてしまいました。そして夫のアダムにも勧め、アダムも食べてしまいました。
 
 これにより、善悪を知る知識の対立二元論の、理性と分別が働くようになってしまいました。ONEの幼子のような認識と感覚が失われ、自我と恐れが生じました。いろいろな物事を判断し、分離し、区別する意識です。人間的には賢くなりましたが、堕落しました。
 これにより、エデンの楽園からアダムとエバは追放されました。転生受肉の始まりです。「エデンの楽園」とは、「天界」のことです。「エデンの楽園から追放された」とは、「地球の物の領域に、転生受肉が始まった」ということです。「地上的な知恵に目覚めること」が、「善悪を知る知識の実を食べたこと」です。
 アダムとエバは、その後30回ほど転生受肉して自らを備え、清めました。こうして備えがなって、最後にイエス・キリストと聖母マリアとして現れました。そして十字架刑を経て、原罪を贖(あがな)い、復活しました。見事に新生を遂げたのです。死を通り抜けることでカルマが清算され、新生を遂げました。
 パウロが書いているように、最初の人アダムが原罪を犯して霊的に死んだことによって、全ての人類に罪が及んだ。それに対し、最後のアダムであるイエス・キリストが十字架刑によって原罪を贖い、復活を遂げたことによって、全ての人の罪が贖われ、新生を遂げる道が開かれたのです。
 
 イエス・キリストとの関わりによって、イエス様の新生を遂げた復活の力に与(あずか)ることができ、他の人々もイエス様のように新生を遂げることができます。そのことが『聖書』の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」のテーマとなっています。
 「ヨハネの黙示録」によって、他の人々も希望し、「黙示録」をテキストにして取り組めば、イエス様やマリア様のように原罪を贖い、新生を遂げられます。
 そのためにヨハネが選ばれ、一通り必要な体験をさせられ、そのことを書き留めた。それが「黙示録」です。「ヨハネの黙示録」に、一人ひとりが新生を遂げる方法と道行が記されているのです。新生を遂げるためのテキストが、「ヨハネの黙示録」です。
 そのため、「ヨハネの黙示録」にはエデンの園にあった「生命の木」が再び登場しています。『聖書』の最後の「黙示録」に至って初めて、「生命の木」が再登場するのです。失われたエデンが回復し、一人ひとりが天界へと復帰することが叶えられます。
 まず、ヨハネが選ばれ、その道を辿らせられ、成就しました。それで他の人々も、ヨハネの歩みを参考と指針にすることで、「第二の誕生」を果たし、「新生」を遂げることができます。それが「ヨハネの黙示録」です。
 「ヨハネの黙示録」の中に、長い間失われていた「生命の木」が再び登場していることが驚きであり、ありがたいことなのです。その秘伝の書が、「ヨハネの黙示録」です。
 そのことを実現させるため、ヨハネは時期が来て転生してきました。それが具体的には、ヨハネ・ペヌエルです。それがことのほか重要であったため、ケイシーは時期が来た時、そのことをリーディングの中で予告したのです。
 
 ケイシーは黙示録のリーディングを取ったり、ヨハネの到来を予告したりして、ヨハネが出てくる備えをしたのです。
 『聖書』の最初の書は、「創世記」です。最後の書は「ヨハネの黙示録」です。『聖書』のアルファでありオメガである。最初の書である「創世記」と、最後の書である「黙示録」。この両者は対応しています。
 「黙示録」の中には、「神はアルファであり、オメガである」と記されています。「始まりであり、終わりである」。つまり、「全てであり、永遠である」という意味です。「創世記」の中で失われた「命の木」が、最後に「黙示録」の中で、再び登場しているのです。
 人間は罪を犯して一度死に、堕落しました。天界から堕ちて、輪廻転生をくり返すことになったのです。普通の霊界や地獄と、この世との行き来の輪廻転生です。それが最終的に、神さまのふるさとである天界に返り咲くのです。輪廻転生の完了です。
 その頃には、地上界のほうも天界のようになっています。もともと地上界自体は、エデンの楽園の物的な表れとして設えられました。しかし、肝心の人間自体が堕落しているため、地上界も地獄のような場にしてしまっているのです。人間さえ浄化され良くなれば、地上界も天界です。
 「ヨハネの黙示録」には、このことも記されています。「天界にある霊的なエルサレムが、夫のための花嫁のように着飾って、静かにゆっくり天界から地上に降下してくる」と。天界が地上にも反映してくる。
 ダビデが地上に築き上げた物的なエルサレムが、天界から新しいエルサレムとして与えられ、地上に反映してくる。これは天界が地上にも投影し、地上も天界のようになること、です。「新天新地の実現」です。
 
 「新天」とは、「新しい霊界」のこと。「新地」とは、「新しい地上界」のこと。霊界も地上界も一新され、天界のようになること、です。「神の国の実現」です。
 内面的に「新天新地」を表現するならば、「新しい天」とは、「新しい精神」のことです。「新地」とは、「新しい肉体」のことです。霊体も肉体も一新されることです。これが「新生」の意味です。
 「外界は内界の表れ」です。一人ひとりが新天新地となり、霊体も肉体も一新され、新生を遂げることで、地上界にもそれが投影し、地上界も新しい霊界と新しい地上界が実現するのです。これが「ヨハネの黙示録」のテーマです。
 その基盤づくりをするのが、ヨハネとその周りの人たちの任務です。それが今の時代に行われるべきことです。西暦2037年頃までにそのことが完了します。それにより、その220年後辺りに新天新地が実現します。
 まずはその礎石づくりを、今の世代で行わねばなりません。そのためにヨハネとその周りの者たちが、天界から転生受肉してきています。その地上の、天界の基地がARIです。
 ほかの関連の、霊的成長を遂げたそれぞれの霊統の存在たちも転生して、補い合い助け合って、新天新地も実現していくことでしょう。
 第二の誕生である「新生」が、ありがたいのです。最初の人アダムが、イエス・キリストとして転生し、ONEの教えを説き、十字架刑で原罪を贖い、復活を遂げたことで、一人ひとりが新生を遂げる道が開かれました。
 「親亀こければ皆こける」――それがかつて、アダムとエバの時代に起きたことです。そして今から2千年ほど前に、イエス様と聖母マリアがそれを贖い、乗り越えたことで、親亀が復帰すれば、ほかの人々も天界に復帰でき、救われる道が開かれたのです。
 
 新天新地の内容とは、「ONE」です。天界のありようとは、「ONE」です。天界から降りてきて地上に与えられる新しいエルサレムの内容とは、「ONE」にほかなりません。「ヨハネが転生してきて、新しい万物の理法をもたらす。それによって世界に新秩序がもたらされる」と、約束されていることです。
 万物の新しい理法とは、「ONE」です。あらゆる分野において「ONE」が与えられていき、実現していくのです。
 理法とは、ダルマです。かつてブッダが説いたダルマが、宇宙の理法です。イスラエルではモーセが、十戒として与えました。それからブッダとモーセが与えた理法を、イエス・キリストがONEとして説き、実現し、成就したのです。その後、それが実現するまでには、2千年ほど必要でした。それでキリスト以降2千年ほど、今日(こんにち)まで経過してきているのです。
 こうして機が熟し、「ヨハネの黙示録」を書いたヨハネが転生してきて、黙示録の内容を元に指導し、ONEの教えを与え、それによって世界に新秩序がもたらされていきます。「神の国の実現」です。
 こうして、一人ひとりが地上界から天界のありように復帰し、救われ、本来のあり方を取り戻していきます。それが「新生」です。
 どのようにして、浄化と育成の必要なプロセスであるイニシエーションを通り抜けて新生を遂げるか。その秘訣と方法、そして内にある新生する回復の力を呼び覚まし発動する方法が、「黙示録」の中に込められています。
 
 そこで「黙示録」を朗読し、瞑想し、祈ることで、「新生」を遂げられます。
 特に「黙示録」の体験を、2千年ほど前に授かったヨハネ自らが転生してきて、「黙示録」の本当の意味をひも解き、「黙示録」をテキストに指導することで、一人ひとりの「新生」が実現していきます。それが必要な人や、それを切に求めていて備えができてきた人は、引き寄せられるようにヨハネの所に集まり始めています。
 キリストがかつて、使徒ヨハネに授けた「愛の秘儀」です。それが「ONE」の内容です。
 キリストの実体は、地上で30回ほど転生受肉して、世界中にONEの種を蒔(ま)かれました。キリストの実体が転生した所やキリストの感化が及んでいる所には、世界の歴史の中で、ONEの教えが見出せます。キリストの実体の説いてきた教えの内容が、「ONE」なのです。それが天界のありようです。
 
 どんなことに関しても、天界の摂理である「ONE」に照らすことで、「どういうことであり、どのように捉え応じれば良いのか」が、明らかになります。後はそれを実行するだけです。神さまのお力を頂いて。 ARIで行われている全ての活動と働きは、「ONE」です。全ては、ONEの応用問題なのです。
 天界は、すでにONEになっています。地上界は、まだまだONEからは程遠いです。ちょうどアダムとエバが、かつて神さまから「食べてはいけない」と言われた善悪を知る知識の木の実を今でも食べ続け、追い求めている。そういう残念なあり方です。ONEではなくTWOであり、Many(たくさん)なのです。分離と別々の法則、恐れの原理です。全てを疑いと恐れから始めているのです。
 恐れや憎しみからではなく、愛と信頼と尊重から始めましょう。「人に勝とう」とか「人を負かしてやろう」とかではなく、助け合い、思いやりましょう。菩薩の精神です。
 この世は対立二元論と競争原理と物志向、欲望とお金を愛するあり方になってしまっています。「黙示録」の中に出てくる竜と獣のありようです。獣(けだもの)のような欲望と感情が動いている、低次の生命体のあり方です。仏教で言う「六道輪廻」のあり方です。互いに傷つけ損ね合う地獄、餓鬼、畜生、修羅、そのレベルです。戦争、テロ、自然環境破壊、いじめ、虚偽、そういったことは獣のありようです。
 天界のありようである「ONE」を、それぞれの分野に適用し、問題を解決すること。一人ひとりがONEに目覚め、ONEに復帰し、天界のありようを取り戻し、神さまに創って頂いた本来のあり方に復帰すること。それが「第二の誕生」である「新生」です。「魂本位のあり方」です。
 
 「新しい天」「新天」とは、「いつでも超意識状態にあること」です。最初は祈りや瞑想、奉仕的な活動などの中で、限りなく超意識状態に近いあり方を自分で見出し、体験してください。それが次第に自分の中で感じられ、定着してきます。そして次第に優勢になってきます。そうすると、さほど意識したり気をつけたり努力したりしなくても、普通にしていてもかなり超意識状態になれます。
 超意識は魂の意識であり、良心、良き心が特徴です。「幼子のようになれば天国に行けます」と、イエス様が言われたありようです。無邪気で、従順で、正直で、素直で、人や自然の命を尊び、愛し、慈しむ。そのような本来の生命体のありようが、「ONE」です。
 本来の自分を取り戻す道が、「黙示録」の中に記されています。自分が新しい霊体と、新しい肉体になった新天新地状態は、「ONEの生命体のありよう」です。
 ヨハネ自身も、その試練の過酷なイニシエーションを、一通り通り抜けることで、カルマと目的が成就しました。それにより、新天新地が自分の中に実現し、いつでも超意識状態になりました。
 そういう生命体の、美しい整ったありようが、「黙示録」の最後の2章に美しく描かれています。ヨハネは遂に、「新生」を遂げたのです。こうしてヨハネから始まり、その周りの人たちもヨハネの感化によって、ヨハネと同様の「新天新地の生命状態」になっていきます。
 そのような人が「144000人」という数で象徴される、ある一定人数になると、「百匹目の猿現象」が起きます。ある割合に達すると、ほかの80億人にも波及し、大多数の人々がそのようなありようになってくるのです。それまでには、まだ後230年くらいかかりそうです。
 なぜ、230年もかかるのか。それは、現状の世界を見れば明らかです。この、物と肉体優位の世界において、問題が山積みになっていて、人々のありようもまだまだONEからは程遠いからです。
 それゆえ、今から手掛けて努力しても、世界中にONEが波及し、天界のありようになるには、まだ後230年ぐらいはかかる、ということです。
 
 でもまずは一人ひとり、気づいた人から、自分が「新生」を遂げることです。本来のあり方に復帰すれば良いのです。
 なるべき自分になることです。なるべき自分になるために、人生を生きていくのです。現状で取り組みながら、徐々に徐々になるべき自分になっていく。それが「人生を生きる」ということです。
 人生で後になるほど自分を取り戻し、理想的なありようになってきます。そうすると、「外界は内界の表れ」ですから、自分の周りの状況や動きも良くなっていくのです。そのうち、地球全体が浄土のようになります。
 「ヨハネの黙示録」も、自分のありようがまず良くなること。それに伴い、周りの状況と動きも良くなることを示しています。
 一見すると、「黙示録」は外の状況や社会のことを描写しているかのように読めます。しかし、「外界は内界の表れ」ですので、実際は人間の内面性のありようを記しているのです。
 特に、ヨハネ個人の内面のありようを記しています。そして、「類は友を呼ぶ」ということがあるので、ヨハネだけでなくその周りの人たちも、広くは世間の人たちも、ヨハネと同様の問題のある内面のありようだったことを、「黙示録」は示しています。
 人々の大多数がそういう問題のある内面性だと、社会全体も問題があることになります。自然界にもそれが波及します。そのことを「黙示録」は描写しているのです。
 見つめるべきは、内面性です。改めるべきは、自分の心や魂のありようです。それが肉体にも表れ出ます。病気などに、あるいは疫病とか。
 
 例えば、「黙示録」の中に地震が出てきますが、それはヨハネの肉体に震えが起きたことを象徴的に表現したものです。そして、ヨハネのように体に震えや痙攣が起きる、そういう人がある一定人数いれば、実際にも地殻変動や地震に見舞われるのです。「外界は内界の表れ」なので。
 「黙示録」はヨハネ自身の内面から始まって、それが他の人々にも及び、それが外界にも反映してくる。それが、問題のあるあり方から始まり、イニシエーションの浄化と育成のプロセスを一通り経ることで、カルマが遂げられ、さらにカルマが尽くされることで、本来のあり方が取り戻され、本来のありように復帰できる。その一連の必要なプロセスの試練を、経過を追って述べています。
 このようにして過酷な試練を完了し、しかる後、ONEという理想的な天界のありようが内面にも、それから世界にも、訪れます。今、そのプロセスを一人ひとりが辿っています。人類全体としても。
 全て、法則に基づいて動いています。「ヨハネの黙示録」は、法則について述べています。それゆえ、「ヨハネの黙示録」は直接には、紀元1世紀のローマ帝国の、ヨハネが生きた時代のことを記したものですが、法則はいつどこでも同様に作用するため、直接には紀元1世紀のローマ帝国について描いた「黙示録」が、いつの時代、どこでも当てはまり、役立つ書物となっているのです。
 結果として、今の時代にも「黙示録」は当てはまり、その預言は的中し、成就しつつあるのはそのためです。
 
 取り分け、黙示録的な預言が法則として作用する時に、ヨハネは転生してきています。特にヨハネが、「自分がヨハネだ」とわかった今の時代は、意味があります。その意味で、確かに今の時代に向けて、2千年前の「黙示録」が預言され当てはまる、ということが起きているのです。
 ヨハネ自身は、2千年後の未来のありようを意識して預言したのではありませんが、結果として、特に今の時代に当てはまり、役に立つ、というように結果としてなっているのです。
 以上のことを知って、「黙示録」を正しく読解し、適用しましょう。何より「修行の書物」として、特に「愛のキリスト秘伝の書物」として、「黙示録」は有用です。
 そのためにキリストはヨハネを選び、ヨハネに一通り必要なことを体験させ、しかも記録させました。ARIにおいて「黙示録」を手引きに、秘伝コースが行われているのは、そのためです。
 ヨハネはかつて、日本において空海でした。そのため今世でも、イスラエルではなく日本に転生してきているのです。
 誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。与えられた機会を十分に活用し、「新生」を遂げましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17829

 
質問:自分で自分の前世を思い出し、自分の前世とカルマを自覚することはできるのでしょうか。ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:それは可能ですし、行うと良いことです。自分を深く知ることとなり、癒しが生じ、本当の自分を取り戻して、今世の目的をより良く遂げられるようになります。自分を十分に活かして人々のお役に立ち、世の中を良くする一助となれます。
 それによって、自分にも喜びと充実感があり、人様のお役に立つことで、自分や家族や会社も保障され、やっていけるようにしていただけます。
 「前世を扱う」とは、深い部分の自分に焦点を当て、自分をより深く知ることです。これまでの自分の魂の経過を振り返って、点検・確認することです。
 それによって現状の意味が悟られ、現状を改めて認めて受け止め、現状の中で自分を活かして、するべきことを適切に行って、
使命を遂行していけるようになります。周りのためにもなります。それによって、真の意味で自分のためにもなります。前世を知ることで、自分の反省と励みになります。
 自分を深く掘り下げていくと、特に求めずとも、自分の前世に関することがいろいろと出てきます。自分の奥深い部分に、前世の経験とカルマが宿されているからです。
 
 自分を深く知り、なるべき自分になって、その時おるべき所で、自分のするべきことを自分らしく適切に行うこと。それによって、周りの助けと喜びになり、社会の一助となること。それにより、自分や家族も恵まれ、幸せになれる。
 このような一環として、前世を扱うのです。前世探求は極めて実際的な取り組みなのです。自分の今の状態も、周りの状況も偶然ではなく、前世から今に至るまでの、自分の思いと行いに対する、それ相応のカルマ的結果です。
 なぜ、自分の状態や周りの状況、動きがこうなっているのか? それは偶然でも非合理でもなく、前世から今に至るまでの、自分の思いと行いに対する正当な結果です。
 過去を原因として、現在がその結果としてある。そして、現在の思いや行いが原因となって、未来の自分の状態や周りの状況、動きが、それ相応のものとして形成されつつある。それらのいちばんの元に、天の創造主がおられる。このような関係になっています。
 ・自分の傾向を知ること。
 ・自分のカルマを知って自覚すること。
 ・自分の良いところも問題なところも知
  ること。
 ・そして良いところは、さらに育成して
  発揮すること。
 ・課題や弱点は、癒したり調整したり、
  上手く良いほうに振り向けていくこと。
 このようにすることで自分の可能性が高まり、周りのお役に、なお一層立てます。それにより自分や家族も保障され、やっていけるようにしていただけます。
 
 いずれにしても生きていくなら、気持ち良く、より良く、生きていきたいものです。人様のためにもなれます。そのために前世を扱うのは、とても助けになります。
 ARIで学ばれている方々は、まず、前世を知る機会として、リーディングがあります。リーディングを受けることで、自分の前世とカルマを知ることができます。
 そして、ARIとご縁のある方たちは幸い、ARIの代表者のヨハネが、自分の前世を探究し、極め尽くしてきています。
 そのため、ヨハネとの関連で前世の自分がどのようであったかも、かなりな程度推察できる、という恵まれた状況にあります。
 実際これまで、ヨハネ・リーディングを受けたり、フォローアップセッションを受けたりして、その内容を元に、ヨハネやARIとの関連で自分の前世を追求してきて、かなりの前世が具体的に明らかになってきている人たちが、少なくとも10人以上おられます。
 ヨハネがある時代、このような人物であったのなら、現状と照らし合わせて、その時の自分はこういう所で、こういうことをしていた、こういう人物であったろう、と推察できるのです。
 生まれ変わりの中で、全く今世と同様に対応しているわけではないにしても、ある程度以上対応しています。
 そのため、ヨハネの転生が17個も具体的に明らかになっていることが、ARIにご縁のある方たちにしてみると、自分の前世を特定する上で、とても有益なのです。また、そのためにもヨハネの転生が明らかにされたのです。
 
 「ある時代ヨハネがこうであるなら、その時代自分はこうであったろう」と。そのように特定していけるのです。
 そしてそれを元に、当時の資料などに当たっていけば、さらに絞り込め、場合によっては具体的に、その時代の自分の前世が明らかになります。それをまた、ヨハネ・リーディングで尋ねたり、フォローアップセッションで尋ねたりして、ヨハネ自身に確認をとることができます。「その自分の推測は、正しいのか間違っているのか」を、ヨハネから教えられるからです。
 「前世は一遍に、全て明らかになる」というものではありません。自分の成長度合いやカルマの果たされ具合、周りの状況や動き、それらとの関連で自分の備えがなり、周りの動きもそれを表すものになった時点で、その都度明らかにされます。
 神さまの育て導く一環として、その都度タイムリーに、一つ一つ前世は明らかになっていくものです。
 神さまの育て導く一環として、前世とカルマが明らかにされて、自分を知り、状況の意味を悟り、その時の状況に適切に応じて、カルマも役割も果たしていける。その一環として、順々に時期や状況の動きや、本人の成長度合いに合わせて、効果的に前世が一つ一つ明らかになります。
 
 単なる興味本位や情報収集のための、「前世を知りたい」という動機だけでは、真相を知ることは困難です。
 楽しく取り組むこと自体はいけないことではありませんが、ただ知識重視の、頭だけの興味本位な前世探求では、本来の取り組み方ではありません。そのため上手くいかず、行き詰まります。
 よくお祈りして、全ての元であられる天の創造主さまにお任せし、何よりも現状を大切に、現状の中で良い心がけで、その時自分がするべきことを一つ一つ、きちんきちんと行っていく、ということが大事です。
 「自分を発揮して、周りのためにさらになりたい。そのために、自分を深く知って自分の状態を良くし、状況を活かして、なお一層、周りの助けになり、充実した人生を送りたい」。その動機と目的で、その一環として、前世とカルマを探求していくのです。
 周りの人からより良く見られたり、評価してもらうための、取り組みではありません。自分を本当に知って、より良い状態にして、なお一層、周りの助けになるためです。
 正直さと誠実さが必要です。そうすれば、一時思い違いや捉え違いがあっても、必ず修正が入り、いずれは本当の前世に行き着きます。
 「前世を知る」とは、深い自己認識のことです。それゆえ、セルフイメージや自己認識が違っていると、前世も違って捉えてしまいます。
 
 もし本当に、自分のことがわかっているのなら、正しく前世を捉えられます。なぜなら「前世認識」とは、「深いレベルの自己認識」だからです。本当の自分をわかっている人は、本当の自分の前世に行き着きます。本当の前世がわかります。
 世界史と日本史の教科書を用意しましょう。そして自分の輪廻転生の観点で、改めて世界史と日本史をおさらいしましょう。
 世界史とは、人類の輪廻転生の歴史です。日本史とは、日本民族の輪廻転生の歴史です。そういう世界史や日本史の一部を、自分もなしてきています。
 そこで、世界史と日本史の教科書を改めて見直し、それらの人間の歴史の中で、自分はどの時代どこに、どういう人間として生きていたのか、を見ていくことが参考になります。
 また、それ以前に、先ほども述べられたように、人は縁によってグループ転生する傾向があります。それで、ARIで学ばれている方たちの場合は、ARIのグループソウルのグループ転生を参考にすると、その中に自分をしばしば見出すことができます。
 いつもいつも団子状態で、全く同じ関係性や位置取りで輪廻転生する、というほど固定化はしていないものの、ある程度以上は同じような位置取りや関係で、グループで転生する傾向は、確かにあるのです。これは、ケイシー・リーディングにおいても、知られていたことです。
 「ARIのグループ転生の中での自分の転生」、その一方で「自分独自の輪廻転生」をそれぞれ探っていけばよいのです。その両方をバランス良く追求していくことです。
 
 また、ARIで学びながら、その一方で、他のグループとも関連してきている方もおられることでしょう。それは霊的グループとは限りません。自分の仕事とか趣味とか、地域社会との関連などです。
 ARIとのご縁が深い人ほど、ARIのグループ転生の中で生まれ変わってきています。
 ほかのグループとのご縁がある程度ある人は、そちらのグループ転生もある程度含まれています。
 ただ人は、過去的な存在だけではなく、今世で新たに、神さまの意図と自分の自由意思によって作られつつあるご縁もあります。それらは新しいご縁です。
 全てが、過去に起因しているのではありません。今作られつつある、新しいグループやご縁もあるのです。また、前世の時は問題があったけれども、今世ではより良くなりつつある人がいます。その一方では、前世は上手くいっていたけれども、今世は低迷気味の人もいます。前世の時と、全く同じになっているとは限りません。
 それと、人と較べたり、競り合ったりするための、前世探求ではありません。人は人、自分は自分。その上で、理解し、認め合い、それぞれが活かされるような関わり方が求められます。
 もともと菩薩とは、人に譲歩し、人のために自分を捧げていく、犠牲的な尊い生き方です。キリストは正(まさ)しく、そのような生き方を全うされました。「友のために自分の命を捨てること。これが愛である」と、「ヨハネ文書」には記されています。
 くれぐれも世俗的な競争社会の、比較し、競り合うような生き方で、霊的学びや前世探求をしてはなりません。「霊的成長」とは、「譲歩」と「人に尽くすこと」にあるからです。
 
 このように、前世で優れていても低下しつつある人もあれば、前世でそれほどでもなくても、今世ではより良くなって、他の助けになりつつある人もいます。
 また、表面的に見た社会的評価や知名度が、本当のその人の価値や評価を決めるものともなっていません。
 世界史と日本史を見てぴんと来る、あるいは、惹かれる時代や文化や人物を見ていき、その中で自分を見出していきましょう。
 また、自分の人生を振り返ってジャーナルを綴ることが、前世を知る助けになります。「自分史」と呼ばれる、自分の今回の人生の歴史を綴るのです。
 先ほど述べられたように、「今世は前世の結果」です。もちろんその一方で、今世新たに作りつつある部分もありますが、それでもその基盤は前世にあります。
 それゆえ、これまで生きてきた数十年を振り返って、主立った体験やその時の自分の思いを綴ることで、前世が見え隠れしてきます。今世の中に正直に、前世のものが表れ出てきているのです。外界は内界の表れなので。
 また、これまでの人生経験ばかりでなく、自分の内面の動きにも前世が表れ出ています。印象とかイメージとか記憶とかアイデア、自分の捉え方とか価値観、態度とかイメージ。そういったものにヒントがあります。実際の体験と、内面のイメージや思考、あるいは体質、病気、外見、能力など。
 
 前世の自分と今の自分は、因果関係で結ばれています。特に、気質、能力、仕事、興味、体質、境遇、運命などは、前世と今世で繋がりがあります。人間的な器や規模なども、釣り合っています。しかも、表面的にというより、実質で釣り合っています。
 人間関係や土地や仕事が、キーワードです。カルマもキーワードです。カルマは出来事や体験と、深く関連しています。このように自分のジャーナル、「自分史」を綴ることが助けになります。
 それは、前世を知ることに対してばかりでなく、自分を知って自分の過去をおさらいし、過去の自分に責任をとる人間になるためにも、助けになります。
 退行催眠、前世療法もあります。それらはセルフ・リーディング的です。過去を遡(さかのぼ)り、順に思い出していくこと。その際、音楽を聴くのも助けになります。
 「自分史」を綴っていく上で、内観をしていくことが必要です。さらに瞑想も、前世を知る上で助けになります。
 また、夜見る夢も、前世のヒントになります。特に霊感がある人は、夢から前世のヒントも多く得られます。
 ヨハネ自身の場合も、17回の転生のいくつかは、夢の中で明らかにされました。夢意識状態とリーディング意識状態は繋がりがあり、似通っています。夢は、セルフ・リーディングとも言えるのです。その意味では誰でも夜、セルフ・リーディングをしています。それが夢だからです。
 人は霊的になり、霊的に目覚めるほど、夢を見るようになります。その夢に入っていって夢を開拓し、夢を育成することで魂が目覚め、夢から多くの示唆を受けられるようになります。
 
 『聖書』の中では、数多くの夢の報告があります。日本の古典や著名人の日記の中でも、夢の報告があります。
 現代人は、外的唯物的になってきているため、夢をあまり見ず、夢の意味がわからなくなり、夢を大切にしなくなりました。
 夢に着目することで自分を知り、霊的に開発され、自分がどんな存在で、何をしたら良いのかがわかってきます。現状の意味も、悟られてきます。
 ジョーン・グラントという女流作家も、夢を追跡していくことで、 3つくらいの前世が明らかになりました。
 前世について知らされたら、資料に当たって自分で調べたり、それを瞑想したりすること。実際に関連の地を訪れたり、前世に関するお祈りやご供養をするのも助けになります。
 また、お互いのセッションなど、前世想起のワークショップなどに取り組み、互いに分かち合い、報告し合うことで、また指摘してもらうことで前世を確認し、掘り下げていくこともできます。ARIでも何度か、前世関連のセミナーやワークショップが行われてきています。
 自分が強く惹かれることや気になることや恐れること、感情の内的反応。それは、人物や時代に対しても、食べ物に対しても、衣服やライフスタイルに対しても、仕事に対してもあります。そういったところに、前世が見え隠れしています。自分の中にしばしば湧いてくる、イメージや実感や印象に、前世のものが表れ出てきています。そういったところから入っていくことで、前世が明らかになってきます。
 お祈りももちろん、前世やカルマを知る助けになります。自分を内省し、神さまにお任せしながら、祈り続けましょう。ヨハネが中心の前世を知ったのは、千日ご祈願によるものでした。そこでリーディングも開始されました。
 根源の神さまに自分をお任せし、置かれた状況で、自分がその時するべきことをきちんと果たしていくことが、大事です。その基本で、前世やカルマの探求に取り組むならば、神さまのお導きがあり、自分に正直で誠実であるならば、本当の前世が必要に応じて、また準備の出来具合に応じて、明らかになります。
 そういう前世は本当で、自分を知り、自分を役立てて他のためになる、真実であることでしょう。そしたら、知らされた前世を心に留め、現状でより良く生き、他のお役に立っていきましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17803

 
質問:蘇生力について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:人間は誰でも、頭と心と肉体から出来ています。それらの頭、心、肉体の元に、魂があります。魂こそ、人間存在の本質であり、最も重要な核を成す部分です。
 それで、肉体が蘇生するためには、肉体の元にある魂が、まず蘇生しなければなりません。それには、魂が天に接ぎ木されることが肝要です。
 魂の中に、蘇生力や回復力が備わっています。その魂の機能がチャクラです。チャクラは、生命力の中枢になっています。魂の7つの働きが、7つのチャクラなのです。チャクラが活性化することで、肉体が蘇生していきます。
 このように、魂の中に蘇生力と回復力があるのですが、ただ、魂だけでは限界があります。
 魂は、天の創造主の分霊に相当します。天の創造主が命の親、魂はその子、なのです。
 
 命の木の「幹」に相当するのが「天の創造主」、命の木の「枝」に相当するのが「それぞれの人の魂」です。
 「ヨハネによる福音書」の中で、キリストは、次のように言われています。
 「神さまは、木の幹であり、一人ひとりの命はその木の枝に相当する。枝は幹に繋がってこそ、生き続けていける」と。
 この喩えのとおり、一人ひとりの魂だけでは限界がある。ちょうど水栽培や生け花、フラワー・アレンジメント、それに類するさまざまな営みに限界があるように、魂が長く存続し、元気でいられるためには、魂は命の根源であられる天の創造主に繋がっていなければなりません。
 そこで、一日を「天への礼拝」からスタートするのです。それによって魂が、天の創造主と天界に接ぎ木がなされます。
 
 それにより、天の創造主から魂に生命力が流入し、魂が元気になって回復力が生じ、肉体も蘇生していくのです。
 生命の本源であられる天の創造主に深く礼拝して敬意を表し、自分の全てを任せ切るのです。
 このような礼拝と祈り、それから瞑想、このような命の本源との霊的な交流によって接ぎ木がなされ、生命力が流入してきて、魂が活性化し、チャクラが活発化します。それによって、肉体も蘇生へと向かうのです。
 一方、次のようなことも助けになります。肉体が蘇生するためには、頭と心も大切です。頭と心と肉体は、互いに関連し合って、相互に影響を及ぼし合っています。
 肉体が蘇生するためには、頭でONEの真理を学び、理解すること。そのために、ONEの教えを学ぶのです。ONEの教えを学ぶのは、そのためだけではありませんが、肉体が蘇生するためにも、頭でONEを学ぶことは助けになります。
 
 頭でONEの真理を学び、理解することで、いろいろなことが納得でき、受け入れられ、気持ちが解放されて楽になります。心が良い状態になるのです。
 このように、頭でONEの真理を学び、理解すると、価値観が正され、正しい理解と認識に到達し、それが心に及び、気持ちが吹っ切れて、心が楽になり、心が安定し癒され、心が良い状態になります。このように、頭と心は関連しているのです。
 こうして、心が良い状態になると、今度はそれがチャクラを介在して肉体にも投影してきます。頭でONEを学んで理解してくると、心が解放され、楽になり、良い状態になります。
 そうなると、その良くなった心の状態が肉体に投影してきて、肉体も蘇生し、元気になっていくのです。
 
 先ほどの説明では、魂が命の本源であられる天の創造主と接ぎ木がなされ、祈りや礼拝や瞑想によって、霊的な交流を図ることで、魂が活性化し、魂の中の蘇生力が肉体に及んできて肉体が蘇生する、ということでした。
 もう一つ、今説明したのは、頭でONEの真理を学ぶことで真理を理解すると、「なるほど」と思えて、頭での理解が心に及び、気持ちが吹っ切れ、楽になり、浄化され、癒され、心が良い状態になります。心が安定して、充足してきます。
 そうなると、その良くなった心の状態がチャクラを通して肉体に投影し、肉体が蘇生して元気になっていく、という面もあるのです。
 このように、天への礼拝と祈り、瞑想をしつつ、ONEの教えを学ぶこと。この2点が肉体が蘇生していく上で、助けになります。
 また、使命や義務を通して、周りの助けになっていくこと。奉仕的な生き方をすること。仕事や義務、またご奉仕を通して、助けと喜び、安らぎ、理解、勇気などを、周りに及ぼしていくこと。
 このような徳積みによっても、自分のカルマが解消し、周りから喜びや感謝がやってきて、自分の肉体にもそれが及び、肉体が蘇生していくのです。
 
 このように肉体が蘇生していく助けになる3つめは、「ご奉仕」「徳積み」です。
 できるだけ悪を控え、良いことをどんどんしていくこと。周りに好ましくない影響を及ぼすことを極力控え、好ましい影響を、できるだけ周りに及ぼしていくのです。
 周りに及ぼしたことが、周りから自分に返ってくる。この作用反作用のバランスの法則が、カルマです。
 結局、生きていく中で、自分が体験させられることというのは、自分が意識的にせよ無意識にせよ、周りに及ぼした影響が周りを刺激し、その反応がそれ相応のものとして自分に返ってくるという、事柄を表しています。
 やればやっただけのことがあるのです。善も悪も、全ては正当に報われます。神の法則は、完璧です。公正です。安心してください。
 生き霊の影響にしても、亡くなった霊たちからの影響にしても、自分が周りに及ぼした影響が、周りを刺激し、その反応がそれ相応のものとして、自分の元に返ってきて、それを受けることになります。これでカルマが完結します。カルマが果たされる、ということです。
 人生で起きて体験していくことは、偶然ではないということです。それゆえ、心の健康のためにも、肉体の健康のためにも、日頃から、周りに良い影響を及ぼすように心がけることです。
 
 それにより周りから肯定的な良い反応が返ってきて、自分の心も肉体も良い影響を受けて、健康で元気でいられます。
 周りの人から感謝され、好ましく思われている人は、運が良く、恵まれた人生を生きることになります。病気にもほとんどならず、健康でいられます。
 ほかに、肉体が蘇生するために必要なことは、直接肉体に関することに、心がけることです。
 天の摂理の物質界での表れである自然の摂理に沿って、日々生活すること。太陽の動きに合わせ、早寝早起きの、明るく健康的な生活を送ること。食べる物も、腹7分目ぐらいにして、中道を心がけ、おいしく感謝して、しみじみと戴くこと。その時の自分に合う、バランスの取れた食事や飲み物を摂取すること。
 自分の肉体を悪いことのために使わず、良いことや必要なことのために、肉体を使うこと。肉体に感謝し、肉体を労り、肉体をメンテナンスして生きていくこと。
 
 肉体にも心が宿っています。それゆえ、肉体を慰めてあげたり、肉体に感謝したり、肉体を労ってあげましょう。そしてその時に自分に合った体操や体の動きをさせてあげること。ONEの教えでは、アドリブ体操があります。
 このように、肉体が蘇生するためには、肉体自体にも、直接、良い影響を及ぼすように心がけること、があります。体に良い食べ物や飲み物を、与えてあげるのです。そして、自分に合う呼吸法や、頭と心と肉体のバランスの取れた、明るく健全な生活を送ること。
 そして、先ほど述べられたように、肉体を罪のために使わず、良いことや必要なことのために、肉体を使うことです。
 そして、義務や使命や仕事のために、肉体がより良く使われるよう、日頃から自分の肉体を見直し、整えること。自分の心も見直し、整えること。人間関係も見直し、整えること。周りの状況や環境を見直し、整えること。部屋の換気を良くしたり、お掃除をすること。
 
 部屋の掃除や片づけ、トイレ掃除などは、心を磨き、心を清め、それによって肉体も清まり、カルマも解消へと向かいます。
 部屋の整理整頓をすると、頭の整理整頓にもなります。「外界は内界の表れ」であり、内界と外界は相互に関連しているからです。
 このように、部屋とか書棚とかを整理整頓する、あるいはファイリングする。いらない物を処分したり、片づける。一方、良いものは積極的に集める。そして活用する。そのようにすると頭も整理整頓され、すっきりします。物からの影響も人は受けるからです。
 部屋を掃除したり、換気を良くしたりする。そして、気持ち良く穏やかに呼吸して、生かされて生きていることをしみじみと実感させていただく。
 肉体が蘇生するためには、まず心が蘇生することが必要です。一般においても、また、医療においても、「肉体は心の影響を受ける」ということは、知られてきてはいます。
 しかし、一般に知られている以上に、肉体は心の影響を受けているのです。心の影響が肉体に及ぶ、それを介在する器官がチャクラなのです。肉体上では、自律神経と内分泌腺です。
 心の奥に、心の本体である魂があります。チャクラは魂の7つの働きです。チャクラは直接には、心の働きとして表れています。
 
 それゆえ心を清め、心を整え、心を良い状態にすることで、チャクラが清まり、活性化します。それにより、肉体も蘇生し、健康になり、回復していくのです。心の影響が肉体に及ぶ。それを介在するのがチャクラなのです。
 結局、心の状態を良くすることで、チャクラが清まり、活性化します。それにより、肉体が健康で元気になる、ということです。
 ケイシー・リーディングの中には、「あらゆる病は罪から生じる」とさえ、出てきます。「直接的な悪を犯す」ということばかりでなく、「天の摂理とその物質界の表れである自然の摂理に反することは罪だ」と言えます。自分の中に罪意識や恐れや悲しみを抱くこともまた、罪と言えます。
 
 自分を許さず、恐れや悲しみに囚われていることも、広い意味での「罪」です。そういった罪意識も含めて、自分の罪が病気の元です。それと、過労、エネルギーの消耗で病気になります。
 特に、ムラダーラ・チャクラのカルマが、病気を招いています。ムラダーラは、生命力の元であり、性的なことに関するチャクラです。性腺に相当するチャクラです。
 確かに、性的なことは、生命力の源泉です。それがクンダリニーと深く結びついているのです。
 性的なことは愛と深く関連しています。愛と生命は一つです。それが性腺です。正しく生命力が活用されることが、健康への道です。それで蘇生していきます。キリストもその方向で、復活を遂げられたのです。
 
 生命と愛が深く関連していて、生命の進化段階を上っていくほどに、愛が本物化していきます。それに応じてチャクラも清まり、発達していくのです。そのことと肉体が蘇生することは、無関係ではありません。
 そのためキリストは、人の病を癒すことができ、最後は自分自ら、死から復活を遂げられたのです。その秘密がチャクラにあります。
 生命力を否定せず、しかし野放しにせず、昇華させ善用していくこと。それが空海が日本にもたらした真言密教です。それがキリストがもたらした、愛と命の肯定的教えの、日本版です。
 全ての秘儀の中で最も大切なのは、その死からの復活の秘儀なのです。「ヨハネの黙示録」も新生がテーマになっています。その中で病気からも解放され、癒されていくのです。
 病気は、人生で起きる出来事の中でも、最大のテーマです。病気を通して教訓を学べて、癒され、清められ、成長を遂げていきます。その意味で病気は、貴重な学びと改善と成長の機会です。浄化もされます。
 生命を学ぶことほど、尊く大切なことはありません。「生命を学ぶ」とは、「愛を学ぶこと」です。
 
 自分の肉体の傾向と特徴を知り、カルマの特徴も知り、自分の肉体を教科書として、命と愛に関しての学びに取り組みましょう。それが上手くいった結果として、蘇生と健康がやってきます。
 そのことに、自分の体という教科書を読み、取り組んでいってください。それが「ONEの学び」です。ありありと健康である状態をイメージし、体感することも助けになります。
 できる所から始めましょう。ちょっとでも上手くいったら素直に喜び、感謝し、それを励みに、次に繋げましょう。
 たとえすぐに上手くいかなくても、そのことを疑わず、この取り組みを諦めず、何度でも見直し、また取り組みましょう。
 その取り組むプロセスが必要で、価値があるのです。それが「ONEの学び」です。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17763

 
質問:「ヨハネの黙示録」は何について記された書物なのでしょうか。ONEの観点からご教示ください。
 
ソース:「ヨハネの黙示録」は、ヨハネ自身の内観によって授かった霊体験の、一連の修行の報告記です。特にキリスト内臨の体験記です。
 使徒ヨハネは、当時の社会的権力者たちによって、パトモス島に流罪にされました。その試練の命の危機の只中で、ヨハネは自
分の中を見つめ、そのありようのプロセスを克明に記録していきました。
 記録自体も神によって促され、導かれるように書き留めていきました。自分自身の肉体と心と魂に、いろいろなことが起きてきました。
 「黙示録」に出てくる天変地異、戦争、病気、奇怪な生き物の登場、それらは全て、ヨハネ自身の肉体や心に現れ出てきた動きの象徴です。自分の心の中の葛藤や恐怖が、天変地異や戦争として描かれているので
す。
 
 こういった心の葛藤を自分の中で体験しながら、ヨハネは浄化と育成の一連のイニシエーションを辿っていったのです。新しく生まれる新生への、キリスト者の試練、死と再生のイニシエーションです。
 ヨハネ自身も、ヨハネの仲間たちやヨハネから指導を受けている人たちも、当時試練に見舞われていました。その厳しい状況の中で、ヨハネ自身もヨハネと繋がりのある人たちも、自分の内側にある、新生する回復力の発動する方法を必要とし、それを切に求めていました。
 そのような中で、ヨハネに神から啓示が与えられたのです。ヨハネ自身、神のお手入れを受けつつ、自分の内側を見つめ、完成に必要な浄化と育成のプロセスを一通り辿っていったのです。
 その途上で、自分の内部に繰り広げられた変化や激動を、克明に描いていきました。奥深い潜在意識での出来事は、夜の夢と同様に、象徴的な形をとって現れる。
 そのため「黙示録」の中には、ヨハネの中で起きた一大変化と激動が、象徴的な表現で描かれているのです。
 「黙示録」の大半は、暗くて重い、そして怖いような、否定的イメージがその多くを占めています。それは、ヨハネが自分自身と向き合い、自分を深く見つめ、掘り下げていったことを表しています。
 
 そういった一連のプロセスを経ることで、神からのテストに一つ一つ合格し、肉体も心も浄化され、育成され、整っていきました。イニシエーションです。
 そして、最後の2章を見れば明らかなとおり、ヨハネは自分を克服解消でき、人間完成を見ました。ちょうどブッダが悟りを開いた時のように、人間完成したのです。
 「黙示録」の最後に出てくる「新天新地」とは、「一新されたヨハネの意識と肉体」のことです。いずれは「一新された霊界と顕界」になります。自己完成から社会完成へ波及していきます。いずれ地球全体が新天新地になるのです。
 「天から静かに降りてくるエルサレム」とは、「神さまから賜る聖霊の命が、ヨハネ自身の中に注ぎ込まれ、新生を遂げた」ことの表現です。進化し、完成した意識が、「ニューエルサレム」です。進化した魂の状態です。
 
 完成して、美しく光輝くヨハネの魂と心と肉体が、立方体の光輝く神殿として、美事に描かれています。
 こうしてヨハネの生命は完成し、光輝いたということを表しています。キリストのような神人合一を達成し、意識は静まり、平安になり、命はみずみずしく活き活きとしました。
 ヨハネは神人合一し、いつでも超意識状態になりました。ブッダが悟り、平安になり、ダルマと合一し、救われた時と同様です。使徒ヨハネはブッダの転生者でした。
 「命の川」とは、ヨハネの体内を、神さまの生命エネルギーがスムーズに清らかに流れるようになった、ヨハネの天的な生命状態を表しています。
 命の川の両岸に生えている「命の木」は、ヨハネの生命体のそれぞれの部分が、命を蘇生したことを表しています。魂に内在する、命の供給と治癒と新生の働きです。
 「命の木に毎月実を結ぶこと」は、ヨハネとその仲間たちが神の理想を目的として、その活動と働きが絶えることなく続けられていることを表しています。
 
 現在のARIの活動に対応させるならば、毎月会報誌が作られ、発行され、学ぶ方々のお手元に届けられること。また、単行本が毎年発行され、定期的にいろいろなイベントが開催されていること。日々、リーディングが行われていること。それらに相当します。
 そういった、神の理想の目的とその働き・活動が、絶えることなく存続し、地上で行われ続けることが、「命の木に毎月実を結ぶこと」として、象徴的に描かれているのです。
 「キリストの再臨」とは、自分の魂の意識である超意識が目覚め、天の創造主が自分の中に入ってきてくださって、自分の中で創造主と自分の魂が融合したこと。そのことを、キリストが再臨することとして、約束されています。
 実際、ヨハネ自身、キリストの再臨によって、「黙示録」の体験をスタートしました。それからキリストという超意識に導かれ、自分の中にお手入れが加わり、キリストの型、パターン、その理想のキリストの基準に、ヨハネ自身が合致していくプロセスで、カルマの洗い出しが生じ、自分の中にも恐怖や抵抗を体験しながら、次第に理想の、キリストが作り上げた完成したパターンに、ヨハネ自身が合わさっていくプロセスで、いろいろなことがヨハネの中に、精神的にも肉体的にも起きてきたことを、表しています。
 
 古い自我と欲望に基づく、人間が造り上げた地上的な文明の型、パターン。それが「大いなるバビロンの都」として登場します。ヨハネ自身の、古い地上的で自分を表すいろんな価値観や考え方や生き方を表しています。
 大いなるバビロンの都と対比的に登場する、「新しいエルサレムの都」は、「天の創造主とその顕れである天界」です。具体的にはキリストの作り上げた、完成した基準とパターン。それを表しています。
 古い、人間が造り上げた好ましくないパターンに基づくエゴと我欲の文明は、滅び去っていく。それが「最後の審判」として、描かれています。カルマの大清算です。
 それに取って代わり、キリストが作り上げ、残していった理想の形、それがヨハネ自身の中で次第と優勢になり、遂には自分の全ての部分がそこに合わさって成立し、合致したことが、最後に起きたことを「黙示録」は記しています。ヨハネは自分の修行を成就し、達成したのです。神人合一です。
 「額に神の印を帯びた144000人」とは、ヨハネ自身の内部にキリストのパターン、ONEの基準が出来てきた細胞たちです。自分全体の、144000人に喩えられる割合の細胞たちが、清められ、古い価値観や生き方から、ONEという真の基準の形に移行したこと。それが「144000人の、額に神の印を押された者たち」で表されています。
 自分の中でどれだけ、古いパターンから新しいキリストの、天界のONEのパターンに置き換えられていったかということが、新生のプロセスです。
 「ヨハネによる福音書」の中に、キリストのお言葉として、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と記されていることです。
 古いものが自分の中で通用しなくなって清算され、葬り去られていく。キリストの十字架刑による死に相当します。それが「最後の審判」です。
 それに取って代わって、新しい本当の天のパターンが出来てきた。ONEという天の摂理が。「ヨハネ・ペヌエルが転生してきて、世界に新秩序をもたらす」ということです。
 「万物の新しい理法」とは、「ONEの法則」のことであり、あらゆる事柄や分野において、古い型が滅び去って清算され、新しい本来の天界の基準であるONEが、万物の新しい理法として地上にも築き上げられていきます。新しいエルサレムの降下です。それはまず、人間一人ひとりからです。
 
 その最初がキリストであり、それからヨハネがそのことを求められ、通り抜けて完成しました。それがいずれ、全人類にも波及します。
 そのプロセスをヨハネは、書き留めました。それが、他の仲間たちの参考や指針となります。新生を遂げるその生命力を発動する方法と力が、「黙示録」には封じ込められています。それゆえ、各自が新生を遂げるキリストの秘伝の書物が、「黙示録」です。
 ヨハネは生前にも、キリストの側に身を置かせていただきました。キリストが昇天された後は、霊的にキリストが現れて、パトモス島でキリストが指導して、霊体が、キリストから新生を遂げるイニシエーションを授かった。そのことを記した書物が、「黙示録」です。
 「黙示録」の中に「7」という数が何度も出てくるのは、7つのチャクラが、肉体のレベル、アストラルのレベル、カラーナのレベル、そしてプルシャのレベルと、らせん構造上に幾重にも折り重なりながら、七重のイニシエーションを、4回経ていったことを表しています。
 ARIの会報誌も、虹の7色をチャクラに見立て、それを7年周期で、何度も辿っていくイニシエーションの道となっています。
 「外界は内界の表れ」。それゆえ、ヨハネ自身の内部に起きたことは、ヨハネの周りの状況や、実際の動きにも表れていました。そのヨハネ自身の周りの動きをも、「黙示録」は記しています。広くは世界の動きを。
 しかし直接には、ヨハネ自身の内部の肉体と心と魂に基づいて起きたことの霊体験を、基本的には記した書物です。それが「外界は内界の表れ」ゆえ、ヨハネの周りの状況や実際の動きにも反映し、そのことをも「黙示録」は記したことになります。
 さらには、グループソウルということで、ヨハネ派のグループの人たちの身辺に起きたことも記しています。当時のローマ帝国の、問題多き状況と動きを。
 「黙示録」はまず、ヨハネを始め、学ぶ人たちの内面に起きたことを記しています。そしてそれが、周りの状況や実際の動きにも反映してきたので、そのことをも記しています。
 
 例えば、「666」で表される存在は、当時キリスト者たちを迫害していたネロ帝を表しています。竜と獣はローマ皇帝たちを表しています。
 ローマ帝国から厳しい迫害を受けて、試練に見舞われていた、当時のヨハネ派の人たちや、広くはキリスト者たちの、生きづらい大変な状況を表しています。
 古い文明の型、パターンは、直接にはローマ帝国のあり方を示しています。「大いなるバビロン」とは、ローマ帝国のことです。
 「竜」は、自分の中のクンダリニーの生命力を表しています。それが自分が整っていないうちは、脅威としての存在になってしまっています。それゆえ、クンダリニーは自我をも表しています。
 「竜が従えている二匹の獣」とは、自分の肉体の欲望と心の感情を表しています。顕在意識と潜在意識を表しています。
 一方、ローマ帝国の権力によって殉教を遂げた「二人の預言者」とは、自分の中の潜在意識と超意識を表しています。その二人の預言者は神のお力によって再生させられる。それは潜在意識と超意識が浄化され一新することを示しています。外的には、ペトロとパウロが二人の預言者です。
 その自分の中の、より良い二つの意識が、古い価値観によって一度死んでしまう。しかし、神によって生かされ、甦ることを表しています。
 このように「黙示録」は、直接には、ヨハネ自身の内部に起きた闘争や葛藤が描かれています。古い型から新しいONEの型に移行していく自分の内でのせめぎ合い、を表しています。そしてそれが、周りの状況や動きにも現れてくるということをも、表しています。
 直接には、ヨハネたちが生きたローマ帝国の時代状況を表しています。そしていずれ将来、ローマ帝国が滅びることを、示してもいます。
 実際、ローマ帝国は滅び、キリスト者たちの精神的王国がローマ帝国を支配するようになりました。キリスト教は、ローマ帝国の国教となったのです。これが取りあえずの、物的な新しいエルサレムであり、新天新地でした。
 しかし、浄化と進化は何段階も経ていきます。その場合、法則に基づいて辿るパターンは、らせん状になるため、似たようなパターンを、法則からして歴史上辿ることになります。どの地域においても。
 そのため、別の地域、別の時代にも、「黙示録」の法則は当てはまります。これにより、いつどこにおいても、「黙示録」が参考と指針になり、「黙示録」の預言が成就したことと読めるのです。
 「黙示録」は直接には、ローマ帝国のヨハネたちが生きた時代を描いた書物です。その意味では社会批判の書物なのですが、その同じ法則は、別の地域・別の時代でも当てはまるので、別の地域・別の時代でも、「黙示録」の預言が成就したことになり、どこのどんな人が読んでも、「黙示録」は参考になるのです、普遍的なパターンを述べているので。
 
 それで例えば、20世紀から21世紀にかけての現代でも、「黙示録」は当てはまります。そして、参考にもなるのです。
 世紀末には「黙示録」が流行り、「黙示録のこの箇所は、1992年を述べたものであり、この箇所は99年を述べた箇所である」などといった、「黙示録」の解説書が世に出ました。
 それはある程度当たっていますが、完全には当たっていません、解説として。それほど「黙示録」は限定されていません。ヨハネが、2千年後の現代を見越して記した、ということではなかったのです。ただ結果として、法則から、「現代にも黙示録は当てはまる」ということはあります。
 もう一つ、こういうこともあります。それは、この現代は取り分け、2千年ほど前の「黙示録」に近い様相を呈してきている、ということ。その分、身に迫って「黙示録」が当てはまり、参考や指針となり得ます。
 そのような時代状況であるからこそ、ヨハネ自身も生まれ変わり、生きているのです。
 ヨハネはこの2千年の間、何遍も生まれ変わってきてはいましたが、ただ今回は、「ヨハネが自分の前世を思い出して、自覚して取り組んでいる」というところに、他の前世との違いがあります。
 それだけ今は、「黙示録」が顕在化し、その預言が大きく成就しつつある時代、ということはあります。
 「黙示録」の中で、ヨハネは、「再び預言しなければならない」と、告げられています。「イエス様が来られるまで、存続し続ける者がこの中にはいる」とも、キリストは言われました。
 状況が揃い、整い、必要性があり、切に願い求めれば、態勢が出来たところで、イエス様がふさわしい形で来られる、ということはあります。
 基本的に再臨は、内臨です。しかし「外界は内界の表れ」なので、外的にも外臨として、再臨が起こり得ます。
 タウラーは、キリストの内臨を強調し、大切にしました。そのタウラーは、ヨハネの転生者でした。
 「黙示録」の中には、一人ひとりが新生を遂げられる力と方法が、封じ込められています。その意味で「キリストの秘伝の書」であり、一人ひとりが浄化と完成へのキリスト者としての道を歩む、恰好の書物です。
 それが『聖書』の最後に「黙示録」が置かれたゆえんです。それで『聖書』全体の預言も成就します。「創世記」がアルファ、「黙示録」がオメガです。そのオメガを、ヨハネは引き受けました。
 
 今はある意味で、審判が起きつつある時代状況です。大きな審判が「最後の審判」です。因果応報の法則が、地上で作用しているのです。ブッダも説いたことです。
 「黙示録」の封印が解かれ、今、その動きが起き始めています。そうであるからこそ、「黙示録」を取り上げ、正しく解釈することで、正しく活用する道が開かれます。
 そのことをようやく、会報誌でもこのように公表できる時が来た、ということを表しています。そのことに取り組んでいきましょう。
 あなた方の目の前に、その機会が与えられています。
 「黙示録」は、より進化してヨハネ・リーディングを始めとする現在のARIの活動として行われています。ヨハネ自身もその周りの人たちも、黙示録のヨハネが転生することを知り、自覚し、その使命を間違いなく遂げられるよう、予めケイシー・リーディングの中でヨハネの転生が伝えられねばならなかったのです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17746

 
質問: 仏教のニルヴァーナについて、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: ニルヴァーナは、日本では「涅(ね)槃(はん)」と訳されています。初期仏教の目指していた、理想の境地です。静寂の、安らぎの境地のことです。それを仏教では、「涅槃寂静」また「寂滅為楽」などと表現しています。
 ニルヴァーナの意味は、ロウソクなどの炎を、息をふっと吹きかけて消した静寂な心の状態のことです。
 心の中の思い煩いである、燃えさかる煩悩の炎が、仏教で説く、真理の息が吹きかけられることで消され、心が鎮静化し、落ち着き、楽になった状態です。
 
 心の中のさまざまな煩悩が、自分の心を思い煩わせ、それが周りにも及び、周りの人たちをも困らせている。そういった苦悩の状態と状況から脱させるべく、ブッダは宇宙の理法である「ダルマ」を説き聞かせました。
 それによって心が真理を悟り、納得了解
し、気持ちが吹っ切れて解放され、楽になります。心解脱です。
 そういった心の思い煩いや欲、執着といったものから解き放たれて、心が自由になる。それが「解脱の境地」です。後の大乗仏教では、「空(くう)」と呼ばれるようになりました。初期仏教の時代は、「縁起」と呼ばれていたことです。因縁生起です。
 どんなものにも実体はなく、縁によって生じ、縁によって滅びる相対的なもので、囚われるほどのものはそこにはない。そのことに気づくことで、執着から心が脱することができて、平安な境地になります。
 気持ちが穏やかで楽に落ち着いて、安心して生きていけるようになります。「救われた状態」とも言えます。自分の状態が良くなるので、周りの人たちも安心してくれます。このような、安らかで穏やかに過ごせるあり方が、「涅槃」と呼ばれます。
 
 後の仏教では、心の思い煩いには、いろいろあることを表現するために、「百八種の煩悩」と言われるようになりました。いろいろな執着や思い煩いがあるからです。
 それらが人を苦しめ、制約を設け、道を誤らせます。それが自分にも周りにも、困ったものをもたらし、カルマを生じます。そのカルマの結果が、それ相応に表れ出てきて、困ることになります。
 そういった因果のカルマの道理を、ブッダは説き示しました。しかも、このカルマの因果の法則が、前世、今世、来世と、三世にわたって、一貫して作用しています。
 今心の中でも、実際の状況においても、困るようになっているのは、偶然ではなくて、かつてどこかでそのような種を自分が蒔(ま)いたからです。それが次第に熟して、それ相応の結果を招いている、ということです。
 カルマの因果の法則に基づいて、輪廻転生している。それが苦しみの人生を作り出している。
 そのことに気づいて、ブッダの指導に従い、瞑想したり、自分の心を見つめたり、良いほうに自分を向けたりすることで、次第に本当のことに気づいて、気持ちが囚われから脱し、安らぎの境地に到達する、ということです。
 後の仏教の『般若心経』の中では、「こちらの岸辺から、彼方の岸辺である彼岸に到達できた」と表現していることです。
 仏教は、「苦」をテーマとしています。「全ては苦しみである」と捉えています。それを「一切皆苦」と表現しています。仏教は、その「苦」の自覚からスタートしています。
 「では、なぜ苦しいのか?」
 
 それは、「真理に疎(うと)い、無明状態による」と見ています。そこから「渇愛」という、喉の渇きにも象徴される欲求が湧いてきます。この無明と渇愛によって苦しみの輪廻転生が続く、と見ています。
 そこで、縁起の理法を説き聞かせ、意識が縁起の理法の真理を悟ると、次第に渇愛が鎮静化してきます。それに伴い、心の思い煩いや執着や愛着も、次第に和らいできます。心が解放され、解脱していくのです。
 「諸行無常」。全ての働きは、永遠に変わらずに続くものではない。それは「諸法無我」。全ては縁起によって一時的に生じているだけの、実体のないものだから。
 そのことを悟ることで、心が吹っ切れて自由になる。「涅槃寂静」。それが「空(くう)の境地」です。自在に囚われなく、空を生きることができるようになるのです。自然体でありのままに生きることで、全てを見抜き、全てをそのまま受け入れ、活かせる空の境地になります。
 このように変幻自在に空を生きることで、自分のことも人のことも見抜き、自分のことも人のことも状況も、そのまま活かせるような境地が「空」です。気持ちを穏やかに楽に、安心して落ち着いて、置かれた所でやっていけるようになります。
 「諸行無常、諸法無我」。この物の道理を悟ることで、納得了解し、現実を見抜いてそのまま受け入れ、活かせるような、自由な境地になります。それが「涅槃寂静」と言われる理想の境地です。
 このように、カルマから解脱することで六道輪廻が終了し、輪廻のサイクルから脱することができるのです。
 初期仏教では、「十二縁起」が説かれています。ブッダが菩提樹の下に座って瞑想し、悟った内容が「十二縁起」だとも言われています。
 無明と渇愛が苦悩の原因であることを見抜き、真理を悟ることで無明と渇愛が収まっていきます。それによって心が解放され、平安になります。心が自由な空の境地です。
 ブッダとは、「真理に目覚めた者」の意味です。一人ひとりがブッダを見習い、ブッダが悟った内容を辿ることで、ブッダと同様に納得し、深く了解して、煩悩から解き放たれて、安らぎの穏やかで楽な境地に至ります。その状態で、生きていけるようになるのです。これが「生前解脱」です。
 
 まだ肉体があって、この世に生きていて、完全な解脱ではないので、「有餘依(うよえ)涅槃」と呼ばれます。そのようにして生き切ると、完全に解き放たれ、その時は「無餘依涅槃」と言われます。完全なる解放です。
 ちょうどキリストが十字架に掛けられて一度死に、全てが清算され、解放された後、 復活を遂げた一新された生命状態です。全く新たにされたのです。完全なる物の次元からの解放が、「無餘依涅槃」と呼ばれます。
 ブッダの悟りの内容は、「十二縁起」と共に、「四(し)聖(しよう)諦(たい)」としても説かれています。四つの聖なる真理です。「苦・集(じゆう)・滅・道」。この四つの真理のことです。これは、医療に近い考え方と道筋です。
 「苦」という真理は、「全ては苦しみである」ということの自覚です。
 「では、なぜ苦しいのか?」
 それは、「苦しみの元を集めているから」です。無明と渇愛です。「自分がカルマの集積だから」とも言えます。
 「それでは、どうしたらよいのか?」
 「苦しみの元を滅すればよい」のです。カルマを解消し、真理を達観することで、無明と渇愛が和らいでいきます。それが「滅」という真理です。
 「では、その方法とは何か?」
 それが、「中道と八正道」です。「中道と八正道」というのは、全てにおいて適切で適度であること。極端に走らず、またやりすぎず、やらな過ぎず、何においても適切で適度であること。
 わかりやすく言うと、「どんなことにもきちんと、ぴったりの形と内容で応ずる」ということです。その「中道と八正道」を具体的な現状で、見抜くのが知恵です。
 それぞれの事柄において、「中道や八正道が、具体的にはどんなものか?」を見抜く知恵が必要です。それが般若の「空(くう)の知恵」です。
 いついかなる場合においても、ぴったりで適切な考え方や言葉や対応法を取ること。それが「中道と八正道」です。
 それによって問題が解決し、必要な良い願いは相応しい形で叶えられ、生きていけます。
 
 わかりやすく言うと、「どんなことに対しても、健全に正しく捉え、きちんと適切に対処する」ということが、カルマから解脱する道です。そうすると、これから困ることが起きなくなってくるのです。
 人生で困ることが起きて苦しんだり悲しんだりするのは、かつてどこかで、ほかならぬ自分が正しく捉え、きちんと対処することを怠ったことに対する、それ相応の結果です。
 もし正しく捉え、きちんと応じていたなら、苦しんだり悲しんだりという目には遭わなかったはずなのです。因果の理法からして。
 そのことを悟り、現状に責任を取るべく、まずはどういったことが起きた場合でも、必ずこのようになることを自分がしたのだろうということを、自分で気づいて、どういうことにおいても、まずは認めて受け止めること。
 そして、神さまのお力を頂きながら、正しく考え、適切な言葉や対処法で、現状に一つひとつきちんと応じていくこと。こうすると着々とカルマが遂げられていき、責任を果たし、問題が解決します。
 そしてそういう生き方や応じ方や考え方をしていれば、これからは悪業を作らずに済むので、困るようなことになりません。事後対応のようなことに迫られずに済んで、安らかに生きていけるようになります。責任を取らせ、間違いに気づかせるかのように、困ったことが起きてくるのです。
 「善因楽果、悪因苦果」。これが因果応報の道理です。良いことを思ったり行ったりすると、楽しいという結果が出てくる。
 「悪因苦果」。好ましくない思いや行いをしたり、あるいは怠慢だったりしたら、苦しいという結果が出てくる。一種の条件づけの行動原理です。この法則を神さまが設けて、宇宙に秩序を与え、公正を期しておられます。そしてこれは、神から人への教育法になっています。
 苦しい目に遭った時は、自分を見直させ、正させ、対処して責任を取らせ、考え方や行い方の間違いに気づかせ、責任を果たさせよう、という教育です。
 一方、恵まれて喜ばしいことに遭遇した場合は、「考え方や行い方が良かった」というお知らせであり、「それでいいから、その調子でこれからも生きなさいよ」という、お諭しです。
 このように「善因楽果、悪因苦果」という行動原理によって、神さまにしつけられ、育て導かれているのが人間です。
 出来事メッセージ、出来事言語という体験学習によって、神さまにしつけられ、育て導かれていくのが人生の歩みです。
 偶然起きることはありません。全ては正当に報われます。やればやっただけのことがあります。全ては、日頃の思いや行いの積み重ねです。それによって自分が作られ、周りの状況や動きも作られています。
 
 この行動原理が、前世から今世、今世から来世へと貫かれています。誰においても公正で、納得できます。安心してください。全ては正当に報われていくように、神さまのお蔭で造られている世界です。
 このような物の道理が真理です。この物の道理を見抜くのが、知恵です。「般若の知恵」とも呼ばれます。
 知恵によって、このような真理に目覚める。それによって、気持ちが吹っ切れて穏やかになって解放されていく。こうして「涅槃の境地」に至ります。
 そうすると、自分のことも状況も人も、そのままを理解して受け入れ、そのまま活かせるような知恵と慈悲が出てきます。
 「空を自在に生きる」という、変幻自在な生き方になってきます。どんなことでも執着せず、そのままを理解して受け入れて、活かせるようなありようです。
 囚われがなく、水が流れながら、相手の形に合わせて周りを潤し、活かしていけるような、水や風のような自由なあり方が「空」です。初期仏教では、「縁起」と言われていた内容です。これが仏教の教えです。
 それぞれの人がそのままを生かしながら、自在に生きられる。変幻自在な境地の中でそれぞれが生かされ、マンダラの世界が現出します。
 自分のことも人のことも見抜き、そのままを認めて尊重して愛して、活かしてあげられるようになるのです。
 初期仏教の時代は、まだ「苦の解決」あるいは「苦の超克」が、第一目標でした。そのため、消極的な印象があります。
 後の密教では、生命を大肯定する前向きで大らかなあり方に、変わっていきます。その場合でも、初期仏教の真理を悟って心が解放されるということは、基盤にあります。アンチ・テーゼからジン・テーゼです。
 テーゼとしての一般の人たちの現世肯定に対して、一度アンチ・テーゼを通って見直して反省し、清算させます。それが初期仏教です。
 その後、ジン・テーゼとしての、密教の大肯定の世界が出てきます。この世や欲や感情が一度否定され、濾過された上で一新され、純粋に生きてくるのです。それがジン・テーゼの、密教のあり方です。
 仏教の最後に空海が登場し、この生命謳歌の大肯定の、命の世界が開かれました。その元にもやはり、仏教である以上、「涅槃寂静」の、自分の欲望や感情から解放されるアンチ・テーゼを通っての純化があります。
 
 消極的なニルヴァーナを経て、そこから生命が大肯定で出てくる「大(たい)楽(らく)」、大きな楽しみは、ちょうどキリストが死んだ後、一度清算されて一新され、かくして命が大肯定された歩みと対応します。「ヨハネの黙示録」も、このプロセスを通っています。
 モーセとブッダは、まずアンチ・テーゼを通らせて、清算させたのです。その後、キリストと空海が出てきて、生命を復活させ、新生させたのです。「第二の誕生」が、イニシエーションによって実現します。
 そのような、大らかで肯定されて生かされる天界への道行きを、「ONEの教え」で与えられつつあります。
 そのことに気づいて、その歩みを通っていきましょう。それぞれの人が通るべき道が、ちゃんと用意されているものなのです。
 自分の道に気づき、自分の道を歩んでいってください。その際、ほかの人の歩む道も理解し、配慮して、手を差し伸べてあげましょう。それが菩薩大乗道です。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉

リーディング No.17711

 
質問:変性意識の可能性について、ONEの観点からご教示ください。
 
ソース: 現代は、能力偏重の時代状況です。頭脳を何よりも重んじ、頭脳に信頼と価値を置いています。子どもの学校から大人の社会構造に至るまで、能力によって序列化されています。しかも、その能力は効率的な物的次元にのみ、限定されています。
 そのため、それとは別の能力や、能力以外の「心、愛、さらには魂、神」に関することは、考慮されていません。
 これは、ONEの真の基準からすると、限定的一面的で、偏向が著しく、本当ではありません。好ましくないのです。その方向で意識の働きについても、影響を受けています。通常の意識状態を良しとし、それ以外は考えられません。
 
 仮に、通常の意識状態以外の状態があった場合は全て問題視し、「異常である」とか「劣っている」とか、否定的に見なされ、価値は全く置かれていません。論外と見な
されたり、治療の対象と見なされたりします。
 統合失調症などの精神疾患や、一般の人でもパニック障害のような状態あるいは好ましくない意識状態に陥っている時など、通常ではない意識状態に対しては全て、問題と見なし、その可能性などは全く考えられません。
 ここで、通常の意識状態以外の変性意識には、肯定的な面と否定的な面の両方があることを知るべきです。
 確かに否定的に表れ出て、今困った状態に陥ってることはあります。しかし通常の意識状態の全てが問題で、真実や価値が全くないということは、本当ではないのです。
 精神疾患に罹っている人の場合でも、よく見ると、そうなるような深い事情や理由があったり、そういう状態の中の鋭い面や一般の人が窺(うかが)い知れないものを捉えていたり感じていたり、ということが実際はあるのです。
 
 昔から「天才と狂気」などと、異常状態に対して言われます。確かにどの分野の天才でも、一般の人のようではありません。そのような際どい中に、天才も働きます。
 宗教やスピリチュアルなどにおいて、特に、神秘的密教的な奥深い領域においては、古来から特殊な意識状態に注目されてきています。
 日本でも、「いたこ」はよく知られています。精神世界では、「トランス状態」などと言われます。託宣、神託が行われています。
 変性意識には、大きく分けて2つあります。本人自身の意識が、通常の意識状態ではなくなった場合。もう一つは、本人の意識状態に別の存在が介在して、変性意識状態になる場合。この二通りです。
 『聖書』の中でも、特に「エゼキエル書」「ダニエル書」「ヨハネの黙示録」は、精神医学や精神病理学から見ると、異常者の記録であり、「そういったものには真実性はなく、取り上げる価値はない」と見なされてきています。
 
 ほかの『旧約』の預言も同様に、取り扱われてきています。あるいは単なる空想の文学作品と見なされたり、多少真実があっても、かなり誇張されたり象徴的に描写されていると、見なされてきています。
 確かに象徴的に記されている部分はあります。しかし、象徴にも意味はあるし、単なる誇張ではなく、真実がそこには秘められています。
 「福音書」に記されているキリストの起こした奇跡や、『旧約』にあるモーセやエリシャをはじめとする存在たちの起こした奇跡、また、ブッダや空海の起こした奇跡、そのほか神秘家たちの体験したことを、どのように見なし扱うか、ということです。
 そして大事なことは、そういった神秘現象は、かつてあったというだけでなく、今でもある、ということ。
 
 一方、世界中にある神話や伝説、民話、伝承、昔話、そういった中にも、神秘的で奇跡のようなことが、数多く記されています。日本では『古事記』が代表的です。それらをどう見るかです。
 現代の科学や学問は、唯物史観に基づいているため、本当のもので大事なものが捉え切れていません。よほど芸術家や小説家や詩人のほうが、本当のところを捉えて描いています。
 学問や科学は、本当のところを捕らえ、解明するはずのものなのに、実際は論文のような学術的な世界は、かえって真実から外れていたりします。半端な理性や論理が、奥深い真実と生命を損ねてしまっています。
 もちろん現代の学問や科学にも、真実性や可能性はあります。それによって明らかにされてきたものも多いです。今後ともあることでしょう。
 しかし、ただその方向だけで全てが解明されつつあるとは、とても言い切れないものがあります。そこで、こういったONEが登場する必要性が出てきているのです。
 「意識」と一口に言っても奥深く、そして広く、いくつかの階層を成しています。通常の顕在意識のほかに、潜在意識、さらには超意識があります。潜在意識には、今世の記憶や働きの「潜在意識A」と、前世に由来する記憶などを基にした「潜在意識B」があります。さらに魂の意識である超意識があります。それは天界や神界、さらに神と通じています。
 
 霊界や宇宙などと人間の意識は、通じています。夜の夢の中でも、単なる潜在意識の投影の、主観的な夢ばかりではないのです。
 人間には、肉体のほかに霊体もあるので、肉体では飛べなくても、霊体では飛べたりするのです。こういったことは、現代の常識や学問では全く知られておらず、考慮されていません。そのため、大事な真実が否定され、価値を全く置かれていません。
 通常の意識状態でわかることも、たくさんあります。それはそれで意味があり、大事です。やはり人間にとって理性は、基本です。理性を失ってはなりません。
 ただ、「それが全てだ」となると、可能性がしぼんでしまいます。人間にはそれ以上の価値と可能性と目的があります。
 例えば仏典に出てくるような、「ブッダが深い禅定に入って、地響きが起き、その深い禅定から通常の意識に戻って、人々に説法した」とあります。
 
 「ヨハネの黙示録」も、深い瞑想状態で捉えた真実を、語り伝えている報告記です。
 通常の意識状態が基本ではあるのですが、それだけでは捉えきれないものを、変性意識状態で捉えうることがあるのです。そのために、変性意識状態に入っていきます。あるいは意図的ではなく偶発的でも、一般の人の場合においても、変性意識状態に入った時、わかったり感じたりすることがあります。
 それで通常の意識状態に戻ると、今までとは見え方や受ける印象が変わり、ちょっとしたことで感激したり、喜べたり、ちょっとしたことを大切にして、慎ましく生きられるようなありように、変わります。
 太古の昔からの秘儀の最重要なものは、3日半肉体から魂が出て、天界や神界に至り、そこで体験したものが深い意識に刷り込まれ、その後肉体に帰ってくる。3日半の間仮死状態に置かれ、魂が天界や神界に帰って神秘体験を得、そこで英気を授かって肉体に戻る。
 そうすると、これまでとはいろいろなことから受ける印象が変わり、自分の認識や意識状態に変化が生じています。そういう新しい意識状態で生きていくようになるのです。意識が一新されるのです。これが秘儀です。「キリストの死からの復活」は、その極みで起きた事です。
 一般の人でも試練に見舞われると、そのような変化がある程度生じます。そこに神の意図があります。それは、秘儀に通じる効果があるのです。人生の苦難を通してのイニシエーションです。
 肉体が死んだような状態になり、肉体の機能がほとんど停止した仮死状態になった時、通常の意識に取って替わり、奥深い意識が目覚めて働き出すようになります。
 
 そうすると通常の意識ではわからないことがわかったり、いつもなら感じられないことが感じられたりします。天才の閃きは、それに近いものがあるのです。そういう状態が、変性意識です。そこで得られるものや感じられるものに、真実性の価値があるのです。
 旧約時代の預言が、現代に合った形で再登場しているのが、リーディングです。その時代その時代に合った、形や方法が求められています。確実に言えることは、いつの時代でもそういったものがあるし、また求められてもいる、ということ。
 本人自身の意識状態の中で、変性意識状態が起きる場合、いろいろなあり方が考えられます。それに伴い2点目の、別の存在が介在して、変性意識状態に陥り、そこでわかったり感じられることもあります。
 その典型が霊媒です。本人自身ではなく他の霊が介在して、働きをなすあり方です。また、その方向での、もっと質の良いものとしては、聖霊が介在してある人を通して働きがなされる場合です。
 「ヨハネの黙示録」には、そのことを「御霊に感じた」「霊に満たされた私」と表現しています。さらには神々や天使、そして極めつけとして、宇宙創造神さまご自身が介在して、ある人を通して語ったり、働きをなすということさえあります。
 
 キリストも、そのようなあり方であったことが、「ヨハネによる福音書」に記されています。「私は自分から何を語ることもない。私はただ、聞くままに語るのである」と。これは、単なる謙虚さの表明を超えたものです。まして、ただの憑依は超えています。
 精神世界や宗教では、憑依体質が問題視され、心配されがちです。霊に取り憑かれやすく、具合が悪くなったり、意識が翻弄されたり、いろいろな気を受けたり、ということで。
 それは、本当のものに至る過渡期です。何も恐れる必要はないし、問題視する必要もないのです。
 ・それを良いほうに振り向けていくこと。
 ・本物の信仰を持つこと。
 ・良い目標を持つこと。
 ・バランスを取ること。
 それによって、より質の良い、またレベルの高い、他の霊的存在に関わっていただけるようになるからです。
 
 エドガー・ケイシーは、完璧な媒体でした。さらに使徒ヨハネやイエス・キリストは、もっと高度な媒体だったのです。
 キリストが天に還られた後、預言どおり、キリストは火と聖霊のバプテスマを、天から送ってこられました。「聖霊降臨(バプテスマ)」です。炎が舌のように弟子たちに下りました。その時、弟子たちは御霊が語らせるままに語りました。これは、一人だけでなく集団に起きた、質の良い部類の霊媒現象です。
 このように、一般には憑依体質は恐れられ、疎(うと)まれがちですが、可能性を秘めているのです。本当の信仰を持って高い神に自分をお任せし、自分の中でバランスを取ること。健全に生きること。そして良い目標に自分を向けること。そうすると霊媒体質は克服解消され、活かされるようになるのです。
 このように、変性意識には大きく分けて2つあります。
 本人自身の通常でない意識が目覚め、働きをなした場合。通常の意識ではわからないことがわかり、感じられないことが感じられるようになることです。
 
 もう一つは、別の霊が介在し、変性意識状態に陥ることです。これは一般に恐れられ、心配されがちですが、可能性を秘めています。
 他から影響を受けやすいことを、良いほうに振り向けていくことで、可能性が開花してくるからです。
 現代においても、一般の人たちは通常の意識だけでは満足していません。それで、スポーツの観戦にスタジアムに行ったり、あるいは音楽やダンスのコンサート会場のライブに行ったりするのです。あるいは、アニメを求め、熱中したくなるのです。あるいは、インスタ映えのスポットに行ったり、パワースポットの所に行ったりするのです。
 それは一般の人でも、通常のあり方だけではないものがあることに気づいていて、それを求めているからなのです。
 もともと自然の美しさや命、人生の感動的なドラマ、それから芸術や文学、さらに霊的な世界や神秘的な宗教、そういったものは通常の意識が全てではないことを、そして一般の人でもそれを感じていて、求めていることの表れです。
 その中でも質が良く高度なものを、イエス・キリストやブッダがもたらしました。日本の空海ももたらしました。
 現代は現代に合った形と内容で、それがなされるべきです。わずかにアニメや音楽やダンスやインスタ映えなどによって、あるいはグルメを求める旅などによって、人々はそれを求めています。
 普段の自分ではないあり方に変身することも、そのことの表れです。コスプレなどやいろいろな祭り、行事などもそれです。
 
 以上のことに気づいて、人間の変性意識の可能性に気づき、各自自分に合った形で、それを叶え、自分の可能性をより良く開花させていきましょう。その上で、通常の家庭や仕事に立ち返るならば活性化し、ちょっとしたことにも喜べたり、感謝できたり、満たされたりするありようになることでしょう。
 意識の広がり、宇宙の命や美しさに触れ、融合することさえ、起きることでしょう。
 ハロウィンや現代のさまざまな祭りにおいても、人々はそれを求めているからです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

〈了〉